阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号
三好町の民家

建築班

(日本建築学会四国支部徳島支所)
 四宮照義1)・鎌田好康2)・林茂樹3)
 速水可次4)・野口政司5)・西田功6)
 工藤誠一郎7)・姫野信明8)・

 中川俊博9)・C・M・ストレベイコ10)・ 

 呉莉莉(ウ・リーリー)11)

はじめに
 三好町の民家を大別すると、吉野川沿いの平野部(段丘部)の集落(写真1)と、阿讃山脈南斜面に分け入った吉野川支流の川沿いの谷や山の斜面地に点在する山間部の集落からなる(写真2)。今回の調査は7月28日の予備調査に始まり8月1〜2日の二日間集中して本調査を行ったが、数が多いため二班に分けての調査となった。建築班調査員は日本建築学会員を中心の上記執筆者の他、酒巻芳保先生、地元から佐藤馨氏の参加を得て13の物件を調査する事が出来た。

目  次
1.丸岡 弘家(うだつのある家) 昼間3239  移築大正13年
2.長谷川通家(玄関を持つ家) 昼間3241  安永6年(1778)
3.新田雅行家(隠し部屋のある家) 東山貞安307−1岸上
4.大谷一行家(煙出しのある家) 東山男山405
5.中川繁治家(山村農家) 東山増川340中野
6.宮田子ノ巳家(長屋門) 昼間33501−1山田
7.喜藤テルコ家(造り酒屋の町屋) 昼間3748  大正14年
8.高田喜六家(平野農家) 昼間3105  嘉永年間
9.大滝敬子家(庄屋の家) 昼間3134  文久3年(1863)
10.藤本政雄家(明り取窓のある家) 昼間336−1 宝永4年(1707)
11.宮田ツヤエ家(山村農家) 東山畑36
12.横関恒夫家(平野農家) 足代3054
13.その他
14.三好町民家の印象(1)
15.三好町民家の印象(2)
16.総括

1.丸岡 弘家(うだつのある家) 三好町昼間3239
 平野部の農家の点在する中に周りの建物とは少し趣の異なった建物がある。(図1−1)アプローチの南側道路に妻側を向けた高床で(写真1−1)、日本瓦葺入母屋造の屋根に二重軒を廻し、町並みから離れているのにうだつのあがったこの家は、かつては隣の茅葺民家(現長谷川家)の離れ座敷として渡り廊下でつながっていたが、分家して切り離された物である。元からここにあった訳でなく移築を繰り返しており、創建は土井の佐々木家(庄屋)、昼間の大滝家を経て大正13年(1925)現在地に落ち着いた。
 うだつは昔3箇所あったそうだが現在は南と北に分かれて1箇所ずつの2箇所である。また、高床は移築時にされたもので、創建時からのものではない。(写真1−2)
 間取りは(図1−2)8・6・8帖の3部屋続きで(写真1−3)共に床の間を持ち襖絵も見事である。表座敷は書院付きの本床で、釘隠しや欄間などからも金をかけた普請であることがうかがえる。座敷には南、東に廻した縁側がありその外にも外縁を持っている。 (林)

2.長谷川 通家(玄関を持つ家) 三好町昼間3241
 丸岡家と並んで建つ黒く塗られたトタン巻草屋葺の大屋根は長谷川家で(写真2−1)、小屋裏の棟札から安永6年(1778)建築であることが確認された(写真2−2)。当初丸岡家だったが昭和24年頃購入して入居したものである。裏(北)の離れや、西隣の丸岡家もかつては渡り廊下でつながれた離れであったことや(写真2−3)、主屋の規模が大きいことなど、かなり有力な家であったことがうかがわれる。(図2−1)
 主屋の間取りは式台のある本玄関を持ち(写真2−4)表ノ間、奥ノ間、中ノ間2室の4部屋が8帖間の六間取りの大きな家で、士族としての格式が感じられる。ウチニワにはカラウスやヒロシキがあった。
 裏の離れ(写真2−5)は高床で、下は倉庫になっている。
 主屋の小屋組の架構(写真2−6)は叉首組に束柱が立ち、叉首を支える梁が束柱の中を貫の様に十字に交錯して貫通している。 (林)

3.新田 雅行家(隠し部屋のある家) 三好町東山貞安307−1岸山
 新田家は、三好町中心の比較的平坦な丘陵に位置する。敷地は主屋を中心に前庭を南より倉、納屋、煙草の乾燥小屋、納屋、便所で取り囲んだ昔ながらの姿で残る(図3−1)。
 主屋は寄棟茅葺鉄板巻で(写真3−1)、周囲は平瓦葺の四方蓋(四方下)の庇を廻している。規模は間口九間・奥行き五間半で、間取りは六間取り、玄関構えを真中に取り、上手に上座敷(写真3−2)、下座敷を取り、下手の表に中の間、裏にオクの間二室をもつ格調ある庄屋構えの家である(図3−2)。
 新田家は祖父の代に、この家の北方にある滝久保より移住。建築年代は棟札がなく明かではないが、家の様式より江戸時代後期と推察される。
 屋根裏には、生活には関係しない「入ラズの間」と言われる隠し部屋がある(写真3−3)。主人の言うには、人をかくまったり、武器の収納に使用していたところ。広さは約二間×三間の部屋が玄関、オクの間の上部に位置していた。台所、カマドの上部は倉庫に使用、そのため上、下座敷は天井が高いが、玄関、オクその他の部屋は天井を低くヤマト天井(大和)にして、小屋裏のふところを高くして隠し部屋と倉庫を設けた。構造は下屋造り、小屋組は合掌組(叉首組)である。棟束はなく小屋筋違いは後ほど手を加えたものである。内部の造作は改造が多く、当時の様子とは変化している。 (鎌田)

4.大谷 一行家 三好町東山男山405
 大谷家は讃岐山地の南中腹、眺望の素晴らしい所に位置し、山の傾斜地を等高線上横並びに使用し配置されている(写真4−1・図4−2)。
 主屋は改造されて天井裏調査が行えず建築年代は特定できない。間取りはオク・ナカノマ・オモテ・シモノマの4間取りと推察でき、オブタを廊下に、カマヤを茶の間に改造していると思われる(図4−1)。屋根は茅葺き四方下で棟に煙抜きがある。ハナレ(写真4−3)は主屋の正面に有ったものを新宅として現在の所に移築されたもので、本玄関を持つ大工の技量を凝らした造りとなっている(図4−3)。 (速水)

5.中川 繁治(山村農家) 三好町東山増川340中野
 中川家は、三好町西部、池田町に隣接する増川地域の東斜面に位置する(写真5−1)。敷地には主屋のほか左手に納屋、右手に便所棟が建つ(図5−1)。
 主屋は茅葺鉄板巻きで、大屋根を軒先まで葺きおろしている。現在は3方に下屋をつけ軒先を改造している(写真5−2)。
 規模は間口六間・奥行き三間である。間取りは喰い違い四間取りで(図5−1)、右手にオクド、洗い場を建て増している。
 中川家は3代前に移住して来て現存の家に住む。建築年代は棟札がなく明らかではないが大黒柱、床の間がなく、内部の間仕切りが簡単で一見して仮設的に見え、一部の柱にチョウナ削りの跡が見られるなど古い要素が多く、また、間取り形式も18世紀前半〜中期に属すると推定される(美馬町の藤村家に類似)。
 次に構造は、柱割は1間を基準とし、小屋は合掌組(叉首組)である(写真5−3)、小屋組にカズラとしゅろ縄を使用している。棟束がなく、上屋梁は2間あり、改造が少ないため(図5−2)建築当時の様子がよくわかる。また、外壁は土の大壁、下地の小舞が竹ではなく、木の小枝を使用しシュロ縄で編む、棟札が無い等讃岐地方の影響がみられる。
 また、内法材等は杉材を使用している。 (鎌田)

6.宮田子ノ己家(長屋門) 三好町昼間33501−1山田
 この家は田岡城の一族(士族)の家であり、敷地南側の道幅1.1mの旧街道に面して長屋門が建っている(写真6−1・2)。主要道が屋敷裏(北側)に移ったため、現在は門の機能を失っており、牛屋として利用された形跡もある。建築年代は不明。桁行8間、梁間2間半、日本瓦葺入母屋造で、西側1間、北側半間が下屋になっている(図6−1)。
 主屋(写真6−3)は、四方蓋で、改造が多く、内部は天井を張っている。主屋は生活様式の移り変わりにともないそのつど改造されているが、この長屋門は利用されないことがかえってよく原型をとどめている。 (工藤)

7.喜藤テルコ家(造り酒屋の町屋) 三好町昼間3748
 喜藤家は、昼間の町を東西に走る旧街道の西の入口に建っている。
 広い敷地の中に、店造りの主屋、フロ、酒蔵など数棟の蔵、門などがあり(図7−1)、北西側に「吉森さん」と呼ばれる屋敷神が祀られている。また、座敷の西側に四国山地と阿讃山脈を借景にしたみごとな庭があり(写真7−4)、造り酒屋の往時の隆盛を今に伝えている(写真7−1)。
 家人によると明和年間(1764〜71)に徳島の富田町から移り住み、かつては「木藤」と称し、明治12年頃から造り酒屋を始めたそうである。
 現在の主屋の建築年代は、大正14年とされているが、残された家相図(写真7−2)によれば、それまでの家は天保10年(1837)には建てられていたようである。また、今回調べた門の棟札には天保12年(1839)と記されている(写真7−3)。主屋の玄関の欄間の細工や座敷の襖絵、釘隠しなど、この家を建てるに当たっての家人の意気込みが感じられる。
 また、酒蔵は2階建ての大きなもので、少ない柱材で広い面積を支えている。(写真7−5)。
 敷地西側と道路沿いの石積みには平地の少ないこの地方での共通の知恵が働いていることを感じさせる。 (野口)

8.高田 喜六家(平野農家) 三好町昼間3105
 高田家は新潟から落ちのびた武士の流れを引いており、寛保2年(1742)の位牌がある。
 学者も多く輩出し、井口貞夫氏や圓藤眞一氏も高田家と縁戚関係にあるそうである。
 屋敷東に長屋門があり(写真8−2)、門をくぐると右手に主屋(写真8−3)、正面主屋出入口脇に庭園に通じる中門がある(図8−1)。
 主屋に棟札が無いため、正確な建築年代は不明であるが、言い伝えでは嘉永年間(1848〜53)とのこと。消失した蔵の棟札は安政3年(1856)であったそうだ。
 主屋(写真8−1・4)は桁行7間半、梁間4間半、切妻造本瓦葺2階建(屋根裏部屋)で、四間取である(図8−2)。室内は天井を張って改造している。大黒柱はケヤキの7寸角、他の柱は栗で、一部チョウナ斫りが見られることや、建具が舞良戸であり建築年代が古い事が解る。
 座敷には床の間があり南、西に縁が廻されている。土間の出入口には大戸があり、傍らに2帖のヒロシキもあった。また、土間の一部に3畳の店があり薬の商いをしていた。
 明治初め頃の家相図によると中央部に小さいながらも玄関構えを持ち、上座敷、下座敷も記され、士族の屋敷構えがうかがわれた。 (工藤)

9.大滝敬子家(庄屋屋敷) 三好町昼間
 大滝家は、昼間の吉野川を見おろす高台(写真9−1)に建っており、主屋を囲む様にめぐらされた土塀の南側に四脚門の大名門(写真9−2)と南門が設けられている。主屋の東側には、日常生活のための通用門東門が設けられており、中庭の中門(写真9−3)とで四つの門がある。
 創建は寛永年間という話で、主屋は木造2階建て、桁行10間半、梁間6間の右勝手変形六間取りで、棟札は元禄9年(1697)文久3年(1863)の2枚が確認された。
 当家は、庄屋、造り酒屋、薬屋、油屋、藍商等の営歴がある豪商で、ミセ部分は現在部屋を造り天井を張っているが、昔は吹抜けで米俵、酒樽等が山積みされていたそうである。表ノ間は書院造りで、違い棚上部の天袋襖(写真9−5)には金絵が施されている。表ノ間の外周南、西面には濡れ縁が廻り(写真9−6)、鞍馬石の沓脱石を降りた中庭には茶室、離れ等が建っていたとの事。
 2階にも数室あるが、書院造りの部屋には、見事な水墨画の襖絵が描かれている。また、別室には1枚の引き戸の幅が1間という塗込戸の2間幅の押入がある。現在は改造されている部分もあるが、「あぶらや」という屋号で呼ばれていた当時の豪勢な雰囲気を持った造りである。 (中川)

10.藤本正雄家(明かりとりのある家) 三好町昼間336−1
 藤本家は昼間の東端に位置し、敷地の東側は馬木谷が吉野川に流れている。
 20年前まで住んでいた主屋と、その南側の現住宅及び数棟の納屋から構成されている敷地である(図10−1)。
 主屋は桁行7間、梁間5間、ワラ葺き四方下屋根で、(写真10−1)宝永4年(1707)10月17日の棟札がある(写真10−2)。
 古い家でありながら二間つづきの8帖の座敷があり、その奥には竹スノコの床のオサンノマがある(図10−2)。また、元士族であり、昔玄関があったそうである。ゲンカンの下には大きな穴があり、イモグラとして使用していたそうである。小屋組は叉首組でワラ葺、そして小屋裏に明かり窓があるのが大きな特徴である(写真10−3,4)。下屋の瓦にはミツイチョウの家紋が入っている。 (西田)

11.宮田ツヤエ家(山村農家) 三好町東山畑36番地
 宮田ツヤエ家は、三好町行常より馬木谷に沿って阿讃山地を北側に入った標高 350m 程の山の東南斜面に建っている(写真11−1)。この家は、山間地にある代々農業を営むごく一般的な山村農家であり、左勝手中ネマ三間取りの主屋、並列して納屋、離れて浴室・便所(写真11−2)の計3棟で形成されている(図11−1)。
 山の斜面を切り開いて建てられているので、家の後側は石垣積みになっており、軒先が石垣の際いっぱいまで接近している。前庭も前方は、石垣積みになっており、1間の下屋と幅4m 程の農作業のできるスペースが取られている。
 間取りは、床の間のあるオモテ、居間として使われているナカノマ、ウラ、オクノマ、カマヤ、ニワで構成されている中ネマ三間取り形式である。
 20年ほど前に内部の改装を行ったとの事で、天井が張られており、残念ながら棟札や小屋組の確認は出来なかったが、文正5年の御位牌(文正は1年のみのためたぶん次の応仁の次の文明1年・1470)があるので、500年余りの歴史のある家である。 (姫野)

12.横関 恒夫家(平野農家) 三好町足代3054
 横関家は讃岐山地の南裾野に位置し(写真12−1)、家の歴史としては345年、五人組家柄であった。また、三所の宮を横関家が京都から持ってきたといわれている。建築当時棟札は京都から取り寄せる習わしとなっており、費用の面から取り付けておらず建設年は不明である。
 間取りはオク・イマ・カマヤ・オモテ・ナカノマの五間取りで(図12−1)、天井裏に入らずの間が有りオクノマから出入りをしていた。ナカノマはトリタテノマといわれ年貢を取り立てる部屋として使用されていた。また、天井裏への空気抜きが有る(写真12−3)のが特徴である。
 オブタは昭和25〜6年頃改造されている。(元柱までの出4K→後5K)屋根は茅葺きトタン巻きで四方に下屋が有り瓦葺きになっている(写真12−2)。 (速水)

13.その他
◇秋田 正美家(洋風建築)
 昭和6年に建てられた歯医者さんの家であったが、現在は三好郡河川漁業共同組合に使用している。西松建設で北京に駐在していた人が設計したと秋田氏は言う。外観は明治時代に伝えられた西洋ハイカラ風で窓も洋風の「上げ下げ窓」となっており、木造モルタル塗りである(写真13−1・2)。この様な建築様式は明治・大正・昭和の初め頃まで官公庁の建物や医家の建物に採用されたが、老朽化により改築され、現存しているものは少なくなっている。(四宮)
◇帆立てを棟にのせた家
 三好町の民家には棟に帆立(ホタテ)を載せたものがみられる。火災防止のまじないと言われている。
◇2段茅葺き屋根
 2段茅葺き屋根は半田町に多く見られ三好町にも数件見られた。

14.三好町民家の印象(1)
  日本建築の現場調査との会合
 去年八月一日・二日に日本建築学会徳島支所と阿波学会阿波のまちなみ研究会による、徳島県三好郡で伝統的な郷土建築の現場調査が行われた。その調査の招待を受け、私もポーランドの建築家として参加した。私にとって、日本の専門家のお陰で、日本の民家と社寺建築を近くから見ることが出来る、それは貴重な体験であった。
 全員の参加者は(徳島県の建築家たち18名)2班に分かれて、日本建築学班(10名)と郷土建築研究班(8名)になった。調査の目的は三好町全域の民家と社寺建築であった。社寺建築の場合、三好町内の46社の中で、今まで歴史的な研究記録がない17世紀の6社の調査が行われた、自分自身で一日目に民家班に、二日目に社寺班に参加し、両班の調査の体験をした。
 最初から最後まで(即ち前以て準備や仕事の組織や調査方法や皆様の研究熱心等)全てのことが私はとても気に入った。準備については、皆参加者がまむしの血清保管場所の案内書(住所と電話番号)や元号索引やメートル法換算表等も配布してくれた。組織に関しては、初めの集合から最後の解散まで、全ての予定したことが(輸送・宿泊・食事)時間通り・スムーズに達成した。調査方法も規則にかなっており、23項目表を元にそれぞれの拝殿や本殿等の構造・規模・屋根等について、細かいところまで分析が出来る程、質問が多かった。郷社と村社の場合は、平面図だけではなく、断面図も出来た。
 私以外の皆様が日本人の方で、日本人として一生懸命仕事に取り込んでいた。
 以前にポーランドで、私がワルシャワ工業大学の建築学部の学生と一緒に夏の実習をしに地方まで行ったことを思い出した。随分違う印象の様な気がした…建築の同じ様な調査でも結局やり方はやっぱり…ねえ。ポーランドの国民が、日本の方々に似ていればいいなあと私は思った。
 しかし、日本側を褒め殺ししない様に、一つだけ言わせて頂きます。ポーランドで建築教育を受けた者として、日本人の方々が特に建物(民家や社寺)を中心にし過ぎた調査をしたのではないかと私は思う。近所や周囲との関係、景観評価、自然・人文の景観のバランス、環境保護の指定に関する関心も必要ではないだろうか…建築スケールよりもっと広い、地方計画の対応が必要ではないだろうか… (ストレベイコ)

15.三好町民家の印象(2)
 昨年の夏休み、阿波学会の会員皆様のおかげで、徳島県三好町の民家調査活動の機会に恵まれました。日本へ来て三年目になった私は、日本の農家の生活の様子を初めて実際に見ました。
 三好町は徳島県の西にある風景が美しい町です。そこの家々は大部分山の上に造られています。森とタバコや桑の畑に囲まれて、新鮮な空気と木の香りに恵まれ、真夏の季節でも少しも暑く感じませんでした。
 二日間のうちにいろいろの家を調査した結果、建築に対して素人の私でも専門家の話を聞いているうちに、大いに興味を持つようになりました。時には日本式の建物の合理性に感心しました。例えば、日本の和風住宅の室内は、大体障子や襖で仕切られていて、それらを全部とっぱらうと、家中が「一室」のような状態になり、冠婚葬祭の時としても便利だと思います。日本式の家は基本的には「一室住居」だということを理解できました。一室住居の室内を障子や襖という一種の「目隠し」により、いくつかのコーナーに仕切って、家族が生活しているのです。それは、日本の住まいは空間分割が大きな特徴だと思います。
 日本に来てからずっと都市に住んでいる私は、まわりの住宅を見るとほとんど狭く、また、建物と建物との間隔はほんの少ししかなく、まるでびっしり並んでいるようですが、農村の家は広々していることにびっくりしました。建物の調査の結果、家全体の様子を見ることが出来て、日本人の実際の生活様式も理解できるようになりました。調査した家はみんな家中の一番良いところに仏壇と神棚を置いてあります。そしてどんな小さな村でも神社があることに驚きました。同じ部屋の中にテレビなど現代文化と仏壇、神棚のよう古代文化が同居する微妙な雰囲気は世界中日本しか無いのではないでしょうか。
 僅か二日間でしたが、町の人々の親切と阿波学会の会員皆様の熱心な研究心にはとても感動しました。毎日下宿と大学の往復ばかりの私にとって、とても楽しく良い社会勉強になりました。今度再びこのような機会がありましたら又是非参加したいと思います。 (呉)

16.総括
 今回調査した民家は平野部8軒、山間部4軒で、平野部の比率が高かったことと、比較的大きな家ばかりでもう少し庶民的な小さな家の調査も必要だったと反省される。
 調査した中では新町の藤本家が最も古く宝永4年(1707)10月17日の棟札を有している。麦藁屋根はトタンで包まれているが、県内では珍しい明り窓を開けている。
 今は改造されてないが、かつては本玄関を有し、床が竹スノコになっているオサンノマが北東隅にあるなど興味ある平面形式を持っている。県下の民家研究上貴重な建物であると思われる。過去やこれからの調査研究との比較検討により徳島における民家の時間的、地域的変遷が明らかになっていくものと期待しており、長年使われず近い将来解体が計画されているなかで、保存に対する何らかの行政援助が望めないものか、救いの手を願うばかりである。
 山間民家は、その地域により敷地形状による耕作面積や土地の肥沃度合に差があり、それが集落に経済的な差を生み、家造りまで及んだものがあると推察される。
 それは、山にありながら新田家のように広い中庭を主屋、納屋、煙草の乾燥小屋などが取り囲んだ、まるで平野部のような立派な屋敷構えの大きな家が多く見受けられる集落と、小規模の家の多い集落といった違いに表れていた。
 さて、三好町民家の平面形式であるが、大きな家が多かったため四間取りや六間取り、そしてそれらの変形が多く、唯一古い形式は宮田ツヤエ家の中ネマ三間取りであった。
 そして出入口の位置(勝手)であるが、丸岡家(元は離れ)、宮田子ノ巳家(長屋門)を除く10軒のうち右勝手が7軒(70%)を占めており、左勝手は新田家、藤本家、宮田ツヤエ家といった共に建築年代の古い家だった。 (林)

1)徳島建築文化財研究所主宰  2)創和建築設計事務所所長  3)林建築事務所設計室長
4)(株)剛建築事務所専務取締役  5)野口政司建築事務所主宰  6)西田建築事務所部長
7)工藤誠一郎建築地域研究所主宰  8)(株)建設材料試験所係長  9)中川建築デザイン室主宰
10)四国大学文学部教授  11)四国大学文学部留学生


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