阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第39号
阿讃山脈西部の和泉層群と中央構造線 −徳島県三好町地域の地質と地形−

地学班 

  地学団体研究会吉野川グループ
    石田啓祐1)・寺戸恒夫2)・

    橋本寿夫3)・村田明広1)・

    森永宏4)・中尾賢一5)・

    森本誠二6)

T.はじめに
 三好郡三好町は、徳島県の北西部に位置している。三好町の北部には阿讃山脈、南部には吉野川の谷底平野が分布し、その境界には中央構造線断層系が東西に延びている。阿讃山脈は、中生代後期の和泉層群海成層からできている。谷底平野には、段丘・扇状地が発達し、中央構造線の運動と密接に関連した特有の地形も見られる。
 地学班は、三好町地域の中央構造線断層系と関連地形、和泉層群の岩相区分と地質構造、ならびに和泉層群の微化石と大型化石群集に関する調査を行った。

U.三好町の地形と中央構造線
1.地形概説
 三好町は吉野川下流域に広がる低地の北西部に位置し、ほぼ東西方向に走る中央構造線により、北の阿讃(讃岐)山脈の山地部分と南の吉野川沿いの台地・底地部分に二分されている(図1)。地図上の計測では、町面積54.84平方キロメートルのうち、山地がおよそ 49.7km(90.6%)、台地と低地がおよそ4.6平方キロメートル(8.3%)、吉野川水域がおよそ0.6平方キロメートル(1.1%)を占める。山地の北端は阿讃山脈の主分水界を形成し、同時に徳島・香川の県境となっている。
 主な稜線や谷の概形は南北方向であるが、注意してみると、基盤の和泉層群の地質構造に調和的である。つまり、山や谷の方向は地質に規制されて生じたものといえる。従って、山地の集落は南の柳沢は北東に向き、北に行くにつれて東向きから南東向きの斜面(貞安〜ツヅラがその例)に集まる傾向がある。つまり、地層面の傾きがこの方向を向いており、その部分が傾斜が緩やかになっていて、耕地や居住地に利用されている。反面、この土地は地すべりを生じやすい。各谷の谷出口より上流の流域面積は、最大の小川谷川でおよそ35.0平方キロメートル、黒川原谷川6.3平方キロメートル、馬木谷川2.8平方キロメートル、伊月谷川1.8平方キロメートルで、小川谷川流域が山地の70%・町域の64%を占める。
 台地・平地部は大別すると、吉野川の氾濫原・小川谷川及び黒川原谷川などによる扇状地面・段丘面に三分できるように考えられるが、この区分は必ずしも明確でなく、氾濫原や段丘の多くは表層に支流の堆積物が覆い、形態的には扇状地となっている。このような扇状地の形成は、最近の地質時代に阿讃山脈が盛んに隆起した結果と考えられる。北から押し出した土砂は、吉野川を南に押しやり、以前は行常と土居の間を流れていたと思われる河道は、現在美濃田淵となって南の四国山地の麓を流れている。美濃田大橋北西の丘の出っぱり(ウマンブチ)から、黒川原谷川が本流の吉野川に合流するまでの吉野川北岸には、南岸に広がる三波川の結晶片岩の地層が見られ、美濃田の景観をつくっている。

2.中央構造線と関連断層
 三好町の地形で最も目立つのは、東西方向の直線状の山麓線で、これは関東地方から九州までのびる長さ 900km 以上に達する世界的な大断層、中央構造線(MTL)の一部である。
 中央構造線は、わが国に地質学をもたらしたドイツ人、ナウマンが1885年に見い出したもので、これにより西南日本を内帯と外帯に二分し、地質の大きな境界線としてとらえられている。その後、地質学あるいは地形学の研究者の調査が進められたが、1968年岡田篤正が新期断層として発表以来、その動きをめぐって須鎗和巳・阿子島功との論争が、地質学会あるいは地理学会で展開され、研究は急速に深められた。前者は構造線にそって北側が東に動く、右横ずれの動きを重視するのに対し、後者は垂直方向の動きを主張している。
 三好町地域には、中央構造線とその北に並走する断層系の存在が推定され、図2に、今回確認した断層露頭を示した。
 三好町付近の中央構造線による断層地形は、村田貞蔵(1966)が池田町州津における眉状断層崖を指摘したことに始まる。この崖は箸蔵橋から東の三好農林高校の北を限る崖に続き、池田・三好両町境の西谷川の橋付近より、県道沿いの民家後ろの高さ8m 前後の崖に連なっている。小川谷川の河床には、以前は昼間橋下流右岸に見事な断層砂砕帯が認められたが、工事により消滅し、現在は橋の下流 30〜50m の左岸(図2、Loc.1)に、三波川結晶片岩起源の断層粘土を含む破砕帯の露頭がみられる。岡田(1968)は、露頭の写真とスケッチをのせ、断層面の走向・傾斜を、N82°E、70°N と測定している。空中写真の判読では、この延長は三好町役場前の県道南側の商店街すぐ裏の高さ8m 前後の崖にのび、役場前から 250m ほど東で県道と斜交しているが、その東は松岡谷や木来谷の扇状地などによりぼかされている。しかし、学校給食センター裏の奥森神社付近から東に、再び見事な崖となって行常〜行安へと続き、黒川原橋西で比高 10m 近い崖となっている。この間、馬木谷川両岸(図2、Loc.3)及び西の池北方(図2、Loc.4)のとが谷出口付近で、幅5m 以上の黒色の粘土から成る破砕帯の存在が確認されているが、なお昼間幼稚園北東、城山方面への登り道では、断層破砕帯の軟弱な地層によるものとみられる地すべりが起こっている。黒川原谷川以東でも、上ノ段と中ノ段の境の崖は、断層崖とみられるが、瑠璃光寺南東の京福谷から東では地形的に断層と崖の関係が少しずれている。杉尾神社北西の湯谷谷底には、台へ登る車道の橋から 100m ほど上流左岸(図2、Loc.5)に幅数 m の破砕帯がみられ、東西方向で垂直な走向・傾斜を示している。また、伊月の主要地方道の北側、吉田万一氏宅裏から瀧川利春氏宅(図2、Loc.6)裏にかけて幅数 10m 以上で黒色の粘土を含む破砕帯がみられるので、これが昼間橋からの MTL の延長にあたり、三野町の旧不動の渡し(中央構造線橋)に連なるものであろう。伊月の位置から不動の渡しまでの間は、破砕帯は吉野川の北岸に沿うのではなく、最も離れた所では、北岸から南へ 100〜150m あたりとみられる。中川・中野(1964)は京福谷には N80°E・65−70°N の破砕帯を見い出している。岡田(1968)は京福谷と湯谷の露頭で和泉層群破砕帯と結晶片岩破砕帯が接していると記している。そして、以上の一連の断層を池田断層(筆者らの MTL の一部)と名付けた。
 三好町付近にはまた、敷地北方の土讃線沿いから増川橋付近を通り、行常北方の三好町浄水場から東に連なり、足代の上ノ段から台にかけて延びる山麓の直線状傾斜変換線が注目される。地形的には断層の存在が推定されるが、小川谷川・馬木谷川などの河床では確認できなかった。ただ、前記浄水場西南西の城山(土捨場?になる)東を岡田正彦氏宅へ通じる道(図2、Loc.2)に、礫層を切る N70°E・55°N の断層の露頭があるのと、台の集会所北東の蛇谷(じゃだに)の底(図2、Loc.7)に、黒色の粘土から成る破砕帯が見いだされたというのが、断層の存在を裏付けるものである。この MTL の北に並走する断層系は、東州津から上ノ段北縁を通ると推定され、阿讃山脈と段丘の地形変換線が EW ないし N80°E 方向に連続することで特徴づけられ、和泉層群を切ると同時に、礫層の分布北限を規制している。この断層は、右雁行する2本の断層から成ると推測される(図1)。
 この他、町内には黒川原谷川右岸の山口付近から、和泉層群の中を東に延びる断層が報じられている(Suyari & Akojima、1980)。また足代の中ノ段と下ノ段との間に、東西方向の小崖があり、東方の台の杉尾神社南では 30m 以上に達するが、この崖は破砕帯が見いだされないことや平面形から、吉野川の側方侵食によって形成されたもので、断層ではないと推測する。
 中央構造線の運動は、和泉層群堆積前に始まるといわれ(地学辞典、平凡社)、その後度々動いているので、地表での位置も南北でかなりの幅をもって平行に出ている。故に、1本の断層と考えるよりは、中央構造線断層系とみるのがよい。岡田(1968)の言う通り、池田断層が南限と考えるが、より南にあるとしても、土井西端のウマンブチや美濃田淵北岸の結晶片岩の露頭より、町内のどこかを通っていることは明白である。三好町の3本の断層も以上の意味では、共に中央構造線断層系を構成する。しかし、新旧により地形的に形態が異なり、古い動きはその後の侵食により崖が消失するなど変化が大きい。この点から昼間橋〜上ノ段南の崖が、新期の動きを示したものといえる。昼間橋南からすぐ東の天椅立神社方面への道が分かれるあたりまでは、小川谷川の新しい(=数千年以内にできた)扇状地で、それが断層線をはさんで北側が高くなっているのは、その後の地震で変位したためと考えるのである。阿波郡市場町上喜来の発掘結果では、中央構造線の最近の動きとして、1596年の慶長地震が考えられている(岡田ほか、1991)。活断層である。
 構造線の動きとして岡田(1968)は、州津の三好農林高校北西の小谷の地形より、付近では断層をはさんで、北側地塊が相対的に 45m 水平に東へ移動したとみている。この考えは小川谷川下流の昼間橋付近の河道の曲がりと調和している。また、足代の瑠璃光寺南西、土井池に流れ込む小谷、あるいはすぐ東の湯谷の曲がりにも共通している。さらに黒川原谷川の出口の西側、山口のやや広い扇状地も、子守谷からの堆積物が上を覆う以前は、主に黒川原谷川の作用による面だと考えると無理が少ないように思う。おそらく北側に平行する断層も、同様な動き(=右横ずれ)をしていたものであろう。

3.台地・低地
 中央構造線以南の台地と低地は、吉野川とその支流が中央構造線により軟弱化部分を侵食し、また埋積してつくったものである。その証拠として、低地は勿論であるが、背後の台地上にも、南の結晶片岩や石英脈の円礫を含む本流系堆積物のかなり広い分布が挙げられる。現在までに判明した最高所は、昼間幼稚園北の標高 225.9m の台地東斜面の道路脇で、標高は 210m 前後、現吉野川河床からの比高は 140m である。また、前記行常北方、城山東の断層のある露頭・山口西方の子守谷出口・台集会所すぐ南西にも本流系堆積物がみられる。つまり、台地上には古い吉野川が流れていたのである。その後、断層が水平方向にとどまらず垂直方向にも動き、現在の高度に達したわけである。
 台地・低地の地形区分は、岡田(1968)も記したように極めて困難である。断層による変位のほか、南に結晶片岩の露頭があり、北に扇状地や崖錐の堆積物が被覆して、地形を複雑にしているからである。
 三好町付近の代表的な地形区分としとは、岡田(1968)と Suyari & Akojima(1980)によるものがある。前者は、池田付近の段丘を高位・中位・低位に分け、三好町付近では高位段丘はなく、中位段丘として行常の城山から西の高所の平垣面を、それ以下の面は小川谷川下流と黒川原谷川下流のそれぞれ一部を沖積平野とするほかは、すべて低位段丘に含めている。低位段丘はさらに、州津面(現吉野川河床面との比高 20m)と昼間面(同比高 10m)に分かれ、昼間面は沖積段丘面に属するものらしいと考えている。図1には岡田による分類をもとに記している。以上の分類に対して Suyari & Akojima(1980)は、昼間南部と黒川原谷川左岸の昼間面のすべてを沖積物としているほか、敷地から台までの間の岡田の池田面・州津面を一括して新期扇状地礫層の面としている。この扇状地礫層は東の土柱礫層(扇状地性)と同じものとみている。共に池田断層を越えても、同一の面あるいは礫層としているものは、堆積後の断層活動で変位したことを示すものである。なお、中位段丘とした部分の礫層のマトリックスの色は、7.5YR よりいくぶん5YR に近い程度で、標高 200m 付近でも赤色土として明確なものは見い出せなかった。吉野川右岸(南岸)の三加茂町炭焼では、この程度の赤色化は標高130 m 付近(寺戸、1967)にあり、左岸が 70m も高い。この相異は、結晶片岩の赤色化がより早いとか、断層が右横すれの動きをしていると考えても、中央構造線の垂直方向の動きが、かなり大きいことを傍証するものであろう。

V.和泉層群
1.概説
 和泉層群の名は、Harada(1890)の和泉砂岩に由来する。和泉層群は、四国西部から近畿東部にかけて中央構造線の北側に沿って帯状に分布している。おもに砂岩、泥岩、礫岩、凝灰岩からできており、その地質年代については、産出する化石から白亜紀後期の Campanian 〜 Maastrichtian にわたる(須鎗、1973;山崎、1987)。地質構造としては、東へプランジする大きな向斜構造をしている。岩相は、大きく北縁相と中軸相に分けられる。北縁相では、基底礫岩層は、領家帯の花崗岩を混成不整合関係に覆っている。礫岩層の上位には、アルコーズ質砂岩層が重なり、所によりカキ殻が密集する。その上位の砂質泥岩層からは、二枚貝やアンモナイトなど大型化石が多産している。北縁相は、主として正規堆積物である。中軸相は、おもに砂岩・泥岩互層からなり、凝灰岩層が所により挾まれている。中軸相の砂岩・泥岩互層には、級化層理、フルートキャスト、スランプ構造、含礫泥岩、含礫砂岩など乱泥流を主とした堆積物重力流による堆積物の特徴が見られる。砂岩・泥岩互層は、砂岩と泥岩の厚さの量比から、砂岩及び砂岩勝ち互層(砂岩が60%以上)、砂岩泥岩等量互層(砂岩が40%以上60%未満)、泥岩及び泥岩勝ち互層(砂岩が40%未満)に区分して示す方法が一般に行われている。三好町地域の岩相区分を図1に示した。
 三好町地域は、Nakagawa(1961)や須鎗(1973)によっても研究されているが、最近では Yamasaki(1986)、西浦(1991MS)の研究がある。しかし、本地域では、詳しい岩相区分、層序区分や地質構造、化石による地質年代の推定は、なされていなかった。今回の調査では、岩相および鍵層となる凝灰岩層の分布、ならびに向斜軸の位置の詳細を基本ルートで把握することができ、年代に関する古生物学的なデータを得ることができた。

2.岩相と層序
 本調査地域には、数層準に鍵層となる凝灰岩層が発達する。それらを挾んで、下位層準(調査地域の西部)には砂岩相が卓越し、上位層準(調査地域の中〜東部)には、泥岩相が卓越することから、前者を滝久保層、後者を足代層として記述する。
(1)滝久保層
 滝久保層は三好町では、滝久保谷上流の滝久保ならびに増川谷川流域の中野、内野に模式的に分布する。本層は、北部では、琴南町柞野川上流、仲南町塩入南方で、北縁相の砂質泥岩と指交関係になると推測される。砂岩勝ち互層を主として、泥岩層や凝灰岩層を挾む。砂岩勝ち互層の砂岩は中〜粗粒で、層厚2m 近い厚い砂岩単層の基底部には、径数 mm の細礫を混じえた厚さ数 cm の級化層理を伴う(図3)。内野付近では、本層は砂岩泥岩等量互層が優勢となり、上位の足代層が連続する。Locs.1〜5の泥質岩は放散虫化石を産する。
(2)足代層
 三好町では、本層は黒川原谷川流域の足代〜百々路、葛篭谷川流域の葛篭〜貞安に分布する。本層は泥岩ならびに泥岩勝ち互層を主として、凝灰岩部層を挾む。Nakagawa(1961)は、この泥岩勝ち互層を、北縁部の泥岩層が中軸部まで入ってきたとした。また、須鎗(1973)は、北縁相の泥岩は、正規海成堆積物であり、中軸相の泥岩は、正規堆積物に一部乱泥流堆積物が混じったものと考えた。百々路、中峯、井坪には、砂岩および砂岩勝ち互層や等量互層も挾在する。砂岩層には、級化層理がみられる。黒川原谷川の下流では、スランプ性の層間褶曲もみられる(図4)。Locs.6〜11 の泥質は、放散虫化石を産する。
(3)凝灰岩層
 滝久保層、足代層には、淡緑〜緑灰色の凝灰岩層が数枚挾まれている。単層の厚さは数〜数 10cm で、数 10m の部層を構成する。単層内には、平行葉理やコンボリュート葉理などが認められる。上下の地層との境界部では、数 cm の凝灰岩と、数 mm の泥質岩が縞状互層し、全体として数 10cm〜数 m の漸移部を構成することが多い。粗粒な場合には、緑色の火山砕屑岩片が多く含まれている。薄片でみると、結晶破片として石英や長石が含まれるが、陸上侵食でもたらされた砕屑性石英粒子はほとんど含まれない(図5、6)。このような状況から、火山物質は水中降下後、水底で移動したと推定される。層厚の膨縮が著しい場合には、層間褶曲の発達もみられ、海底斜面での重力滑動を示す。しかしながら、部層単位で追跡すると、よく連続し、層準によって岩質の特徴が異なることから、鍵層として利用できる。

3.地質構造
 鍵層を追跡すると、東へ開いた馬蹄型の分布を示しており、大綱としては、東へプランジする東西性の褶曲軸をもった向斜構造をなす(図1)。
 向斜の軸は、増川谷流域の増川では、三所神社の北西 150m の道路沿いの露頭で、地層の走向・傾斜が連続的に変化することで確かめられた。また、光清の三好東山郵便局すぐ北の小川谷川河床でも同様の関係が見られる。すなわち、増川では、走向・傾斜が南翼の N60°W・30°N から、北翼の N20°E・30°SE に変化する。また三好東山郵便局北の河床では、南翼の走向・傾斜が、N55°W・35°N から、北翼の N40°E・30°SE に変化する。両地点を結ぶ向斜軸を境に、北翼の走向・傾斜は、N30〜60°E・30〜50°SE であり、南翼は、N30〜60°W・20〜50°NE となる。両翼での鍵層間の地層の厚さはほぼ等しく、褶曲の軸面は垂直に近い。両地点を結ぶ向斜軸の走向は、N80°E であるが、それより東方の百々路付近では、その直線延長より北へ 500m ほど軸が湾曲すると見られる。軸は東へ約 30°プランジしている。なお、南翼にあたる内野付近では小規模の背斜・向斜が見られる。すなわち、小川谷川流域の柳沢南方から県道丸亀三好線の内野を経る東西地帯では、走向・傾斜が北翼と同様の N40〜50°E・40〜50°SE と変化している。このような二次オーダーの背斜・向斜が一次オーダーの向斜の南翼に発達する例は、曽江谷川流域をはじめとして、他地域でも知られている。

4.産出化石と地質年代
 本地域では、大型化石の産出は稀で、Inoceramus balticus Bohm が中峯より報告されているのみであった(須鎗、1973)。微化石については、Yamasaki(1986)は、増川谷沿い及び黒川原谷上流の数カ所より検出しているが、時代決定に有効な種の報告はなかった。地質年代については、今回豊富に産した放散虫化石に基づき考察した。化石産出地点は図1に示した。
(1)大型化石
 黒川原谷川の河床の黒色泥岩(Loc.7)から、二枚貝の Propeamussium sp. のほか、巻貝の化石を見出した。また、伊月谷上流の林道では、やや砂質の黒色泥岩(Loc. 11)から、アンモナイトを見出した。Baculites sp.(図7)が同定された以外は、破片が多く、同定できないものが多い。大型化石の産出頻度はきわめて低い。
(2)微化石
 微化石としては、有孔虫、放散虫が産出した。有孔虫は、Locs.3、5&6から産した。すべてが底生であった。放散虫は、Locs.1〜11から産した(表1)。滝久保層と足代層いずれから産する放散虫群集も、地点ごとの多少のばらつきはあっても、基本的な群集構成には、有意な差は見れない。
(3)地質年代
 阿讃山脈の和泉層群の年代に関する研究は、鳴門地域の放散虫を検討した須鎗・橋本(1985)や、四国〜淡路島西部の放散虫を検討した山崎(1987)の報告がある。また、同時代の外和泉層群の放散虫化石については、橋本・石田(1992)の報告がある。これらの研究による放散虫群集を、今回、三好町地域から得られた群集と比較する目的で表2に示した。山崎(1987)は、県地域の和泉層群から産出した放散虫群集は Dictyomitra koslovae(DK)群集帯に、池田〜鳴門地域から産出する放散虫は Amphipyndax tylotus(AT)群集帯に、また大毛島〜淡路島西部から産出する放散虫は Pseudotheocampe ab-schnitta(PA)群集帯に属するとした。DK 群集帯からは、Amphipyndax enesseffi と A. tylotus は産出せず、両種の類似種が産するのみである。また Dictyomitra koslovae と D. duodecimcostata が多産し、Artostrobium uruna が含まれる。AT 群集帯では、A. tylotus と A. enesseffi が多産し、D. duodecimucostata と D. koslovae は共産するが産出頻度は低く、A. urna は含まれない。PA 群集帯からは、Pseudotheocampe absc-hnitta が多産し、D. koslovae と D. duodecimucostata はほとんど産出しない。今回、三好町地域から産出した放散虫群集を見ると、A. tylotus と A. aff. enesseffi は普通に産し、D. koslovae と D. duodecimucostata は、少ないが産出している。一方、A. urna や P. abschnitta はまったく産出しない。これらのことから、本地域の放散虫群集は、山崎(1987)のAT 群集に比較される。AT 群集帯の時代は、Campanian 後期とされている。鳴門地域の放散虫群集(須鎗・橋本、1985)と比較してみると、鳴門地域では、diagonal ridge の発達した A. tylotus と A. enessiffi が多産するが、本地域では、A. enessiffi は産出せず、A. tylotus も diagonal ridge の発達は目立たない。Sanfilippo & Riedel(1985)は、Dictyomitra lamellicostata は、A. tylotus と Amphipyndax pseudoconu-lus (=A. enessiffi) に伴って産出することを指摘し、その産出範囲を Campanian 後期〜 Maastrichtian としている。しかし本種は、鳴門地域では、多産するが、本地域では産しない。ただ、本種の特徴である近位殻における blade 状の costae は見られないが、類似の形態種は産出している。これらのことから、本地域の放散虫群集による時代は、Campanian 後期の前半と推定される。
 また、本地域から、産している Inoceramus balticus の時代は Campanian であり、放散虫化石による時代と矛盾しない。

W.まとめ
 1.三好町地域の中央構造線の断層露頭を記述し、その北側に並走する和泉層群を切る右雁行の断層の存在を推定した。また、それらと密接に関連する地形を記述した。
 2.三好町地域の和泉層群は、西部(下位)の滝久保層砂岩相と中〜東部(上位)の足代層泥岩相に大別される。各層準に発達する凝灰岩鍵層を追跡し、向斜構造の形態を明かにした。
 3.放散虫群集の分析に基づき、三好町地域の和泉層群が Campanian 後期前半の Am-phipyndax tylotus 群集に属することを検証した。これに関して、他地域の和泉層群ならびに外和泉層群から産する放散虫群集との相異を比較検討した。
 なお本稿をまとめるにあたって、第II章の地形を寺戸が、第III章の大型化石及び有孔虫化石を中尾が、放散虫化石を石田・橋本が担当し、和泉層群の岩相分布と全体の構成・総括を石田が担当した。

謝辞 調査にあたり、小川谷川の中央構造線露頭へ案内していただいた四国総合研究所の長谷川修一氏、大型化石を鑑定していただいた徳島県立博物館両角芳郎博士ならびに、吉野川北岸用水路の地質データを提供下さいました中四国農政局吉野川北岸農業水利事業所の各位に厚くお礼申しあげます。

  文 献
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 図版説明
図版1
 放散虫の走査電子顕微鏡写真
  産地
Loc.1:2,4,5,8, 13, 14, 16, 18-20;Loc.3:10, 17;Loc.5:7,9, 11;Loc.9:3,6;Loc. 10:1, 12, 15
スケールは、いずれも100マイクロメートル
A:1,3−5,7,8, 11, 15, 16, 18, 20; B:2,6,9, 10, 12-14, 17, 19.
1-4.Amphipyndax tylotus Foreman
5.Amphipyndax cf. tylotus Foreman
6.Amphipyndax aff. enesseffi Foreman
7.Amphipyndax sp.
8-10.Amphipyndax stocki (Campbell & Clark)
11, 12.Amphipyndax alamedaensis (Campbell & Clark)
13, 14.Amphipyndax ellipticus Nakaseko & Nishimura
15.Amphipyndax conicus Nakaseko & Nishimura
16.Stichomitra livermorensis (Campbell & Clark)
17.Stichomitra compsa Foreman
18.Stichomitra communis Squinabol
19, 20.Stichomitra asymbatus Foreman

図版2
 放散虫の走査電子顕微鏡写真
  産地
   Loc.1:2-4,6,7, 10, 12-15, 18, 20;Loc.3:5;Loc.7:1,8;Loc.8:16;Loc.9:9,11, 17, 19.
  スケールは、いずれも100マイクロメートル.
A:4,7-10; B:1-3,5,6,11, 13-20.
1-3.Dictyomitra andersoni Campbell & Clark
4.Dictyomitra cf. urakawaensis Taketani
5.Dictyomitra tiara Campbell Clark
6,7.Archaeodictymitra sliteri Pessagno
8.Archaeodictyomitra sp.
9,10.Archaeodictyomitra simplex Pessagno
11-13.Dictyomitra multicostata Zittel
14, 15.Dictyomitra densicostata Pessagno
16, 17.Dictyomitra cf. lammellicostata Foreman
18.Arcaeodictyomitra aff. squinaboli Pessagno
19.Dictyomitra sp.
20.Mita sp.

図版3
 放散虫の走査電子顕微鏡写真
  産地
   Loc.1:6,7, 10−17;Loc.3:2;Loc.5:8;Loc.6:9;Loc.9:5;Loc.11:1,3,4.
  スケールは、いずれも100マイクロメートル.
A:16;B:5,10-15, 17 C:1-4,6-9.
1,2.Dictyomitra koslovae Foreman
3.Dictyomitra duodecimcottata (Squinabol)
4.Dictyomitra cf. napensis Pessagno
5.Thanarla cf. veneta (Squinabol)
6.Diacanthocapsa cf. ancus (Foreman)
7.Diacanthocapsa cf. ovoidea Dumitrica
8,9.Cryptamphorella spaerica (White)
10.Bisphaerocephlina (?) amazon (Foreman)
11,12.Archaeospongogrunum sp.
13.Archaeospongoprunum salumi Pessagno
15.Pseudoaulophacus sp.
16.Pseudoaulophacus sp.
17.Crucella espartoensis Pessagno

1)徳島大学教養部     2)徳島文理大学   3)鳴門市第一中学校
4)東祖谷山村菅生小学校  5)徳島県立博物館  6)池田町白地小学校


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