阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号
「からうす」の構造からみる三好町の文化圏

民俗班(徳島民俗学会)  青木幾男1)

 「からうす」は踏臼(ふみうす)のことであって足踏によって穀類を精白・粉砕する道具のことである。第二次大戦前までは日本全国の至るところ、どこの農家にも土間の片隅に設置されていて主として女・子供の仕事であったり、雨降りや夜なべ仕事として男手間で搗いたものであった。戦後しばらくまではさかんに使用され農家の必需品であったが、昭和30年頃から電気精米機の普及によって急に姿を消してしまった。
 これらの道具類はどこまで行っても機能目的が一致しているので、その形や構造もよく似ており、名前も同じである場合人々はまったく同じであると考えがちである。然し詳細に観察してみると、材質・寸法・形の上で地域毎に共通した、他地区との違いを見出す場合が多い。それはその地方の産業や、地形・歴史とも関連してできたものであって、その共通点は一定のひろがりをもっている。それが何ケ町村であったり、県全域であったりするがそれを私達はひとつの文化圏と考えている。今回も地域内で使っていた古い道具(民具)をさがし出し、その共通点のひろがりをしらべ、どうしてそうなったのか、よって来るところを調べてみたいと考えてとりくんだ。
 三好町中央公民館の郷土資料室に(図1)のような1基の「からうす」がある。それは私達が従来見てきた「からうす」(図2)と少し違っていた。
 順序としてからうすの部分名から説明すると前方に「臼」が土中に埋められていて臼を搗く「きね」は大きな角材「横棹(よこさを)」の一端に直角になる形で組みこまれている。横棹の中心よりやゝ後寄りに棹をささえる石製の「ほろろ」があって、棹と「ほろろ」は、棹に通した心棒「くるる」によって接触している。棹の後尾を人が踏むと杵が上り、足を放すと杵が落下して臼の中の穀物を搗く、穀物は自然に反転しながら精白できるしくみになっている。
 (図1)と(図2)の違いは棹、とくにほろろから後方にある。(図1)は棹が丈大で後尾まで幅が広く、ほろろから後方は表面に刻み目があり、ほろろから後方が短かく、鳥居形の支えがなくて天井から縄を吊してある。これは棹の上に乗って足を前後しながら杵を上下させるためである。
 (図2)の棹はほろろの後方で細くなり、別の木で継いだ場合が多く、(図1)が1足しか前後できない為に後方の長さが一定しているのに較べて、(図2)はほろろから後方が自由に調節できるために、後方を細くして長くした場合が多い。特徴はそのほかに、後方の踏台の上に人が上って棹の後尾を踏むために身体を支える鳥居形の枠があるのが普通で(図2)は平地部に多い普遍形である。
 「からうす」が中国から日本に伝えられたのはあまり「遠い昔」のことではないようである。正徳2年(1712)成稿した寺島良安の『和漢三才図会』によれば
品名「碓(からうす) 和名 加良宇須」
 「相譯新論」ニ云フ 「■(ヨウ)ノ制ヲ察スルニ 杵臼ノ利ニ後世巧ヲ加ウ、身ヲ借リ而シテ碓(カラウス)ヲ踐(フ)ムノ利ハ拾倍スル也」
 「物原」ニ云フ 「寵轅ノ臣ノ雍父ハ碓(カラウス)ヲ作リ 后稷(コウショク)が水碓(ミズカラウス)ヲ作ル」
 「孔融」ノ曰ク 「水碓ノ巧ナルハ 賢者ガ立木ヲ倒スニ地ヲ掘ルコトヨリモ勝(スグ)レテイル。其利ヲ言エバ 立臼ト杵デ搗クヨリモ数倍ノ利ガアル」
 「三才図会」(中国)ニ云フ
 「碓(カラウス)ノ作リ方ハ先ヅ甕(カメ)ヲ埋メル穴ヲ掘ル。穴ノ内2尺、地下ニ木ノ杭ヲ3本打チ込ミ、上ニ石ヲ置テ安定サセ甕(カメ)ノ口ヲ少シ外側ニ向ケテ底ヲ透(スカ)シテ穴ニ嵌込(ハメコ)ミ、陶磁ノ砕イタモノト灰ヲ混合シテ穴、底ヲ塞(フサ)ギ、穴ノ周囲ハ小石ヲ誥メ甕(カメ)ノ周囲ハ樹皮ヲ誥メテ保護スル。斯シテ後ニ甕ニ玄米ヲ注(ソソ)ギ碓ノ木杆(キコマ)デ臼ノ内ヲ搗ケバ、米ハ自ラ翻倒(ヒルガエ)ル。按(アンズル)ニ碓ノ杵之(キネコレ)ヲ碓(カラウス)ノ觜(ハシ)トイフ。其ノ柢(サヲ)ニ嵌込(ハメコン)ダ横木ノ短木ヲ枢機(クルル)ト為(ナ)ス。而シテ人柢ノ尾ヲ踏メバ、則(スナワ)チ頭ハ上ニ起ル之ヲ軸ト謂フ(俗ニ云フ 興古・加美 或ハ保呂ト云フ)」
 とあり、甕が石臼に替った他は、私達が子供の時によく踏まされた「からうす」と全く同一であり、それを髪髴(ほうふつ)とさせるもので、その挿絵も(図2)と同じである。文中にある水碓をつくった后稷(こうしょく)と言う人は清朝初期1680年頃の人であったので、その頃中国で発明され。元禄年間(1688〜1703年)頃には早くも日本に伝えられていたようである。従来の立臼と、立杵で精白する方法からみれば革命的ともいえる進歩であった。それから20年も経っていない正徳2年「和漢三才図会」が編された頃には、すでに日本の津々浦々で使用されていたようである。そのように一般的には(図2)が先行していたと考えられる「からうす」に対して、今回の調査で知った(図1)の「からうす」の分布の広がりを隣接する各町村で探してみた。然し「からうす」が残存している民家はどこにもない。農村で「からうす」を知らない人が多いのにも驚いた。ようやくにして町村立資料館に保存されているもの。または住民の方々よりの聞き書きによって次の結果をえた。
(図1)の分布圏
徳島県 東祖谷山村
    池田町
    井川町
    三加茂町
    半田町
徳島県 三好町
    三野町
    美馬町重清
香川県 仲南町
    財田町
(図2)の分布圏
徳島県 山川町
    川島町
    鴨島町
    石井町
    那賀川町
徳島県 市場町
    板野町
香川県 善通寺市
    大川町
    白鳥町五名
高知県 高知市
愛媛県 西条市
    松山市
広島県 宇品市
青森県 三沢市
 上記に見られるように(図2)が広い範囲に無限に近いひろがりをもっているのに対して、(図1)は江戸時代に於て阿波の上郡(かみごうり)といわれた吉野川の上流の1部、三好町を中心とする山間部とそれにつながる香川県の財田町や仲南町に限定されている。そして同じ仲南町につながる琴平町や善通寺市にはそれが及んでいない。仲南町や財田町と三好町の間には 800m を越える山がたちはだかっている。然しこれをこえてすくなくとも「からうす」が急速に普及していった江戸時代の中期から、後期にかけて、此処に相互に深いつながりをもった一つの文化圏があったことになる。
 従来文化圏は谷川によってひらかれることが多い。特に阿波の国は鮎喰川・那賀川・海部川・吉野川等によって河川流域の文化圏がひらかれたと考えていた。またそれが行政区域の分類にもなっていた。なかでも吉野川は阿波国を縦につらぬく背骨であり、川によって平田舟は徳島と三好郡を頻繁に上下して沿岸の村々の浜に立寄りながら輸送にあたり、陸路のとぼしかった当時の交通路の中では吉野川は阿波北方の大動脈としての役割りを担っていた。このように密接な生活環境を継続していると道具や生活習慣の中に共通点ができる筈である。これを仮に「吉野川文化圏」としておこう。「からうす」の構造でみるかぎり。「吉野川文化圏」とは違った文化圏があった。生活の基盤が吉野川よりも、よりその方が近かったということである。
 三好町の資料館と仲南町教育委員会に保管する「からうす」を較べてみると下に記す(図3・4)の通りで、棹の上部に登って踏むためにいづれも「ほろろ」から後尾の幅が広く、長さは1m 以内にかぎられている。それに対して、(図2)形式である鴨島町の敷地資料館に保管する「からうす」は(図5)のように棹の後半を別木で継いであるが「ほろろ」から後方が細くて長い。これは(図2)式の特徴であって同館には其他に、1木作りの「からうす」も保管しているが、(図6)のように後半が細くて長い。
 (図1)と(図2)は構造上に基本的な違いがあって、1は棹の上を身体が移動するだけで杵を上下するものであり、2は身体を踏台の上に置き体重を片足に掛けながら棹の端を踏み降す力で杵を上下させる構造である。江戸時代から明治、大正にかけては庶民の常食も麦やソバ、キビ、雑穀が多く、それらはいづれも殻(から)がかたいので杵の落下には重力が必要であったが、(図1・2)の違いはそのための違いではなさそうである。むしろこれが峠を越える人達に多いことは、高い山を日常に登り下りする人達の身体的馴れ、或は生活習慣から生れたものではあるまいか。然、それだけでは説明にならない。高い山は何処にでもある。祖谷山から三好を経て讃岐を結んだものは「塩」の運ばれる道であり。また「こんぴら信仰」の道であった。これを(図1)の「からうす」文化圏にかさねてみると、かさなりは丁度一致する。「三好からうす文化圏」は「塩の道」であった。文化圏は幾つもの複合した共通点をもっている。日常的に交流しているからである。
 二軒茶屋(H630m)・差出の地蔵越(H880m)・東山峠(630m)・樫の休場(H850m)などの三好町からサヌキに越える四つの峠道がどのように賑ったかについては同じ民俗班の、橘禎男氏が「三好町の峠道」として調査して居られるのでその研究成果にゆだねたい。文化圏は文化の共通だけではなくて、峠を越え国境を越えての通婚圏でもあった筈である。塩の道は「からうす文化圏」をつくる以前に信仰の道であり、金刀比羅信仰や讃岐からの箸蔵信仰の道であった。そのほかに足代東浜から、東原・菖蒲・行安法市・笠栂など樫の休場や東山に向う峠道えの傍らに常夜灯がある。それには天明・寛政・安政・などの年号が記されている。燈籠は元来は神仏への献灯としてつくられたものであったが、江戸後期には暗夜・とくに山中や遠方を旅する人に方向を知らせ行路の安全を祈るために、終夜、火をともすことになって常夜灯と言うようになった。これも塩の道の名残りであろう。塩の道は「かりこ牛」の通る道でもあった。
 最後に「からうす文化圏」として表現された「塩の道」は遠く古代にさかのぼり、土取・洲津大柿・東原・稲持などの弥生遺跡や三加茂の岩陰遺跡に石器としての「サヌカイト」を運んできた道であったことを記して稿をおわる。


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