阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号
三好町の歴史

阿波郷土会班

 真貝宣光1)・河野幸夫2)・岡泰3)
 石川重平4)・森本嘉訓5)

 足代村秋田一族について    真貝 宣光
 安永2(1772)年、徳島藩は深刻化した藩財政の窮乏を建てなおすため、鴻池等三都の商人からの借用銀の軽減策を立案する。その中心方策は領内市郷の豪農商35人を新たに「御銀主」に任用し御用銀の調達を命じ、その資をもって三都の商人からの借用銀を肩がわりさせる事にあった。35人の生業をみると、酒造業、藍商、廻船業を営むものが多く当時藩内の最有力商人が御銀主に任用されたと考えられる。御銀主には多少の出入があり、天明3(1783)年の「御銀主惣名村」(坂東家文書)によると総人数は51名である。三好郡在住で御銀主を務めているのは、足代村 秋田織右衛門、芝生村 平尾惣十郎、加茂村 山下梶之助、池田村 喜多甚助の4名であり、喜多甚助は安永2年時の35人の内の1人であり、他の3人は追加選任である。しかしながら安永9(1880)年に記されたと考えられる「御銀主組合融通銀申談定」(『阿波藩民政資料』1386頁)には秋田源次郎、平尾善之丞の名が顕れているので、秋田,平尾両家はそれ以前に御銀主に選任されたことが確認できる。一般的に御銀主とは幕藩への御用金調達者の意味である。しかし徳島藩では安永2年以降は「藩が金銀を調達上納させる制度として特別に任用した者」という「身居り」の意味を持つことに留意しなければならない。御銀主は明治3年の改革により村付卒の身分を与えられ、本人惣領に夫役帯刀が指免される。
 筆者は、「御銀主」制度発足後まもなく御銀主に選任された秋田源次郎なる人物に興味を持った。理由は元文5(1740)年に記された「御国中藍作見分有之村々貫目之次第」により、吉野川流域7郡、237ケ村で藍作が行われていた事を知ることができ、三好町域では昼間村が一反歩あたり普通作で25貫、上作で35貫の葉藍収量があり、三好郡内で最高の地味であった事が窺えるのであるが、足代村、東山村の藍作については記されていない。記載洩れとも考えられるが、別稿河野幸夫氏の報告からも推測できるように、1780年頃までの足代村での藍作は確認できていないのが現状である。あるいは“嫁にやるなよ足代の在所、足代石原けげす原”と俚謡に歌われるような土地の特性が作用していたのかのかも知れない。この様な足代村から藩内有数の豪商が選任された御銀主の1人として秋田源次郎が存在する。その経済的背景は何によるものか……、との疑問を抱いた事にある。
 今度の総合学術調査では、「近世中後期における足代村秋田一族の存在形態」に調査の焦点をしぼり、史料調査に努めたが、古文書類の乏しさに遮られ体系的な調査は行えなかった。庄屋役を務めた家、秋田総本家、北本家等が転出している事にもよる。しかしながら、町史編纂室の秋田道雄主事をはじめ関係者のご協力を得て、調査目的に関連する史料を見い出す事ができた。その1つが「祭礼菰敷出入目安返答写」(享保18年)であり、紙数の関係から本稿とは別に「史窓23号」(徳島地方史研究会 H4年12月刊)に史料紹介として発表した。同文書は近世史学で一般的にいわれている農村部における換金作物の栽培、貨幣経済の浸透が村落構造を変質させ、村落における新旧勢力の交代を引き起こしたとされる元禄・享保期において、足代村でも同様な勢力交代劇が行われた事を証する文書である。足代八幡宮の神事、祭事の節、足代城主の系譜を引くという由緒もあり、取立人役等を務め、特別の扱いを受けて来た4家(旧守派)に対し、台頭して来た他の氏子(改革派)たちが、4家も自分たちと同じ百姓、奉公人なのだからという大義名分を盾に4家にだけ特別の扱いをする必要はないと主張し、4家の特権を排斥しようと謀る。この論争について旧守派の言い分に対する改革派の反論を記し大北郡奉行である林九平宛差出した文書の控が紹介文書であり、改革派の中心となったのが善之丞である。善之丞は別掲の秋田一族略系図にある如く秋田総本家の当主であり、かつ五人組役を務めていた安兵衛の総領であり、北本家の当主源次郎は取立人役を務めていた。この様に政治的、経済的力をつけて来た層の台頭により中世上豪の系譜を引く村役人を中心とした村落支配体制が崩れていったのである。
 延宝2(1674)年の足代村棟付帳によると、足代村は村高1236石余の大村であり、一家・小家を合せて302家から構成されている。このうち持高のある家、すなわち田畠を所持している家は60家であり、秋田総本家にあたる伊兵衛家は17石2斗6合の持高であり、1町7反程の田畑を所持していたと推測できる。右持高は村中で22番目に位置する。そして、源次郎家の祖となる伊兵衛の弟久右衛門は小家として独立はしているが、一筆の土地も所持していない。しかし秋田一族は江戸時代中期以降、急速に政治・経済的力を蓄積し村内で抜きん出た地位を築いてゆく。享保期にあっては総本家の安兵衛、善之丞が五人組役を務め、ついで北本家の三之丞こと源次郎が藩内屈指の豪商に成長し、その経済力により御銀主、小高取に任じられ、その子織右衛門も父の遺業と身居りを継承し酒造業を営み、土地集積を図る等家業の拡張に努め、庫農介に至る、庫農介は天保8年には庄屋役を務め、翌9年には組頭庄屋に昇格し、小高取・組頭庄屋として全盛期を迎える。しかし天保13(1842)年に起こった加茂山騒動により家屋敷がことごとく打ちこわされ、その頃から家勢が傾くようになった。次いで台頭するのが総本家から分家した秋田鹿之助家(西家)であり、同家は酒造業、地主経営、藍商、金融業を営んでいる。金銭収支覚帳(明治35年)によると当主秋田寛裕は自己資金の他、琴平銀行、八十九銀行等より資金を導入し、債券、株式に出資する他、佐馬地村(550円)、三名村(627円)、池田村(1,000円)等の自治体を始め各方面に手広く融資している。
 また地主経営においても、田畑、宅地、山林等を多く所持し「明治三十七年分県税戸数割等差議案」によると、足代村で地租金80円以上納めている家は秋田寛裕1軒であり、2位の岡坊恵林が30円台でありさまに突出している。政治に目を向けると昭和7年犬養内閣の時、衆議院議長を務めた秋田清は寛裕の弟であり、昭和46年自治大臣を務め後に衆議院副議長を務めた秋田大助は清の子である。以上の様に同族内各家の盛衰はみられるが、あたかもバトンタッチするが如く、同族内において政治・経済的な地位が引き継がれていったのである。
 本稿は前述した理由により、まとまりのない報告となったが、管見し得た史料を基に年表に仕立て、秋田源次郎家を中心に秋田一族の存在形態について報告したい。また参考のため、秋田一族の略系図を掲げる。文中に出てくる個人名は全て略系図の中に採用したので参照、頂きたい。

(注)佐助は名東郡芝原村に別家し、藍商、酒造業、質商を営む、天保4年の酒造株所持名面によると当主秋田忠太郎は3株を所持し、うち一株が足代村秋田源次郎の板礼である事から別家当初から酒造業を営んだと考えられる。史料により確認出来る造酒潰米石数は享和元年は米200石、文化3年は米300石である。同家は八幡街道沿いにあり、城下から第十に向かう大守(藩主)等がしばしば立寄っている。秋田家文書によると、文化12.2.8 大守様上郡筋順国の途次小休、文政4.2.9 大守様北方筋への途次御昼休、文政11 大守様鷹野への途次雪の為御入、天保2.3.28 光姫様 熊谷寺ヘの途次お昼人数51人、とある。また同家は藩の中老、長坂三郎左衛門と特に密接な関係があった様で興源寺にある長坂家8代由門、9代由通の墓碑の水盤にそれぞれ秋田猪十郎、秋田忠助の名が刻まれている。

 秋田一族関係略年表
明暦4年(1658) 壱家 間人 伊兵衛(38) 高合17石6斗2升2合、壱人 弟 久右衛門(25) (明暦4年足代村棟付帳)
延宝2年(1674) 壱家 間人 伊兵衛(55) 高17石2斗6合、小家 伊兵衛弟 久右衛門(42) 高なし (延宝2年足代村棟付帳)
享保6年(1721) 壱家 百姓 安兵衛(57) 高18石9合8勺、小家 安兵衛従弟 作兵衛(52) 高なし 但し作兵衛の惣領三之丞(24)が小家を放れ、百姓 壱人 三之丞 助任町円周学弟子として各別に記帳されている。また安兵衛はこの年には五人組役を務めている。 (享保6年足代村棟付帳)
享保11年(1726) 三之丞が先規奉公人金丸和右衛門の家督相続の養子に入る。名目だけの為、文化の棟付改の時引戻されている。 (文化10年足代村棟付帳)
享保18年(1733) 8月 足代八幡宮の神事、祭事の運営について民主化論争が起こる。改革派の中心人物に善之丞の名がある。 (祭礼菰敷出入目安返答写)
 11月18日付の文書から秋田源次郎が取立人、安兵衛が五人組を務めている事が知れる。 (五年切売申田地書物之事)
寛延3年(1750) 7月 秋田源次郎 高14石1升1合とあり、善之丞は五人組役を務めている。この文書により秋田源次郎は少なくとも上記以上の高を所持していた事が知れる。 (一宮記兵衛宛足代村御請帳)
宝暦5年(1755) 6月11日 秋田源次郎 西川田村住友嘉七郎より妻(きと)名儀で酒造株、酒造道具を譲り受ける。 (住友家記録)
宝暦12年(1761) 3月13日 秋田源次郎妻 子供3人と共に伊勢神宮に出立、4月20日帰着 (住友家記録)
明和2年(1765) 秋田源次郎 藩より御銀主に任じられ勤中小高取格となる。 (文化10年足代村棟付帳)
明和4年(1767) 1月9日 秋田源次郎 御銀主として初めて藩主にお目見する。 (住友家記録)
安永2年(1773) 8月吉日 秋田源次郎高可 足代八幡宮へ御神燈を寄進する。 (足代八幡宮に現存)
安永5年(1776) 鹿之助 冥加金17両を献じ、長坂三郎左衛門拝知頭入百姓から譜代家来となる(三好郡誌)。善之丞も金子を指上げ長坂三郎左衛門の譜代家来となる(文化10年足代村棟付帳)。この頃、源次郎高可の子佐助が名東郡芝原村に別家する(芝原秋田家棟礼)。
安永9年(1780) 御銀主組合構成員(全51名)の内に秋田源次郎の名有り (『阿波藩民政資料』)
天明3年(1783) 8月 秋田源次郎高可 昼間村に出店を設け酒造業を営んでいる事を証す史料あり。 (昼間村史)
天明4年(1784) 秋田源次郎高可 藩に追々銀百六貫(約1760両)を上納した功により、長坂三郎左衛門の頭入を抜かれ屋敷高11石2斗の小高取となる。 (文化10年足代村棟付帳)
 3月19日 秋田源次郎高可没 享年87才
享和2年(1802) 秋田織右衛門 娘たかを別家させ昼間村西分の造酒業を継承さす (文化10年足代村棟付帳)
文化元年(1804)石井村 秋田清左衛門 関東売藍仲間売場株制定(36名跡)の一員として参画、町人名 阿波屋清左衛門、出店 深川佐賀町 (文化元年6月 関東売藍仲間定書帳)
文化12年(1815)? 12代藩主蜂須賀斉昌 順国の途次 秋田庫農介宅に宿泊する。
(昼間福田家文書)
文政元年(1818) 芝原村 秋田猪十郎 長坂三郎左衛門の御用人格となり紋付上下を拝領する。 (芝原村秋田家文書)
 9月3日 小高取秋田織右衛門孝祖没 享年75才
天保3年(1832) 11月25日 秋田庫農介 母の一周忌供養のため瑠璃光寺に光明真言二百万遍碑を建立する。 (足代瑠璃光寺に現存)
天保8年(1837) 10月 秋田庫農介 足代村庄屋を務めている。 (北島町三木家文書)
天保9年(1838) 10月 秋田庫農介 足代村組頭庄屋を務めている。 (北島町三木家文書)
天保13年(1842) 1月7日 小高取組頭庄屋 秋田庫農助宅 加茂山騒動で打こわされる。 (足代教法寺文書)
嘉永6年(1853) 12月15日 秋田庫農介高康没 享年55才
安政2年(1855) 3月 秋田芳太郎 足代村庄屋を務めている。 (壱ケ年切本米返売渡申畠地書物の事)
安政4年(1857) 11月 秋田鹿之助 長坂三郎左衛門に銀札3貫3百匁を用立てる。以後、秋田鹿之助 秋田英之助は屡々長坂家の調達金の要請に応じる。 (秋田道雄家文書)

 古文書類調査 河野 幸夫
 この度の総合調査において、私たちの班が採録した古文書類のうち、私が対象にしたものは、その中の数点にすぎなかったが、内容としては資料的価値の高いものであった。
 以下、それらの資料にもとづいて、二・三の問題について、私なりに考察してみようと思う。
 1 土州よりの流木問題
 この問題については、天保5(1834)年4月、三好郡昼間村の西尾源右衛門拝知の頭入(かしら入り)百姓で、同村の肝煎(きもいり)役を勤め、併せて同郡漆川村庄屋取立人を兼帯(兼務)していた福田利喜右衛門家に関する次のような記録がある。
 当村肝煎福田利喜右衛門家之義ハ数代五人与(ごにんぐみ)役相勤 祖父七郎代中御代官速水永左衛門様■北方七郡流木方御用被仰付五人与兼用任 出水の砌ハ流木為見分御用川長筋村々江罷越御用相勤罷在■処 親政之丞代中土佐材木御手流ニ相成■砌大西御代官坂野惣左衛門様流木方御奉行河野常太郎様……御出郷被遊■ニ付政之丞義も出勤仕■様被仰付川長村々江昼夜廻勤仕御用方大切ニ相勤首尾能土佐材木御手流相済
 ―後略―

 これによって吉野川出水のたびごとに、土佐より流木があったこと、それらの流木の処理のため、北方七郡の流木方御用の役人がおかれていたこと、それらの役人は出水のたびに川長筋村々(吉野川沿岸の村々)へ出張して、その処理などに当たったことなどが知られる。
 なお、この土佐より流木に対する徳島藩の対応については、「御巡見使様御尋之節御答之株々書写 天保9年」(名西郡高原村元木家文書 石川重平氏報告)という、注目すべき資料がある。それによると、
 「土州よりの材木相流之義は…出水等御座■節田畠井関等相損ジ下々殊之外迷惑仕…」とあり、幕府の巡見使から流木問題についての下問があった場合には、阿波の者たちは大へん迷惑していると答えるよう、徳島藩から通達している。
 この通達でもわかるように、吉野川では出水のたびごとに多量の流木があって、阿波では少なからぬ被害があった。そのため藩では関係村々の庄屋や肝煎に、流木方御用を兼帯させて、その実態調査や処理に当たらせたことがわかった。
 2 予州よりの鉱毒問題
 これについても前掲の「福田家に関する古記録」の中に、
 当大守様御順国之砌ハ利喜右衛門病気ニ付次男弥尾介義秋田庫之介方御泊リ之砌御宿肝煎役相勤……其後予州銅水―件ニ付 公辺御役人様御通行之砌利喜右衛門義池田割場ニ而御用相勤……御巡見使様御出之砌割場ニ而御用相勤……後略……
とある。
 予州銅水一件とは、伊予国別子銅山から流れ出る水に鉱毒が含まれ、それが銅山川となって吉野川に合流するため、阿波でその鉱毒による被害を生じた事件をいう。当時、別子銅山は幕府の天領であったことから、その鉱毒問題について幕府からの役人が調査に来国(文政2年4月)した時の記録である。
 この問題に関しても、前掲「元木家文書」に公儀巡見使の下問に対する徳島藩の態度を示すための指示がなされている。その指示内容は、
 銅汁(銅の鉱毒を含んだ水)之儀は……予州ヨリ流出■川筋之義ハ不断銅汁相流先達而ハ吉野川筋ニ而諸魚もアガリ■程之義度々御座■ 近来右様之義も先無之■ヘ共降雨之趣ニヨリ■而ハ大雨ニ無之■而モ流出■事モ有之……いつ何時流出■義モ計リ難ク且平日とても目ニハ不相見■ヘ共、銅気ノ義ハ従已前ヨリモ多キ事ニ有之……
とあり、この鉱毒による被害が甚大であることを、幕府へ訴えるように指示している。しかし、この鉱毒問題に対する幕府の対応や徳島藩の対策については、今のところ資料がとぼしいので詳細はつまびらかではない。
 3 百姓一揆に関する記録
 これについても、前掲の「福田家に関する記録」の中に数多くある。
 ―去ル文政年中、東山村百姓共讃州へ越境之砌、東山村へ罷越夫■百姓共ヲ追懸讃州高松御領ヘ……庄屋との懸合御用相勤……十一月五日山城谷百姓共予州へ越境仕■ニ付山城谷へ罷越御用相勤翌寅正月十四日白地村へ罷越居申■処,井内谷騒敷趣ニ付東井川村割場ニ而御用相勤罷在■内,加茂山百姓共東井川村へ罷越夫ヨリ足代村へ罷越■砌数百人利喜右衛門宅へ罷越支度等仕平素仁気宣敷者ニ付百姓共之内ニハ一礼ヲ申罷帰■者も御座■様承り申■……東山村百姓共之内東井川村忠兵衛方へ数十人罷越■趣ニ付,弥尾六相配彼地へ罷越程能(ほどよく)相治罷帰,其余太刀野山中庄毛田村へ罷越御用相勤……略
と、連続して起きた百姓一揆に関する生々しい記録がある。その中で特に注目されることは肝煎役を務めた福田利喜右衛門が、日ごろから百姓達に対する平素の対応が適切であったため、決起した百姓達の中には、わざわざ福田家を訪問して、礼を述べて静かに引き揚げた者があったという一事である。
 このように上郡一帯の村々に百姓一揆や退散が瀕発した背景は、何であったのか、それを知る記録もあった。
 4 足代村の農業生産の実態
 これを解明する資料として、
(1)天明五巳年十月 「当夏就旱魃畠分反高毛附記上帳」
(2)天明五巳年十月 「御蔵所様江指上控」
という、ほぼ内容が同じの記録(綴帳)がある。
 それによると足代村の夏の畠作物とその作付反別は左表のとおりであった。
 この作付表によると、作付反別の多いものとして、大豆・粟(あわ)・稗(ひえ)の三つがあげられ、それに次ぐものとして琉球芋(さつまいも)とたばこがある。
 さらにそれらの作物が作られた畠地の等級をみると、どの作物についても最も低位の下畠がそれら栽培の中心になっていることがわかる。
 総じて上郡一帯の地域は、この足代村に見られるように畠作中心の農業生産基盤の薄弱はことが、やがて激しい百姓一揆を引き起こす基盤となったのであろう。
 ちなみに資料(2)の「御蔵所様江指上控」の末尾に、
 右之通相認役人中印形申請御蔵所様江指上■処其儘免米願之通被仰付相済■
  足代村五人組御取立人 喜右衛門
とあることを付記しておく。
 5 その他の古文書
(1)福田利喜右衛門職務出精に付、御当職より米二石下賜の覚書(天保15)
(2)村の決議に背き村外れにされた者が教法寺のとりなしで和解した時の誓約書(安政2)
(3)足代村に寺院建立の用材につき与頭庄屋五人組より流木方奉行所への申上覚(享保14)
(4)昼間村五人組高田伊三郎に対する勤中脇差を許す覚書
などがある。


 三好町の産業遺産   森本 嘉訓
 産業遺跡・遺物関係分布図(技術伝承を含む)
(1)二軒茶屋の宿場遺跡・石口(採石場) (2)杖立越 (3)東山峠 (4)樫ノ休場(茶店があったという) (5)森岡家の炭窯(現在生産中) (6)自家発電及び製米用水車遺構及び遺物・電灯記念碑 (7)布屋の渡し (8)大舟戸(平田船の港) (9)辻渡し(道路が残っている) (10)美濃田用水揚水施設 (11)西の池(記念碑) (12)小山の渡し (13)スミサシ製造吉岡家 (14)土井ノ池 (15)鬼瓦製作大西家 (16)赤池の渡し
 ※町内各所に見られるもの 1 石垣(石工の手に成るもの) 2 小規模な用水 3 炭窯 4 タバコの乾燥室(特に山分)
はじめに
 三好町における産業遺跡及び遺物について、文献調査及び町史編纂室においての確認により地図上にドットを落とし且所在一覧表を作成し(予備調査)、それに基づいて現地におもむき、観察、聞取り、計測、写真撮影、拓本採り等を行った。以下はその報告(紙数の関係で概略的)である。調査に御協力下さった関係各位に厚く御礼を申し上げます。
1.三好町の景観
 三好町は南に吉野川が西から東へと流れ、北には阿讃山脈の峰々が香川県に接している。吉野川の河岸段丘である洪積台地には桑園や畑作が営まれ、さらに下がった所の沖積地には水田農耕が盛んである。また昼間地区の小川谷川や足代地区の伊月谷、馬来谷等に見られるように多くの谷川が阿讃山脈を南北に切って吉野川に注ぎ、それぞれの谷合いにはタバコ畑が営まれ、三好町を代表する美しい景観の一つとなっている。
2.交通遺跡
 道路・鉄道網の整備以前、三好町での主要な交通手段は、吉野川の舟運・イカダ、陸上の牛車・馬車・人力運搬、また峠越え等があった。河川交通の遺跡として対岸への「渡し場」がある。昼間地区では、「布屋の渡し」「辻渡し」、足代地区では「小山の渡し」「赤池の渡し」があり、対岸の井川町、三加茂町各地との交流がなされた。特に「辻渡し」は通行量が多く、経験者の話では、牛車に500才位材木を積んだまま乗船ができたという。また吉野川水運の港として昼間地区に大舟戸がある。渡しの港も同様であるが自然の浜を利用したもので顕著な遺構は確認できなかった。(港への道・地名・伝承等が残存)
 峠越えでは、増川から二軒茶屋を通って香川県財田町へ越す道、杖立越、東山峠、樫ノ休場から塩入に越す道は葛篭部落や足代地区の各部落から人や物の交流がなされた。現在は以前より交流が少なくなったと伝えられるが、住居などの生活様式、民俗芸能・方言等に讃岐の影響が見られるという。婚姻関係(特に通姻圏)を調べてみてもその関係が伺われる。
3.水利遺跡
 北岸農業用水の開設以前、また昭和25年に美濃田用水が完成するまでは、三好町は水利の便が良くなかった。そのために小川谷用水をはじめとして、町内の小河川から小規模な用水が作られた。池では西の池と土井ノ池がある。西の池は1870年頃の築造と伝えられ、幾度も改良が加えられ現在堤長 280m、堤高5m、貯水量56300立方メートル、受益面積 17.8ha である。堤隅に記念碑が建てられている。土井ノ池は、堤長 40m、堤高5m、貯水量5200立方メートル、受益面積 8.9ha である。他に極小規模の溜池、山間部に小規模な用水が見られる。また、平坦部の用水は北岸用水の水利系に組み込まれ支線化しているものもある。
4.産業施設
 三好町の主要作物であるタバコの乾燥棟が、昼間の東山地区や足代山の各地で見られる。以前は燃料として薪が使われていたが現在はボイラーになっている。阿波葉の天日干し用の庭や吊す設備等も一種の産業施設でやはり山間部に多く見られる。タバコ乾燥施設の一例を示すと、石木地区のA家では、2×2間の建物(土壁=荒ぬり)の屋根部中央に小屋根を出して天窓とし、中ほどに中窓、下部に腰窓を設けて乾燥室としている。床は土を叩き締めたものである。葉タバコを乾燥する段になると4段15通りに葉を吊り下げ、中央部の床を少し掘り凹めて、6尺4方に3尺高(3寸角柱)の丁度コタツ状のものを置き、四方から針金を出しそれにトタン板を吊して、その下から薪を焚いて乾燥したという。
5.自家発電施設
 昼間の東山山分で電灯が灯ったのは、昭和22年頃でそれ以前はランプの生活であった。その労苦と感謝の念とを後世に伝えるため「電灯記念碑」が東山小学校の入口に建てられている。ランプの不自由な生活の中で、自家発電を試みた先人があった。貞安地区の大村文夫氏の祖父武助氏で氏は昭和初期、水車を使って精米・精粉業を営んだが、この水車の動力を利用して自家発電を行った。バッテリーによる蓄電もなされていたようである。現在水車やそれに伴う発電機具類は失われており、残存遺構として、用水跡、水車の下部の入る堀状の石垣遺構及び上部家屋が残されている。
6.技術伝承
 (1)鬼瓦の製作
 足代地区東原の大西寿男氏は「鬼瓦の名人」河津沢太郎の孫弟子に当たり、自宅の工房で鬼瓦の製作を続けている。
 (2)スミサシ
 スミサシは大工や石工が材料に印を付けるための道具で、現在三好町に三軒の製造業者があり、年間生産量推定100〜120万本、全国シェアの9割を占めるという。
 (3)炭焼(製炭)
 かつては三好町の山間部で数多くの炭焼が見られたが、現在は葛篭部落の森岡忠義氏がその伝統を伝えている。1窯の生産量は 12kg 入袋が30個である。
 (4)失われた技術伝承
 高度経済成長以後伝統的な技術伝承の多くは失われてしまった。三好町では特に一般的な技術の他に、豊富な竹材を背景に扇加工、阿讃山脈の材木を運搬する「ベタ引き」等が特長的である。
7.産業遺物収蔵施設
 中央公民館の資料室に農耕用具、養蚕用具、製茶用具、山林用具等が保存されている。
おわりに
 「生産なくして文化なし」と言われるように「生産」はすべての土台であり基礎である。三好町においてこれからもこの種の調査が行われ、保存が進むように願う。

 石造遺物調査   石川 重平
1  東山つづらの五輪塔
 東山村山頂の村落より西南に 500m ほど行った竹林の中に昭和五年に築造した木造の祠がある。五輪塔はこの祠の中に安置されている。村人の話によると、昭和の初期に畠の中から掘り出したものをここに祭ったという。村人達は新田義興の墓ではないかと言われ村人の信仰を集めている。五輪塔の総高は 61cm で水輪の中央に大日如来の坐像が彫られている。これは各輪に五大種子(大日如来)を刻るかわりに大日如来の尊像を刻したものであると考えられる。全体の形態的に見て、室町時代末期から桃山時代初期のものでないかと考えられる。材質は安山岩で全体に損傷はなく創建当初の姿であり、大輪の軒の厚さも厚く時代の特色をよく現わしている。何よりもこの五輪塔は他の五輪塔ではあまり見懸ない水輪に大日如来の尊像を彫刻していることで、水輪に大日如来の像を彫ってあるのは古式な五輪塔ではたまたま見懸ることもあるが、室町期の五輪塔では、私はここのものが初見で古式な形態の流れを残す資料として貴重な資料といえよう。
 図で示す如く全高が 60cm で塔として小形に属するが火輪の軒の厚さや、風空輪の曲線は古式な様式をとどめている。村人は新田義興の墓と言うが義興は南北朝時代の人でこの塔の製作年代からは約300年も昔の人である。
 いずれにせよ山村の孤村落の人達は常に客人信仰的な思想があり中央の貴族や豪族にあこがれを持ったことは間違いない。この塔と一緒にもう一つの五輪塔がある。材質も時代もやはり室町末期から桃山初期の建立と見て先ず間違いない。
2  経塚(一字一石?)
 経塚とは、経典を書写し、供養したのちこれを地中に埋納して、未來永劫に保存しようとの意図のもとに計画し營れた遺跡である。現在までに知られている経塚は北海道を除く全国各地に数多く散在しているが、これらの経塚の分布は幾時代かを経てのことであって、その発生は平安時代、おそらく11世紀の初めの頃と考えられている。その消滅は江戸時代のことであって、この間に造營の動機、目的、造螢集団、構築法など、思想的、社会的にも多くの面でさまざまな変遷をたどっている。したがって経塚を歴史事象として考える場合、その発生、展開、終結の順を追ってみてそこにはじめて、一つの文化現象としての発展過程が理解されるものであることはいうまでもない。
 石経を祭ってある場所は、昼間行常の柿畑の中を通り中ほどで南に行き大きな木の下に、直径3m、高さ1m ほどの河原石の石積がある。土地の人は、おがみ石、と呼んでいる。1個の石の大きさは、巾 15〜20cm、厚さ2〜3cm で一字一石経としては比較的大きな石を用いている。おそらくこの石の面に経文を墨書で書写したものであろうが、今は消滅していて読めない。石の大きさから見ると愛媛県の北條の経石と同じであるが、北條のは経文を陰刻してあり、此所のは墨書したものと考えられるので、やはり江戸時代の一字一石の経塚であろう。
 一字一石経は鎌倉時代ごろからあったと考えられているが、事実、江戸時代になってから、庶民の間に広く盛行していったところに、これらのもつ意味があったと思う。玉石の礫石に経文を書きつけること自体、従来の経塚造螢に比して、より大衆的であるといえよう。手近な材料で誰にでもできる形態であり、より多くの人びとの参加を可能ならしめるもので、一つの共同体で、多くのより多くの利益を満たすため、江戸時代の庶民の間で広く行れた、種々の祭祀と共通した基盤に立脚していたと思う。
3  東山のお庵さんの石仏
 此所の石仏は現在残っているものは9体である。その内仏名のわかるものは3体で、他の6体は磨滅がひどく仏名は判然としない。判明する仏像名は、阿弥陀如来、観音菩薩、地蔵菩薩の3体である。阿弥陀如来の像は、高さ 28cm 坐の幅 17cm で上品上生の印を結んでいる。光背には放射線状の円光光背が施されていて、製作技術も立派でいかにもキチョウメンに像刻している。製作方法は一つの石に像を浮彫に刻り出している。腕の良い石工の作ったものと見えて、表情もおだやかに刻まれていて美しく出来上っている。観音菩薩は右手に蓮華の花をもちこれも坐像である。像の高さは 29cm 坐幅は 18cm を測る。地蔵菩薩は両手を前で合掌する形で、両手の上に宝珠の玉をのせている。
 製作年代はやはり宝町末期から桃山時代のものと考えられる。像の高さは 33cm 坐幅 21cm 後世に頭部をセメントで補修している。おそらくこの9体の石仏は、もとは十三仏ではなあったかと思われるが、他の4仏は失っていて9体しか残っていない。

 三好町の峠みち   岡   泰
三好町の概要
 県北西部の三野町と池田町のはざまにあって、町の面積五十四平方キロの八十パーセントが山林。
 阿讃山脈から南流する伊月、黒谷原、小川谷の諸谷川の扇状地の段丘上に笠栂、法市、東山、増川の山村集落が点在する。
 樫ノ休場、東山峠、二軒茶屋などの峠みちが、讃岐の仲多度郡綾歌を結ぶ。
 県道鳴池線(大西本道)が本町を東西に通じ、鎌倉−室町期の城(塁)
  足代城(三好備後守)、東山城(大西備中守)、東昼間城(佐々木右京進)、田岡城(田岡刑部)、土器城(萩田久富)
 のある史跡に恵まれ、あまたの奇岩が立ち並ぶ景勝美濃田の渕がある。
 ここもまた町の過疎化は否めない。
一、峠(越)のみち
○東山峠(昼間越)
 標高677メートル
 光明寺−内野−東山−男山−仲南町塩入
 阿讃山脈を越えて讃岐に出るみちには、すでに藩政期に十三筋があり、牛馬は大抵通じたが、山のみちは狭少で悪路であった。阿波十三郡古図にみられる黒谷越、宮川内越、日開谷越、曽江谷越、野路内越は早い頃から特に重要なみちであって、これに次いで昼間越、大滝寺越、郡里越、太刀野山越、箸蔵越,西山越、まんだの峯越があった。南海治乱記(寛文三年癸卯春三月上弦)昼間山越
  三好郡昼間村本道より国境へ一里三十町。讃洲那河野山分七ケ村の内山脇村へ出る。
  境目より丸亀へ六里半。
 阿波御国根元記郡荘鑑(弘化三年庚戊)昼間越
  南海治乱記の記述と同じ。
 弘化年間昼間−東山間の改修(足代教法寺の過去帖)
  弘化三年十月廿四日より十一月二日まで昼間村地神より東山村貞安小見橋まで,道御造り被成候、東山村より人夫千八百人程出掛け、御郡代より御配候て、道造候。
 県道丸亀−三好線
  明治三十九年竣工。当時の村民の協力特に田村熊蔵、三原彦三郎等の苦心は永く銘すべきである。
 東山城(大西備中守)
  東山城は井ノ内谷の八ッ石城と共に、吉野川南北のおさえとして鎌倉期から室町期にかけての城である。山頂から槍の穂先、中腹から刀身、山麓から菊水の刻印のある武具が発見されている。大西備中守の守城となったのはそれ以後である。
   大西備中守。建武二年七月十二日付で田井ノ庄(三好町と井ノ内谷以西の三好郡)は西園寺家が管領することになり、庄官として差遣わされた。〔阿波国徴古雑抄所収西園寺家所蔵文書〕
  東山峠は塩のみち、山犬(狼)のみち、讃岐への逃散のみでもあった。
 塩のみち
  三好の山村へは瀬戸内から塩を入手しなければならなかった。そんなわけで東山峠は塩入峠とも言われた。峠を讃岐側へ下り立つところに、塩の市の立った塩入という部落がある。
 山犬(狼)のみち
  境目から丸亀へのみちはオオカミにまつわる伝承(三好郡歴史教歩)のあるところから、このみちが阿波への塩のみちであったことを裏づけている。
 讃岐への逃散のみち
  文化三年東山越境事件
  内野
   内野ダム。紺碧の水を湛えた湖畔は四季こもごもの美しう表情を見せてくれる。
  東山
   荷宿。阿波から藍、たばこ、薪炭、讃岐から米、塩、干魚と言ったものを持ち寄り交換して決して間違いが起らなかったという。
  鷲羽神社 祭神天日鷲尊
   天日鷲尊「粟國造祖天日鷲命新作木綿」〔神代記〕
    「天太玉尊率天日鷲命之様、求肥饒地、遣阿波国,殖設麻種」〔古語拾遺〕
  貞安
   大西部落は大西庄屋の開拓になるもので、なだらかな起伏に富んだ丘陵に山家が点在する。庄屋は代々大西であって近世初期の集落の旧態を留めている。
   大西祠には大西元武を祠っている。〔昼間大西系図〕
  男山
   「新田義広坂出合戦に利無之、父正利もろとも播洲に引き退き、后阿洲管領三好家に任之、四國に渡り、三好家の領地三好郡東山奥葛籠山に住する處男山八幡宮守護申し奉る為、地名を男山と改め云々」〔大谷家系図の大谷正信の条〕
   新田神社 祭神天照皇大神と新田義貞。阿波、美馬、三好郡の山分は北朝細川氏に対抗した阿波山岳武士の據ったところだけに、新田神社が数多く建てられている。
○樫の休場(七本杉)
 標高八六四メートル
 男山−葛籠−塩入
 中村の落合から葛籠に至る旧道は男山に沿って谷を渡ること八回、ひとたび出水時には男山に廻るか、引綱で渡る不便さであったが、明治三十二年から三十五年にかけて継続事業として、東山各名から夫役寄附を得て巾六尺の新道ができた。
葛籠
 掘り出された五輪塔二基、鎧のさね、刀の切先
 東山城に據って挙兵した新田義広は北朝方の細川氏の兵糧攻にあって落城、わずかに生き残った一族郎党と山の背伝いで葛寵まで落ちのびはしたものの、もはやこれ以上生きのびることはかなわぬと悟りついに自決した。〔三好郡歴史教歩〕
 平家の落人が小笠原長房の平家残党狩に追われて迷い来たものか。〔三好町史〕
 追われるものの哀史にちがいないが、こうした伝承はそれが虚構であれ、峠を生活の場とした人々のなかに定着した貴重な民俗遺産である。
峠の景観
 峠から見下す塩入り集落、野口ダム、満濃池、雲間に浮かぶ大川山の山姿はすばらしい一語につきる。
○二軒茶屋
 標高七三三メートル
 敷地−土取−柳沢−常楽−増川−二軒茶屋−財田町
 その昔、この杣道には樹木がウッソウと生い茂り、猪や猿が現われ、時に追剥が出没したと言う。しかし、峠名となった豆茶屋が立つほど人の往還が繁かったが、土讃線が開通(昭和四年)してからは人の歩く姿は全くなくなった。往古は柳沢、常楽、増川を結ぶ尾根みちであった。
土取
 円形堅穴式の住居跡やサヌカイト、緑色片岩の石器、土器,鉄器などが出土した。このことから石器末や弥生時代中期の生活跡を知る遺跡は本県に数少ない高地性集落の跡とされた。
柳沢、常楽
 かつて焼畑農耕の行われた出作小屋に定住した集落である。
増川
 増川の最奥部に近い標高五百メートルの小集落である。
 棚田、増川に沿った山あいの米のよく取れそうもない稲田にワラボテが立つ。米作りの魅力に今もなお心を引かれてのことか。
 鷲羽神社。 田井ノ荘のここにも鷲羽神社があると言うことは、忌部氏の祖となった天太玉尊が、孫の天日鷲尊と共に阿波の國を賜って麻の栽植をしたことで、阿波忌部の末孫に依って奉祀されたことを考えると、この地にも古代麻の栽植が行われていたとみなされる。
二、小村の里化
 峠みちが車道に変る。石造物が消える。山家の改築―峠みちのロマンが消える。

1)阿波郷土会理事(徳島市)  2)同副会長(徳島市)  3)同理事(鳴門市)
4)同名誉会員(石井町)    5)同会員(羽ノ浦町)


徳島県立図書館