阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号
三好町の酪農

史学班(徳島史学会)  瀬山勵1)

 まえがき
 酪という語は、仏教では五味の一つを意味しているようだが、一般には牛や羊の乳汁を精製して作った乳製品を云い、これは古く天平の時代に日本へ伝わり、一部貴族のあいだで薬用としてもちいられていたようである。
 昭和63年、奈良の平城京址を発掘中に長屋王(684〜729 天武天皇の孫)家の邸跡が見つかり、そこから尨大な木簡とその他多くの遺物が掘り出されて世間の注目を浴びたことは、周知のことであり、その時の木簡の中に「牛乳を運んできた人に米を支給した」と記したものが出てきた。長屋王の邸へは酪ではなく牛乳がそのまま運びこまれており、これをそのまま生乳で飲んだのか、酪に仕上げて使ったのかは不明であるが、生乳でも飲んでいたと考えてもよいと思う。
 生乳やこれを原料とする酪は、このように古くから日本でも知られていたが、一般には普及しなかった。それは日本が農耕を主体にした社会であるため畜産が広まらず、習俗的にも動物の肉を食べたり、その乳を飲むことを忌みきらう傾向が強かったからである。
 しかし明治の文明開化の風潮のなかで、ミルクの滋養の豊富さが喧伝され、政府指導者のなかには牧畜・酪農の重要性を説き将来有望な産業に育てようと目論み、またこれを士族援産の一つにしようとする方策もだされた。そして徳島においてもそのような動きがみられるのである。
 明治6年3月には、富田秋田町で生乳や乳製品を売る店が開店し、その当時創刊されたばかりの徳島新聞第2号(明治6年3月刊)に開店広告を出している。その店は博愛社と云い、生乳・牛酪(チーズか?)・コンデンスミルク・粉ミルクを3月7日から発売するというものである(別掲広告参照)。そして博愛社の社名の下には、村上恒雄・山岡大作・一坂俊太郎・山内忍八の4名が名を連ねている。一坂俊太郎は元藩士で新居水竹に学び、明治7年に結成された自助社に入って通諭書事件に連座して入獄したが、のち逓信省の書記・石巻鉄道の重役などを経て明治40年に第6代徳島市長に就任し、大正11年まで4期市長をつとめた。山内忍八は書家で漢学にも長けた人で、塾で教えておりのちには学用品店をやった人である。
 これらの人は、もともと商人ではなく武士からの転身者で、机上で時流の先取りを企てた感が強く、事業が成功したとは思えない。博愛社はその後明治8年4月の徳島新聞第9号に「うしのちゝ」の広告を出している。その文中に暫時閉業していましたが今般再業し精乳を用意していますので、お出で下さいとあり、商品の値段も2年前より3割ほど安くしてあり(コンデンスミルク1斤50銭が35銭になっている)、更に常用の方には値段について相談に応じる旨を書き足して販売の拡大をはかっている。しかし牛乳の消費は、その後もあまりのびず、博愛社の営業もながくはつづかなかったようだ。そしてこの前の広告には名前を出していた一坂俊太郎は、この時には自助社社員として活動していた時期に当たったためか、他の人の名前と共にこの広告には出ていない。
 乳牛の導入
 現在の三好町を構成している昼間・足代・東山・増川などの地域は、もともと米麦を主体にした農山村であり、副業的に養蚕をやり山分では煙草を栽培するのが一つのパターンであった。戦後社会の構造が大きく変わり、農地改革がすゝんでいくなかで農民たちは、従来のパターンにとらわれることなく、如何に効率よく収入の増大をはかっていけるかを模索していた。
 そんななかで、乳牛を導入し搾乳による副収入をもとめる試みがはじめられ、これが各地区へ広がっていった。乳牛ははじめ香川県から導入された。徳島県の北方(きたがた)地方と香川との間には、相当古くから「かりこ牛」の制度があって、両地域間の交流がさかんで、物心両面から密接な関係があったので、乳牛飼育の先進地であった香川からの導入は極めて自然な成り行きであった。
 当町における酪農のはじまりについて「三好町明治百年記念誌」には、昭和21年に足代西原の谷藤栄が2頭を導入し、翌22年には飼育者も増し牛も10頭になったので組合を結成したとある。また一方で同誌の別の箇所では「本町酪農の草分けは昭和22年敷地の大谷実が香川県から導入、23年足代の谷藤栄・真鍋茂・横関重雄・昼間の垂水清信……以下略等が相ついで導入したのが今日に及んだ」とあり、上記の内容と相違している。今回の調査で事実関係を明確にしたいと考え聞きとりにかかったが、目的を達することができなかったことが残念である。この外東山内野の木下昇も昭和24年頃に乳牛を飼いはじめていたと聞いている。
 当初は酪農に対する知識や経験がなく、飼料のフスマや麦ぬかを池田町で買い大八車で引いて帰り組合の仲間に分配したり、畦畔の草をたよりに飼育していたので1戸に1〜2頭の飼育しかできなかった。搾乳ができるまでには、種付けとお産を経なければならないが種付けのための種牛も少なく、琴平町榎内まで受精に行った人もあり一苦労も二苦労もしたのであった。子牛のとり上げも容易でなく、難産時の対応も充分にできなかったし、乳房炎にもなかされた。搾った乳の出荷は、自分たちの手で、集乳車が来てくれる南岸まで運ばなければならなかった。この送乳作業は早朝に渡し船で吉野川を渡り、足代の人は川南の赤池へ、昼間地区の人は国鉄の辻駅前まで持って行く、苦労の多いものであった。
酪農組合の結成と発展
 前に述べたように昭和22年に足代地区で酪農組合が結成され、初代組合長には乳牛を率先導入した谷藤栄が就いた。しかし谷藤はその後、乳牛の飼育よりも牛の売買に力点を移し家畜仲買商となっていった。そして自分で家畜の屠場も開くようになり、牛や山羊を解体してハムなどの原料肉を出荷していた。そのうち扱っている肉類を調理して直接観光客に提供するレストランを池田で経営し成功した。
 東山地区では、昭和26年に農協役員の間で淡路島の酪農を視察しようという話がもち上がり、この視察を契機に7頭を淡路から導入した。酪農組合もつくり、飼育も順調にいったが、乳を辻駅前まで運ばなければならない労務に苦しんだ。昭和34年頃この地区の組合員は52名で82頭を飼育し、1日700キロリットルの乳を関西酪農に出すようになっていた。
 昼間地区でも飼育頭数がしだいに増え、乳量が日産100キロリットルほどになった頃から、森永乳業は自社の業績拡大の方向もあって、当地域の酪農育成に力をそそぎ、あらゆる面からの便宜供与と経営の指導をするようになった。昭和26年頃、昼間地区の日産乳量が180キロリットルになれば当地区へ集乳車が来てくれるとのことであった。当時は頭数も少なく出荷乳量がたりなかったが、三好郡の北岸地域の三野・足代・昼間の組合が一つになって集乳車の配車を要望した。地元の熱意と森永乳業の好意が合致して実を結び、集乳車が軒先まで来てくれるようになり、それまでの南岸へ送乳する苦労から解放されて、当地の酪農は急速にのびていった。
 飼育頭数が多くなるにしたがい、多くの問題が生じてくる。乳房炎で乳が出なくなったり、難産で牛を失う農家もあり、種付にも苦労しなければならなかった。そんななかで、森永乳業から当地域へ獣医が派遣されて、牛の病気や事故への対応と飼育指導に当たってくれることになり、これが当地域酪農の育成に大きく貢献した。
 派遣獣医は、足代長手の三好芳邸宅を宿所として各地区の牛を見てまわり、適切な指導と対応処置をしていった。派遣していた期間は昭和30年の前後にわたる相当長期のもので、3人の獣医が交代で来ていた。種付けについても、人工授精が普及してきて容易に種付けができるようになった。
 三好郡の東部、吉野川をはさんで南岸の三加茂町と井川町、北岸の三野町と三好町が、郡内酪農の中心であり、南岸の2町と北岸の2町が競い合う関係にあり、いい意味でのライバル的存在であった。足代・昼間地区が酪農をはじめた頃の集乳車は南岸にしか配車されていなかったため、北岸の農家は乳の出荷に際して自力で南岸まで送乳するために非常な労力を要した。南岸の道路が整備されていたし、牛の飼育頭数も多かったからである。
 昭和27年に、家畜保健衛生所ができて家畜の防疫と衛生繁殖の指導が行われるようになったが、これも南岸の三加茂に設置された。また生乳の遠隔地輸送による乳質低下を防ぐために森永乳業がクーラーステーションを昭和30年7月に設置したが、これも南岸の半田町である。
 昭和36年、三好郡内の牛乳生産も増え、より効率的な輸送体制を立てるため、受乳所の設置が計画された。この時には、北岸地域の出荷乳量が南岸より多くなっていたので、昼間と足代の中間地点、明治橋畔に置かれることになって、生産者の多くがここに直送することとなり、東山や昼間西部には中間集乳所が置かれた。
 酪農拡大の気運は上昇していったが、乳価は安定せず、不安定の状況がつづいた。乳価を安定させ酪農経営健全化のために、牛乳消費拡大策が大きな課題である。当町では現在の消費増ばかりでなく、将来的な消費拡大のためにも、学校給食への生乳採択は不可欠な要件だと考え、県下ではじめて学校の生乳給食を実施し、他町村へ波及させていった。
 昭和43年、三好町の酪農は飼育戸数約160戸、頭数で約600頭となり、これは郡内第一位である。町内の酪農粗収入は年間7000万円で米作粗収入にせまる位置である。町内の酪農家は、1戸当りの飼育頭数は多くないが、全地域にわたっていて、酪農組合は地区ごとに作られており、組合員数が多くなって分離独立した組合もあった。行政組織の町村は合併がすすみ、昼間町と足代村も昭和30年に合併して三好町が誕生している。酪農組合も町内の各組合が一つになってスケールメリットを生かすべきだとの論もさかんになり、昭和49年に当時町の産業課長であった真鍋氏のご努力が実り、三好町酪農組合の発足をみたのである。合併した組合は、足代・昼間・東山貞安・東山内野・東山男山・増川・昼間西部の7組合であった。
 輸入自由化のなかで
 三好町の酪農は、敗戦後疲弊していた農山村の中にあって、何とか収入の道を得ようとしてはじめたものであるが、放牧地もなく多頭飼育の条件がないなかで、殆んどの農家が1〜2頭飼いで飼料も多くは自給飼料の比重が50%をこえられることを目標に、出費をおさえながら副収入を得るという型の零細酪農であり、これを原則としたパターンがその後も根強くのこっている。
 零細酪農を経営するなかで、無駄のない効果的な飼育として生まれてくる雄牛を肥育して肉牛に仕上げていくという型も生まれてきて、乳・肉両面から経済効果をあげ、経営拡大をはかってきた篤農家も出てきたが、昭和50年代に入ってからは、生産過剰気味で乳価の不安定から、生乳の生産調整が実施されるようになって、乳牛の飼育頭数は減りつつある。
 乳が過剰気味のなかで、競争に勝つためには、品質の良い乳がもとめられるのは当然で、脂肪率の指数の確保や無脂固形分についてきびしいチェックがでている。これらにたえる牛乳の高品質化は容易ではなく、牛の体質改善と濃厚飼料による飼育がもとめられる。体質の改善や濃厚飼料の確保には、時間と費用が必要である。そしてこれが牛乳生産原価を引き上げ、乳価が低迷している状況の中にあって採算の確保をおびやかしかねない。
 また以前は、自家労働力を活かし手間をかけて自給飼料をつくり出し、効果をあげていた農家も高齢化や後継者のいない状況ではどうすることもできなく、酪農の経営自体の存続が危惧されつつある。
 以上のような悪条件の中にある当町の酪農の現況を概観すると
 初期には1頭飼いが圧倒的に多かったが、しだいに多頭化がすすみ、昭和45〜50年にかけて1頭飼いはなくなっている。

 昭和30年後半から、雄牛の肉用飼育を搾乳牛飼育と併せて行うケースが広がったが肥育技術も専門化が進み、しだいに肥育専業となり、多頭化の傾向がでている。
 搾乳牛の飼育も専業化の方向が強く、小規模ながら多頭化にむかっているが、飼育戸数が激減し、総飼育頭数も減少の傾向にある。

これらの傾向については別掲の「牛飼養状況表」の数値をご参照いただきたい。


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