阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第38号
半田村に於ける天保以降の心学活動の継承者たち

地方史研究班(徳島地方史研究会)

            名倉佳之

はじめに
 ここにいう半田村とは、天保期〜弘化期(1830〜47)すなわち半田村心学講舎であった根心舎焼失(文化7年、1810)以降の中心的存在であった指導者・敷地屋卯平(路友先生)が死去した天保3年(1832)から、根心舎社友を中心とする結社活動が廃絶する弘化末年までの稲田九郎兵衛拝地・半田口山、奥山を考察の対象とするものである。近世の半田村における根心舎の活動については、すでに『半田町誌』の米沢恵一氏の記述(746頁〜777頁)に詳しいところであるが、重複の労を厭わず概観してみることにしよう。
 寛政5年(1793)に、篠原長久郎(蒼山)が大坂の中井典信(石門心学2世手島堵庵の弟子)に初入したのを濫觴として、翌年、撫養・里見平兵衛(上田翁初入)や南方・林喜十郎(手島先生直弟)の来村、寛政7・8年には上田唯今(和歌山・修敬舎舎主、中沢道二翁に初入)が来入、数十人の初入があった(敷太家文書、大久保進氏所有)が、この頃が最初の興隆期である。
 次いで文化元甲子年、桑原源兵衛(冬夏、貞光村出身)及び田村祐之進(備中の人・南山々人と号す。丹波・伝習舎舎主谷川物外の門人)の来村により俄然活況を呈し、第2の興隆期を迎えたのである。特に田村祐之進については、文化2乙丑の根心舎造立の年、数十人の初入があり(敷太家文書)、以後文化15戊寅年頃まで継続的に来村している(兵助日記、敷地屋兵助)。
 文政以降については、村外からの講師の来入はなかったようで、祐之進から講師を認可された路友(敷地屋卯平)ら地元の先輩達を中心として、修行が続けられたものと思われる(半田町誌、下巻764頁)。そして天保3辰年の路友没後は、その門弟・堺屋弥蔵、敷地屋兵助、大久保熊三郎等によって学統の灯火は糸筋の如く継承されていくのである。
 上記の人的つながりを、根心舎社中・堺屋弥蔵の「心学御題控」巻3の巻末には、つぎのように書き込まれている。


           手島先生―上河先生
石田先生―手島先生―(和庵、源右衛門)(庄兵衛)
(勘平)(嘉左衛門) 物外先生―田村先生―路友先生―五養齊
               (助之進)(敷地屋卯平)(堺屋弥蔵)
                        (半田町誌、下巻764頁)
 半田村に初めて心学が導入された寛政期は、松平定信の改革で知られるように、貨幣経済の浸透による幕藩体制の動揺によって、武士階級の弛緩が普く進み、武士のみならず庶民にも遊惰の気風が充満していた。幕府は、寛政異学の禁により朱子学の復興を図り、もって士風の建て直しを企図した。諸藩もまた競って藩校を設立して、藩士の教学に努めたのである。
 徳島藩では、寛政3年に塀裏学問所が設立され、合田営蔵を中心に朱子学による藩士の子弟の教育が開始された。庶民の子女も藩校に入学を拒否された訳ではないが、希望者の殆どは私塾や寺子屋に入った。寛政期以降、このような庶民の教育需要の傾向は一般的となり、しかも城下町のみならず藩全域に拡大していくのである。
 石門心学の普及史からいえば、寛政期を含む天明7年(1786)〜享和3年(1803)は興隆時代後期に相当する。京都明倫舎では2世手島和庵(寛政3年没)、上河淇水(文化14年没)が、江戸参前舎では中沢道二が活躍した。
 折柄幕府並びに諸藩が領民教化の政策を高揚する時期に際会して、心学は広く、諸侯旗本など上流武家の間に浸潤すると共に、為政當局の保護政策に恵まれて、諸国、諸地方に進出したのである(石川謙著『石門心学史の研究』)。
 この後全国的には、教勢分裂時代(文化元年〜文政12年)を経て衰退時代(天保元年〜慶応3年)へと移り、教化統制力の解体崩壊と地方分立の情勢を醸し出すのである。
 前掲の堺屋弥蔵の「心学御題控」巻3が書かれたのは、天保2歳辛卯2月であり、道統混乱の情勢の中で、ことさらに学統を明確にしておきたかったかったのかもしれないのである。
路友先生(敷地屋卯平、天保3辰年没)没後の継承者達
(1)路友先生の石碑造立
 酒井家古文書(酒井一宇氏所蔵、福山市在住)には、堺屋弥造(家隆、春耕園農圃、五養斎、竹岸居)の筆写本を中心とする夥しい史料が残存している。その中の一つ「心學古先生碑名寫」を見ると、路友先生(敷地屋卯平)が没した翌年、天保4年癸巳8月15日に、石田梅巖・手嶋堵庵の石碑を筆写しており、阿陽美馬郡半田村根心舎社中と自署した傍らには、「明月やてるも曇るもわが心」と詠んでいる。ここには、根心舎社友としての誇りと、世用に明け暮れる日々への自戒の念が読み取れるのではなかろうか。
 さらに弥造は、師・路友の没後3年経った天保6未(1835)正月の日付で「路友先生石碑造立帳扣」なるものを残しているので、それを引用しておこう。

 「それ聖學は色々諸家の教しへ有といへ共忠孝に止る所が肝要ならんか然るに 石田勘平梅巖先生は此道に厚志し始て性理を開闢し給ひ猶二世の道統 手島嘉左衛門堵庵先生に至給ひて多くの人を導き令此道普く海門にさかん也爰に其流れを汲根心舎の社中三四人は師に後れてあんかんとくらす事三ト年なり家業遊興其外世用に行當る事多くして或日うち寄て是をなげくといへ共更に其甲斐なし中にも横田の何某人々に向ふて曰く我々師に請し恩ハ須弥よりも高くし報しかたきといへ共金玉をあたへられしを蔡にて返せし譬も有はせめて石碑を建てしかるべしと言人々喜び是ぞ誠に報恩ならむと俄に同志の人々をかたらひて石碑を造立する事とハなりぬ 發願主遺弟」

 路友亡き後、根心舎社中の人々は家業遊興などに明け暮れ、心学修行から遠ざかり安閑と過ごしている日々に悔悟の念を禁じ得ず、師の学恩に報いるためにも、石碑造立の発願を起こした様子が偲ばれる。ただこの天保期は、天災・飢饉・一揆などの終始した激動の時代でもあり、石碑造立の成就は弘化3年(1846)のことであった。
 それではつぎに石碑造立の出銀者の名簿を挙げておこう。
「根心舎社中
一南鐐壱片   春田為之助   一銀札弐匁   三宅沢蔵
 代七分八厘          一同四匁    中屋忠右衛門
一銀札四匁   横田虎之助   一同弐匁    大久保小三郎
一同 八匁   敷地屋兵助   一同拾匁    大久保熊三郎
一同 四匁   堺屋弥蔵    一同弐匁    南馬平
一同 四匁   今津屋角蔵   一同弐匁    同虎吉
一同 弐匁   綿屋熊三郎   一同四匁    敷地屋長兵衛
一同 弐匁   西浦屋善兵衛  一同弐匁    敷地屋岩蔵
一壱朱壱片   大倉吉三郎   一同八匁    大坂屋嘉吉
 價三匁九分          一同四匁    奥同雷蔵
一銀札弐匁   三宅熊三郎   一同六匁    西浦屋吉右衛門
    一同 敷地屋国蔵
脇町社中
一銀札拾匁 林 勘蔵
一同弐匁  いづゝや唯助
一同弐匁  門たや幸吉

一銀札六匁 孝子亀太良
一同三匁  清水村茂蔵妻
(諸入目銀扣は省略)
      世話人
      敷地屋兵助
      堺屋弥蔵
  弘化3丙午年2月下旬成就」

 ここには26名の協力者が書かれているが、路友亡きあとの継承者の中枢である堺屋弥蔵・敷地屋兵助・大久保熊三郎はもとより、根心舎社中と称する21名の社友が名を連ねており、その活動が低迷しているとは言え、心学の息吹が感知できるのである。敷地屋兵助はこの間、天保14年9月廿4日の石田梅巖先生百年御忌に、明倫舎を訪れ、その霊を奉拝している(兵助日記)。また大久保熊三郎は、石碑造立成就の2ケ月後の4月廿9日に、根心舎社友の古老・三宅熊三郎と南虎吉、敷地屋兵助の3名を招いて會輔を設けているのである。
{敷太家文書・諸記録、(大久保養志堂一信・熊三郎のこと)筆}
 さらに特筆すべきは、半田村以外の脇町社友の3名と清水村(三好郡)茂蔵の妻の名が記載されていることである。脇町には、稲田氏の会所が置かれ、諸役人の往来も激しく、この前年(弘化2年)熊三郎は、駈出御家来・会所附言上格に仰せ付けられていた。(敷太家文書・大久保熊三郎履歴書、半田町誌編纂史料室所有)
 また堵庵以来、婦人特別講座が行われていたようだが、茂蔵の妻の出銀は、その実態を垣間見る思いである。
 半田村根心舎の読書次第の筆頭に掲げられているのは『會友大旨』である。このなかで手島堵庵は、會輔・會友・輔仁について次のように説明している。

「會輔・曽子曰以文會友以友輔仁
   古人猶かくのごとし况我が輩須臾(しばらく)も會友の助によらずバ旧染(きゅうぜん)の汚(けがれ)をさるべきつつしんで怠るべからず
會友・平常書を以て互に討論し慎獨を専とし事理をきハむべし
輔仁・性理を正し孝悌を勤むべし
   俊秀にあらざれバ獨学ハなしがたく常に良友の親交を離るるハ琢磨の功を捨るに似四体放蕩にして身修らず (中略)  安永2年癸巳12月」

 道友社中が相集まり、討論し、互いに切嵯琢磨する會輔こそ最も重要な心学修行であると位置付けている。弥蔵の書き残している「心學御題控」(巻1、文政11年〜巻5、天保9年)は、まさにこの會輔の問答集なのである。
 半田村における會輔の最後の記録は、大久保熊三郎の手になる「諸記録」の弘化3年3月8日の夜となっている。これ以後、會輔の記録はないが、個人的な心学修行はなお継続していたものと思われる。先の「路友先生石碑造立帳扣」には、つぎの記録も残されている。
「路友先生
蓮山教道居士俗稱宇平號路友従壮歳志干心学為備中国田村先生門人頗近其室云五十六才ニ而卒實天保三壬辰年九月十九日也■去咏一首和歌云
 我死なばただ成よふに成したまへ
 あめのみたまの御意を守りて
干時嘉永元年戊申九月十九日路友先生拾七回忌ニ當り霊前備へて謹て捻香再拝して讀■
   門人 竹岸居主人」
 これは、弥蔵の手になる路友先生の墓碑銘だが、半田村・根心舎の活動は弘化末年には廃絶したことになっているが、報恩の志厚き人々には、なお心学精神は生き続けているのである。
(2)家職の繁栄と人生訓を求めて
 ところで、心学における教化活動のうち特に強調されたのは、家職道と人生道、すなわち家訓や処世訓などであるが、前掲『會友大旨』の講義旨趣は、次の石田梅巖の教えから書き始めている。

「石田先生人を教ゆるハ其学を実にせんがため初め先学者固有の本心のはしを知らせ其明徳の光を見うしなハざるやうに慎ましめ日々に磨て怠らず身を修め善に進ミてやまざれバ終に心徳の至善を成就することを旨としてさとすのミ
(中略)
 家業ハ農工商とも我が物好にて其家へ生れしにあらず不思議にしてうけ得たる家業なれバこれ天命也然れバ我が家業を少しもそ略にしぬれバ則天命に背て大罪也恐れつつしむべき大事也惣じて家業を怠れバ渡世乏しく父母の心安からざるの第一なりされバをのれ家業うとけれバ其本心安からずこれ心徳を欺くゆえ也」
 さらに同書の「會輔中可守之大事」として、{其身之家業を大切可勉事}の1條を掲げており、社友の多くは、子々孫々にいたるまでの繁栄を願いつつ、家訓ともいえる記録を、切々と認めているのである。それではここで、半田村における家訓・記録の具体的な事例を見ることにしよう。
 堺屋弥蔵は、先の「心學御題控」巻五のなかに、次のように明記している。

「東照神君家康公ノ曰軍(いくさ)ハ一旦の勝は勝にあらず始終の勝こそ誠也
此御詞軍計りにあらず家業日用万端にあり謹で守り勤るもの也 家隆花押」

敷地屋兵助(雅弘)は、『兵助日記・年代聞見記』の自序に次のように記している。

「予考るに学を左にし、書を右にせばよからむ、君が代にただ喰て死するは禽獣にもことならず、また酔生夢死の類ひとも示し置ければ恥べきの一也。されば賢き人々の真似をとも思へども才貧しく筆短く烏焉馬の誤をも当て字のあたらさるおも蛇に畏さる眼くら成べし ここに往時は其老にとひ近きはその友に求め自他巨細の拘らず天保辛卯のはじめ一帳を発ぬ。子孫予か志を継て見聞の事を頓に記し玉へ
   弘化3丙午とし 林鐘中旬 謙山居 雅弘識」

大久保熊三郎もまた、「當家秘事、明倫記録」として、次のように書き残しているのであるのである。
「(前略)
右名義八等ハ當家秘事一子相傳而
其元有四近親遠族は従聞起り懇意は従智成り従客奴客は従業立隣家邑家村長は於に地定る也故に地より定る処之交ハ変する事なし是礼を以て制する道也
従聞起り従智成り従業立処之交りハ主人之心持に依而其交りに厚薄之有は仁を以て制する道なれハなり其厚処を厚く知り薄処を薄処と知るハ是智の制する道なり厚処を為厚処薄処を為薄処は是義之成る処なり仁義礼智之四徳備ハりて一家之厳君たり往々の家督工夫可有事也
   三代主入  一信 花押
   往々家督へ」
 ここに掲げた3人は、それぞれ先祖から受け継いだ家職を大切にし、子々孫々までの繁栄を願いつつ、思いを込めて家督の継承者に書き残しているのである。思うに彼らは、幼い頃より手習い・そろばん・行儀作法を学び・長じては心学修行を通じて心徳を切磋琢磨し、併せて家産の礎をなしたのである。
 彼らの幼時の就学については明かでないが、弥蔵については前掲酒井家古文書の中に、文政9年(19歳)に、古状集・今川・嶋原状など、そのころ寺子屋で使用された教科書類を筆写したものが残されている。兵助もまた、前掲の兵助日記の天保15甲辰年正月の所に、次のように記録している。

「一当辰正月十六日 伜定助八才当日逢坂ニ住吉田宅右ェ門殿へ筆道指南ニ付入門目出度奉存候   正月当日  書之兵助」
  熊三郎は、「人柄宜算筆相弁候」故に半田村御取立役を仰せ付けられている(嘉永5)。
(敷太家文書・「家誉之記録」)
  それでは、弥蔵が好んで書き残している処世訓を二つだけ掲示しておこう。
父母孝養ハ衆人愛敬の地形    手習学文ハ物にくらからざる障子
不忠不義は其身流浪の礎     氣随我儘ハ朋友にへだてらるゝ戸
家内和合は富貴の土臺      博奕口論ハ悪魔通用の門
夫婦喧嘩ハ貧乏のはしら     慈悲れんミんハ子孫長久の塀
大酒好色ハ身をくち果す根太   追従めいわくハ不實の玄関
渡世大事ハ家を納る棟木     実意冥加ハ立身の上り縁
美腹珍味ハ借金の板敷      功名手がらハ一生の餝り床
倹約質素ハ困窮余けの屋根    因縁因果ハ堕弱者の押入
虚言謀計ハ始終うそぐらき壁   五倫五常ハ人間一生の居間
正直正路ハ生涯身を明るうする窓 私欲横道ハ一躰手前の勝手
  「心學御題控」(根心舎社中・堺屋弥蔵)巻5天保9戊戌2月

金のなる木


幹・根元より しゃうじ木・・・正直
       じひふか木・・・慈悲深き
       よろず程のよ木・万程の良き
枝・右下より 油断のな木・・・油断の無き
       辛抱つよ木・・・辛抱強き
       いさぎよ木・・・潔き
       あさを木・・・・朝起き
枝・左下より 家内むつまじ木・家内睦まじき
       養生よ木・・・・養生良き
       ついへのな木・・費の無き
       かせ木・・・・・稼ぎ
   (同上、巻5)

おわりに
 前記3名の外に、木村新蔵(文政2年〜明治28年、俳号・根心舎如跡)がいるが、半田町誌下巻、773・4頁に詳しいのでここでは割愛する。根心舎廃絶は弘化末年ということだが、その時弥蔵は40歳、兵助は39歳、熊三郎は35歳、新蔵は29歳であった。世はすでに幕末激動の時代、世事繁忙をきわめ、心学會補を開く余裕などはなかったのだろう。しかし吉野川の交通の要地としての利点を生かした商業活動や、伊勢参詣や旅行などを通して見聞を広めたり、しばしば相撲・浄瑠璃などの興行を開催したり、さらには、俳諧創作の気運の高揚などにおいても、心学修行の成果が大いに発揮されたのではないだろうか。
 今回、敷太家文書、酒井家文書、町誌編纂史料などを拝見することができた。今後さらに解読・検討をしてゆきたいと考えている。史料検索や解読にかんしては、町当局の篠原俊次氏、米沢恵一氏、さらに県立文書館の藤丸氏、福田氏を初め多くの方にご教示・ご協力をいただいた。厚くお礼を申し上げて、この報告を終わります。

 参考文献
半田町誌上・下巻 昭和56年
敷太家文書(大久保進氏所有)
兵助日記(年代聞見録、大久保賢次郎氏所有)
酒井家文書(酒井一宇氏所有、福山市在住)
石川謙『石門心学史の研究』(岩波書店、昭和13年)


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