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1.歴史に支えられた半田3か村 昭和57年、半田町は総合振興計画を策定し、「ヘルシーハイランド半田」をキャッチフレーズに、健康と産業の新しい町づくりを目指している躍動の町である。 この半田の開拓は遠く縄文時代にさかのぼり(天神段丘石器類出土)、弥生・古墳時代(土器出土)に引継がれ、荘園時代には、八田庄〈注1〉が置かれた。当時の文化・芸術の面影が、多聞寺の庭園や神宮寺の鰐口などに残されている。藩政時代にはいると、半田3か村(半田村・半田口山村・半田奥山村)は、蜂須賀氏の家老稲田氏の所領として行政が行われた。明治に入り、明治5年5月の区制実施で第6大区第4小区(半田・半田口山・半田奥山)に編入された。続いて、明治22年の市制・町村制施行により、半田村と半田口山村が合併して新しい半田村が誕生し、大正5年には町制施行を行い、半田町となる。一方、半田奥山村は大正6年に八千代村と村名を改称、昭和31年9月に至り半田町と合併して現在に至っている。 この半田町の、江戸・明治大正期400年の経済・文化を支え担って来たのが、半田の玄関であった「小野浜」である。いわば、小野浜は半田3か村の喉首・交通の要衝としての役割を果たして来た。この小野浜の歴史的変遷過程をたどってみたい。
 〈注1〉「八田庄」忌部神社の宮司麻植氏の所領旧八千代村下喜来のこと。「菅生文書」(『阿波国徴古雑抄』)に「阿波国八田山三分之−地頭職内下寄来名事任胤信之譲状之旨兵糧料所預置也」とある。
2.半田の玄関、小野浜


 (1)河川の交通 吉野川を始めとする阿波の河川は、東流して紀伊水道に注いでいるため、南北を結ぶ陸路は至る処寸断され、橋梁時代に入るまでは障害となっていた。
しかし、この河川を利用した■船・高瀬船は、江戸・明治大正の400年、人員や物資の輸送に大きな役割を果たしてきた。なかでも吉野川の■船は、県都徳島や県の玄関撫養港と、流域の村々を結ぶ約100kmの間に就航し、阿波の交通の大動脈としての役割を果たした。とりわけ藩政末期からの急速な産業経済の発達を支えた意義は、今日の鉄道・自動車輸送〈注2〉に匹敵するものであった。 〈注2〉「■船の輸送力」・この頃の陸上輸送の最大なものは、馬であった。馬1頭の輸送力は米2俵(1俵は4斗=16貫=60kg)が限度とされた。米50石を運ぶとすれば馬63頭と同数の人夫が必要。なお1日の行程は30km位・半田〜徳島間を60kmとみて2日かかる。この間の宿泊・人間・馬の食事に用する費用も大きい。なお夜は馬背から荷物をおろし、出発には再び馬の背にのせるが、この費用も手間も甚大なものとなる。すなわち当時の陸路の遠距離輸送は高額な運賃が必要とされた。これに反し、水運を利用する■船(50石積の■船)の場合は、米50石を1艘の■船と約2人の船頭で、2日かかれば、徳島・撫養に輸送することができた。■船が繁盛を極めた理由もここにある。 (2)小野浜の常夜灯と船玉神社 小野浜の船着場に今も、文政9年(1826)に建立された常夜灯が当時の繁盛を語りかけるように吉野川に向けて静かなたたずまいを見せている。 この常夜灯は、和泉砂岩で作られた高さ185cm・日月の掘り抜きの明り窓があるりっぱな造りである。小野浜を港とする50艘の■船の夜間の標識とするとともに、荷積み・荷降し(船から馬・荷車・馬荷車から船へ)の照明として、大正3年3月の鉄道開通(徳島〜池田)まで灯し続けた。常夜灯とともに、小野浜の船頭や船主・船関係者が航行の安全を祈願するため、四つ橋より小野浜に出る道の東側に、天保11年(1840)に船玉神社(祭神猿田彦命)を創建している。爾来、年2回(正月・秋)の祭日を定め、船業関係者によって祭祀が続けられた。しかし、■船が廃止になるとともに、船玉神社も八幡神社の社地に境内社として移され、現在に至っている。常夜灯・船玉神社ともに、当時の小野浜の繁盛を偲ぶよすがであるとともに、船乗りたちが船運に命をかけていた証しでもある。 (3)半田素麺を支えた小野浜 阿波の素麺と言えば、半田素麺と答えが帰って来るほど阿波を代表する特産品である。この半田素麺は、天保の初期に大和三輪(三輪素麺)より、淡路福良・撫養を経て半田に伝えられた。大和三輪の流れを汲む製麺法と言える。これは、半田小野浜の船頭が、家族の副業として導入したと伝えられている。 本格的に製麺が始まったのは、天保4年(1833)に小野浜の敷地屋国蔵(びんつけ屋)が、弟長兵衛とともに、従来の副業より本格的な製麺業をおこしてからである。当時の素麺相場が、「兵助日記」〈注3〉に「素麺7貫目につき55匁目・小売60匁」とある。 近代に入り需要の拡大にともない、明治年間には生産量が15,000貫・製麺戸数が50戸に達している。このように順調な発展をみたのは、小野浜地域が製麺に適した自然的条件に恵まれていたことによる。ひとつは、冬季の日乾・庭干しに吉野川を渡る季節風が適していた。次に、製麺に適した水(鉄分・カルシウムの少ない軟水)が段丘の井戸水にあった。なお、小野浜の港をもっていたため、■船によって低賃銀で容易に原料(小麦・撫養塩)の移入と製品の移出がされたことにもある。こうして小野浜を中心とした半田素麺の製造は、維持発展を遂げ、今日に至っている。 (4)御分一所と通行手形 藩政時代は、旅行者や物品の移出入に関しては、藩が設置した御番所や御分一所において厳しい取締り(移動の許可や物品の課税)が行われた。また、物品等の移出入については、通行(送)手形を必要とした。通行手形は、時代や物品の種類により異っていたが、嘉永以降(1848)は、村役人の手形で移動が行われるようになった。 次の覚書が、当時の村役人による通行手形の1例である。 覚 4匁8分7厘 大田市蔵 1.葉藍 47本半・竹皮3丸 右者当村作人共当子年出来葉藍同村・船頭市蔵船に積下申に付御分一所 御通被遊可被下候 以上 子7月 美馬郡太田村 徳太郎■ 御分一所様 (5)小野浜の馬宿 小野浜に集散される上げ荷(積み上げ)・下げ荷(積み下げ)の物品は、総て馬の背にたよった。当時の陸上輸送の最大の機関は馬であった。 この運送にあたった馬を荷付馬と呼び、三々五々隊をなして半田奥山や近隣の村々との間で上げ荷(日用品・雑貨品、塩等)・下げ荷(木炭・藍・楮・樵木等)を運んだ。明治の繁盛を極めた頃、馬専用の宿屋(馬宿)ができている。明治14年に佐々常が開業しているが、現在の敷地部落の佐々政子氏経営の佐々旅館の前身と考えられる。吉野川流域で、馬宿をもっていた浜(津)は珍しい。 〈注3〉「兵助日記」兵助日記は、半田村小野の敷地屋兵助が天保時代以降の半田3か村を中心とした世相・事件・行事・政治経済万般を記録した書である。当時の古文書や古老からの聞きとり、兵助自身の体験見聞事項が刻明に書かれている。年代見聞録が正式の書名である。兵助は、文化6年(1809)小野浜の商家に生まれ、生涯商人として、小野浜を通じて徳島・撫養・池田地方と取引を行い、活躍した。明治10年、65歳で没している。
3.吉野川の船運 (1)■船 小野浜を始めとする吉野川の浜(津)に就航する輸送船を■船という。■船は、平田船・比良多船・平駄船とも書かれている。 広辞苑に「ひらたはヒライタ(平板)の約か・底が平たくて吃水が浅く細長い船・江戸時代おもに石材を運ぶのに用いた。」・大言海には「平板の約と略して、ひらだ・薄く平たくして長き船・■・倭名抄11船類に、■艇薄而長者日■・比良太・俗用平田船・また石を運送する船・段平船・昔々物語(享保)に(涼みのため平田船に屋根を造りかけ是れを借りて浅草川を乗り廻し。)とある。阿波志に「船長2丈5尺許広さ6尺底平板厚舳」、『貞光町誌』に「長さ16m巾2m・8〜12反帆」、『阿波郷土会報』11号に「船の長さ8.5間、巾1.5間帆柱8間帆の巾5間丈が7尋」とある。出典により多少の違いはあるが、船型は同型・長さ9間・巾7尺・深さ4・5尺・11反帆・50石積〈注4〉が■船の代表であった。■船の歴史は古く、14〜5世紀の頃は田船として利用され、慶長(1596〜1615)の頃、大坂で上荷船として大型化され、寛永時代(1624〜1644)は樽前船、北前船の荷物の揚げおろしや河川の物資輸送に利用され、藩政期を通じて重要な役割を果たした。 吉野川には、■船のほかに「エンカン」・「イクイナ」と呼ぶ船もあった。エンカンは、■船を小さくした型で、長さ7間・巾6尺。8反帆、40石積が標準であった。イクイナは、エンカンよりせまく、舳(へさき)が2岐の角状になっていて、その岐の間に櫂を差し込んで漕ぐ特徴ある船で、半田川や貞光川の支流に入ることができた。 ■船・エンカンに取りつけた帆は、松右衛門という純綿の厚い織物作りで帆には、□上(かたがみ)・■臼(かねうす)などと親方(船主)の家印を入れていた。
(2)航行法 吉野川船運の特徴は、春・夏は東風が吹くので帆を利用して上り、秋・冬は西風が吹くので友船(2艘をつなぎ1人が楫をとり他の船頭は綱を引いて川岸を登る)と協力して引きあげた。なかでも岩津のソロバン瀬では300mもある長綱で船を引きあげねばならなかった。引綱は、60〜100尋(100〜200m)もある細長い綱(日向産)で、これを足中草履(あしなかぞうり)をはいて、石を拾うように体を前に傾けて引きあげた。全くの重労働であった。暴風雨や洪水にあったときは、下流の芝原・覚円・川島・岩津・猪尻の浜などに錨を下ろして日和を待って小野浜に帰った。 小野浜〜徳島間の往復に要する日数は、水量・積荷によって一定ではなかったが、大体10日間を必要とした(下りは2日間・上りは約1週間・1カ月2回の運航が標準)。行先は、徳島・撫養と池田が大半であった。増水時は、第十堰を越えて徳島に、平水時は第十堰から大寺へ廻り、高房から古川を下り、新町川(徳島)に入った。 航路として、徳島航路・撫養航路の上り下りがあった。現在の国道192号線に匹敵する輸送路であった。 徳島航路 A
航路…川口池田−辻−小野−脇−穴吹−岩津−覚円−第十−名田−新町川−徳島 B
航路…川口池田−辻−小野−脇−穴吹−岩津−第十−大寺−三つ合−今切川−榎瀬川−吉野川−新町川(徳島) 撫養航路… 川口池田−辻−小野−脇−穴吹−岩津−第十−大寺−旧吉野川−三つ合−新池川−撫養 〈下り航路は上り航路の逆で運航する。〉 〈注4〉「50石積■船」■船の積荷の標準は、50石。1石を20貫として大体1000貫・約4トンを積荷とした。 (3)浜と船数 吉野川就航の■船の正確な船数を知る資料はない。明治9年1月の阿波国郡村誌が残っていれば正確な数を把握出来るが、一部が欠落していて、不可能である。船数不詳の村・年代・船種別など不統一な点もあるが、現存する、阿波国郡村誌・郡史(誌)・町村史(誌)・から収集録し、表1にまとめてみた。正確ではないが、概数をとらえることができる。なお、川船の所有者や船頭等船業関係者は、美馬郡・三好郡に多かったことが資料よりわかる。 当時の船運の状況が、『阿波郡庄記』三好郡の条に次のように記録されている。「芝生村南北加茂村の内に、江口と云う渡場あり・讃州金比羅へ参詣の節帰りには当村へ出かけ船数艘下りあり。3月・10月・10艘または15艘、人ばかり乗船夥敷く宿多く御座候」とある。徳島新聞夕刊(昭和45年3月21日)に徳島史学会の「ふるさと散歩52」の報告で「池田と大寺(板野町)との間には750隻の船が動いていた。その分布状況は、市場47〜8・脇町猪尻40・池田30・成戸12〜3・中島渡24〜5・辻20・岩戸24〜5・喜来4〜5・岩倉2〜3・大田4〜5」とある。出典並びに年代が不詳であるが、当時の船運の繁盛ぶりを知ることができる。 浜(津)吉野川には、多くの浜(津)があった。■船の寄港のできる浜として、30に近い浜名が残っている。(図1)・そのほかにも、芝原の浜・中の島の浜・江ノ脇の瀞・轟の浜・足代の東浜などの名もみえている。 (4)■船と輸送品 ■船による輸送物品(上荷・下荷)について、■船の全盛時代であった明治30年代の移出入物品の記録を『山城谷村史』・並びに『貞光村史』から取りあげてみた(表2、3)。これによって当時の物品の動き、数量の大様を知ることができる。

 「阿波郷土会報」11号の「吉野川の輸送船」に、二条の浜(板野郡土成町)〜徳島間の■船の運賃が次のよう記録されている。「下荷(二条の浜より)」:藍玉20入・1俵・5銭、スクモ13〜4貫入1俵2銭5厘〜3銭。「上荷(徳島より)」:肥料用大豆粕7貫300匆入1俵・2〜2銭5厘、ニシン粕・鰮のホシカ20〜25貫入1俵・10〜12銭。「撫養からの上荷」:塩1俵・7貫入2銭〜3銭。 上表でもわかるように、当時の吉野川流域の主な移出物品は、煙草・木材・樵木・薪・木炭・三椏・楮・葉藍・藍玉・すくも。移入物品は、米・裸麦・小麦・大豆・小豆・食塩・種油・柿原の和砂糖・魚類・半紙・洋紙・唐糸・木綿・織物・鯡粕・鰹節・陶器・畳表ござ・肥料・石灰であった。 (5)繁盛をきわめた■船 1 『阿波郡庄記』より…「芝生村南北加茂村の内に、江口と云う渡場あり。讃州金比羅へ参詣の節、帰りには当村へ出かけ船数艘下りあり。3月10日、10艘または15艘、人ばかり乗船夥敷く宿多く御座候」とある。半田小野浜にも船頭多く乗船客も多く、明治末期〜大正初期の半田小野浜〜船戸(川田から鉄道)間の船賃は3銭5厘とある。 2 徳島日々新聞…明治28年2月23日の報道に「吉野川筋貨物を積載上下する船数150隻・1か年の往復回数2万回・物資品目・藍玉・藍草・すくも・玉砂・砂糖・塩・石灰・鯡粕・米麦・煙草大豆・木炭・薪・雑貨・陶器・物資総重量200万貫・船客用の船50隻・利用船客6〜7万人・内・県外客10分の1、時期は9月から翌年5月の間が多い。(風と水量と農繁の関係) 3 帆かけ舟「春夏は川に沿って東風が吹くので帆かけ船が上って来る。夏・水泳に行くと大きな帆(8反帆)をかけた平駄船が後から後から船首に波をけって上って来るのを面白く眺めた。また、秋冬は・西風となるので帆は利用できず2〜3人の船頭が綱で船を曳いて上る。脇町の対岸の河原の水辺を綱を肩にかけ身体を前に屈めて船を曳く景物をよく見た。帆かけ船は全国何処の川にもあっただろう。しかし吉野川の如く巨大な帆を使用した処は他にあまりなかっただろうと思う。吉野川の帆かけ船は日本一であったかも知れぬ。とにかく吉野川の風景に興趣をそえるものであった。……」(笠井藍水の回想記) 4 『山川町史』に「吉野川は常に帆かけ船の航行で賑わっていた。寛政10年(1789)の頃、タデ藍の製造に使う玉砂だけでも輸送量は1500石・トラック950台分ぐらいあった。これは、わずか1部で、肥料・藍玉・米麦・雑貨・薪・炭・塩等も含めると吉野川流域で動く物資のほとんどが川船に積み込まれていた。…後略…」 (6)船頭の収入 明治の頃の船頭の様子や収入について、「吉野川の輸送船」(「阿波郷土会報」11号)に次のように書かれている。「50貫の石を抱えて歩く。35貫のニシン肥1俵をくるりと担ぐ。穀物5斗俵1つなら片手で肩に乗せるのが普通であるが、そのうえ川幅の狭い急流や渦さきを熟知して他の船や障害物に衝突しないように進んで行く「ケンワリ」を心得えている荒シコの給料が半期(6か月)で25〜30円・「ケンワリ」を知らない5斗俵ひとつを片手で担ぐだけの能無しは、14〜15円(食事船主持)船は男世帯、船主のほか船頭2人乗る。」 大正初期の小野浜(半田)〜徳島間(標準が1往復10日間)の労働収入は、3〜3円50銭程度であった。ただし、船頭が船主でもあり仲買商を兼ねての物資の上荷・下荷の運送取引を行う場合は別である。■船1艘の船主は、少なくとも水田1町歩の農家に相当する収入があったと言う。(「阿波河川の歴史的変遷過程の研究」小原亨著) 4.■船の終えん 吉野川の船運は、明治の中期(明治30年代)が最盛期であった。明治の後半に入り、漸次陸上交通路の整備改修が進められるとともに、牛馬車・大八車・トラックヘと輸送能力の高い車種が導入されるにともない、河川交通から陸路の時代へと移っていった。 なかでも、■船に大打撃を与えたのが、明治33年に徳島鉄道が徳島〜船戸(川田)間に鉄道を敷設し、更に大正3年3月には池田まで延長されたことである。致命的な打撃を受けた■船は、大正5年には吉野川からその姿を消してしまった。ただし、半田3カ村にあっては、鉄道開通後も、3カ村で生産された樵木材(松材)〈注5〉を大谷焼の窯元(板野郡大谷村)まで■船によって直送をした。鉄道輸送では、徳島駅から荷車または船に積みかえる繁雑さと運賃のコスト高があったため、■船運送が有利であった。こうしたことで、大正10年頃まで小野浜より■船が就航した。 〈注5〉「樵木(こりき)」半田3カ村から伐り出す樵木は、松(赤松)で、小野浜より板野郡大谷村へ積出した。半田奥山産の樵木は、半田川を管流(バラ流し)によって搬出した。樵木は、長さ2尺(60cm)量は1升を単位とする。1升は樵木を高さ3尺(90cm)長さ12尺(360cm)に積んだ量をいう。■船に積込む樵木は、1斗〜1斗2升程度であった。 5.兵助日記にみる小野浜 兵助日記のなかに、小野浜に関する記録が残っている。当時の小野浜の人や物資の動きが知れる。その1部を原文のまま報告する。 1 「安永8巳亥歳正月吉日」の記録 当該2月28日出船半田奥山上喜来多門寺本尊昆沙門天様徳島へ御出開張也、其後5月2日御帰被遊候、2日晩船に而御逗留3日上喜来へ御帰り被遊候」(小野浜泊り) 2 「安政2庚戌年正月吉日」の記録 当戌10月大守様御巡国被為遊候則当月15日重清村空へ御通行被遊16日御船に而当浜御帰り遊候、右殿様に御転位後は敬翁様と申候也。(文中の大守は藩主治昭・当浜とは小野浜) 3 「半田川の樵木と小野浜」 寛政4年子7月26日古今無双之大水出ル、此時小谷山樵木流ル此水ヲ当村ニ而小谷山流れ水と言又下郡筋は今年之阿方水と永く申伝誠に水之高き事前代未聞と也。乎曰小谷山流れと言は小谷山より樵木数石流れ出し松生持宝院之下タ屋敷を一円荷上げ土場にいたし数多上げ有之所右大水出で不残流れ捐す。其木今之常夜燈の辺道より東地中へ彼の松生より流れ大川水強くに付おし上る。是れを村人数百人不残出てひろふてかたぐ…」とある。(常夜燈とあるのは現存する小野浜の常夜灯・ここへ樵木流材が集まる。) 4 「文政13年庚寅5月26日」の記録 当村木の内へ着此度従御上御用に而、半田奥山長野名(旧八千代村)より御石を取る其石蝋石也則平角に切建也、長さ1丈1尺5寸端3尺3寸厚さ1尺7寸也掛目2000貫目也諸御役人5人並に石屋25人其小遣御用之日雇7〜8人右之人数始終日々掛ル当5月26日木之内休場へ着いたし夫れより小野浜船場迄12日之間也…略…道々ヘバンを敷其上へ樫木之古路を敷万力1挺に而巻取る則6月7日船に積也。 1 船之義は当所船頭中へ御渡被仰付候尤彼に徳島筋之上荷船を乗り上げ候而其船に積下候様被仰付候則先達而より其所船手乗上け御座候且此度は百姓人夫は惣而御遣い石被成候皆々御用に御遣い被成候得共夫々日雇銀被仰付候右に準し船頭中も同断日雇夫々御渡被成候。(あと項目省略) 1 此御石江戸御公儀様江奉差上候御石と也。(半田奥山村の蝋石を搬出。小野浜船場より徳島へ■船で積み出す。徳島藩より江戸幕府への献上品。蝋石とは、脂肪光沢と石蝋触感のある微密状の珍石(葉蝋石・滑石・凍石の類)という。 6.絵図にみる小野浜の変遷 小野浜が半田3カ村の玄関口として栄えた藩政時代(文政期)、■船就航の最盛期であった明治中期(30年代)、陸上交通依存の現在(平成3年)の3時代の小野浜の姿を絵図によってとらえてみた。 町や村の繁栄・産業経済の発展は交通からと言うが、小野浜の移り変りには正にその感がある(図A、B、C 表2)



 小野浜周辺の戸数をみると、藩政期53戸が明治30年代には70余戸となり、現在200余戸に増加している。これらは、国道192号線沿い、県道半田貞光線沿い、半田駅周辺の小野西・旭・敷地地区に集中している。また職業も時代の要請にこたえ、図3、図4中の表に掲げた職業別戸数の如く変化を見せている。 ■船就航の全盛時代であった幕末から明治(全盛期には50艘余の■船が出入り)にかけての小野浜周辺には、船頭や乗客・荷物(上荷・下荷)を対象とした店屋が軒を並べていた。現在の半田貞光線(県道)と小野浜より小野峠に通ずる浜往還道の交差点、四つ橋を中心として菓子屋、傘屋、鉄砲屋、宿屋、酒屋、飲食、料理屋、魚屋、雑貨屋、びんつけ屋、桶屋といった商港にふさわしい商店街を構成していた。当時の店屋は屋号で商品の取引きを行っていた。今も当時の屋号〈注6〉が使われている。 明治の繁栄は現代に引継がれ、小野浜周辺には200余戸の一大集落地が形成された。大正3年の国鉄半田駅の設置、県道半田貞光線の整備拡充、半田奥山に通ずる県道八千代線の改修、加えて国道192号線の新設が戸数増加の大きな推進力になったことは言うまでもない。 職業も、■船の廃止とともに明治中期の職業とは大きく変った。なかでも、農業専業・藍商・運送業に関係する船主、船頭、馬宿等の職業が姿を消し、表2 小野浜周辺の職業別戸数に示すように多種多様な職業構成になって、町が働いている。今後の小野浜がどう変わって行くか、今後の町の政治のとりくみと産業経済の動向に大きくかかわる問題であろう。 〈注6〉「小野浜の屋号」今づ屋・びんつけ屋・にしら屋・敷地屋・大道・坂八・かぎ屋・杉屋・鉄砲屋・川の屋・桶屋・こてや・はなや・穴口・写真屋・米屋・はこやの屋号が残っている。この調査の収集に、「びんつけ屋」小浜広吉氏(大正2年5月5日生)を訪ねたが、小浜氏によれば「私の代まで、びんつけ屋を職として5代続いた。小野浜の船着場に近かった関係で来客も多く商売も繁盛していた。当時の商家で使った屋号は今もその家を代表する家名として使われている。」とのことであった。
参考文献 『半田町誌』〈上、下〉昭和55年8月 半田町誌出版委員会 『兵助日記』昭和53年3月刊 半田町誌出版委員会 「阿波河川の歴史的変道過程の研究」昭和35年刊 小原亨著 『貞光町史』昭和40年3月 貞光町史編さん委員会 『徳島県史』昭和41年9月刊 県史編さん委員会 『阿波藩民政資料』〈上、下〉大正5年 徳島県 『阿波郡庄記』昭和63年11月 徳島県史料刊行会 『吉野川利水の構図』昭和45年6月 芳水康史著 『吉野川』昭和42年5月 国土開発調査会 『吉野川』昭和35年3月 毎日新聞社 |