阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第38号
半田町における婚姻儀礼

民俗班(徳島民俗学会)  関眞由子1)

 はじめに
 半田町と言えば、山間部の町である。盆地、山間部の婚姻儀礼がどのような形で行われていたかについて、年配の方々に聞き取り調査をした。お話しいただいた方は明治33年生まれを最高に、若い方では大正8年まで、それぞれの方々が経験した婚礼について伺ったものである。つまり、半田町における、大正の末期から昭和の初期にかけての婚姻儀礼についてが調査の対象になっている。調査場所は、東久保、川又、逢坂などの比較的平坦な地域と、中屋、長野、日開野、中熊、京都などの山間部である。平坦部と山間部では若干の相違があるのでその点にも留意することにした。
 結婚するまで
 当時の若者たちは「仕事ばっかしで遊ぶ暇はなかった」というのが一様の答えである。
 野仕事としては、養蚕が盛んであったので、桑とり、蚕の手入れなどで忙しかった。山仕事としては、木の切り出し、下草刈り、松葉かき(秋から冬にかけて)があった。大正時代以降、半田用水ができるまでは、芋か麦しかできなかったとのこと。平坦部を除くと、田んぼは僅かで自家用であった。夜は、縄ないや、莚打ちなどのよなべ仕事が山程あり、娘たちは娘たちで着物のほころびを繕うなどしていた。昭和10年頃までは機で地絹を織っていた。また小作など、土地の少ない若者は、雇われて蚕飼い、稲刈りなどに行った。
 出稼ぎも多かった。当時は、岡山に藺刈りにくいことが多かったようだ。紹介者がいたことや、給料が良いなどがその理由である。他に讃岐、岡山の田植、讃岐の借耕牛、板野の砂糖しめなどにも行った。
 ヨバイ・ヨメサンカタギ
 ヨバイについては、殆ど聞くことができなかった。そこで、何故そういう話がないのかと質問をしたところ、「ヨバイはあったと思うがそれは一部での話、なにせ仕事がきつかった。だから遊んでいる暇などなかった」と言うのが圧倒的に多い答えであった。
 ヨメサンカタギについて聞くことができたのは1件だけで、それも詳しくはわからない。明治の頃の話だという。

 概して聞かれることは、親の承諾なしに花嫁を連れてくるのは暴挙に等しいということである。仮に無理をして連れてきても「あんなんいなせ」と、花嫁の親を呼び付け、色々難癖をつけて返されてしまう。そんな無理をするよりも、親のいいなりでも良いから親の気にいった嫁をもらう方がずっと気が楽だということであった。
 適齢期
 男だと徴兵検査の終わる20〜25、6歳くらい。職人になったものならその職で3〜4年辛抱したもので、年があいてお礼奉公が済んでから。
 女は16歳くらいからで、20歳すぎが多い。
 結婚の条件
 家柄、財産が分相応。とにかく結婚の相手は親が決めることが多かった。「好いても好かんでも」親が「あしこにいけ」と言えば行った。
 通婚圏
 山間部で聞いたところでは、在所の約半分は、在所内というのが多い。だから5〜6代くらいさかのぼるとどこかで親戚になっていることが多いという。また平坦部では、隣りの在所というのも良く聞かれる。農家から農家というふうに同じ職業の家に行った方が勝手が分かってよいといわれている。また、いとこなど、親戚同士という例は少なくない。あまり数は多くなかったということだが許婚などの場合は、殆どが親戚同士だということ。
 大家といわれるような家は他所から嫁をとることが多い。釣り合いのとれる家ということで近くになければ郡外からでももらう。
 仲人
 見合いで結婚することが多いので、仲人はなくてはならない存在であった。大体はナコドニン、ナコドニンサンだが、長野、京都ではゴトウニンサンと呼ぶ。親がナコドニンに依頼をする。
 キッキャワセ(キキアワセ)
 もらう方、行く方が共に相手のことをこまごま調べることをいう。つまり、自分の家と釣り合うかどうか、教育の程度、健康、働き具合、しつけなどを近所の人に聞く。親は、自分たちの意見で結婚させるので、力が入っていたという。キキタテというところもある。
 見合い
 見合いまで漕ぎ着けたら七分通りできたも同然といわれた。ナコドニンが若者を連れて娘の家に行く。娘はお茶を汲んでくる。この時に娘の行動をつぶさに観察する。また、お膳が出る時もあった。この時若者が、お吸い物のお代りをしたら断わったことになるといわれていた。
 話し合い
 ナコドニンのお世話で結納金の額、嫁入り道具などについて話し合って、婚礼に関するおよそのことを決める。
 ユイノウ・ノシイレ
 ナコドニンは若者と、男親と一緒に、娘の家に行き、ノシ、結納金を渡す。
 試験婚など
 余り数は多くないが、「女中見習いにいっとる」などといい、若者と娘の家に経済力の相違があるときなどに、行儀見習いという名目で農繁期に手伝いに行く場合もある。
 花嫁道具
 家によって、かなり違うが、その頃用意する物は、戸棚、鏡台、カヤ、蛇の目傘、コウモリガサ、フトン、ザブトンなどであった。これらの道具は嫁に行く前に近所の懇意な人にみせることもあった。また東久保の辺りでは、「道具迎え」といって休憩所になっているお宮まで、婿方が煮しめや酒を持って迎えに行き、労をねぎらったあと道具を受け取って帰る。つまり、お宮で道具の受渡しをする。地域によって違う。
 ムコイリ
 平坦部では全く聞かれなかったが、中熊、長野、日小谷、川又、日浦などではムコイリをしていた。これは花婿(ムコハンと呼ぶ。以後は婿はん)がムコマガエ(婿によくにた者という意味で、弟や親戚の年下のワカイシが選ばれることが多い。これといってしなければならないことはなく、婿はんのそばにいるのが役目である。長野ではムコゾエ)、ナコドニン、とともに花嫁(ヨメハンという。以後は嫁はん)の家に迎えに者くことをいう。ヨメムカエという地域もある。迎えにいった婿はんは、嫁はんの家で、酒、ご馳走をいただくが、嫁はんより1時間くらい先にムコガマエとともに家を出る。日浦では頃合いを見計らってすうっと挨拶もせずに帰っていた。これを「婿の食い逃げ」と呼ぶ。婿さんは家に帰ると、嫁はんがやってくることを知らせる。家の者は花嫁方のために出迎えの準備(ムカエザケなど)をする。なお、ムコマガエがいるのはムコイリをしている地域の場合で、しないところはヨメマガエ(身内の若いもん、妹、親戚のやや年下の娘が選ばれる。お客としてついていくので、嫁はんが仕事をしていてもずっとすわったままで、ご馳走をいただいて帰ってくる。長野ではヨメゾイ)だけのことが多い。
 中熊では昭和50年代までムコイリをしている家があった。
 東久保では、親戚の者が途中(近くの辻)まで迎えに行く。仲居や、芸者を雇ってカネ、タイコ、三味線で賑やかに迎える。この時婿はんは迎えに出ない。
 花嫁行列
 花嫁衣裳は、裾模様が多い。中屋で大正時代の嫁入りの時に、五つ紋の紋付きであったというのを聞いた。髪はマルアゲ、ツノカクシ、自分の髪で結っていた。又ヨメサンガサといって必ず傘をさしていった。こうもり傘が多かったようで、色は、赤や白が多く、高価なところでは絹ばりというのもあった。京都では、嫁はん同士がぶつかったら交換しなければいけないので余り良い傘は使わなかったという。
 家紋のついたちょうちん(大きな家)、仲人夫婦、嫁、ヨメマガエ、オジ、オバ、兄弟など、濃い親戚の者がついて行く。両親は行かないことが多い。奇数で行って偶数で帰らなければならない。
 花嫁が実家を出る時の作法、嫁ぎ先に入る時の作法
 実家を出る時は、両親に「色々お世話になりました」と挨拶をする。オモテから出る。
 婿方では、サカムカエ(京都、東久保などの各所)といって、近くの辻や、カドまで出迎える。お姑さんの手引きでニワからはいる。東久保、川又では、まず仏壇の前に座り、ご先祖さんに挨拶をする。婿養子の場合はザシキから入った。
 婚礼
 中熊、中屋など昼間の婚礼と、夜の婚礼の二通りがある。一貫性はないようだ。夜の婚礼だと朝方まで飲んでいた。婚礼の時くらいしか飲む機会がなかったという。
 中屋ではナカノマ(仲が良くなるからとのこと)、他の地区ではオクで三三九度の盃をした。あとザシキにいって挨拶をする。床を背にして、ゴトウニン、ヨメ、ヨメゾエ、ゴトウニンノヨメ、ヨメハンの家のアトトリの順で座る。どこの地域でもだいたいこの順で座る。場所によってはこのあと、アルキゾメ(後述)をするところもある。大体は嫁はんはこのままずっと座ってはおらず、衣裳を着替えて手伝いをすることが多いようだ。婿、婿の両親も座るひまなく接待に勤しむ。
 この晩は祝いにきた人が、からの煙草入れをザシキにほうりこむ。家の人はこれに刻み煙草を入れて渡していた(川又、東久保)。
 祝いの膳
 オチツキといって、先ず座ったら、お茶に,ボタ餅か赤飯を出した。次に本膳、4つ膳を組んだ。あいだに煮しめなどもでる。またそうめんは細くて長いと言うことで喜ばれた。料理は在所に器用な人が一人はいるのでその人を雇ってしてもらう。近所の人が手伝ってくれていた。
 嫁はんには、ハナツキメシといって、茶碗に山盛りに盛ったご飯が出される。鼻の高い子が生まれるようにとも聞くが、嫁がおなかを空かせるようなことはありませんよということのようだ。これは、中屋、京都などでは、客が帰った後、婿はんと分けて食べたということである。
 宴の終わり頃になると、大根で造った、鶴亀と、大きなタイの塩焼きを運んでくる。この時にトリの盃といって、モクハイと呼ばれる直径 20cm 余りの盃に酒をついで回していく。
 この後、嫁茶といって嫁はんが皆にお茶をついで回る。これが最後のしるしなので、嫁はんがお茶を汲むまでは帰らなかったそうである。又、帰りがけには、ワラジ酒といって、嫁はんを連れてきてくれた人に素顔で帰ってもらっては申しわけないと、これもクマガイといって直径 20cm ほどの盃で酒を出す。勢いをつけて帰ってもらうのである。
 アルキゾメ
 ムラアルキ、ヨメクバリなどともいう。お姑さんが嫁を連れて近所に挨拶に回る。婚礼の当日にする場合と翌日の場合がある。土産に風呂敷を持って行く。
 里帰り
 婿はんが嫁はんを連れて嫁はんの里に行く。家によっては、姑が行って、婿はんが行かないところもある。翌日、3日目、決まってないなど、日にちについてはまちまちである。嫁の両親に正式に挨拶をしに行く日であったようだ。
 シュウトイリ
 嫁はんの両親が、酒などの土産を持って、婿はんの両親に挨拶に行く。
 次男以下の結婚
 次男以下の子供は、自分ですることが多いという。次男以下の子供は、手に職をつける、養子に行くなどしていた。又シュワケといって財産を多少なりとも分ける習慣があった。
 嫁の立場
 嫁は道具のようであったという。姑がきつく当たることが多かったし、また、それに辛抱できないような嫁はどこへいってもやっていけないと言われた。また子供ができるまで入籍しないという例も少なくなかった。
 主婦権の譲り渡し
 主婦権を譲り渡すことを「世を渡す」というが、なかなか渡してはもらえなかった。
 世を渡すのは、親たちが60歳になった時、また病気になった時、亡くなった時など、家によって違うが、とにもかくにも姑にはなんでも「はいはい」ということを聞き通したというのが殆どであった。特に、世渡しについての儀礼はなかったようだ。
 終わりに
 お話をして下さったのは次の方々です。
 庵床源太郎さん(明治33年生まれ)川又。中川ミヤコさん(明治39年生まれ)日開野。丸山トメさん(明治37年生まれ)中屋。丸野定雄さん(大正8年生まれ)中熊。高川繁雄さん(大正5年生まれ)長野。佐藤毅さん、逢坂。並びに半田寛先生。他にも、お忙しい畑仕事の手を休めて快く質問に応じて下さった半田町の方々、大変ありがとうございました。
 また最後になりましたが、酷暑の中、半田町の長老の方をご紹介くださり、また数々のご助言をいただきました、平田重市さんに、深く感謝の意を表します。ありがとうございました。


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