阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第38号
近世後期半田奥山における稲田家の知行地支配と村落社会     −新史料の紹介と既存史料の再検討−

地方史班(徳島地方史研究会)

           松下師一1)

 はじめに
 私は今回の阿波学会の調査に際し、「近世後期の半田3カ村の村落構造の解明」を課題として取り組んだ。具体的には町外に保存されている半田に係わる史料を紹介しつつ、それと半田町内で保存されている史料とを関連させて検討・考察したいと考えていた。そこで、調査開始以前には、1 三加茂町歴史民俗資料館所蔵の「半田口山と三加茂村六ケ村の入会山争論」関係文書と、2 脇町郷土資料館所蔵出原家文書の「半田奥山絶名一件」関係文書の二つの古文書群と、半田口山・半田奥山の当該時期の村政に係わる文書の切り結びを目論んだのであるが、1 については半田口山の棟付帳などの基本文書がない等の理由より、本報告での検討・考察は断念せざるを得なくなった(ちなみに、三加茂町歴史民俗資料館に所蔵されている関係文書は、既に『風蘭』第11号(1)に活字化のうえで収録されているので、本稿の中で史料紹介することも取りやめた)。
 他方、2 については出原家文書が脇町史編纂のための史料調査で新たに発掘・調査されたこともあり、今回、半田町に関する文書を部分的にでも紹介することは半田町の地域史研究に多少なりとも貢献できると思う。加えて、その史料を紹介する過程で分かった事実を踏まえ、八千代支所所蔵の「半田奥山棟付帳」などの古文書を再検討してみたい。
1、半田奥山における「絶名」入札―出原家文書より―
 徳島藩では百姓経営が断絶した場合、相続養子を迎え経営の維持につとめた。しかし、養子のあてもなく断絶となった場合には、入札により新耕作者を決めた(2)。
 まず、「絶名」入札に係わる史料を掲げておく。
[史料1]「出原家文書」〈24・32〉   ※〈 〉内は「出原家文書」整理番号
                   ※( )内は筆者補注
(表紙)
 寛政九年
半田奥山絶名指シ出帳
 巳五月
 上蓮名
 柿ノ佐吉同所             名負 五郎八
一、下々下畑壱畝 米壱合七勺       きさ
 (中略)
 右は当山絶名指出シ仕候様被仰付候ニ付山中夫々相改帳面指上申所相違無御座候
   以上
                勇左衛門 ■(紙屋)
        半田奥山五人与 永太郎  ■(上蓮)
 寛政九巳年       同  五郎兵衛 ■(下喜来)
 (1797)
             同  新兵衛  ■(坂根)
             同  弥七郎  ■(上喜来)
          御取立   弥三左衛門■(日開野)
    土井池門蔵様(給人稲田家井尻役所代官)

[史料2]「出原家文書」〈24・42〉
   仕上ル御請書之覚
  善兵衛居屋しき同地         名負
 一、下々下 壱畝   麦弐升八勺    善兵衛
 右ハ役助調地ニ而相扣居申処絶名ニ相成候ニ付、御入札被仰付銀子八拾目ニ私落札仕右銀子之義ハ来ル十一月十日切無滞上納可仕候、其節御下札被下置候得ハ、難有奉存候、仍而御請書仕指上申処、少も相違無御座候 以上
                    下喜来名百姓 久右衛門■
  巳八月廿一日
 (寛政9年)
   土井池門蔵様
   仁木左市右衛門様(土井池と同職:代官)
 右久右衛門御請書仕指上申処、私共於一座承知仕奥書仕指上申候 以上
                  下喜来名五人組 五郎兵衛 ■
   巳八月廿一日           御取立   弥三左衛門■
    土井池門蔵様
    仁木左市右衛門様

[史料3]「出原家文書」〈24・40〉
  仕上ル御請書之覚
 柿ノ姓吉同所             名負 五郎八
一、下々下畑壱畝 米壱合七勺       きさ
 右土地絶名ニ相成り御入札被仰付旨被仰出候処、一統望人も無御座候ニ付、冥加銀拾匁指上候得ハ、私共下置旨被仰聞御請奉仕候、尤銀子之義ハ半数五匁来ル十二月廿日切上納仕、残り五匁ハ来ル午二月廿日切上納可奉仕候
                         願人 孫蔵 (後略)

[史料4]「出原家文書」〈24・31〉
  下札
 儀八いやしき同所           名負
一、中畑 壱畝   麦七合八勺         太郎兵衛
 右畠地主太郎兵衛子仁兵衛死絶之旨村役人共申出相糺候処相違無之ニ付、被召上有之処依願銀子四匁被召上、向後御検地之節其方名負可申候、仍而下札如件
文化元年子六月               丸岡甚太左衛門(井尻郷役所役人)
(1804)                 (他、同役人4名略)

 まず、[史料1]は寛政9年(1797)5月に半田奥山の各名(紙屋、上蓮、下喜来、坂根、上喜来、日開野の6名)の村役人が、「絶名」(検地帳に名負として登録された者の家督が断絶した土地)を調べて、給人稲田家の井尻役所の代官土井池門蔵に申告したものである。「絶名」の土地一筆についての記載内容は、1 位置を示す傍示 2 品位(矩)3 面積 4 高 5 名負人 6 絶名となった際の耕作者であり、そうした一筆一筆は名ごとに一括して掲載されている。この1 〜5 は検地帳の内容と一致していると考えられる。
 次に、[史料2]は村役人の連名で代官へ申告した「絶名」が、同年8月に村内で競争入札にかけられた例であり、この文書では久右衛門が銀80目で落札し、村役人が「於一座承知」の上で、代官へ通達されている。また、[史料3]は「望人」が無く、入札を行わずに、冥加銀上納により「絶名」を「下置」て新耕作者を決めたものである。
 こうして「絶名」の新耕作者は、村役人の指揮の下で内定される事となったが、最終的に土地の所持権が確定するためには、稲田家に落札銀・冥加銀を皆済し、稲田家から「下札」という証文を交付されねばならなかった。その「下札」が[史料4]である。「下札」は入札実施から7年後の文化元年(1804)6月にまとめて交付されている。
 なお、(表)から分かるように、『絶名指出帳』と入札文書(請書之覚)と「下札」文書は全て揃ってはいない。原因としては文書の散逸と、入札実施の際に何らかの理由で入札対象から外された、或いは入札銀、冥加銀の支払いができなかったなどが考えられる。


 以上、村落経営の基本施策ともいえる「絶名」の入札、新耕作者の決定は、藩や給人の役人が直接担当したのではなく、百姓の代表者たる村役人の自主管理、つまり村請により実質的に担われている。また、半田奥山は給人稲田家の知行地であることから、「下札」の交付による所持者の最終決定も藩ではなく稲田家井尻役所が行っていることが分かる。

2、八千代支所所蔵文書と近世後期の半田奥山
 そこで、1での成果を踏まえ、八千代支所所蔵の文政10年(1827)の棟付帳の持つ歴史的意味を再検討してみたい(3)。当初は坂根・日開野(一部欠)・上喜来(一部欠)・紙屋の4冊の棟付帳から、(表)に名が現れる人物の出自や村落内での地位を解明したかったのだが、寛政9年(1797)の「絶名」入札から30年も経過しており、また棟付帳も奥山全部揃ってはおらず、分析・検討を重ねたが人物の特定はできなかった。
 ただ、棟付帳からではなく、『文政十亥歳 美馬郡半田奥山棟附就御改延宝歳絶株調帳』(後欠カ)という文書から、2つの興味深い事実がわかった。
 第1点は、延宝2年(1674)の棟付改め以後、大量の百姓株の絶家があり、当然多くの「絶名」を発生したと考えられるのだが、寛政9年の「絶名」は(表)からわかるように13名(伊勢松後家重複)の「絶名」者(=絶家)しかない。つまり、半田奥山では絶家により「絶名」が発生した時点で、適時に新耕作者の決定が行われていたのであり(相続養子・入札などか)、寛政9年「絶名」入札はそうした一例であった。
 第2点は、ひとつではあるが、(表)の人物に係わる記述があった。それは、母兵衛という人物が「伊勢松後家入夫ニ罷成」と、(表)の中で唯一落札されなかった伊勢松後家と縁組をしているのである。どうも伊勢松後家の土地が「絶名」と判断された時点で、伊勢松後家は死亡していたのではなく、耕作能力が無く「絶名」同然だったのではないだろうか。だから前章で疑問となった入札からの除外は、伊勢松後家と母兵衛が縁組することにより耕作者が確保されたので、入札の対象から外されたのではないかと思うのである。
おわりに
 紙数に限りがあり十分な検討ができなかったが、脇町の出原家文書から半田町に係わりのある「絶名」入札を史料紹介・検討し、その上で『半田町誌』で殆ど扱われなかった『絶株調帳』の分析を行った。半田町域は大部分が稲田家の知行地であり、今後も井尻役所の文書を積極的に利用した半田町地域史研究の必要性を強調して小稿を終える。
《注》(1)『風蘭』第11号(三加茂町立歴史民俗史料館、1990年)。
   (2)『徳島藩職制取調書抜』下(東大出版会、1984年)、413頁。
   (3)『半田町誌』下(1981年)、1103頁に所蔵文書一覧あり。

1)徳島県立文書館


徳島県立図書館