阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号
三好町の伝説

史学班  湯浅安夫1)

 三好町は東は三野町、西は池田町に接し、北は県境で香川県仲南町に接し、南は吉野川が流れ井川町に相対していて、四国のほぼ中央に位置する。
 北の県境は 800〜900m の山々が肩をならべ、それらに源を発した小川谷、黒川原谷等の谷川が吉野川にそそぎ、総面積の八割が山地である。昭和30年に昼間町と足代村が合併して三好町が誕生した。昼間は「干沼」の転じたものと伝えられ、吉野川の水がせきとめられ干上がって沼地となっていたので名づけられたといわれ、また足代は「網代」の変わったものともいわれ、いずれも吉野川と密接な関係がある。
 三好町の伝説は、上記の位置や地形の関係から吉野川と結びついたものが多いがその反面、吉野川が交通の障害となって北へ峠をこえて、讃岐と結び付いた生活を反映した伝説も多い。南に面して日照時も長く、恵まれた土地に古くから人が住み着き、信仰心も厚かったようで、延喜式内社と記録される天椅立神社、新田神社等の神社や神宮寺や円通寺などの廃寺にまつわる伝説が残されている。各地に大蛇や狸の話は多いが、当町にも多くの伝説が語り伝えられているが、ただ他町村にあまりない狼の話がのこされているのは面白い。
 最近、町史編纂委員会が中心となって、町内各地域に責任者をきめて、分担地域の民俗や伝説を集める作業にとりくんでいるとのこと、この伝説集めにも大いに参考にさせて頂いた。忘れされようとしている伝説の数々、はやく記録しておく必要がある。町史編纂委員の緻密な努力が成功することを祈る。

 1  平家落人の通り道
 東山葛篭は讃岐から阿波への交通の要所の一つで、屋島の合戦に敗れた平国盛一行が、樫休場を通り辻から井内を経て水口峠をこえ、祖谷におちのびたと言われる。
 一行が通った中屋、笠栂などの畑から当時のいろいろなものが出土している。一行が無事逃れることのできたのは、この地に住み着いた平盛隆の助力であったといわれている。 (東山老人会)
 2  竜王祠の菩提樹
 足代山口の竜王祠(宮)の境内に弘法大師が唐より持って帰ったと伝えられる菩提樹があった。十数年前伐採して、今は切り株の周囲に芽を吹き出して茂ったのが三株ある。その周囲は三尺ばかりであるが、旧切り株は地面と水平に空洞になっていて、その径はおよそ五尺ある。 (三好郡誌)
 3  一升水
 讃岐金比羅から箸蔵参りの近道、二軒茶屋越えで山頂をたどると、昔から一升水と親しまれた涌き水がある。水量は少ないがどんな日照りつづきでも涸れたことがない。傍らに竜神をまつり、東山方面では日照りがつづくと雨乞いにいく。昔はこの道は阿波から讃岐越えの通路にあたり、旅人の喉を潤した所、山頂の峰伝いの傍らに涌く不思議な泉なので、弘法大師が掘ったという伝説がある。 (三好町誌)
 4  西行の歌
 西行法師が行脚の際に足代村にきて詠んだ歌であると口碑に伝えられる歌がある。
 「あししろや雨は降れどもよも濡れじみのたのうえにかさづかもあり」 (三好郡誌)
 5  弓掛けさん
 昼間山田庵の西側の墓地に、県道にめんし緑泥片岩の自然石の墓がある。弓掛けさんと呼ばれ手製の小弓が幾つか掛けられている。窓月道中居士西尾左源内源為冬とあって、耳鼻咽喉一切を直し、特に寝小便に効験あらたかとかで信仰せられている。 (三好町誌)
 6  伍長安原梅次郎の話
 安原梅次郎さんは小見名の伍長をしていた。当時小見名には十一軒あった。伍長は組の世話役で、年貢を納めたりいろいろ庄屋の手伝いをしていた。年貢を集めるときは、腰に墨壺(矢立て)をさして一軒一軒年貢を書き込み、大西の庄屋の家へ持っていった。徳島の蜂須賀さんに集めた年貢を納めにいくのは庄屋のつとめだが、庄屋がいけないときは伍長が代理でいった。その時は、庄屋から太刀を借り、ちょんまげを結い、羽織り袴でいかなくてはならない。梅次郎も庄屋の大西高三郎と一緒に年貢を納めにいったが、そのときは高三郎が太刀をさしていったそうだ。年貢は小川谷と吉野川の合流地点で、木材や竹で筏をつくり、それに年貢の米、麦、そばなどを積み、吉野川を筏でくだり蜂須賀さんに納め、筏の木材や竹は徳島で売り、帰りは歩いて帰ったそうだ。 (安原好高さん談)
 7  徳泉寺中興の祖教順
 徳泉寺の教順和尚は寺を再興しようと、日夜努力し心身を悩ませていた。ある夜、本尊より「黒トベの下に一つの塚あり、これを開くべし黄金埋まりおれば汝の苦心を救うに足らん」というお告げがあった。翌朝、そこへいくと塚があり、これを発掘すると果たして黄金が壺に満ちていた。教順は喜びもち帰り、徳泉寺を再興する元手とした。 (東山の歴史)
 8  京女郎の祠
 足代上ノ段のはずれに杉囲みの中に三方板石で囲んだ祠がある。昔、京都で身分のあった若い武士が友達の美しい奥さんと恋仲になり、二人手に手をとって讃岐や阿波を転々とし足代上ノ段に住み着いた。近所の女房たちはただ者ではないと思いながらも、きれいな人だとつきあっていた。ある年の春、亭主が他へ出た留守に、女房が髪を洗って縁側で鏡に向かっていた折、突然大男が現れ、「おのれ」といいざま、数間引きずって驚く女房の首を抜く手もみせずバッサリ切った。村人は京女郎さんが殺された、可哀想にと首と胴体を別々に塚にした。殺したのは誰であろう、女房の不品行に感ずいた本夫が追ってきてバッサリやって、ひょうぜんと消えるごとく去ったのだ、いやあれは父親じゃあ、婿にたいしてあいすまんと殺したのだと長い間うわさの種になった。
 その後、足代に異変があるとき、上ノ段の細道をシクシクと美しい女が泣いて通ると伝えられている。 (三好町誌)
 9  長坂三郎右衛門の話
 蜂須賀の家来に長坂三郎右衛門という武士がいた。采地の足代で暮らしていた時、その屋敷付近の店へ夜な夜な豆腐を買いにくる見馴れぬ奴姿の男があり、丸い盆に一丁の豆腐を載せて帰って行く。うかがうと主人らしき男が病気で苦しんでいて、それに豆腐を食わせて介抱しているのであった。報告をうけた長坂はすぐ捕手の役人をやって召しとらせ、その人体顔かたち、目付きから長曽我部の逃亡のなれのはてと早合点し、万一の抵抗を恐れて、右手の親指を残して四本を切り取った。「おのれ愚か者、長坂といったな覚えておれ、おのれの家の末は野山の落ち葉にしてやる」とうらみながらにらみつけた。その後長坂は出世もできず田舎暮らしに終わったという。
 足代八幡に長坂献納の石燈篭があり、その銘に長坂三郎右衛門、明治9年8月15日とあり、山に長坂林の地名が残っている。
 長坂三郎右衛門は解職されて、采地をあてに足代で暮らしていた。つれづれのままに土
井の池付近に射的場を作り、川から拾ってきた白い丸石を、鉄砲を打つ姿勢で標的に投げ付けて楽しんでいた。時には若い衆を集めて打たせたりした。それで「長坂玉の石、大きいものが大砲で、小さいものが小筒」と歌にうたわれた。 (三好町誌)
 10  大蛇の恋
 何百年かむかし、小山部落の今八という農家に評判の美しい娘があった。つい春先からここらでは見られない美しい若衆が現れて、今八の娘と親しくなり村のうわさとなった。物好きなバアさんは若者の後をつけたが、いつも消えるようで、来るところも帰るところも突き止めることができない、いつも美濃田の浜で見失う。バアさんは、今夜遊びにきたら糸を通した縫い針をさとられないように左の褄に差し込み、別れのとき糸をくりだしなさいと教えた。翌朝、糸は美濃田の淵に続いている。娘はびっくり仰天、しかし可哀想に腹がふくれだし10月の暮、たらい一ぱいの蛇の子を生み、アッと叫んで十九を一期に世を去った。後に「足代小山の今八娘 きれいなばかりに蛇の子はらみ いとし可愛いや情けなや」とうたわれた。 (三好町誌)
 11  狼さんの頭
 明和8年(1771)になくなった大西岡右衛門頼深(東山)が、まだ若かった頃の事である。ある年の秋の暮、阿讃国境の淋しい山道を帰っていたら、一匹の狼が目の前に踊り出て、目を怒らし牙をむいて襲い掛かろうとした。岡右衛門は直ちに腰の長刀をぬき立ち向かったが、さすが剣道の達人の刃にも機敏な猛獣は容易にかからない。やっとのことで仕留め、その頭をもち帰った、それがミイラとなって今日に伝わっている。
 明治初年頃から、誰いうとなく犬神つきには狼さんが霊験あらたかだとのうわさがひろがり、村中のあちこちに迎えられ、ほとんど家にある日はなかった。現在も狼の頭のミイラは木の箱に入れられ大切に保存されているが、あちこちに貸したので当初のより小さくなっているとのことである。 (大西ウメさん談)
 12  狼に食われた話
 東山では明治の中頃まで、節季になると琴平へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて帰ってきたものだった。ある年の暮、数名の者が塩入部落までくると日はとっぷりくれた、寒さは寒いし腹はへる、とある一軒の飲食店に立ち寄って、うどんや酒でしばらく休んだ。そのうちの一人が「わしは一足お先に」と帰りを急いだ。残った者はよい気持ちでいろいろ話に花をさかせながら遅れてその後を追った。
 国境の松の並木道を左右にたどりながら男山部落の峰のお伊勢さんの祠のあたりに来ると、暗闇ながら数間先に幾匹かの狼が音を立てて何物かを食っているのが見える。一行は驚いた。「あれは五郎でないか」、一人は「ちよっと待ってくれ」といいながら滝久部落のよく見える峠へ走りでて、「五郎が食われているぞ」と声を限りに叫んだ。急を聞いて村人が猟銃を下げて駆け上がってきて、火縄銃でねらったが、狼はそれらの頭をけって飛び交いだれ一人発砲できない。茫然と慌てふためくなか、狼は一匹去り二匹去りどこかへ姿を消してしまった。後には一片の遺骸と五郎の天秤棒の荷物が空しく残っていた。一同は、残骸を集めてもち帰り丁寧に葬ったが、間もなくその墓は掘り返され悉く食われてしまった。五郎は神社の周辺に畑をもっていて、祭りの時に踏み荒らされるからと何時も祭りの前日に濃い下肥を撒き散らしたので、里人は神罰だと言い伝えている。
 男山を越える峠には、少し畑があってそのあたりに狼がよく出るといっていたそうである。 (大西ウメさん談)
 13  送り狼
 文政年間(1818〜1829)のことである。大西長之進が讃岐からの帰途日の暮れる頃、阿讃国境の峠にさしかかると、何処からともなく二匹の狼が現れた。長之進は不意の出現に驚いたが、すばやく腰の一刀を抜き放った。ところが不思議にも狼は襲い掛かる様子もなく、なれなれしく長之進の前後に立ち別れついてくる、長之進はふと昔話を思い出した。「狼は神様のお使いで魔物が出ると守護してくれる」というから、きっとそれに違いないと安心して刀を鞘におさめ、「ありがとうございます」と礼をいった。狼は後になり先になりしてついに小見の宅まで送ってきた。留守の者は事情を聞いて驚き外を見ると二匹の狼がうずくまっている。「お世話になりました。お好きな小豆がいを炊いてあげます」とすぐ炊いた粥を平たい大きい石にうつすと、二匹はそれをたらふく食べて姿を消した。狼に小豆を食べさせた中のくぼんだ大きい石は最近まで残っていたが、前庭の池をつぶしたさい何処かへいってなくなったそうである。 (大西ウメさん談)
 14  狼の足
 今から二百年余年前、阿讃山脈に狼が現れ、道行く人々をおびやかしていた。
 ある雪の夜、足代山の百々路の藪かげに現れ、ウオーウオーとうなり声をたて、その声は峰や谷にこだまして響き渡り、人家は堅く戸を閉じておびえていた。時に佐藤某手慣れた火縄銃で、家のすき間からこれをねらい、40〜50m さきの畑に現れた時ズドンと一発。ねらいたがわず仕留めることができた。その時切り取っておいた片足が今も保存されている。長さ 12cm、巾 4.5cm、黒褐色の毛におおわれたもので、手織りのはな色木綿の袋に入れられている。これを持っていると狸や狐に化かされたり、犬神や化け物もよりつかないと言い伝えられている。現在は公民館に寄贈されている。 (三好町誌)
 15  赤池の渡しの狸
 足代から吉野川をわたり加茂にいく渡しを赤池の渡しといった。この渡しの両岸には竹藪がつづいていて、ここに狸が住み着き渡しをわたる人々をよくだました。だまされると人家の方へ出て行く道がわからなくなり、ひどい人は迷って一晩中竹藪やいばらの河原をさ迷ったそうである。
 また夕暮れから夜にかけ、特に雨の降る夜、赤池から足代東原に帰る途中、道づれになる婦人がでる。話相手にしているうちに行くえを見失い、とんでもない所へひっぱられ、煙草や小物など持ち物を巻き上げられ捨てられる。気がついて自分がなぜこんな所へきたかわけがわからないそうである。 (吉田 明さん談)
 16  二本松の狸
 明治41年冬、足代の真鍋某が辻町で仕入れをすませ、みやげに鯖二尾さげて午後九時頃馬木谷の東二本松にさしかかった。小用をもよおしたので道端の平たい石の上に鯖をおいて用をたしたが、鯖がみあたらない。うろうろ探していると、桑畑の中でからから笑う声、そこへ行こうとするとバサバサと音がして後はひっそり。鯖は狸にさらわれたそうでここの狸はいやしいやつであったそうである。 (三好町誌)
 17  丸山狸
 昔、昼間の若衆が辻からの帰りに、丸山の細道にかかると、後から追いついてきた可愛い小娘が「さびしいから大宮さんまで連れて行って」との頼み、どこをどう歩いたかやがて小娘は「ここは私の伯母の家です、一緒によってください」という。恥ずかしいと思ったが連れ込まれていろいろ御馳走になり、とうとうすすめられて泊まった。鶏の声にふと目をさますと、驚いたことに、今まで寝ていた座敷と思ったのは草原で、昨晩はいったお風呂は野つぼで身体中臭い、一緒に寝たと思ったのは石の地蔵さんであったそうである。 (三好町誌)
 18  迷い子にする狸
 大正の初め辻町の肥料商某が夜光明寺から帰るとき、大宮さんを暗がりに拝んだことはたしかであるが、それから島の中の一本道を歩いても歩いても辻渡しへでられない。大船戸や大坪のあたりをぐるぐる廻り、汗を流しよろめきながら歩いても、対岸に見える火を見て方角を確かめるのだが道はわからない。岸に腰を下ろし一ぷくしていると、向こうから提灯をさげて来る人がある。道を尋ねると、ここは大宮さんのまえで辻渡しはこういくのだと教えられてやっとわかった。光明寺をでたのが九時頃で辻渡しへきたのが午前二時頃だったという。狸に化かされたといわれている。 (三好町誌)
 19  辻渡しの狸
 辻渡し近辺に狸が住んでいて、いろいろのいたずらをされたという話はたくさんある。
 中屋の人が船着き場に大八車をおいてあったら、娘に化けた狸が車に乗って座っている。
 「こらっ狸め そんなとこでなんしよんな」とどなると消えてしまったそうである。またこのあたりの川で投げ網で鮎などをとっていると、狸が石を投げて魚がとれない時が度々あったそうである。 (長谷川静夫さん談)
 20  足代八幡の夫婦木
 足代八幡の境内は、県下では珍しい梛(竹柏)の林になっている。樹の下に大国さんの石像がおかれている大きい空洞のある大木をはじめ、大小40本余りの梛の木が銀杏や楠の木と共にはえている。 (昭和32年天然記念物県指定)
 「宮代に庵と風情の夫婦なぎ、一つに花咲き一つに実がなる」という岡本呑洋の梛の木をうたった歌を書いた板があったが今はない。梛の木にも雄雌があって花が咲いても実がなるのとならないのがある、お薬師さんの梛に花が咲き八幡さんの梛に実がなるということを歌っている。境内にはこの梛の夫婦木と、銀杏の夫婦木、松の夫婦木があった。松の夫婦木は片方が黒松で片方が赤松という珍しい木が、部落の上の高場の大西家の山にあったのを、60年位前に境内に移し植えられ一かかえ位になっていたが、松食い虫にやられ枯れてしまった。 (吉田 明さん談)
 21  お薬師さんの梛の木
 足代八幡神社境内の南の方を宮の岡といい、ここには薬師如来を安置したお堂があり、俗にお薬師さんといわれている。ここにひときわ大きい梛の木がある。三好郡誌の記録によれば、地上五尺の周一丈二尺二寸、樹高八間、樹令850年とある。この木の下に権現の小祠があり、人を呪詛するものが丑の時参りといって、夜半人知れず参詣し、呪わんとする人のいる方角に伸びた枝を折って祈れば効験があると言い伝えられている。町誌によれば、八幡神社の境内の梛の大木が呪いの木といわれ、真夜中人を呪いながら人形を打った釘の跡が残っていると書かれている。そうすると呪いの木は二本あることになる。
 5〜6年前に、神主さんが呪いの藁人形をみつけ、いまどきこんなことをする人がいるのかと驚いたそうである。 (吉田 明さん談)
 22  美濃田の淵の作造岩
 足代小山の作造という男が、享保4年(1719)の大水に獅子岩の影に舟を着け、岩の上から四角網で漁をしていた。折りからにわかに増水し獅子岩も七分も浸ってきた。岸にいた人たちはあれよあれよと大騒ぎ、木材を投げたり、網を投げたが届かない。水達者な作造も見る見る間に濁流に呑まれて姿が見えなくなった。後数日川を探したが見当たらず、岩の名を今も作造岩と呼んでいる。 (三好町誌)
 23  立法寺の夫婦石と腰掛け石
 昼間字立法寺には、かつて立法寺という大きい寺があった。そのあたりでは今でも田を耕していると、布目瓦の破片が出てくる。
 昔はお坊さんは妻帯が禁じられていた、ところがその寺で若い坊さんが近所の娘さんと恋いにおちいったが、一緒になれないことを悲しんでこの石の近くで心中したそうである。 それからその二つの石を夫婦石といって他所へ持っていくと罰があたるといって、だれ一人さわる者がなく、今もずっと田の真ん中に残されていた。
 その夫婦石の近くの畦ぎわに大きい石がある。腰掛け石といって、立法寺の坊さんが腰をかけて、近所の子供たちを集めて勉強を教えた石といわれている。
 最近、これらの石は近くの天椅立神社の境内に移されている。 (長谷川静夫さん談)
 24  流れの宮
 三野町芝生の東県道北側に、俗称「流れの宮」という社がある。もと足代五月谷奥の宮の段に鎮座していたが、大洪水のおり流されここに漂着したものを祀ったものと伝えられ、それ以後その辺一帯は豊作がつづいたそうである。足代からお迎えにつめかけ、立ち会いのもと御神籤をひいたら「足代へは帰らない」とでたのであきらめ、その後、秋祭りには足代から総代が出席する習わしとなり、それは明治の中頃まで続いたと伝えられている。 (三好町誌)
 25  頼朝ゆかりの足代八幡神社
 吾妻鏡の元暦2年(1185)6月5日の条に次のように記している「又加石清水神領云々、奉寄八幡宮神領壱処在阿波国三野田保者。右件保所奉寄当宮神領也。……右兵衞佐源朝臣頼朝」。足代付近は三野田保という荘園で、頼朝が支配していた、それを石清水八幡宮へ寄進するというのである。そのため、石清水八幡宮の分霊をこの足代の地(三野田保)に勧請したのである。そうすると八幡宮が祀られて800年もたっており、大変古い社である。ご神体は鎌倉時代作といわれるからかね造りの仏さんで、神仏混淆のなごりである。
 歴史の古さを示す梛の大木、山林八町六反の神領もあり、古いばかりでなく経済的にも恵まれた神社といえる。 (三好郡歴史散歩)
 26  先人を干害から救った雨乞いの宮
 山口に200年位もの昔から守り神としてあがめ、祀ってきた竜王宮がある。昔は、日照りが続くと部落民一同がこの宮に集まり、鐘と太鼓を打ち鳴らし、二夜三日(ニヤサンニチ)をかけて雨乞いをした。若し降らないと、村をあげて七日七夜(ナノカナナヨサ)のおこもりをする。時にはそれでも一滴の雨も見ないことがあると、やむなく最後の手段をとる。まず古老はご神体を木綿の白布に包み、恭しく奉持して美濃田の淵にお連れする。ここには和霊釜といって青くよどんだ水を満々とたたえた淵がある。日頃は人っこ一人寄せ付けない霊域である。新しい縄で結われたご神体をこの淵に投げ込む、神体はおもむろに沈んでいく、周りでは平伏した村人たちの悲壮な祈りがしばらく続く。神体がお宮に帰り着かないうちに降りだしたこともあったと古老の話。雨乞いをすれば必ず雨が降り、農作物の枯死、飲料水の不足などが解消し、多くの先人は救われたそうである。
 毎年4月24日には各戸から一人ずつ集まり、うどんを供えて祝っている。村人はこの神を「おりゅうはん」と呼んで親しんでいる。 (高橋 多蔵さん談)
 27  和霊さん
 伊予宇和島の人で、山部善兵衛という人を祀ってある。この人は百姓一揆の頭取で強い人であったが、憎まれて蚊帳巻にして殺されたといわれている。宇和島に祀られていたのを分神したものと伝えられる。町内にこの小山の和霊さんと山口にもある。 (町史編集委員会資料集)
 28  小山の水神さん
 小山部落は水神さんを祀っているため、昔から火事がないと伝えられている。この水神さんの祭事は瑠璃光寺が行っている。 (町史編集委員会資料集)
 29  しばおり神様(いおりさん)
 東山の男山にある新田神社の境内に、いおりさんが祀られている。今も大谷家ではお祭りをしている。大谷家は新田義貞の一族で、足利氏との戦いに敗れこの地にきて、密かに南朝と連絡をとり再起を計っていた。ある日、京都から密書を持っていおりさんという武士が大谷家にやってきた。大谷家では盛大にもてなしたが、この密書には重大な秘密が書いてあり、この書をもってきたいおりさんを必ず切り捨てるようにと書き添えてある。いおりさんは字が読めず、密書にそんなことが書いてあるのを知らないで届けたのである。
 命令とはいえはるばる京都から密書を持ってきたいおりさんを哀れみ、柴を折りそこへ丁寧に葬むり、祠を建てしばおり神様として祀った。また、男山の新田神社の境内にもいおりさんとして祀った。
 しばおり神様は、旅の疲れをいやすため、しばを折りそれを祀ると元気になるといわれ県道丸亀線の脇にある祠には、しばが絶えない。 (町史編集委員会資料集)
 30  新田神社の話
 戦前まで男山の新田神社では、毎年盆の28日には青年団主催による演芸会や踊りなどを楽しんだ。その頃は音頭が盛んで、音頭だしなどたくさんいて一晩中語り明かした。
 ある年、音頭中で仇討ちの場面を語った時、本殿がガタガタゆれ稲妻が光り、雷が落ちたような大きい音がした。人々は真っ青になり、泣き出したり大人にすがりつく子供もいた。これはきっと新田さんのお怒りに違いない、これからはこんな音頭は語らないようにしようと新田さんにあやまった。新田氏は足利氏との戦いに敗れこの地で滅んだ、だから勝負事はきらいな神様で、祭りなどでも絶対に勝負事はしないようにしている。 (町史編集委員会資料集)
 31  ぼんのう寺の焼き討ち
 東山内野にぼんのう寺という寺があった。戦国の昔、この地に勢力をのばしてきた長曽我部元親の軍に焼き討ちにされたと伝えられている。ぼんのう寺跡は内野の木下家の裏の畑地とされている。ここでは旧正月元旦に金鶏が鳴くという言い伝えもある。
 内野には竹内家一軒と木下家二軒があり、元親の大軍を迎え討たんと「構え口」にて弓に矢をつがえて待った。女と子供は内野の奥のサコに避難した、そこを「大たまり」という。元親の軍はあまりにも勢いがよいのでみんな逃げた。元親軍は怒り木下家の玄関においてあったひきうすをまっ二つに切り割り、馬にのり音をたてて走り去った、「おとし」の地名が残っている。続いて堀切の裏の「ぼんのう寺」を焼き、さらに堀切裏のくぼみで馬の鞍をとり、羽織りをぬいで木にかけ一休みした。「くらかけ」「羽織りかけ」と呼ぶ
地名が残っている。ここから元親軍は石木を通り琴平宮を焼き討ちに行ったという伝説がある。ぼんのう寺の仏像や仏具は内野の庵に祀ってある。また、ぼんのう寺の僧は讃岐へいったともいわれている。 (町史編集委員会資料集木下ゼンさん談)
 32  今はなき神宮寺・遠通寺(円通寺)
 足代字西内に遠通寺という小字がある。ここに昔、遠通寺という寺があったが、長曽我部の兵火に焼かれその後絶えたと言い伝えられ、「ヤケドウ」という地名も残っている。
 神宮寺は山口の今の竜王祠付近にあったそうである。古老のいうには、数十年まえ寺に関係があったと思われる巨松を伐採するのを見た、その大きさは巨大で、その一つの枝で径三尺の臼をとる事ができた。竜王祠境内の弘法太師が植えたという菩提樹も神宮寺いわれの木と考えられ、「花の木」「大門」の小字があるのも何か関係があるようである。
 他に昼間の天椅立神社付近には立法寺という寺があったと言われ、昼間校あたりも大蓮寺という地名だし、景勝寺は讃岐の財田へ移転されその名残も残されている。このように三好町内には九個所もの廃寺跡がある。 (足代村誌)
 33  歴史の古い天椅立神社
 昼間の天椅立神社は、歴史の古い神社で昼間全体の氏神である。阿波志によるとこの神社は羽津明神という名で呼ばれ、延喜式内社であると述べられている。貞治3年(1368)の雲辺寺の鰐口銘には、「阿波国田井ノ荘羽津宮…」とあり、南北朝時代は羽津宮といわれていたことがわかる。さらに慶長11年(1606)の棟札に「庄内安隠」と記され、この時代もこのあたりは田井ノ荘といわれていた。その棟札には僧、祢宜10人、政所以下102人が名を連ねている。こんな棟札は他に例がなく、これから見ても当時天椅立神社がいかに隆盛だったかがわかる。
 神社のすぐ隣に立法寺跡がある、立法寺と天椅立神社は同時代に建てられ、立法寺の守護神として建てられたことも考えられるそうである。
 天椅立神社はイザナギの神を祀っている。対岸の井川町にイザナミの神を祀っている神社があり、同じ日に祭りが行われ、むこうが姉神なのでみこし・だんじりを早くだす習慣が戦前まであった。また、ここのご神体は伊予の三島神社にとられ、むこうで盛大に祀られているという言い伝えもある。 (三好郡歴史散歩・長谷川静夫さん談)
 34  山口のつけば
 足代山口の竜王さんの西谷に「つけば」という水たまりがある。雨乞いのとき竜王さんのご神体を漬け祈った所と伝えられている。竜王さんは上流の窪地にあったが、いつの頃からか現在の所へ祀られるようになったそうである。 (三好町誌)
 35  美濃田の釜
 美濃田の淵近辺の底は大きい岩盤からなり、永い年月の間に流水によって岩が研げ、渦
がまき次第に変形して釜ができたものと思われる。昔から近くの小川部落では、どんな地震があってもいまだに時計がとまったことがないと言い伝えられている。釜の数は36個で、大きい釜の口は畳三枚敷き位の広さがある。
 大きい二つを通称雄釜、雌釜といわれ、二つは向かい合ってありその距離は3m位ある。その両釜の底は連絡していて一方に物を投げると一方に泡がたつといわれている。昔、日照りが続き百姓が飢餓におそわれ、村民が集まって雨乞いをした、雨乞いの神様お竜はんのご神体に綱をつけ雌釜につけて、七日七夜のご祈祷をすると雨が降った。ある時、ご神体につけた綱が切れ村人たちは困って、とうとう海士を雇ってご神体をとりだした。その時、海士は「今後絶対にこの釜にはいらない。恐ろしい所だ命がなくなる」といって後は黙って立ち去ったといわれている。以後、誰もこの不思議な釜に近寄らず、釜底のことは知る由もない。底には大きい主がいるとか、入ったら絶対出てこれない魔の釜とか伝えられている。 (町史編集委員会資料集)
 36  夫婦淵
 滝久保谷の中流の岸下と言う所にある。二つの淵が並んでいて小川谷流域中最もすごい淵で、下にあるのは形が亀に似ているのでお亀淵とも言われているが、またお亀さんという人が自殺したのでそういわれるようになったという説もある。上の淵は雄淵でまた中淵とも呼び、その上流に赤子淵と呼ばれる淵がある。なお、この谷筋には法度に後家淵、左エ門淵、蠏淵、岸下に助次淵、中村にヤゲン淵等がある。 (東山の歴史)
 37  螺の滝(崖)
 中村落合の奥半町滝久保谷に面する所にある。高さ約二十間、幅一町余りの一大断崖絶壁をなし、昔から崖として有名でその名は遠近に響いていた。むかしは村社鷲羽神社がその崖の上にあったが、今は社地殆ど崩壊して宮久保として僅かにその一部を残すのみである。明治14、15年頃までは猿がよく来て遊んでいたといわれいる。 (東山の歴史)
 38  黒トベ
 黒トベは男山名にのごの下にある。その名のごとく黒いトベが高さ二十間、幅二十五間急斜面となって谷に接し、その両端に滝があり、黒白の対比が大変奇妙である。 (東山の歴史)
 39  七本松
 七本松は二軒茶屋の北にあり、ここには不動尊が祀られている。蜂須賀侯の代官がここに来て、阿讃国境を定め七本の松を植えたのでその名がつけられたと伝えられる。ここはまたよく展望の開けた地である。 (東山の歴史)
 40  二軒茶屋
 二軒茶屋は差出山西峯の地にある峠である。猪の鼻国道が開通するまで阿讃の要路にあたり、旅宿業を営む者十数戸があったが、今はその片影を留めるだけとなった。しかし近道としてここを通るものもあった。 (東山の歴史)
 41  城の段
 足代に城の段という所がある。地勢が一段と高くなっていて、前は懸崖後は山で左右に渓がある。ここに登れば、西は池田以西伊予の山々、東は岩津に至る一大渓谷が一目に入る。前方崖のなか頃の藪になっている所には石塁の跡、古い泉等があるといわれ、また塁跡とも思われる所の後方小高い所から、瓶焼ににた焼き方の瓦とも瓶とも思われる破片を掘りだしたこともあるといわれている。また一説には弾丸などを鋳造した鋳壺(井壺)跡ともいわれている。 (三好郡誌)
 42  米とり牛の通り道
 毎年、夏と秋の二回「樫ノ休場」を越えて、牛の群が鈴の音を響かせながら往来した。讃岐では「借耕牛」といい阿波では「米とり牛」とよんだ。それは夏と秋とで190キロ位の米をもちかえっていたからそう呼ばれた。この量は阿波の上田の収穫米に相当し、二頭もおれば水田三反歩の耕作に見合うので、阿波ではありがたい習慣であった。
 昭和6年の県の調査では、2300頭の牛が出稼ぎしていたが、そのうち1000頭位が「樫ノ休場」を越えて塩入で受け渡ししていた。阿波の飼い主は牛追い人に渡す時、きまって「牛は食うだけが楽しみですから飼い葉だけは沢山やって下さいよ」と頼んだ。だが受け入れ側の農民には欲張り者もあったようで、牛が田をかいていると次に借る人が畦でまっている、代かきが終わるやいなや次の田へ追い込み、夏の日長を明るいうちは休ませない。共同借用牛というので飼料も十分与えられないでこき使われた牛もあったそうである。
 秋が来ると、ものいわぬ牛は背中に米を乗せ、ヨタヨタ重い足をひきずりながら塩入まで帰ってくる。迎えに来ている飼い主を見ると会えたうれしさを表すのか、出稼ぎの苦しさを訴えているのか「モーモー」となき、頭を主人にすり寄せながら樫ノ休場への道を登っていく。峠を越えると我が家へ帰れる喜びのためか急に元気な足取りで山を下ったといわれる。この樫ノ休場越え以外に東山峠、二軒茶屋峠もよく米とり牛の通路として利用され三好町は米とり牛の通り道であった。 (阿波の語りべ 三室 正典)
 43  腹痛藪
 足代東原に腹痛藪という竹やぶがあった。30坪位の藪に雌竹がいっぱい生えていたが、ここの竹を切ると必ず腹痛がおこるといわれていた。ところが近くの大西家ではこの竹を草葺き屋根に使用していた。これはその家が竹を切られたら弱るのでそういいだしたのかも知れない。 (吉田 明さん談)
 44  雨乞い踊り
 夏の日照りが続いた時、一家の主人が氏神さんに集まって雨乞い祈願をした。日照りが十日位続き作物がたまらんと思った時、雨乞いをせないかんと部落で決まった時に行った。二日三晩、朝・昼・晩と三回唄を歌い、踊りを氏神さんの境内でする。踊りをしない者は一生懸命お祈りをした。主人のいない家は主人に変わるものが参加しなくてはいけない。
女の人は朝・昼・晩の弁当を作ってもってくる。径一尺の太鼓に合わせて、近藤兵部太夫先生(国学者・天椅立神社神官)の作った雨乞いひよこ踊りを輪になって歌いながら踊った。他にションガイ踊りとか槍竹をもった矢踊りをする事もあった。その雨乞いをしていてもなお日照りが続くときは、貞安・男山部落も一緒になって鷲羽神社の境内で、各部落よりぬきの者が踊った。
 讃岐仲南町の追い上げの上に尾瀬神社が祀られている。この神社は水に関係深い神を祀っているところから雨乞いの神として、神威四方に及ぼし神徳八方に輝き、天明(1781〜1788)のころより雨乞いの信仰が高まったという。滝久保全員が尾瀬神社に参拝して帰ってきたこともあった(歩いて一時間半位)。尾瀬はんから帰って滝久保の竜王さんでも祈願して踊る。地神さんや氏神さんでも祈願して雨乞い踊りをして一回りする。
 雨乞い踊りは扇子に歌詞をかいてあってそれを見ながら踊るのである。「踊るしるしに空かき曇る、雨となる神光る神」という歌詞はおどる時くりかえし歌った。最後の雨乞い踊りは昭和9年7月11日だった。 (町史編集委員会資料集)
 45  人形芝居
 昼間には昔から人形座があって、正月には県内はもちろん遠く九州或いは浜松あたりまで出稼ぎをしたと伝えられる。戦前まで人形一座の用具もそろっていて、毎年奥森神社の祭礼には境内で無料公開し村民に喜ばれていたが、戦後何時とはなく消え、立派な人形も散在し、浄瑠璃を語る者もいなくなった。
 奥森神社は女神を祀り、神輿、相撲などの荒事は好まれず人形を舞わないと凶事があるといわれ、夏秋の祭礼には人形座、文楽座の人形芝居が奉納されていたようである。この人形芝居での浄瑠璃の語り手は、専業の外は「村太夫」といって金をだしてでも語らしてもらう同好の人たちがいたようで、三好町でも明治末より大正末期にかけて浄瑠璃熱がたかまり、各自が紋付き袴、見台、みすまで用意して源之丞一座とともに香川の方まで興業に参加したものもあったという。同好の人は桜太夫、豊沢太夫などの三味線太夫をよんで佐野家や名家を順にまわって稽古に励んだそうである。 (町史編集委員会資料集)
 46  吉野川の大洪水
 吉野川に面した三好町の生活は、良きにつけ悪しきにつけ吉野川に影響された。台風などの大雨のあとの洪水には悩まされた。昼間の天椅立神社は石段が20段位あり高い石垣の上に鎭座しているが、吉野川の大洪水の時は下の広々とした水田はみな水びたしとなり海のようになる。土地の酒造家大滝家では、酒の材料などいろいろの物資を徳島方面より運んできて、船着き場においといて洪水の折りこれ幸いと神社の鳥居の所まで運んで来たそうである。船着き場から鳥居までは 60m 位ある。(長谷川静夫さん談)
 47 底無しの畑
 足代井坪の城ノ台に底無しの畑というのがある。台地上の二反位の畑であるが、細竹な
どを差し込むと2m も3m もずるずると入る。桐の木を植えてあるが、他の二倍も三倍も伸びの良い不思議な畑である。台の裏手に水田が少しあるが、ここは細竹は深く入らない。(三好町誌)
 48  足代城跡と田岡城跡
 三好町の城跡には、東山城、田岡城、東昼間城、土器丸城、足代城がある。足代城は残された記録も口碑も少なく、城跡も殆ど残されていないが、三好一族の三好備前守が城主であったが長曽我部に滅ぼされた。城跡といわれる所は見晴らしのよい水の便もよい城として絶好の場所である。田岡城、東昼間城、土器丸城の三城は三好時代に足代城の支城であったといわれている。
 田岡城跡は昼間敷地にあって、小川谷が吉野川に流れ込む近くに盛り土したところが城跡といわれている。盛り土は高さ5m、長さ 20m、幅 15m 程で上に小さい祠が祀られている。石垣や堀もなく城というより塁(砦)でなかったかといわれ、城跡記には「時代不祥、主将田岡刑部、佐々木定綱の末孫なり」とある。盛り土をしてあるところから古墳でないかという説もある。東昼間城跡は美濃田大橋北づめにあり、高さ 30m の小山になっていて、一般に竜王さんとよばれている。阿波緒将記に「天正中落城、城主佐々木右京進」とある。足代城などとともに長曽我部との戦いに落城したといわれる。 (三好郡歴史散歩)
 49  東山城跡
 東山城は城の形式が南北朝時代のもので、山岳武士の拠点であったと推測され、ここに城を築いたのが新田氏の一族新田義広であって、井内谷に八石城を築いた新田義治と連絡をとりあって北軍に対抗した。しかし細川方の攻撃に敗れ東山葛篭(つづら)までおちのび、ここで自決した。
 土地の人達は死体とともに鎧、刀剣などの遺品を埋め、義広夫妻のため五輪の塔を建立しその霊を弔った。しかし、残党狩りが厳しくなると、この五輪の塔も土の中に埋めてしまった。江戸時代になって新田神社が祭られたが、五輪の塔、鎧、刀剣の類は大正時代に偶然掘り出さるまで土中深くうずもれていた。
 次に東山城を築いたのが、池田の白地城主大西氏の一族大西備中守元春であった。阿波志には「白地城主大西出雲守頼長の三男大西備中守元春がこもり、天正五年三月長曽我部元親の軍と戦い落城。妻島村で逆徒の為に死す」とある。元春は頼長の三男と書かれているが弟といわれる。東山城の山頂から槍の穂先、中腹からは刀身、山麓からも武具が発見されている。土讃線箸蔵駅北東に見上げるようにジヨウ山がそびえている。このジヨウ山の頂上に東山城があった。 (三好郡歴史散歩)
 50  赤しゃぐまと黒かわら
 夜が更けて人が寝静まると、赤い髪を振り乱した子供がどこからともなく座敷に現れて家の一人一人をくすぐっていく。家の者は寝不足でへとへとになってしまう。あまり恐ろ
しいので外へ出ると、身の丈が3mもある赤しゃぐまの大きいのが立っていて気絶してしまうという。赤しゃぐまとは赤い髪を振り乱した妖怪のことで、足代の部落では山に近い家や寺などによくでたそうである。
 黒かわらというのは、足代から吉野川にそそぐ小さい流れのそばにある草原のことである。むかし、村の者が馬をこの草原で放し飼いにしていたところ、ある日のこと、水中から小坊主が出て来て馬の前足と後足をがんじがらめにしばって倒してしまった。馬の異常ななき声を聞いて飼い主がかけつけて縄を解いてやったが、馬は間もなく死んでしまったという。その後黒かわらに小坊主(河童)がでると恐れられていた。(阿波の伝説)

 参考文献
三好町誌、三好歴史散歩、阿波の語りべ、日本伝説大系、阿波伝説集、東山の歴史、三好郡志、町史編集委員会資料集、足代村誌

1)徳島史学会


徳島県立図書館