阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号
三好町の峠道

民俗班  橘禎男

 『'90三好町勢要覧』に掲載の航空写真をみると、三好町の面積の80%を山地が占めているということがよくわかる。それらの山地が北に向って高くなっていったところで香川県との県境となり、そのはるか彼方に琴平や丸亀の町並を望むことができる。
 明治42年発行の地形図には、山地の集落を結んだ道がいく筋も描かれており、それらは北に延びて峠を越えて香川県と結ばれている。それら峠道の中には車道に改良されて現在利用されているものがあるが、いつの間にか廃道となり人々の記憶から急速に消えてゆく道も多い。
 道はその時代の生活や文化を映しているといわれるが、これらの山道を通じて阿波と讃岐の間にどのような交流が行われていたのか考えてみたい。阿讃県境にその名を残している峠を中心に、塩の道、借耕牛の道そして信迎の道について、石造物の調査や聞き取り調査したものを手掛りに報告したい。なお、調査は平成4年7月30、31日に実施した。
1.東山峠への道
1)打越峠
 昼間から東山峠を越えて香川県の塩入に至るルートは、塩入線ともいわれ、明治25年に昼間の撫養街道分岐点より改修にかかり、明治30年に内野までの工事が行われた。工事完了は明治39年であるが、明治42年の地形図にはすでに幅3m 以上の車道が通っているので、上記工事の規模が知られるとともに、この道が香川県への最も重要なルートであったことがわかる。
 現在丸亀・三好線が走っているが、その昼間・内野間には県道より 150m ほど上を旧道が通っていた。この道は人馬の通行のためにつくられたもので今は廃道となっているが残っており、その最高地点が打越峠(標高300m)である。昼間の山下医院の横から上るこの道は、地神さんの社殿を過ぎると南に展望がひらけて、辻から井内谷方面が一望できる。峠には像高 74cm の不動尊が立っており、台座には「昭和十五年庚辰年 施主昼間円福寺喜来」と刻まれている。
 「祖谷や井内谷の人は辻の渡しを渡ってこの道を通り、塩入部落を経て琴平へ行きました。借耕牛も通り、讃岐の米や塩が馬やネコ車で運ばれてきていました。」と案内をしてくれた内野の竹内虎吉氏(明治36年生)が話してくれた。峠は小さな広場となっており、3月27日の縁日には市が立って大勢の人々でにぎわっていた。往来が多かったのは昭和初期までだが、昭和30年頃までは東山と昼間の人々には利用されていたという。
 ところで、「昭和十五年」という造立年代は峠の歴史からみて新しすぎるのではないか。それには、次のような話が伝えられている。この不動尊は実は3代目で、それまでの2体は盗られて他の場所に持っていかれたのだという。その内の1体が、池田町との境の谷奥の不動院にあるというので訪ねてみると、滝の横にそれらしい不動尊が祀られていた。
 「天保十五年辰六月吉日、晝間村 東山村 津路町」と台石に刻まれていた。この銘文にみえる三町村は打越峠を通る交通路に沿っており、不動尊が上記の旧道の路傍にあったことを証していよう。
2)内野の不動尊
 庚申塔や不動尊などの石造物は、昔の交通路を知る上で大変役立つ。町の中央を南北に流れる小川谷川と並行している内野の県道沿いには、2体の不動尊が残っている。
○堀切の不動尊
 県道が内野の集落を迂回する所にある。道路拡張前は現在地より 250m 東に寄った通称馬マクレタキにあった。昔この場所で馬が谷に転落してひいていた人が亡くなったので、山と里の人が相談して建てたという。像高 64cm で「嘉永四年三月建之 山里講中」と刻まれている。
○ムクロジ谷の不動尊
 堀切の不動尊から 500m 北へ寄った県道の山側を少し上ったお堂の中に祀られている。像高は 83cm で堀切の不動尊より大きいが像形は非常に似ており「嘉永四年戌年三月建之 山里講中」の銘文から、同時期に建てられたことがわかる。いずれも険しい地形で事故の危険性の大きかった場所であった。
 なお、この不動尊は道路拡張工事のため間もなく移転されるらしいが、地域の歴史を語ってくれるこれらの石造物は文化財として大切に保存してほしい。
3)内野から東山峠へ
 内野から東山峠への道は、小川谷川を渡って東山字中村の東山小学校から尾根伝いとなり、男山の集落を経て峠の手前で県道と合流する。この間には小学校横とセンジョに「さぬきみち」と刻んだ石の道標があったが、道路工事の際にどこかへ移したのか、中村の岩崎久一氏の案内で探してみたが確認することができなかった。
 男山峠、塩入峠ともよばれている東山峠(標高 630m)は、樫の休場と並んで瀬戸内海の塩が仲南町の塩入を経て阿波に入る重要なルートであった。「塩入」という地名は、阿波への塩の入口であったことからつけられたといわれている。
 この道は、塩入―東山峠―打越峠―昼間のルートで、さらに吉野川対岸の辻に渡り、そこから仲持の背に担がれて祖谷地方まで讃岐の塩が運ばれて行った。塩は昔から生活に欠かすことのできない物質であった。
2.差出の地蔵越への道
 「風光絶佳なること、我昼間村第一」と『東山の歴史』(大正5年編纂)に書かれている差出山(標高887.3m)は、仲南町と接する県境にある。「維新前までは香川県へ通ずる要路に当りしが、今は近路として通過するに過ぎざれば道路の甚だしく荒廃せんとするは惜しむべきなり。」と記されている通り、この峠道は貞安や滝久保、石木などの人々が香川県の財田、琴平方面へ出るときに利用していた。
 「財田との縁組も多く、借耕牛も沢山通りました。財田の香川熊一さんや滝久保の木下常一さんが博労をしていて、牛の貸借の仲介をしていました。戦後耕うん機が入るまで借耕牛の往来は続きました。」と、貞安の大西春市氏が話してくれた。
 貞安から差出越までの峠道には、4体の石仏が残っている。
○差出越の地蔵尊
 峠には2体の地蔵尊が祀られており、道路から向かって右は像高37cmで「文化十三年十月吉日」、左は像高 43cm で「明治十九年十二月吉日」の銘がある。いずれにも「棟木」の地名が刻まれており、棟木(現 東山字棟木)の人々もこの道を利用していたことがわかる。
○ヤマンソの地蔵尊
 峠の南東 1.5km の展望の良い尾根にある。像高 88cm「三界萬霊  安政三辰二月吉日 施主東山村中 世話人貞安大西高助 内野丹蔵」の銘がある。
○ハチベの不動尊
 峠の南東 500m の松の大木の下にあり、像高は 44.5cm。造立の年代は不明で、昔讃岐へ行くときここに刀を隠しておいたという話が残っている。
3.樫の休場への道
 樫の休場(標高 850m)は、三好町、三野町、仲南町の3町にまたがる峠で、東山峠とともに「さぬき街道」とよばれた交通の要所であった。三好町からは、山口―中屋―笠栂―寒風―樫の休場―塩入がメインルートで、男山から葛籠を経て寒風(樫の休場の南1km にある峠)に至る道もあった。三野町や三加茂町の人々も讃岐へ出る道として利用したが、昭和4年土讃線が開通してからは峠の往来は少くなった。
 「借耕牛の道として利用され、讃岐の米や塩がこの峠を越えて運ばれてきました。また琴平や丸亀へ嫁入りする人を見送ったり、善通寺へ入隊する兵士を見送った峠でもありました。三好町の人は、峠の北東4km にある大川神社へ参拝するときにも通りました。」と岩崎久一氏が現地を案内して話をしてくれた。
 笠栂・樫の休場間には2体の石仏が残っている。
○不動尊
 地名は不明であるが、現在笠栂から寒風に向けて道路工事をしている尾根上の標高 810m 地点にある。舟形の浮し彫りで像高は 108cm。台石に「文化元年足代邑 昼間村講中」とあるところから、足代と昼間両村の人々が往来していたことがわかる。
○水谷の地蔵尊
 町内第一の高峰である中蓮寺峯(標高 929.9m)の東斜面の道路沿いにある。樫の休場からは 500m 南西の地点である。昭和10年頃まで庵があって人が住んでいたが、今はブロック囲いの小さなお堂の中にかなり風化した地蔵尊(像高 30cm)が祀られている。三野町内に位置するので現在は馬瓶の人が管理しているという。お堂の横に手洗い石が残っており、「明和四年寅十月廿四日」と刻まれていた。
4.二軒茶屋
 「差出山西峯の地にある峠なり」と『東山の歴史』に記されている二軒茶屋は、昔ここに大国屋や福島屋という二軒の宿屋があって旅人に宿泊や茶の接待をしていたことからこの名がついたという。
 池田町にある箸蔵寺が金比羅宮の奥の院とよばれ、金比羅宮に参詣した人は必らず箸蔵寺にお参りしたので、この道は「箸蔵街道」といわれて、明治27年猪ノ鼻峠が改修されるまでは毎日何十人という人が通っていたという。
 峠へは、柳沢、増川から馬除を経て池田町境に山道があったので、三好町からはこのルートを通ることが多かった。二軒茶屋から財田への下り口である石仏までの 1.65km の間に3基の丁石が残っており、信迎の道としてにぎわった往時をしのぶことができる。
○丁石
1 五十七丁 阿州西井ノ内谷段地名氏子
2 六十一丁 阿州三好郡加茂村 萩原藤右ヱ門
3 六十五丁 東豫中之庄 大西彦三良
○地蔵尊
 県境の尾根道から財田へ下る所にある。像高 68cm の気品のある地蔵尊であるが、造立年代は記されていない。

参考文献
○東山の歴史(大正5年編)
○峠道利用の阿讃交渉関係 福井好行(阿波の歴史地理 第三 昭和49年)
○阿波のかりこ牛 喜多 弘(民俗資料委員会研究紀要 第一集 1983)
○三好郡志(大正12年編)
○三好町誌
○三野町史

 終わりに、調査に同行して下さり、多くのご教示を賜りました地元三好町の岩崎久一氏に深く感謝いたします。


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