阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第38号
半田町の氏堂の仏像について

史学班(徳島史学会)  田中省造

 はじめに
 今回の半田町の学術調査では、半田町当局からの依頼もあり、町内の四カ所の氏堂に残る仏像について調査した。調査したのは、1 白石の西の堂、2 日開野の東養寺、3 中藪の中藪庵、4 長谷保の井黒庵である。このうち、1 白石の西の堂についてはすでに『半田町誌』が述べており、2 日開野の東養寺の仏像については美馬郡美馬町在住の藤野真宥氏の詳細な調査ノートが東養寺に残されている。以下、これらを参考にして記すことにする。

 1 白石の西の堂
A 観音菩薩立像
 右手垂下し、左手屈臂して宝瓶をとる通行の観音像である。宝髻を結い、条帛・裳・天衣をつける。現状聖観音の姿であるが、地髪部に十数個のほぞ穴が認められ、かつては十一面観音であったと考えられる。植え付けの化仏、頂上面すべてを失うことは例が少ないと考えられ、あるいはある時期に誰かが聖観音に改めたとも考えられる。地元では現在も十一面観音と呼んでいるが、当初から十一面観音であったかは不明である。この堂の本尊で、この堂が一名観音堂と呼ばれるのはそのためであろう。一木造り、彫眼で、肉身は金泥、着衣は彩色のいわゆる半金色の姿である。厚い躰奥など、なかなかの側面観をもつが、なで肩、やや威厳を欠いた顔、小さい口元が鼻にせまっていること、ぎこちない裳の折り返し部分などから室町時代の制作と考えられる。なお、金泥、彩色、天衣、台座、光背など、すべて江戸時代の後補と見られる。
B 薬師如来立像  像高40.0cm
 本尊像に向かって右に脇侍のごとく安置されている。衲衣を通肩に着し、右手屈臂して掌を前にむけ、左手屈臂して薬壷をとる通行の姿である。一木造り、彫眼、肉身は金泥、着衣は彩色である。螺髪は省略している。持物、彩色、台座、光背などすべて後補である。おそらく江戸時代に制作されたものであろう。台座の框の底面に次の銘文があり、文政2年(1819)に大坂の仏師清水隼人が修理したものと知られる。
   文政二年二月二十五日 仏師大坂心斎橋清水隼人
 なお、同じくこの堂に安置される弘法大師像の台座裏面に次のような銘文があって、弘法大師像を文化15年(1818)に同じく清水隼人が制作したことが知られる。おそらく、清水隼人は1年ほど当地にとどまって造仏、仏像の修理などに従事したと考えられる。また本尊像、次に述べる阿弥陀像などの修理もこの清水隼人の仕事であろう。
   大坂心斎橋筋仏師清水隼人 曽我白石惣氏子中 文化十五年六月八日
C 阿弥陀如来立像  像高40.0cm
 衲衣を通肩に着し、右手は屈臂し、左手垂下して、ともに第1指と第2指を捻ずる姿である。一木造り、彫眼、肉身は金泥、着衣は彩色である。本尊像の向かって左にあたかも脇侍のごとく安置されている。おそらく、江戸時代に前述の薬師如来像と一具のものとして制作されたものであろう。光背、台座など後補である。

 2 日開野の東養寺

D 薬師如来立像  像高52.5cm
 右手屈臂して掌を前にむけ、左手屈臂して薬壷をとる通行の姿である。肉髻部の螺髪は省略されている。一木造り、彫眼で、現状は古色である。光背を欠失するほか、右手指先を欠いている。江戸時代の制作とみられるが、あるいは前述の清水隼人の仕事とも考えられる。この寺の山号が医王山、寺号が東養寺というのは、この像に基づくのであろう。なお、彫技などからみて、以下に述べる不動明王立像、天部立像(毘沙門天か)と一具のものと考えてよかろう。
E 不動明王立像  像高32.5cm
 右手に剣、左手に索をとる通行の姿である。条帛・天衣をつける。一木造り、彩色の像で、極端に上半身を左に傾けている。不動・毘沙門天が両脇侍となる例は他にもあり、左傾するのはこの像が本来本尊像と一具のものとして制作されたことを示していよう。光背は板光背である。
F 天部立像  像高32.5cm
 右手は屈臂して鉾をとり(ただし鉾欠)、左手屈臂して腰にあて、武装して立つ姿である。一木造り、彩色の像で、本来毘沙門天像として制作されたと考えられる。台座に彫られた邪鬼のユーモラスな姿がほほえましい。

 3 中藪の中藪庵
G 薬師三尊像 中尊   像高52.4cm
        左脇侍  像高34.8cm
        右脇侍  像高34.5cm

 右手屈臂して掌を前にむけ、左手屈臂して薬壷をとる薬師如来立像を中心に、脇侍として左右に両手でそれぞれ日輪・月輪をとる日光菩薩像・月光菩薩立像を配する通行の薬師三尊像である。三尊とも一木造り、彫眼で、当初は彩色像であったらしいが、現状は古色様を呈している。江戸時代も後期の作と考えられるが、その作風からしてあるいは清水隼人の手になるものかもしれない。

 4 長谷保の井黒庵
H 聖観音菩薩立像  像高57.3cm


 右手屈臂して第1指と第2指を捻じ、左手屈臂して蓮華をとる(ただし蓮欠)通行の姿である。宝冠を頂き、条帛・裳をつけ、天衣を両肘から躰側にたらしている。(ただし左躰側の天衣欠)。寄木造り、玉眼で、現状は古色である。台座を含め、江戸時代の作であろう。

 おわりに
 半田町の数多くの氏堂には、数多の優れた仏像が残されており、今もこれら氏堂は地域の人々の信仰の中心的役割を演じている。このことは今回の貧しい調査の中でも、改めて再認識させられたところである。今後とも半田町の氏堂の調査を続けていくことを希望している。拙稿はそのための貧しい中間報告にすぎないことをお断わりしておきたい。なお、最後になったが、調査に多大の便宜を与えられた半田町の町役場の方々、町民のみなさんに深甚の謝意を表したい。


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