阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第38号
半田町の伝説

史学班(徳島史学会)  湯浅安夫

 はじめに
 半田町は、半田川が四国山地の奥深くから流れ出し、それに東谷川、大藤谷川等多くの支流が流れ込み、最後は吉野川に合流していて、それらの川や谷沿いに集落が散在している。
 集落での人々の生活の営みは古く、苛酷な自然に生きる生活の知恵、あるいは様々な葛藤や苦しみ、そこに幾多の伝説の生まれた背景が考えられる。山深く樹木は繁り、多くの動物が生息していたので、木や森にまつわるものや大蛇や狸などの伝説が生まれ、山あいをぬって流れる川や谷には各所に滝や淵があり、その各々に名前がつけられ伝説が語りつがれている。
 県下の山村には平家の落人伝説が多いが、半田町にもいくつかの平家伝説がある。ただ四国八十八ヶ所の札所がないためか、他町村に多い弘法大師の活躍を伝える伝説が殆どないのが特色といえる。
 『半田町誌』等にある多くの伝説や、独自にこつこつと集められている平田重市氏等の古老にお聞きした数多くの伝説を分類してみると下の表の通り、伝説の数は60をこえる。
 昔は、親が子に、祖父母が孫に話して聞かせたであろう貴重な伝説の数々であるが、紙面の都合上そのすべては紹介できないが、半田町でよく知られている伝説を中心に、一覧表の中よりいくつかを選んで書いてみたい。

 (1)藤原備中守と馬越
 遠く源平の昔、平家の武将に藤原備中守がいた。屋島の戦いに敗れ、祖谷か一宇方面に逃れる際に道をあやまってこの地にきたが、源氏方に追いつめられ遂に戦死した。
 現在の平良石の西中屋谷右岸に、石積みの上に小祠があり、「備中さん」として崇められている。この藤原備中守の馬が越えたところから「馬越」という地名が生まれたと伝えられている。また、旧馬越農道の西側に「藤原さん」と呼ばれる祠がある。馬越に藤原姓の多いことを考えると、これも藤原備中守いわれの祠といわれている。(『半田町誌』)

 (2)お大師岩屋(ようせん岩屋)
 町内に「お大師岩屋」と呼ばれているのが二つある。一つは「ようせん岩屋」とも呼ばれ、小井野の開拓の祖ようせんが住んでいたという岩屋、もう一つは折坂にあり、岩屋の中に祠をつくり弘法大師を祀ってある。
 江戸初期の頃、小井野の開拓の祖といわれる行者ようせん・しょうせん兄弟は、この岩屋を仮の宿として、小井野に通って原野を開拓したそうである。開拓中、夕方になって枯枝を集め火を焚いて兄弟が話しながらあたっていると、時折山おんじが現れる。「ようせん、あたりおるか」といって焚火の傍に坐り込み、睾丸の皮を伸ばし伸ばしする。温まるにつれ次第に皮が広がり、風呂敷位になると、それで人間を包んでいき喰うのである。ある時、山おんじがやって来て、何時ものように伸ばし始めた。そこでようせんは、石を火に焼いていたのを、「そら焼餅をやろう」といって伸ばした皮の中へ投げ入れた。これにはさすがの山おんじもたまらず、「アッチッチ、ようせんに殺される」と悲鳴をあげながら逃げていったそうである。
 折坂の岩屋にも次の様な伝説がある。その昔、日谷尾の藤原家の先祖にお告げがあり、「この岩屋から出してくれ」というので、大師像を担いで出すと、岩屋の石が倒れ、ころげて折坂の谷までころげていったそうである。今もその石は残っている。
 (黒川浅市さん談)

 (3)於安御前
 昔、半田の蔭という所に楠の大木があった。朝日の影は池田まで、夕日の影は岩津まで届くといわれるほどの大木であった。神功皇后の三韓遠征の折、時の国主は大船を造れと命を受けた。そこで、この楠の大木で船を造ることになった。(秀吉の朝鮮出兵の時に大楠を伐ったという伝説もある。)
 大勢のきこりがきて伐りにかかったが、大風が吹いたり、腹痛がおこったり、その上、今日伐った跡が明くる日はいえ合っているという有様でなかなか伐れない。きこりの頭は思案にくれていた。ところがある夜、夢の中で大楠さんが伐られるので、全山の木や草が揃ってお見舞いに行ったが、オンドボウキ(ほうきぎく)とニンドカズラ(すいかずら)が遅れてきた。それを見た大楠は「お前まできたのか」と見下げたように言ったので、腹を立てたオンドボウキとニンドカズラは、「オンドボウキをニンドカズラで縛って箒をつくれ、それで木っぱを掃き寄せ、焼き捨ててしまえ。そうすると伐り口がいえ合わんようになる」と大楠を伐る方法を教えてくれた。きこりはその通りすると、不思議なことに伐り口はいえ合わなくなり、大楠は伐り倒すことができた。
 ところで、この大楠の近くにお安という姫が住んでいて、大楠を大変信仰していた。大楠が伐られてしまう時、その精がお安に宿った。首尾よく大楠は伐り倒せたが、麓まで運ぶのが大変で、大勢の人が押せども引けどもびくともしない。困りはてた人々は、楠が伐られて悲しみにくれているお安に、仕方なく楠を伐ったことを詫びて力を貸してくれるよう頼んだ。お安が引き綱に手をかけると大木は動き出し、麓の川岸まで下ろし船を造ることができた。
 月満ちて難産のはて生まれたのは蛇の子であった。難産の最中お安は地蔵さんを一心に祈り、「私は難産で死ぬかも知れませんが、世の大勢の女子の大厄を救って下さい。」とお願いして果てた。村人はその後、お安の霊を地蔵さんと共にお祀りした。これを伝え聞いた難産の婦人はお安地蔵にお頼みして安産する者が多く、近在に広く信仰されていた。土御門上皇が土佐よりここを通行された時、その話を聞き、御前の号を賜わり「於安御前」と称するようになった。
 大楠のあった所に「楠さん」と呼ばれる楠神社があって、八畳間一ぱい位の切跡が昭和24年頃迄残っていた。於安御前の御堂の東方の安寺という部落に「木落とし」という所があり、近くに「筏地」という部落・北方に「船屋」という所もあり、何れも大楠の伐り出しに関係ある地名がある。また、油免橋のすぐ下で大楠の枝というのが掘り出されたこともあった。旧3月24日(於安の命日)と10月24日が縁日になっていて、妊婦や子を背負った参詣人が列をなし、西地の筏地に市が立った。於安御前のお堂の中には腹帯がところせましと並んでいる。   (坂本重信さん・平田重市さん談)

 (4)小谷の七瓶
 戦国の昔、小谷長兵衛は一族を率い、軍資金を七つの瓶に入れ、7人の人夫に背負わせて小谷の山奥に籠った。もしこのことが敵方に知られたらまずいと、軍資金を大惣の白滝山に埋め、7人の人夫を斬殺した。青石で碑を建て弔ったのが7人塚として残っている。
 長兵衛は博学多識、武芸に秀でた人で、白滝山からぎょうせん丘一帯にかけて「この土地を掘ってみよ。きっと小判が出てくるはずだ。」といった。住民は労を惜しまず一生懸命掘り起こした。せっかく掘り起こしたのにと、稗や小豆をまいた。くる年もくる年も掘ったが小判は出ない。しかしいつの間にかその辺一帯は、はれ地(開墾地)ができていた。人々は長兵衛に、働き開墾することを教えられたのである。
 その後、「小谷長兵衛埋めたる瓶は朝日輝く松の木のもと」という俗謡がうたわれたりした。なお、7人塚は長兵衛と一緒に開拓に従事した人々の墓であるという伝説もある。
   (『半田町誌』)

 (5)高清左衛門と犬の墓
 戦国の世、上桜城主篠原紫雲の一族に高清左衛門という部将がいた。臂力共に人に優れ、武芸特に砲術をよくした。
 上桜城落城により、一族は散りぢりに落ちのびた。高清左衛門は愛犬を連れて、半田山の高清谷へ身を潜ませ難をのがれた。その後時勢を待って、狩りをして暮らしていた。ある日、3匹の愛犬を連れて重清から真鈴を越え、阿讃国境に近い雨川の辺りで深山に入り野宿をした。その夜、1匹の犬がしきりに吠えたて安眠できない、制してもきかない、狂犬になったのかと1刀のもとに首を落とした。ところがその首は大蛇の鎌首に食いついた。左衛門は大蛇めがけて鉄砲を撃ち込むが大蛇は逃げていった。翌日山を下って、雨川に愛犬を埋め石を立て供養した。これが犬の墓として残っている。その晩、左衛門は庄屋で泊めて貰おうと立ち寄ると、お婆さんが1人いろりにあたっている。それはお婆さんを呑んで化けている大蛇だったので射殺した。これを見た村人は、庄屋の隠居を殺したと向かってきた。いくら化けた大蛇であることをいっても信じてくれず、多勢に無勢、左衛門は殺されてしまった。主をなくした愛犬は、左衛門の親指をかみ切って帰ってきた。これを見た妻は、主人の異変を直感し犬について雨川へ来た。村人は左衛門が大蛇を退治してくれたことを知ったが遅かった。妻に深く詫び、犬の墓も丁寧に祀った。
 妻は高清に帰ると、夫の親指を鈴の実として封じ、向かいの丘に祠を建て祀った。それが現存する鈴実さんの祠である。
 なお、高清左衛門の犬の墓というのが一宇村にもあり、香川県にも同じような伝説があるそうである。   (白川隆市さん・黒川浅市さん談)

 (6)折坂のサッソク
 幕末から明治維新にかけて、折坂方面に「サッソク」といって恐れられるものが出没した。行者の恰好をしていて、食物がなくなると、「わしは土佐から来たサッソクじゃ。食物を出せ」といって住民をおどし、食物や時には金品をまきあげる。
 当時は、土佐から阿波へ山の尾根伝いに人々の交流があったようで、維新の混乱期に土佐の脱藩武士が行者風をして阿波にやってきたらしい。   (黒川浅市さん談)

 (7)魚返り
 曽我谷部落の外れの下の谷に、「魚返り」と呼ぶ所がある。半田川が北流して四国山系の前山を横断して横谷となっている所で、巨大な岩石が折り重なって小滝をつくり、魚が奥へ上ることができず引き返したのでその名がある。
 小滝の岩の上に雨乞いに霊験あらたかな竜王さんを祀った祠がある。日照りが続くと村人は注連(しめ)をめぐらし祭壇を作り供物をして、三番叟を舞わして祈ると、必ず雨を降らしてくれるといわれている。   (平田重市さん談)

 (8)日谷尾の開拓の祖胎蔵院
 日谷尾の開拓をしたのは胎蔵院という行者であった。ある日、胎蔵院が何処かへ出かけて2年位帰ってこないので、葬式をしていたら帰ってきた。「わしはお剣さんの穴禅定て修行してきた」という。
 日谷尾に「お剣さん」(剣神社)という神社があり、それより数百メートル登った所に穴禅定という洞窟がある。その中に入って護摩を焚いて行をしていたわけである。
 その洞窟は深さが知れないと恐れられているが、入口は狭く普通の人がやっと通れるかと思われる位である。ずっと後にある人がこの洞窟に入ったら奥に、胎蔵院が使用した護摩札があったそうである。日谷尾の藤本・藤原の両家は胎蔵院を先祖として、その墓を祀っている。   (黒川浅市さん談)

 (9)富士権現はんの瓶
 何時のころか、何の目的かはっきりしないが、富士権現はんのあたりを数人の人が掘った。掘っているうちにある人の鍬先に瓶が当たった。その人は何くわぬ顔でその瓶に土をかけて他の所を掘った。
 やがて日が暮れかかったので、他の人々と連れ立って帰った。その晩、その人はこっそり元の所へ来て、その瓶を掘って持って帰り、その瓶の中にあった金銀珠玉の宝物を一人占めにしたという事である。他に見た人がいないので真偽のほどはわからない。
 富士権現山は古墳時代の塚跡で、そこから出土の土器の1部が神宮寺に現存する。この山の頂上に昔から神殿があったが、昭和24年頃の台風で倒れてその後再建されていない。
 ご神体は神宮寺に保管し、30年位前迄は、年に3回お祭りをしていたそうである。
   (佐伯卍元さん談)

 (10)不思議な茶釜
 半田の岡田家は忌部氏の流れをくむといわれる旧家であるが、その家に伝わる1個の茶釜がある。
 何時の頃から伝わったのかわからないが、その茶釜には不思議な伝説が残されている。時代は定かでないが、讃岐の長尾からこもに雑魚を入れて売りにくる商人がいた。「うちは貧乏してお金を払えんけん、これを持っていってくれ」といわれるままに、半田の某家から1斗位水の入る大きい茶釜を貰って来たが、家へ帰ると急に腹が痛みだした。その夜、白装束に冠をつけた人影が枕元に立って、「私の身体を阿波に帰してくれ、そしたら腹痛を治してやる」といった。商人は夢だろうと気にとめずにいたが、翌晩も同じことが起こったので、恐ろしくなり茶釜を持って家を出ると、不思議に腹痛は治った。それで子細を言わずその家へ返した。その後、北海道の親戚の者が来て持って帰ったが、同じような怪異があったのであわてて返してきた。
 その後、だれ言うとなくこの茶釜の噂が伝わり、その湯を飲んだら病気が治ると近隣に広まり、毎日のように湯を貰いにくるようになった。大正末期には1日少ない日で5〜60人、多い日で100人に余る時もあり、岡田家では1日数十貫の薪を焚いて湯をふるまったが、警察の干渉もあって中止した。 (『阿波伝説集』)

参考文献
「半田町誌」「日本伝説業書阿波の巻」「阿波伝説集」
「阿波の伝説」「四国路の伝説」「阿波の語りべ」
「日本伝説大系(第十二巻)」「新編美馬郡郷土誌」
「半田川と谷及吉野川の淵のいわれ」―「伝説と昔話」―(平田重市氏収集)


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