阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号
三好町の染織史

染織班(徳島染織学会)

   上田利夫・高橋重利・武市幹夫・

   北原国雄・木村功

1.はじめに
 染織班は、平成3年より、三好町町史編集室の方々のご協力を得て、三好町の染織史について調査した。この調査で得られた資料と、既に得ていた資料とから、報告書をまとめることとする。
2.織物
 先史時代の獣皮あるいは樹皮を利用したであろうものを除いて、衣料は織り上げた布を縫い上げて作る。縄文時代には、苧麻などの繊維あるいはそれから作った糸を用いて、経糸2本によって緯糸を挟み、緯糸1本を挟む毎に同じ向きに捻る方法で編んだ布を作っていたと考えられる(1)。現在、俵や菰、よしずなどの織り方にこの織物の名残がある。後に、緯糸や経糸を交互に組み合わせて織る織物が出来てきたが、江戸時代以前は、麻、楮から採った繊維や、蚕、山蚕の繭から採った糸による織物であった。江戸時代初期に木綿が普及するに至って、木綿の織物が庶民の衣料となった(2)。
 織物の原料となる繊維を採るために、棉、麻、楮、蚕、天蚕が、江戸時代には既に足代、昼間、東山で栽培・飼育されていたと伝えられ(写真1)、大正10年(1922)頃まで続いたというが、養蚕を除いて、現在は行われていない。
 明治9年(1876)頃、足代で150戸、昼間で230戸、東山で40戸の農家が、自家用の白木綿、木綿縞、太布、さし縞、緋、めくら縞を織っていたということである(写真2)。また同じ頃、吉野川沿いの集落では、糸を藍染めし、高瀬舟の舟子や船頭の着る厚司を織っていたようである(写真3)。
 日露戦争後の明治38年(1905)頃より日本で緬羊が飼育されるようになり、また豪州から羊毛が輸入されるようになって、三好町でも羊毛を入手できるようになり、この頃より三好町で毛織物が作られるようになったようである。しかし、用具は残っていない。
 天蚕は、この地方では山蚕と呼び、山に自生した櫟の木に寄生したものを集めて糸を採取していたが、明治末から大正にかけて足代の高橋梅太郎氏は、天蚕を飼育して糸を採り、織物にして帯や袱紗を作っていたという。天蚕の絹糸は、普通の絹糸を生産するのに比べ、数倍も手間がかかり、生産量も少ないものの、高価で、普通の絹糸の数倍の値がつく。
 江戸時代には一般の耕地に桑を植えることは禁止されていたといわれ、山間の樹林の間や空地、田畑の畦に桑を植えて、僅かに養蚕をしていたという。明治時代になって禁止令が撤廃されたようで、畑に桑を植えるようになったが、明治30年(1899)頃より藍が衰退し始めたため、藍畑が桑園に変わり、明治40年(1909)に至り町内各地に桑畑が出来たという(写真4)。
 表1に昭和6年以降の三好町の養蚕の変遷を示す。第二次大戦中から大戦後に、桑園面積が激減し、繭生産量も著しく減ったが、近年さらにその傾向が強まっていることがわかる。表2には、大正2年以降の三好郡における繭の価格の変遷を示した。第二次大戦後、物価上昇に伴い、繭価も急上昇し、一時は非常な高値をつけたこともあったことがわかる。
3.染色と紺屋
 太刀野山村(現三野町)から足代村・東山村にかけての農村地帯では、いつ頃か、自家で藍を作り、肌着を染めたり、糸を染めて織り上げていたという。明治、大正、昭和にかけて、足代、昼間、東山の各地では、赤色は茜草と灰汁、紅花色は蘇枋と明礬または酢、黄色は茅または萩と消石灰、赤茶色は柳と消石灰、黄褐色は乾燥した甘藷の茎葉と消石灰または南天と灰汁を使って染めていたという。藍色は生葉または乾燥した葉藍と消石灰、灰汁、葛粉またはよまし麦1)、甘藷等を使った建て染め法で染めていたようである。
 寛政9年(1797)には、昼間村の表紺屋2)五郎右エ門が、紺屋役銀3)の取立役をしながら、紺屋をしていたとのことであり、この頃、他に弥三兵衛、惣兵衛が表紺屋として、幕、幟、半天、風呂敷等を染めていたという。また、文久2年(1862)7月〜慶応2年(1866)7月に紺屋遺藍4)をしたり、俵懸5)を課されていた家が、昼間、足代、東山に各1戸有ったというが、名前はわからない。
 明治以後まで営業していた昼間、東山の紺屋の、場所、氏名、生産品目、廃業年、規模は表3の通りとのことである。
 現在紺屋の作業場や用具は町内に残っていない。

1)精白した裸麦を二度炊きしたもの。
2)染色だけをする職人。これに対し裏紺屋は染色の下拵えをする職人。
3)紺屋の職人に課された税。
4)紺屋が自作して使用する藍。課税の対象になった。
5)藍の俵に課される税。

4.藍
 三好町では、藍は主要作物の一つであったという。
 元文5年(1740)7月10日の調べでは、昼間での葉藍の反当たり収量は、上作35貫、平均25貫であったという。その頃に、東山では農家1戸当たり2〜3反の藍作をし、葉藍のまま仲買人に売り渡していたという。当時の藍の仲買人としては、東山村の嵯峨山亮吉、足代村西原の井原満、昼間村下光明寺の多田松蔵が居たという。そのほかに、昼間、足代に各2名の仲買人が居たようだが、氏名は不明である。この頃、昼間では農家の8割が1戸当たり2〜3反位の藍を作っていたといわれ、これは足代の農家1戸当たりの作付けの3倍の面積であったという。
 藍師6)としては、明和4年(1767)3月、昼間村土居の井原三郎、分家井原喜四郎が藍方制道役7)として任命され、藍商や藍の製造を兼ねてしていたという。その後井原家の後を継いで、臼井芳太郎、宇津秀蔵が藍玉の製造をしたが、明治10年(1877)頃に止めているという。
 葉藍や藍玉は、町内の大舟戸や小山の船着き場から積み出したが、明治10年頃の運賃は、藍玉20貫入り1俵5銭、■15貫入り1俵2銭5厘〜3銭、遠距離で藍玉1俵1円50銭、青藍50斤入り1樽50銭であったという。
 足代の秋田道雄氏所蔵の葉藍買入帖(写真5)によると、明治19年(1886)、足代村の藍商人秋田寛裕は、足代で1310貫、昼間で310貫余の葉藍を買い入れているが、作付け面積67反余に相当する。また明治21年(1888)の買い入れ総量は、足代で2250貫余となっている。
 東山の石木地区では自作農家が40戸程有り、大正の初めまで藍を作って、敷地の紺屋や仲買人に売り渡していたという。東山の他地域でも藍作が行われていたか否かは、不明であるが、内野地区では藍作が行われていたようである。しかし藍作の用具は残されていない。

6)■・藍玉・青藍を作る人。
7)葉藍抜売(規則外販売)を取り締まるため、百姓から任命された役。
8)■・藍玉・青藍を売る商人のこと。仲買人は含まない。

 藍商人8)としては、文化9年(1812)の「阿州南北名家見立鏡」(3)に昼間の大滝定吉の名があり、明治15年(1882)の「繁栄見立鏡」(4)に昼間の大滝勝太、藤川善吉、福田麻一郎、足代の秋田英二、秋田閑吉、秋田寛裕が、明治25年(1892)の「徳島市街南北繁栄見立鏡」(5)に昼間の福田浅一郎、大滝勝太が、明治28年(1895)の「阿波国繁栄名誉見立鏡」(6)に昼間の丸岡浪蔵、大滝勝太、福田篤十郎、足代の秋田英二が、明治31年(1898)の「阿讃両国繁栄名誉見立鏡」(7)に昼間の丸岡浪蔵が出ているが、大正6年(1917)の「蜂須賀蓬庵光明録」(8)には三好町内では誰も載っていない。
 藍の売り先は、売掛帖によると大滝家では北海道日高・釧路・函館・白老、近江、安芸、江戸、遠州などのようで、秋田家では羽後、淡路、その他であるというが、他の家は不明である。大滝家の葉藍、藍、青藍の取扱い量は、年間四千貫以上であったという(写真6)。
 明治以後、昼間、足代には青藍(沈澱藍)を製造していた家もあったというが、どの位製造されていたのか詳細は不明である。
5.おわりに
 染織に関する本町の古い記録はあまり見当たらなかったが、現在残っている藍に関する資料、用具などは、町で収集して、保存することが望ましい。また、天蚕の飼育、採糸の記録を活かして、町おこしに役立てるのも面白かろう。
 各地で多数の方に、ご多忙中にも拘らず、お話をお聞かせ頂き、報告書をまとめることが出来た。大滝和彦氏をはじめ、お世話になった方々に厚くお礼を申し上げる。

参考文献等
(1)尾関清子(1992)土器圧痕から推理する。季刊民族学,No.61,36〜42.
(2)永原慶二(1990)新・木綿以前のこと 苧麻から木綿へ(岩波書店)
(3)徳島県立図書館所蔵
(4)徳島県立図書館所蔵
(5)徳島県立図書館所蔵
(6)徳島県立図書館所蔵
(7)徳島県立図書館所蔵
(8)徳島県立図書館所蔵


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