阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号
三好町の神社建築

郷土建築研究班(郷土建築研究会)

  森兼三郎1)・富田真二2)
  松永佳史3)・原政仁4)
  龍野文男5)・松江純夫6)

1.はじめに
 三好町は吉野川左岸讃岐山脈の南麓に位置する。明治22年に昼間村と東山村が合併して昼間村に、昭和30年にその昼間村と足代村が合併してできた町である。吉野川平野の撫養街道沿いの足代と昼間が昔から栄えた。一方、昼間から北へV字形に讃岐への道中(二軒茶屋越えと東山峠)にあたるのが山間部の東山で、往時は旅館などもあり金比羅参詣りへの道として利用され賑わった。讃岐越えの道は、昭和の初期まで利用していたようである。
 私たち郷土建築研究班は、7月下旬より数日間を2班に分かれ、歴史のある三好町全域で46の神社の実態調査を実施した。そのうち7社の神社については配置図や平面図を添えて説明し、細部(虹梁(こうりょう)、大瓶束(たいへいづか)等)については写真等で、19社(155枚)の神社棟札の調査結果も含め報告する。なお時間的な制約から、寺院を含め細部にわたる調査が出来なかったことを反省材料とし、今後、機会があれば綿密な調査を行いたい。
 最後に、この調査には四国大学教授のC・M・ストレベイコ博士(ワルシャワ工業大学などで建築学や日本語、日本学を勉強。「日本の城」や「日本庭園」を著す)の協力があったことを付け加える。

2.三好町の神社概要
 神社建築の地域的な特徴や傾向の調査に重きを置き、数多くのデーターを得るため、ほぼ全社に近い46社を調査した。それをまとめたものが表1の調査一覧表である。
 旧社格から見ると、郷社は天椅立(あめのはしだて)神社(No.23)の1社のみで町内唯一の延喜式内社である。村社は八幡神社(No.1)、三所神社(No.33)、鷲羽(わしは)神社(No.40)、新田神社(No.43)の4社で、それ以外はすべて無格社である。
 この郷社・村社のうち、八幡神社を除く4社の本殿様式は、千鳥破風付入母屋造で軒唐破風の向拝を持つ。県下全般に(全国的に見ても)流造様式の多い中で、この比率は特筆すべき数値である。また、この4社は共に入母屋造の拝殿を備えており、石の間で繋がれていないものの権現造に近い華麗な風格を漂わせている。無格社の本殿様式はほとんどが流造である。細部の特徴は、繋海老虹梁(つなぎえびこうりょう)の代わりに手挟(たばさみ)を用いたり繋海老虹梁と手挟を併用したりと、手挟を採用しているものが目立った。また、百々路の荒神神社など二、三の神社では、木階(きざはし)(木口階段)の中央部を切り落として(側面から見ると階段が付いているように見える)見世(みせ)棚造風にしているが、今まで調査してきた他の市町村では見かけなかった方法である。しかし、一点で支えるため木階が不安定となり耐久上に問題が残る。以上、46社の本殿様式は、流造35社(うち見世棚造17社)、入母屋造7社(うち千鳥破風付4社)、切妻造1社、石造2社・陶器造1社である。
 拝殿は46社のうち35社が備えており、その様式は入母屋造27社、切妻造7社、コンクリート造1社と、入母屋造が7割強を占めている。本殿同様、他の市町村に比べ入母屋造が目立つ。また今回、社殿棟札も多数確認でき、その詳細は後述の「神社棟札」の項に記すことにした。
 鳥居様式を見ると、明神24社、鹿島2社、両部(りょうぶ)1社、台輪1社、注連縄(しめなわ)1社で、年代の判る中では天椅立神社の明神鳥居が文化8年(1811)で最古である。また、三好町では、境内で全く地神碑を確認することができなかったが、町内では境内にはなく畦道や辻などに立てられるのが特徴である。
 また、社殿の虹梁、繋海老虹梁、手挟、大瓶束などの細部については、ディティール写真を掲載し、実測した大斗(だいと)の縦横寸法と共に、建立年代を探る根拠として活用したい。
3.三好町の各神社
(1)八幡神社(調査一覧表 No.1)鎮座地−三好町足代字宮ノ岡3026番地
 [本殿]三間社流造、銅板葺
  身舎(もや)−円柱、切目長押(なげし)、内法長押、平三斗(和様)、台輪、二軒繁垂木(しげだるき)、大虹梁(こうりょう)、額(天保10年)、妻飾(つまかざり)二重虹梁大瓶束笈形(こうりょうたいへいづかおいがた)付、中備彫刻蟇股(なかぞなえかえるまた)
  向拝―角柱、虹梁型頭貫(かしらぬき)木鼻(龍)、繋海老虹梁、中備彫刻蟇股、手挾(たばさみ)、擬宝珠(ぎぼし)高欄三方切目縁、腰中備蟇股、脇障子(彫刻)、木階(きざはし)(木口階段)
  千木(ちぎ)−千木先垂直切
  堅魚木(かつおぎ)−3本
 [拝殿]桁行7間×梁間3間、平入入母屋造、入母屋破風、本瓦と桟瓦併用葺、虹梁
 
この社は、三好町の最東端、撫養街道(県道鳴門−池田線)沿いの足代字宮ノ岡に鎮座する。創立年代は「吾妻鏡(あずまかがみ)」(*1)によると、元暦2年(1185)6月5日源頼朝が阿波国三野田保(荘園)(*2)を石清水八幡神宮(*3)に寄進した。当時分霊を祀ったのが起源とされている。祭神は、応神天皇、仲哀天皇の二柱。境内には昭和32年7月15日に指定された「なぎの木」(県の天然記念物−樹齢600年を越える)のほか楠、銀杏、が林立する。
 なぎの木の横の木造の明神鳥居をくぐると、正面に平入り入母屋造の中央に一段低く入母屋向拝が付設され、幣殿、祝詞(のりと)殿、玉垣で囲われた本殿へと続く。拝殿向拝の組物は平三斗で虹梁木鼻には彫刻が施されていない。これは年代とは関係なく内部の仕上げ同様、簡素な造りによるものと推察される。内部天井は格天井でその格間に絵が書かれているのは良いが、天井が新建材(シナ合板)で造られ、白蟻(ラワン虫)の被害にあっている。早期に修繕しなければ主要構造部に被害が及ぶ恐れがある。本殿は本格的な三間社流造で、組物、彫刻の彫りも深い。ただ本殿の基壇、腰付近は新建材によって囲われており、本殿の立派な造りを拝むことができないのが残念であり撤去を望む。境内には明和3年(1766)、安永2年(1773)天明8年(1788)寛政9年(1797)の御神燈、天明年間(1781〜1788)の狛犬、宝暦2年(1752)の手水鉢などが奉納されている。
(*1)鎌倉時代の史書−52巻からなり、鎌倉幕府の事跡を変体漢字文で日記体に編述、1180年から前将軍宗尊親王(第88代後嵯峨天皇の皇子で母は平棟子)が幕府の要請に応えて皇族将軍として帰京(鎌倉)に至る87年間の我国最古の武家記録文
(*2)今の美濃田
(*3)京都府綴喜郡八幡町に鎮座する大社
(2)若宮神社(調査一覧表 No.19) 鎮座地−三好町昼間字宮ノ元315番地
 [本殿]一間社入母屋造、縋(すがる)破風、銅板葺
  身舎−円柱、切目長押、内法長押、尾垂木(おだるき)二手先詰組(つめぐみ)、二軒繁垂木
  向拝−角柱、刎(はね)高欄四方切目縁、中備彫刻蟇股、背面隅行障子(鷲)、手挟、虹梁型頭貫木鼻、木階(板階段)
  千木−千木先垂直切
  堅魚木−2本
 [拝殿]桁行5間×梁間2.5間、平入入母屋造、桟瓦葺

 この社は吉野川沿岸部に当たる昼間字宮ノ元という地にあり、神武天皇の御子、神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)(綏靖(すいぜい)天皇)を祀る。明治26年罹災に合う。
 配置は、大正8年(1919)の明神鳥居より一直線上に拝殿・幣殿・本殿と並ぶ。拝殿は平入り入母屋造桟瓦葺、壁は漆喰塗りで比較的新しい。本殿は一間社入母屋造で、縋破風の向拝を持つ。また、切目縁は四方に廻り、一対の背面隅行障子には透かし彫りの鷲の彫刻が施されている。軒組は尾垂木を用いた二手先詰組で構成し、腰組は縁葛(えんかずら)の下に斗(ます)を詰組したり指肘木(さしひじき)を用いるなど装飾的である。
 境内には、山桃、楠、銀杏、杉等の樹木が建物に並行して植えられている。
(3)天椅立(あめのはしだて)神社(調査一覧表 No.23) 鎮座地−三好町昼間字宮内3266番地
 [本殿]三間社千鳥破風付入母屋造、軒唐破風、銅板葺
  身舎−円柱、切目長押、内法長押、尾垂木三手先、軒支輪、妻飾猪子扠首(つまかざりいのこさす)、台輪、二軒繁垂木
  向拝−角柱、虹梁型頭貫木鼻、中備彫刻蟇股、手挟、擬宝珠高欄四方切目縁、背面隅行障子、木階(板階段)
  千木−千木先垂直切
  堅魚木−5本(主棟3本、千鳥破風1本、軒唐破風向拝1本)
 [拝殿]桁行6間×梁間3間、千鳥破風付平入入母屋造、大唐破風、桟瓦と本瓦併用葺、角柱、虹梁頭貫木鼻、一軒角垂木
 この社は吉野川沿岸部に当たる昼間字宮内という地にあり、三好町唯一の延喜式内社である。昼間地区の他の神社はすべてこの社の摂社になる。現在の本殿は明治38年(1905)、拝殿は明治初期の建立で、伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱を祀る。
 配置は南に位置する文化8年(1811)の明神鳥居から、一直線上に拝殿・幣殿・釣殿・本殿と並ぶ。
 本殿は間口三間奥行二間の千鳥破風付入母屋造で、軒唐破風の向拝を持つ郷社にふさわしい堂々とした建物である。切目縁は四方に廻り、一対の背面隅行障子には透かし彫りの彫刻が深く刻まれている。軒組は尾垂木や軒支輪を用いて華麗な三手先を構成している。町内の神社での軒支輪採用はこの社だけである。また、向拝には繋海老虹梁を用いず手挟を採用している。
 拝殿は間口六間奥行三間の千鳥破風付入母屋造で、調査中(平成4年7月28日)幣殿と共に屋根葺替え工事の最中であった。工事前はすべて本瓦で葺かれていたが、向拝部分のみ本瓦とし、他は桟瓦に葺き替えられた。また、拝殿は三方に切目縁を廻し擬宝珠高欄を付ける。大唐破風の向拝は二本の角柱で支え、装飾の少ない直線的な虹梁が三方に廻り、虹梁中央の装飾は蟇股ではなく斗拱(ときょう)を用いている。社殿以外では、文化2年(1805)の狛犬、寛政4年(1792)文政3年(1820)天保2年(1831)の灯籠、文化6年(1809)の手水鉢などがある。
(4)三所神社(調査一覧表 No.33) 鎮座地−三好町東山字増川268番地
 [本殿]一間社千鳥破風付入母屋造、軒唐破風、銅板葺
  身舎−円柱、切目長押、内法長押、頭貫木鼻、尾垂木三手先詰組、台輪、妻飾猪子扠首、二軒繁垂木
  向拝−角柱、虹梁型頭貫木鼻(獅子)、阿麻(あま)組、中備彫刻蟇股、手挟、刎高欄四方切目縁、背面隅行障子(松と鷲)、木階(板階段)
  千木−千木先垂直切
  堅魚木−4本(主棟2本、千鳥破風1本、軒唐破風向拝1本)
 [拝殿]桁行4.5間×梁間3間、平入入母屋造(神輿庫(しんよこ)、流し場増築)、桟瓦葺、向拝なし

 この社は吉野川の支流増川谷川上流の東山字増川という地にあり、町内旧村社4社のうちの1社である。創立年代は不詳であるが、町誌によると「寛保改神社帳」に「東山村三所大明神、神主昼間村近藤若狭太夫」とあり、寛永3年(1636)11月11日の棟札がある。祭神は瀬織津姫(せおりつひめ)神、速秋津彦(はやあきつひこ)神、速秋津姫(はやあきつひめ)神の三柱を祀る。
 社殿は高台に位置し、明神鳥居を潜り37段の石段を登ると、一直線上に拝殿・幣殿・本殿と配置されている。拝殿、幣殿は簡素な造りであるが、本殿は小規模ながらも、尾垂木をふんだんに用いた三手先詰組や、二手先の腰組で構成しており、小脇板・木鼻・手挟・背面隅行障子・縁下などに彫りの深い彫刻が施されている。
(5)鷲羽(わしは)神社(調査一覧表 No.40) 鎮座地−三好町東山字貞安77番地1
 [本殿]三間社千鳥破風付入母屋造、軒唐破風、銅板葺
  身舎−円柱、切目長押、内法長押、尾垂木三手先、台輪、二軒繁垂木
  向拝−角柱・頭貫虹梁型木鼻(獅子)、中備彫刻蟇股、手挟、刎高欄三方切目縁、脇障子(唐獅子)、木階(板階段)
  千木−千木先垂直切
  堅魚木−3本(主棟2本、千鳥破風1本)
 [拝殿]桁行6間×梁間5間、千鳥破風付平入入母屋造、軒唐破風、銅板葺
  向拝−角柱、縋軒唐破風、大虹梁、二重虹梁頭貫木鼻(獅子)、平三斗、中備彫刻蟇股、擬宝珠高欄三方切目縁、
 この社は、昼間より北方約5kmの東山字貞安にあり、創立年代は不詳であるが、当初、東山小学校の北側に鎮座していたが昭和40年に現在地に移転し、同62年に屋根が銅板に葺き替えられた。祭神は天日鷲(あめのひわし)命である。
 神域は御影石の玉垣で囲まれ、明神鳥居を潜ると正面に千鳥破風付入母屋造、縋軒唐破風の向拝を備えた拝殿が見える。向拝の大虹梁、二重虹梁、中備蟇股などの彫刻の彫りは深いが、拝殿内部の仕上げは組物もなく質素な造りで建具も新しくアルミサッシが入れられている。本殿は本格的な三間社の権現造風の丁寧な造りで向拝には手挾が付設され繋海老虹梁はない。腰は板壁で切目縁の縁葛を束と束から出た指肘木で受けている。この工法は構造的にはさほど意味は無く、意匠的要素が強い。境内には明治27年と天保7年(1836)の手水鉢と春日灯籠が奉納されている。
(6)新田神社(調査一覧表 No.43) 鎮座地−三好町東山字男山710番地
 [本殿]二間社千鳥破風付入母屋造、軒唐破風、銅板葺
  身舎−円柱、切目長押、内法長押、出三斗、台輪、二軒繁垂木
  向拝−角柱、虹梁型頭貫木鼻(龍)、中備彫刻蟇股、阿麻組、繋海老虹梁(獅子)、手挾、擬宝珠高欄三方切目縁、脇障子(鶴)、木階(板階段)
  千木−千木先垂直切
  堅魚木−3本(主棟2本、千鳥破風1本)
 [拝殿]桁行4.5間×梁間2.5間、平入入母屋造、桟瓦葺、一軒角垂木、半三方切目縁

 この社は、小川谷川につづら谷川が合流する辺りにあり、新田大明神、新田廣田神社、西宮大明神の三社を合祠する。創立年代は不詳であるが、保存されている31枚の棟札のうち最古のものは寛永5年(1628)5月2日と古い。祭神は天照大神、新田義貞公である。
 鳥居は明神鳥居で大正9年に造られており、17段の石段を登ると左手方向に拝殿が現れる。拝殿には向拝はなく平入り入母屋造の簡素な造りである。本殿は二間社千鳥破風付入母屋造で軒唐破風の向拝を持つ。脇障子、懸魚(げぎょ)には松に鶴の彫刻が施され、丸桁(がぎょう)にも雲形の絵様が施されるなど優雅さを醸し出している。銅板の屋根は平成4年4月に葺き替えられている。
(7)山祇神社(調査一覧表 No.45) 鎮座地−三好町東山字葛篭203番地
 [本殿]三間社流造、銅板葺
  身舎−円柱、切目長押、内法長押、頭貫木鼻(花型)、平三斗、台輪、妻飾虹梁大瓶束笈形、二軒繁垂木
  向拝−角柱、虹梁型頭貫木鼻(獅子)、阿麻組、繋海老虹梁、手挟、刎高欄三方切目縁、脇障子、木階(板階段)
  千木−千木先垂直切
  堅魚木−2本
 [拝殿]桁行5間×梁間3.5間、千鳥破風付平入入母屋造、軒唐破風(向拝柱なし)、銅板葺、虹梁、阿麻組、蟇股

 昼間より県道、丸亀三好線を約5km ほど北へ進むと東山小学校に着く。さらに奥へ進むと二手に分かれ道を右にとり葛篭(つづら)1、2号の橋を渡ると、ツヅラの如く曲がりくねった山道にさしかかる。数分で集落が見えて来るが、ほぼ中央付近に山祇神社が鎮座する。大山祇命を祭神とする神社で、創立年代は享徳年間(1452〜1455)と伝えられている。
 現在の本殿は棟札から昭和5年の建立と思われる。拝殿は千鳥破風付平入り入母屋造、銅板葺きで、向拝は軒唐破風(向拝柱はない)が付設されている。向拝下部には向拝梁を受ける平三斗と直線的な和様肘木からなり、その中央に蟇股がある。本殿は三間社流造で三室に別れ、左より、山神、山祇大明神、大神宮の室からなる。
 境内には御影石の明神鳥居と元治2年(1865)の狛犬、文久3年(1863)の灯籠、明和9年(1772)の庚申塔などが奉納されている。
4.三好町の社殿ディティール
(1)虹梁(こうりょう)

(2)海老虹梁(えびこうりょう)

(3)手挟(たばさみ)

(4)大瓶束(たいへいづか)
5.三好町の神社棟札
 建築史研究のうえで棟札は、建物の調査と共に重要視しなければならない。大部分の棟札には建物の建立、再建、修理、葺替などの上棟年月や、大工をはじめとする職人の名前が記されていて建物の歴史、造営状況などを知ることができる。このために、棟札は建築史学ばかりでなく歴史学、民俗学、宗教考古学でも注目されているのである。
 社寺の棟札は民家の棟札のように、棟木に直接打ち付けられていたり、縄で縛られて囲炉裏の煙で真っ黒に煤けていることがない。そのほとんどの棟札が本殿内に納められていることが多い。そのためにどの建物のものか判断することができない場合もでてくるのである。
 棟札の形態は民家のものよりは大きく、厚みは年代との関係が深い。古いものは割板で薄くチョンナばつりで表面が仕上げてあるために、厚さの不均一なものが多く、年代が新しくなるにしたがって厚くなる。形状は尖頭型が多く、たまに平頭型や丸頭型が見られ、上部より下部の方が狭くなっている。また棟札の隅を削りまたは切り欠く「鬼門切り」がされているものが多い。これは魔除を意味し宗教的要素が強い。祈祷札を兼ねている棟札とくに仏式のものでは、古来賓銭と同じ意味で銭貨が供えられてきた。我国の硬貨に穴あき銭があるのはこういう風習があるのも一つの要因と思われる。その点、神社のものは銭貨をつけているケースが少ないのも大きな特徴である。
 材質については、松、杉、檜、みずきなどで、その内いちばん多く使われているのが杉である。材料が何処でも揃い加工がしやすいことからと推察され、16世紀後半になって使われはじめ、18世紀以降は圧倒的に多くなり全体の6割を占める。松の歴史は古く現代にいたるまで広く使用されている。次に多いのは檜であるが20世紀に入ってからは「ヒノキ−火の木」の禁忌の考えが強まり使用頻度は少なくなった。
 三好町の神社棟札の調査を今回実施し、19社(うち2社は公民館管理)155枚の棟札を確認した。調査した各神社の最古の棟札と枚数は以下の通りである。
 その結果、馬岡神社の棟札が享禄2年(1529)で最も古い。調査した棟札を年代順に並べてみると以下の通りである。
 以上が三好町における神社の棟札である。この表により材料、寸法の変遷などがよく理解できる。長さは年代が古いものは長く、新しくなるにしたがって短くなっている。一方幅、厚みは逆に新しくなるにしたがい幅は広くなり、厚みは増す。
 形状は133枚(86%)が尖頭型で、14枚(9%)が平頭型、その他は丸頭型2枚、尖頭型頭切2枚、不明が3枚である。一方、下方左側を隅切り(鬼門切り)されているのが29枚、下方右側を切られているのが15枚、左右両切りされているのが1枚、傷んでいて確認できないのが7枚で何らかの形で切られているのが全体の31%と民家の数(80%)には及ばない。使用材料は松が46枚、檜・杉が20枚、そのほかに栂、欅、みずき、などが使われ一部では桐も使用されていた。
 なお奥森神社の棟札は、吉野川平野にはほとんど建てられなかった農村舞台(犬飼の舞台同様、舟底楽屋があった)のもので、昭和の後期に解体され、現在は集会場が建っている。

1)A+U森兼設計室主宰  2)富田建築設計室主宰  3)Y.M.設計室主宰
4)ガル・Space Design 主宰  5)龍野建築設計事務所主宰  6)井原建築設計工房勤務


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