阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号

吉野川流域の農村構造の一考察
           −三好町の養蚕業を通じて−

史学班(徳島史学会)  小原亨

1.養蚕の黎明―藍作から養蚕ヘ
(1)藍作の衰退
 藍は、阿波を代表する重要な商品作物として藩政期以降盛んに栽培されてきた。主産地は、「芳水七郡」(名東・名西・阿波・麻植・板野・美馬・三好)と呼ばれる地域であり、とりわけ板野28ケ村(現藍住町週辺地域)であった。
 藩政時代(寛政〜安政)における藍作面積は、6〜8,000町歩(寛政12年6502町・享和元、5886町・天保15、8084町・弘化元、6920町)に及び、明治30年代には、10,000町歩(明治36年15098.8町を最高)以上に達し、その主産額は全国生産の30パーセントを占めている。(阿波藍沿革史・西野嘉右衛門編・いしいの藍と農業史・上田利夫著)次表1の明治30年・40年の農商務省統計参照。こうした藍作も、明治20年代に入り外国藍(インド藍)・ドイツの化学染料の輸入により衰退が始まる。表1の如く、明治30年代の12,800町歩が、大正元年には2,888町、大正10年には225.4町と、表2のような推移をみせている。
 藍作中心の板野郡でも全盛期(明治20年)の生産額165.2万貫が、大正元年には38万貫と減少している。
 加茂・三庄村(現三加茂町)でも、明治20年に240町あった藍畑が大正15年には、わずか0.4町という激減をみている。その推移は、次表3のとおりである。
 こうした結果は、阿波藍隆盛の象徴でもあった、新町川畔の藍舎が、明治末期には不要となっていることでもわかる。
 阿波藍衰退の経緯が、「麻名用水開さく事業誌」(徳島県史第5巻第三節農業参照)に、「本組合は吉野川右岸に位し……略……地味肥沃にして最も蓼藍の栽培に適し、260〜270年末藍作を主業とし、その利、つねに米作に優り富農の区を以て自ら誇り……略……然るに時代の推移により明治維新後海外の通商一度に開け……略……外藍の輸入年を追ふて多きを加へ我が藍価漸く昔日の栄華を夢だにもする能わざる苦境に陥り或は桑を裁へ或は蔬葉を培い……」と記録されている。
〈(1)の項詳細は「阿波越瓜考証」昭和63年刊・小原亨著参照〉
 (2)養蚕の黎明
 藍作の不振にともない芳水七郡の農民は、明治30年以降水田地に切りかえるとともに、利水の不便な地域は桑園地として生計の維持を図った。なかでも吉野川北岸の阿讃山麓一帯は扇状地の為、藍作地の大半が桑園化されていった。
 従来より、この地域では養蚕は行なわれていたが、藍作が主業であったため、明治中期までは自家用の衣服(紬)の原料としての養蚕であった。明治以降にいたり、県は養蚕業に力点をおき、県庁の物産掛のなかに裁桑料を設置し、明治6年、蜂須賀氏の東京転居を機に蜂須賀邸を改造して、蚕室・製糸場・織殿を設けて養蚕葉の発展に力を注いだ。また、明治13年には、農事試験場に採苗所を設け桑苗の育成を図った。明治19年には、徳島・脇町・富岡の3ケ所に養蚕伝習所を開設して養蚕の技術や製種法を伝授している。
 養蚕の父といわれた、麻植の前川角太郎・三好の高田亀三郎らは、桑園・蚕室の改善・製糸工場の設置・夏蚕の飼育など、地域の養蚕振興に大きな功績を残している。
 (3)養蚕の全盛
 明治27〜8年の日清戦争後の絹糸の需要の増大と繭価の高騰が養蚕熱を一段と高めることとなる。明治の後半に入り、三好地方も養蚕業の隆盛を見ている。
 明治30年には、蚕種検定法が公布され不良蚕種の駆逐と養蚕技術の伝授講習会が三好地方でも開催・明治31年には池田町に三好郡養蚕組合・ならびに三好郡養蚕伝習所の設置など組織や機関の充実が図られた。明治37年に入ると、加茂村・三野村にも蚕業組合が設立(昭和23年養蚕農業協同組合と改組)・明治42年には、県蚕種同業組合を創設し本格的に養蚕業の契励に当った。また、県立板西農蚕学校(現板野高校)を創設して専門的知識や技術の習得をさせている。なお、三野村の平尾太平は私立養蚕伝習所(明治30年)を設立して技術の向上と普及に貢献している。こうした、機関・施設の充実は、藍作の衰退をはやめるとともに、藍作農村から養蚕農村へと生れ変ることとなった。三野町清水地域が三好第一の養蚕地帯となったのもこの頃である。
 こうした養蚕の隆盛は、製糸工場の創設につながり現地の産繭を原料とする高田製糸・加藤製糸が誕生し、その後あいついで各村々に数多くの工場が誕生している。
 かくして、明治後期の三好郡の養蚕戸数は2430戸・桑園面積2820町・産繭量66900kgとなり、三好町でも養蚕戸数389戸・桑園面積48町・産繭量1,200kg(県蚕糸課調、明治40年)と養蚕熱は高まり大正、昭和初期の全盛時代を迎えることとなる。
 全盛期は、「統計別表1」の示すとおり、大正後期から昭和初期の頃までと言える。この頃は、米価高騰、米騒動と経済の不安定な時代で、養蚕業界も蚕価の上下落を繰返す波乱時代ではあったが、養蚕業界や政府の施策(三好郡乾繭販売組合池田乾繭場の設立・徳島県蚕業組合連合会の設立)等により阿波養蚕の全盛期を築いている。
 かくて藍作の中心地であった芳水七郡は阿波養蚕業の一大産地に生れ変った。昼間町勢要覧(昭和2年)に「桑園面積94.2町・春の養蚕家363戸・産繭額11,444貫・1貫8円7銭・秋の養蚕家345戸・産繭額8,786貫・1貫5円16銭」と記録されているように、三好地方も全盛時代を迎えている。全盛期を迎えた理由のひとつとして、「冷浸法」という蚕種の増殖法が開発され優良蚕種が生み出されたことがあげられる。なお、大正15年に三好郡養蚕同業組合が結成され各町村にあった従来の養蚕組合は支部となり郡全体の協力体制による組織の拡大充実が図られて三好地方の養蚕業の進展に大きな役割を果した。
 (4)戦時統制期と戦後の蚕糸の見直し
 昭和12年の日華事変・昭和16年の第2次世界大戦は、養蚕業界にとっても波乱の時代を迎えることとなった。かくて養蚕業界も戦時体制による施策のなかに10年余の歴史が流れている。
 昭和12年の「輸出入臨時措置法」による輸入制限(綿花・羊毛・麻)、人造絹糸の躍進、加えて昭和16年には、「戦時統制令」(物資統制・農業生産統制・蚕糸業統制)が出された。桑園1割減反政策がとられたのもこの時である。しかし海外との物資の交流が途絶なった昭和17年には、綿糸・麻糸にかわって蚕糸が軍需資源として重要視され、その確保に重点が置かれることとなった。県では「徳島県戦時産繭確保協力会」を設置し産繭の増産に当っている。こうした、政府や県の対応にかかわらず繊維原料の不足を来たし、それを補うため昭和19年「戦時繊維非常措置要項」を定め、桑皮や野生の苧麻、竹その他の雑繊維の徴集を進めた。三好郡でも昭和19年5月に「戦時繊維増産対策協議会」が組織され、桑皮や苧麻の生産にあたっている。三好郡全体の生産割当は不明であるが、箸蔵・池田・三縄・佐馬地の4ケ町村への割当が16,200貫であったと池田町史に記録されている。
 戦時統制時代の三好地方の養蚕状況は次の「統計別表2」のとおりである。
 第2次世界大戦の敗戦により、食糧を初めとする物資の不足は、その極に達し政府は食糧確保のうえから国策によって桑園を田畑化していった。昭和4〜5年の全盛期には徳島県の桑園面積は、1万町歩を突破していたが、昭和23年には2900町と全盛期の3分の1・昭和30年には2100町・昭和60年には1550町と減少し平成3年には8分の1の960町となり、産繭量も戦後より昭和40年代までは、30万貫前後になっている。三好町でも、昭和21年代の桑園面積は、昭和5〜6年の全盛期(200町)の2分1以下の86町と減少、養蚕農家も昭和5年の680戸から400余戸に減じており、それ以降急速に養蚕業が衰退していった。
 こうした動向とうらはらに、食糧輸入の見返り物資として生糸が重要な輸出商品となり政府は、昭和21年8月に「蚕糸業復興5ケ年計画」を発表して、その復興につとめたが、食糧の確保や諸条件の不備から好転はみられなかった。徳島県は再度「蚕糸業緊急振興3ケ年計画」を樹立して、ようやく昭和27年代より漸増現象を見せている。こうした養蚕の復興とともに、昭和22年に「養蚕農業協同組合法」が制定され、昼間・足代村(現三好町)を始め三好郡内の各村々に養蚕農業協同組合が結成され、昭和31年に地区蚕業指導所が設置されてようやく戦後の不振から立ち直ることとなった。
 なお戦後の貿易の自由化により海外からの繊維原料(綿麻羊毛)の輸入と化学繊維の発達が養蚕業の伸展を阻害すると考えられたが、天然絹糸の良さが見直され逆に需要の増大をきたしたことも復興を支えた要因でもあった。昭和35年度の県の牧繭量は、1495屯・三好郡は300屯・三好町は62屯と昭和23年の28屯の2倍以上の増加を見せ戦後の徳島県は全国有数の養蚕県となっている。次の「統計別表3」でみるように戸数・面積・生産量ともに大正後期〜昭和初期(統計別表2)の全盛期に比ぶれば問題にならない減少である。三好町においても平成3年には養蚕戸数45戸・桑園面積 30ha と激減し全盛期の面影は全くない。吉野川流域の農村経済を支えて来た養蚕の使命は終止符をうった。
3.養蚕の父・高田亀三郎と加藤長太
 (1)高田製糸
 高田亀三郎は、昼間村重田地区に明治25年製糸工場を設立し操業を始めている。三好地方における製糸工場の創始者でもある。亀三郎は、京都に出て養蚕と生糸の技術を習得して帰郷し藍作不振にあえぐ三好農民の救済策として養蚕の有利性を説くとともに、その普及につとめ三好地方の養蚕の基を築いた。
 彼は、私設の蚕業伝習所を開設して桑の接木・桑園の改良を始め座繰り製糸の技法を伝授している。また大正4年には自宅内に独立の養蚕室を建て本格的な飼育法を紹介している。高田製糸は、明治36年に新しくダルマ製糸機25台を導入して生産力の向上を図った。ダルマ製糸機の生産量は、女工1人1日50匁の糸量であった。製糸は金沢羽二重の原糸として移出している。当時、25〜30人の女工が働いていた。
 「蚕3年倉が立つ」。当時の養蚕景気を象徴した言葉が残っており、亀三郎の尽力で養蚕は農家の大きな収入源となって藍不振を乗切ったのである。
 (2)加藤製糸
 明治21年昼間村に生れた加藤長太は、高田亀三郎の指導を得て明治42年昼間光明寺にダルマ製糸機3台をもって操業を始めた。
 加藤家は、明治末期まで「ふじ屋」の屋号をもって手広く藍商を営んでいた。藍不振が長太を製糸操業に踏み切らせたのである。
 大正元年、彼は昼間北光明寺に新工場を設け製糸釜を「長釜」(1人1日製糸量200匁)改造し大正末期には長釜10基に増設して生産力の増強を図っている。昭和25年に至り、ダルマ製糸機より蒸気製糸機に切換え、次いで昭和35年には自動製糸機(東京プリンス社製)6台6セット:口数120筋を備え工場の刷新を図った。結果、製糸生産高は1ケ年 5,625kg に達し、丹後チリメンの原糸として京都に移出している。
 加藤製糸の原繭は、箸蔵・三好・三野・三加茂村・三好郡内で生産された3万 kg 程度の繭をもって操業を行なっていたが、昭和40年代には地場の原繭に不足を来たし関東地方より移入するといった状況にあった。
 当時の製糸工場の経営は有利であったという。製糸工程において「生糸」のほかに「さなぎ」・「キヤリア」(糸屑)・「ピス」(繭の薄皮を干したもの)・「ケバ」(繭についている真綿)の副産物がとれ、その副産物の収入によって工員の給与の支払いができた。生糸の代価は総て経営者の収入になったという。
 長太の孫、公典氏の話によると、加藤製糸も約75年余り操業を続けたが、昭和58年に工場を閉鎖し、現在は三好地域の生繭を年間約 10,000kg 程度を集荷して岐阜県へ移出している状態である。長太は、昭和43年・81才で逝去している。彼の一生涯は、高田亀三郎とともに三好地域の養蚕・製糸の振興に生き抜いた人物である。
4.養蚕の村―今は― 三好町の農業の現状
 養蚕の衰退は吉野川流域の農政史上:特筆すべきことである。
 養蚕の盛衰は、統計別表4・5の桑園面積の年次別推移によって知ることができる。
 養蚕に見切りをつけた吉野川下流の板野地方は、蔬菜栽培(白瓜・大根・洋人参)に力を注ぎ、昭和30年以降約20年間に県下有数の蔬菜生産地としての地歩を固めた。白瓜は奈良漬の原料として荒漬のまま灘地方へ、大根は澤庵漬として京阪神に移出、次いで昭和50年以降は、洋人参の需要とあいまって白瓜・大根を上回る生産量を確保している。
 これに反し、吉野川上流の三好地方(三好町)は、藍・養蚕に匹敵する生産物もなく零細な水田耕作と林業に依存せざるを得なかった。こうした結果は戦後の高度な経済成長による消費生活に抗しきれず農家は農繁期のみ農業に従事し農閑期には余剰労働力を県外(香川県)や県内の工場・土木・建設・造船といった分野に出稼ぎ、その収入によって農業所得の不足を補っている。農業依存の生活から労働力の提供という出稼村の傾向がみられる。こうした傾向を次の「統計別表8」によってとらえることができる。
 こうした三好地方(三好町)の農村構造の変容を黙認してよいのであろうか。
 村の活性化につながる農業の施策こそ三好地方にとっての緊急の課題であり、21世紀に生きる村人の宿命と言ってよい。(別表8の兼業農家数は、第二種兼業である。672戸(三好町)のうち、639戸は兼業が主で農業を主とする兼業農家は33戸に過ぎない。)
5.養蚕面顧―重田修氏談―
 私の少年時代(明治末期)は、「ながせ蚕」といって田の畦の地桑で、わずかな飼育をし自宅で真綿や紬を作る程度で、養蚕より藍作・煙草を主業としていた。この藍作が、インド藍・ドイツの化学染料の移入により不振となり養蚕に切りかえられていった。
 大正の後半に入ると養蚕の全盛時代を迎え、昼間村や足代村の農家でも最低4〜5枚、多い家は14〜5枚(1枚は繭量7〜8貫)の蚕を飼っていた。当時の繭価は1貫10〜13円程であった。(繭の値段は変動が激しかた)繭は、片倉やグンゼ、筒井製糸の仲買人が買取っていった。当時の養蚕家では、「子守やとっても蚕飼う」と言われるほど養蚕景気にわいた。養蚕の隆盛は、製糸工場の誕生となり、昼間村に高田製糸・次いで加藤製糸が設立され昼間村や近隣の産繭を集めて生糸を製造した。大正期に入ると三好地方の村々に、元木・剣山・武田・大島・辻・山本製糸等数多くの工場が生まれた。
 私の家も戦前より養蚕を業として来たが、昭和35〜6年に養蚕を中止した。中止した頃は年寄りの小使もうけ程度の棚1〜2枚ぐらいを飼育した。戦後の三好町における養蚕の全盛は朝鮮動乱の頃であった。現在(平成4年)三好町では足代・東山地区で細々行なわれている程度である。
 三好地方の農家は、藍作時代・次いで養蚕時代と生業が移って来たが養蚕不振のあとは、これにとって変る商品作物もなく米麦栽培による農業では生計の維持がむつかしく余剰の労働力で県内外に出稼する兼業農家(第2種兼業)が増加しているのが今の三好町だと語ってくれた。〈重田修氏、三好町昼間在・明治34年3月22日生・92才・平成4年7月重田家で収録〉

◆参考文献
 ◎阿波藍沿革史(昭和15年発行:西野嘉右衛門著)
 ◎明治百年記念誌(昭45年刊 三好町役場発行)
 ◎阿波の専売制、阿波藍(昭和30年 小原亨編)
 ◎三好郡内の町村史…足代村誌・井川町誌・三好町誌・池田町史・山城谷村史・三加茂町史
 ◎徳島県史第6巻(昭和42年発行 徳島県)
 ◎阿波越瓜考証(昭和63年編 小原亨著)
 ◎徳島県統計書、県統計年報・農林業センサス〈各年次〉
 ◎三好郡農業のすがた、23・24・25集(徳島県統計情報事務所)
 ◎三好町史編さん室収集資料文献
 ◎石井の藍と農業史(上田利夫著)


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