阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第38号
古文書調査

郷土史班(阿波郷土会)

 武田寛一1)・河野幸夫2)・

 米澤恵一3)・真貝宣光4)・藤丸昭5)・

 岡泰6)

I 伊丹屋勝蔵について
 天保12年に記されたと推定される古文書(半田町誌所収)によると「当村家数余多御座候而田畠狭敷ト茂手職不仕候而ハ百姓役相立不申村柄ニ而……(後略)……」とある様に、狭い土地に家数が多く百姓では生計がなり立ちがたいという地理的条件は、当地において多くの商人の輩出をみた最大の理由であろう。また新天地を求めて大坂、江戸等へ奉公に出るものも多く、中には商人として大成した人物も多い。本稿でとりあげる伊丹屋勝蔵はその代表であり、まさに半田版というより阿波版紀伊国屋文左衛門と呼んでも過言ではなかろう。しかし、一代で財を築いた点では紀文と同じであるが、伊丹屋は数代にわたり家勢を保ち得たところが紀文と異なる点である。昭和5年10月「全国多額納税者一覧」(帝国興信所調査)によると、資産80万円 大阪南 帯地反物 荘保勝蔵(4代目)、年収6,059円 南末吉橋 洋反物商 荘保勝蔵の名が掲載されている。この数字を本県にあてはめると資産では10位、年収では5位に位置づけられる。そしてその経営基盤は初代勝蔵の在世中に構築されたものである。初代勝蔵は年表、史料にみられる如く藍仲買商から帯地店経営・地主経営・借家経営と経営の多角化を進めた。その遺業は幕末維新の混乱期に他の藍商が没落していく渦中にあっても継続され、逆に仲間内での地位を上昇させていった。明治10年11月「問屋仲買為取替約定書」によると荘保勝蔵は仲買に1名の筆頭にあげられている。荘保家が藍商から撤退した時期は明らかでないが、初代勝蔵が手がけた他の事業は先の大戦による戦災、農地解放でその経営基盤が崩壊するまで継続されたのである。初代勝蔵はまさに商才に富み、先見の明をもった人物であったと言えよう。勝蔵の処世訓ともくされるものが残されているので紹介する(写真)。
 勝蔵は初名を宇之助といい、大坂での町人名は伊丹屋勝蔵、隠居の後は勝右衛門と称した。本名は荘保勝蔵であり樸斎と号した。家印は■(やまくつわ)である。
 阿波出身で大坂に出て活躍した商人の事蹟については個別研究が全くなされていないのが現状である。今回の総合学術調査により伊丹屋勝蔵に関する史料を管見出来たのはまさに幸運であった。ここでは紙面の都合もあり勝蔵の事蹟を年表仕立てとし、事蹟を知り得る根本史料たる「乍憚口上」の紹介等に止めざるを得なかった。(詳細は後日発表の予定)。
○伊丹屋勝蔵関係年表
 明和5年 1768 父、五郎兵衛(弥三右衛門5男)半田村中藪、今津屋与兵衛女と結婚翌明和6年分家する。
 安永5年 1776 11月13日、稲田九郎兵衛頭入百姓五郎兵衛の3男として勝蔵誕生する。
兄太兵衛(安永3年生)、弟利兵衛(安永9年生)。
 寛政5年 1793 大坂北堀江2丁目、藍玉商阿波屋吉右衛門方に奉公に出る。
 寛政8年 1796 北堀江2丁目で借家し、伊丹屋勝蔵を名乗り藍玉商を始める。資金は養母いしより貰った金3分と銭5貫文。
 享和元年 1805 2月、父五郎兵衛死去(62歳)。この頃炭屋町の北村屋勘兵衛娘らんと結婚。文化2年嗣子亀太郎、同13年娘いく生まれる。
 文化3年 1806 兄太兵衛 坂之内逢坂に転宅。塗物商売を始め仲買人となる。売場は摂州大坂、備後福山。
 文化6年 1809 7月「御国産藍玉仲買名面帳」(98名跡)に北堀江2丁目 阿波屋三郎兵衛借家 伊丹屋勝蔵の名有 家印は■(やまくつわ)。この年兄太兵衛五人組役となる。
 文化7年 1810 2月 兄太兵衛 猪尻御屋敷(稲田家)へ冥加金として銀1貫5百匁余を献上し太兵衛、勝蔵、利兵衛の3人子々孫々まで夫銀御免となる。
 文化8年 1811 3月 弟伊丹屋利兵衛死去(32歳)。
 文化9年 1812 春 兄太兵衛 奥山道路普請に銀札1貫5百匁を献上し苗字帯刀御免となり大久保を称す。
 文化12年 1815 兄太兵衛 居をあらため造酒業を始める。翌13年〆油商も兼営。
 文政元年 1818 立慶町に家を購い轡屋と号す。帯地店を開業する。
 文政3年 1811 5月 兄太兵衛死去(47歳)。嗣子熊三郎。
 文政7年 1824 6月 藍店が手狭になった為南堀江3丁目難波屋権兵衛借家に転居。伜亀太郎に勝蔵を名乗らせ自分は勝右衛門と改名し家督を譲る。
 文政8年 1825 8月 八幡宮の屋台に緋羅沙金御紋縫入水引を献上する。
 文政9年 1826 5月 大坂住吉神社に燈篭を献上する(荘保勝蔵)。
 文政12年 1829 3月 長堀10丁目に家を購い移住する。また御池通2丁目に借家をかり同志3人と協泰舎という心学塾を開く。
 天保3年 1832 甥熊三郎 取立役となり質屋を開業する。翌4年山崎村伊勢屋五兵衛女カツと結婚。
 天保7年 1836 10月 八幡宮に唐金の燈篭を寄進(長堀10丁目 伊丹屋勝蔵)。難渋人に米銭を施す等の善行に対し公儀より金2百疋を下賜される。
 天保9年 1838 11月 難渋人に施行する等の善行に対し公儀より金3百疋を下賜される。
 天保13年 1842 甥熊三郎が伊丹屋勝蔵の扣地 河内吉松新田の鎮守産士神社に狛犬を寄進 阿州大久保氏と刻む。
 天保14年 1843 9月 江戸公儀よりの御用金に阿波出身大坂商人としては最高額の4千両を上納する。
         冬、半田大久保一族中興の祖 弥三右衛門夫婦と7人の子の寿像とともに永代塩餅代として5百両を生家一族会(睦講)に贈る。
 弘化2年 1845 4月 甥熊三郎、荘保勝蔵父子の稲田家への献金の功により駈出家来、会所付言上格となる。
 嘉永元年 1848 10月 「御国産藍玉仲買名面帳」によると荘保勝蔵は徳島藩の藍政の中枢 藍方御用利を勤めている。
 嘉永2年 1849 7月 甥熊三郎、荘保勝蔵との続き合いにより稲田家より調達方勧諭御用に任じられ、手当として米1石(年)を支給される。
 嘉永4年 1851 9月 吉松新田(東大阪市)産士神社に鳥居を寄進、荘保姓と刻む。
 安政6年 1859 9月25日 伊丹屋勝蔵(荘保勝蔵)死去、84歳。

史料 伊丹屋勝蔵処世訓
朝おきは家栄長命
けんやくは家斎
家業出精は家長久
寿
只居は悪心のきざし
珎奇は家ほろぼす斧
美食は大酒は身ほろぼす
  八十三才 樸斎
 (安政五年 伊丹屋勝蔵書)

史料 乍憚口上 (天保十三年)
一、丁内伊丹屋勝蔵并同家父勝右衛門両人之義御尋之段左ニ申上候
     長堀拾丁目 伊丹屋勝蔵 当寅三十八才
           女房 ミ祢 当寅三十三才
           父 勝右衛門 六十七才
           母 らん 五十六才
右勝右衛門儀前名勝蔵与申出生阿州美馬郡半田村百姓太兵衛弟ニ而十八才之砌當地江罷越北堀江弐丁目藍玉渡世ニ阿波屋吉右衛門方ニ奉公罷在候處主人吉右衛門儀御吟味之筋ニ付入牢被為 仰付候上追放被為 仰付家財者女房いし江被為下置同人義ハ北堀江四丁目伊丹屋萬兵衛方へ引取右勝蔵義者自分親類曽祢崎新地今津屋正蔵方江相退申候吉右衛門儀者播州明石ニ住居致居候得共いしを育候者無之殊ニ同人親元退轉有之義を兼而相歎候處相談之上勝蔵義いし養子ニ相成寛政八辰年北堀江弐丁目ニ而借家貸り受伊丹屋勝蔵与名前差出しいしより金三歩与銭五貫文貰受候を元手与いたし藍玉商賣相始出精ニ相働いしを主人同様ニ尊敬いたし渡世内透間ニ者吉右衛門居所播州明石江罷越余内差遣懇ニ相尋猶渡世向相励候付追々身上向■相成且又らん義者養母いし回縁炭屋町北村屋勘兵衛娘ニ而養母いし任指図て呼迎候處其後いし義病気ニ取合候ニ付薬用介抱共行届候得共養生不相叶病死仕候且弐拾四ケ年程己前之由立慶町ニ而家買取轡与唱帯地店差出し正路ニ売捌候付追々繁昌いたし当時ニ而ハ召仕モ多く御座候由承り申候且藍玉渡世之義追々手廣ニ相成下人等も多召使ニ相成候付文政七年六月南堀江三丁目難波屋権兵衛借屋江変宅いたし候上伜亀太郎を勝蔵与改名為致自分者勝右衛門与相改家督相譲り申候是當時之相続人ニ御座候同十弐丑年三月私丁内ニ而家買取同四月引移申候勝右衛門義合志外三人之者と心学発起仕御池通四丁目ニ而かしや貸受協泰舎与申手嶋道話所取営家内召使并ニ別家之者迄忠孝仁義智信之道を為聞候右之通相守身分を慎倹約を専ニいたし難渋人眼下之者を憐取立候ニ付気受■追々有福ニ相成申候且當時勝蔵生得誠実成者ニ而心学を心掛平日両親江孝心を竭召使之者共を憐身分相慎家業出精いたし商内筋之義ハ不申及諸事聊も私曲無之藍玉元方格別直安ニ買入候砌迚も高利を不取直安ニ賣捌正直を専といたし渡世向相励候付自渡世向手廣ニ相成取引先之気受■相成申候且勝右衛門差図ニ而丁内番人江例年正月極月両月之間日々白米五合ツソ差遣猶又巳午両年ニ難渋人江白米五拾石施行いたし其余巳年八月廾一日より白米壱舛ニ付百三拾八文ニ買人候を身薄難渋人江百文ツツニ而賣渡申候米凡百石斗并申年米拾九石五斗白麦九石銭弐百弐拾貫文是又市中難渋人江施行いたし同年十二月丁内丁中裏かしや立慶町掛屋敷裏かしや一同江軒別ニ餅米五升并銭弐百文ツツ指遣候由午年南瓦屋町出火之節類焼之難渋人江自分手先より銭五拾貫文別家五人之者より銭三拾貫文為差出都合八拾貫文施行いたし候由猶又申年冬旦那寺旦家之内并他之極々難渋人三十五六軒江日々壱軒毎ニ白麦五合ツツ日数五十日之間差出申候由當寅四月京都西陣帯地下職難渋之者共江白米八石永代借し致遣候由右躰都而親勝右衛門相談之上数度施行いたし候段達御聴て申年六月金弐百疋戌年十一月金参百疋頂戴仕候此度御触渡之趣厚相守商内之品弐割弐部引下て賣捌申候尤藍玉之義者日々目方減り候品ニ付直段弐割弐部引下ケ賣捌候而者過分之損失と相成候品柄も有之候得共御趣意を相守家内暮方致倹約無実之諸雑費無之様心掛渡世相励候ハバ入合可申迚家事向質素致正路渡世いたし候由勝右衛門儀者及老年候得共無病者之義ニ付日々立慶町帯地店孫勝三郎方へ罷越諸事差配いたし直下ケ被仰渡候後早速是迄之正札其侭ニいたし置其上江弐割弐部引下ケ候札を付正路之商内いたし候由勝右衛門儀立慶町自分掛屋敷之裏かしやを日々見廻り渡世向相休ミ居候者江者元手銭壱貫文ツツ貸遣候趣一同江申聞候處弐人任願ニ貸遣右躰女共江者糸車差遣候由承り申候勝右衛門義老衰を不厭諸事能為行届候由勝蔵義も御趣意難有奉存女房之ミ祢諸共両親を大切ニ仕孝心を尽家内睦敷相暮候趣実躰孝心之段丁内ニ而も至而風聞宜義ニ御座候右御尋ニ付乍憚此段御改申上候 以上
     長堀拾丁目 年寄 江戸屋七兵衛 印
  惣御年寄中
 史料 棟附御取調御帳面之写(文政元寅年)
 稲田九郎兵衛様頭入百姓
一 壱家 五人与 大久保太兵衛 歳四十五
此者百姓伊五郎小家ニ而御座候処太兵衛父五郎兵衛代中明和六丑年棟附下調被仰付候節互得心之上小家ヲ放居申ニ付此度右之趣奉願段御余義之上一家ニ被仰付候尤太兵衛義文化六巳年五人組役相蒙翌年他国無切手者究方御用被仰付脇指御免被遊尚又同九申年當村より口山奥山迄道造被仰付候砌銀札壱〆五百目差出候処同年名字帯刀御免被仰付相勤罷有尚又農具并ニ造酒〆油商賣仕居申候
    壱人 太兵衛妻 ひさ  同三十九
    壱人 同人母  わき  同六十八
    壱人 同人弟  勝蔵  同四十三
此者弐拾五ケ年以前摂州大阪へ罷越居申只今北堀江弐丁目ニ而伊丹屋勝蔵と申名前を以藍玉中買仕居申ニ付此度右之趣御給人様へ奉願井尻御用人中より稼手形申請候
    壱人 勝蔵妻  らん  同三十三
    壱人 太兵衛娘 かか  同 十八
    壱人 同人娘  よし  同 十三
    壱人 同人子  熊三郎 同 六ツ
    壱人 勝蔵子  亀太郎 同 十四
    壱人 同人娘  いく  同 三ツ
史料 兵助日記より天保14年の項
一、此度従 江戸公儀様大阪江大数之御用金被仰付左之通則八月より当九月限相済左之通金弐百四拾萬両也 此家数凡四百軒余也 右之通ニ御座候 就中当国より参り出精いたし居申面々左之通御用則調達いたし申義也
 一金四千両  うつぼ   神崎屋仁兵衛 〆六軒阿州より登り出精之仁也
 一金四千両  長堀十丁目 伊丹屋勝蔵  此の外ハ不承尤此金貳朱之利足ニ
 一金弐千両宛              而廿ケ年之間ニ元利共御仕解被仰
 一同     北堀四丁目 加賀屋林兵衛 付候御儀也
 一同     西横堀   阿波屋嘉兵衛      (以下略ス)
 一同     南堀江   伊勢屋次兵衛
 一同     伏見堀  阿王や善右衛門  (文責 真貝宣光)

 II 根心舎夜驚序文と雲雀集…庶民が支えた学問と文芸に関する二つの史料
 (1)はじめに
 半田村藩政後期の学問と文芸に関して、それが象徴的に現れている資料に2つのものがある。1つは敷太家(現大久保進家)所蔵の石門心学関係の書「根心舎夜驚」の序文であり、いま1つは堺屋弥蔵が記した筆写本「雲雀集」という俳諧集である。
 この2つの資料から寛政から弘化まで継続した半田庶民の学習活動と天保期に隆盛をきわめた俳諧による文芸活動について紹介して見たい。
 (2)根心舎夜驚序文
 寛政初期半田村小野の篠原長久郎によって初めて流入された石門心学は、文化年代に入り大なる盛況を来たし、ついに社中自らの手により、学問の拠点としての講舎を設立するに至った。これが心学の本部京都明倫舎より公認せられ、根心舎という舎号と共に学習の指針としての「半田根心舎読書次第」「明倫舎規則」が与えられ、当時既に開設されていた徳島の性善舎、撫養の学半舎と共に、阿波における心学三講舎と称されるようになった。
 この顛末を記したものが表記の根心舎夜驚という記録である。この序文として書かれたものが次の一文である。

  序
予曽て読書のいとま此郷道学の盛なるを思ふに緇(1 )や素(2 )や石門に帰し街童の戯謔するも問弁するもの夥し可謂泰通之時也と つらつら其来由を考るに去る寛政の始め南紀上田翁なるもの蚤歳(3 )より性理に通徹し人を導事極而親切也 ここにをひて 堵庵先生(4 )に許可せられて諸邦に教諭す 其比我ら蒼山篠氏(5 )翁(6 )に徳府にまみえて其説話を聞それより郷に帰りて其耆老を集めて語に其旨趣を以す 皆是に同ず因て師を迎へて道を聞それより郷に帰りて其耆老(7 )を集めて語に其旨趣を似す 皆是に同ず因て師を迎へて道を聞事四旬まてにす爾来生徒日々に盛に月々に大ひにして将ニ百ナラントス 然れとも晋あれハ明夷有り(8 )蹇あれは解有り(9 )て塞暑乃錯に行ハる(10 )が如し 年ならすして衰微す是よりして後世の偽妄(11 )三絃妓舞の弊其間不絶こと糸すしの如し講習することの蒼山 惟清 伊織の数人に過す然とも天の斯文(12 )をすて給ハさる是に南山藤子(13 )を来らしむ 干時文化甲子の秋也 ここにおいて知性先務の学(14 )皎然として又明也 明年乙丑に教黌(15 )をはかりなす 藤子噌然として嘆曰大ひなる哉学也孔子曰就有道而焉ヲ正スハ学を好也とは夫是を云歟と詠歎の余里是が策(16 )に記さしむ 余固辞するにいまた簸揚して糟糠を脱する(17 )にいたらざるを以す
 強曰是瑠塊(18 )也何すれそ純精を事とせんと 故にやむ事を得すして管城子(19 )を走せしむる事然り 文化丁卯夏六月 紀中正 謹書
(注)1 緇(し)―黒衣、僧侶のこと。2 素(そ)―しろぎぬ、白い着物、俗人。3 蚤歳―若い時。4 堵庵先生―石田梅岩の高弟明倫舎一世。5 蒼山篠氏―篠原長久郎。6 紀州の心学者上田唯今。7 耆老―年老いた徳の高い人。長老。8 晋あれば明夷あり―晋は進む、進歩、明夷―賢人が暗君に会って災いを受けること即ち、順調に進むこともあれば災いを受けて不成功に終わることもあるという意。9 蹇あれば解あり―行きづまることもあれば道が開けることもある。10 寒暑乃錯に行わる―錯はまじわる、交錯する。11 偽妄―いつわり。12 斯文―この学、この道。13 南山藤子―備中の心学者田村祐之進。14 知性先務の学―知性は性を知るということで心学の中心課題。先務は第一になすべきつとめ。15 教黌―まなびや、学校、ここでは半田根心舎のこと。16 策―かきつけ、記録。17 簸揚して糟糠を脱する―簸は箕で米をふるい糖やちりをとること。18 瑠塊―瑠璃のかたまり原石のこと。19 管城子―筆の異称。

 文化丁卯年(1807)筆名紀中正によって書かれたこの序文は、先ず半田村の心学最隆盛期(文化4年現在)の状況を述べている。街童の遊びの中にも問弁の姿が入っていたということは、根心舎社中がその講舎で会輔(討議)していた熱気ある学習の姿が投影したものと思われる。序文は次に心学流入歴史に遡っている。前記のごとく寛政7年篠原長久郎の要請に応えて紀州の著名な心学者上田唯今が再度に亘り半田の地に来講している。
 当時既に心学に初入した者が百人近くあったと言う。これが半田における心学の第一隆盛期であった。享和に入り一時中だるみの衰退期をむかえたが、文化元年(1804)備中の心学者田村祐之進(南山藤子)を迎えるに至って、半田心学史上の最盛期に入ったのである。資料中「天の斯文を捨て給ハさる。是に南山藤子を来らしむ」と一時の衰退を、天が彼を来村させたことにより、盛りかえしたと述べている。
 田村祐之進(南山藤子)は、旧姓坂谷祐之進と言い京都明倫舎第3世上河淇水により、数多い門人の中から「同志助教之諸子」として推薦された正式の講師の一人である。
 半田村来講の文化元年以来、文政の初期まで15年ほどの間、殆ど毎年のように来村し、心学教化に力を尽くした。村民より田村先生と呼ばれ、親しみと尊崇の的であったようで、その名は半田の俳誌その他の記録、碑文等に残されている。
 彼の最も大きい功績は、来村初期(文化2年)村民を指導し講舎根心舎を設立せしめたことであろう。心学学習が半田の地に永く継続され、社中の活動が弘化4年(1847)の根心舎廃絶までつづけられたのも彼の教化によるものと考えられる。
 本縞が主題としている「根心舎夜驚序文」も南山藤子(田村祐之進)が紀中正なる者に命じて文化4年に書かしめている。この筆名紀中正という人物が何者であるかは不明であるが、この人物が半田心学初期(寛政から文化年間まで)の地元の学者であること、またその人物が田村祐之進より信任のあつかった者であったこと、この記録「根心舎夜驚」が半田村逢坂の敷太家に保存されていたことから考えて敷地屋太兵衛でなかったかと考えることは、無理な推論ではないように思う。
 ともかくも、文化2年の根心舎設立から、社中の活動は、以降40年間つづくのである。
 半田の石門心学は、藩政後期半田庶民の文化活動を知る上に貴重な意義を有するものであると言うことが出来る。
(3)雲雀集(全)
 藩政後期、半田村の文芸活動の主流となったものは、各務支考を祖とする美濃派の俳諧で当地方では脇町を源流としている。「阿波正風年譜」によれば明和年間、柿原の俳人藤井機因により阿波へ入って来たこの流派が、美馬郡へ流入したのは天明元年(1781)である。当時脇町の宗匠臥林庵蘭室の指導下にあった半田へもその頃入って来たものと考えられる。以来半田の美濃派俳諧社中は連綿とつづき明治、大正まで及んだ。
 その永い俳譜活動の中で、隆盛の頂点となったものが、天保14年(1843)小野峠に建立した芭蕉句碑建立と、その時挙行された記念俳譜である。その時の模様を半田村小野の俳人春耕園農甫が筆写し「雲雀集 全」として詳細な記録を残している。
 この集は現在半田に残っている正式俳諧の貴重な記録である。これによれば春耕園農甫と迎月亭志道の発願斡旋により、天保14年4月12日に碑は完成している。碑面は芭蕉が大和多武峯から吉野へ出る峠、臍峠での作「雲雀より上にやすらふ峠かな」の句である。
 この建立の年が芭蕉150回忌に当たっていることも、建立の動機の一つであろうと思われる。開眼につづいてこの集の眼目とも言える俳諧七十二候(七十二句の連句)が、巻かれている。次に名録通題として、村内全俳人と思われる数の句が並んで、この集をしめくくっている。その頃の半田俳諧社中は、阿波半田連と称されていたが、その下部集団として、木ノ内山裾亭連中(15人)、逢坂南北社連中(25人)、小野篁社連中(24人)の3社中があった。その計64名という俳人の数は、狭い地域の半田村としては驚くべき数である。この数字から見ても半田庶民の俳諧熱は、半田の社中が師と仰いだ山水居渡橋のひきいる脇町社中に迫るものがあったと言えよう。また、この雲雀集は俳諧(連句)の正式様式を後世に伝えたものとして、その価値は大きい。この記録はいま酒井一生家に保存されている。(文責 米澤 恵一)

III 和田・佐藤両家の古文書目録
(1)和田家 ―半田町松生 和田幸夫氏所蔵―

(2)佐藤家 −半田町逢坂 佐藤泰明氏所蔵−
(ア)綴帳類

(イ)1枚物

(目録作成 河野幸夫・真貝宣光・藤丸 昭)
 文書紹介
 史料1

 慶応4年、軍備の洋式化に備えて外国製のミニケエル銃の購入に対して、和田乕莇氏が1挺の購入費として、銭1貫661匁9分8厘を献金したときの受領証
 史料2

 半田町の葉たばこ栽培人6人の総代として、和田友吉氏が煙草収納所長に、母木(種木)の保存許可を申請したもの。
 明治38年当時、半田村大字半田で葉たばこ栽培面積5.81歩、栽培人6人であったことがわかる。
   (文責 河野幸夫)

IV 半田町の古道
 半田は中世八田荘(郷)と言われたところで、半田川とその支流の谷川が彫刻した川沿いの谷底平地と、これより数十メートルないし数百メートル高い段丘上に、早くから人が住んでいたと考えられる盆地で、その景観はなぜか人の心を平穏にさせる休息感に満ちていて、峠への登高の折1度ならず地区民の親身な温かい心に接したことである。そんな人たちの住む集落には中世の香りのする古い遺跡や文化財も少なくはないし、山村の常として観音や弘法大師を安置する氏堂が必ずといってよい位みられる。しかし、いずれの集落も過疎には抗しきれぬようである。
 半田は「坂と峠ばかりの町」とよく言われるように、半田盆地をかこむ段丘に小野峠、植松峠、奥峠、西峠、笠仏峠、安場峠、焼堂峠、石堂越、小谷越、馬越、蔭越、八ツ松峠と言った多数の峠(越)が数えられる。これらの峠(越)のうち美馬郡郡里の高い文化がいち早く流入したと言われる八ツ松峠、木地屋や行商人か往還した石堂越、焼堂越、かつて剣山登拝者が越えた笠仏峠、安場峠の5つの峠(越)を今回取り上げることにする。
(1)八ツ松峠 標高430m
 県道 蔭井川小野線
 川井−日浦−毛田
 井川谷に沿って西進、日浦から毛田舞寺に通ずる上り一方の嶮しい峠みちで、かつて旅人を見守った2体の地蔵が立つ。日浦の山脈の東端丘上にあるこの一帯は、早くから開拓されたと思われ、また、半田盆地が一望され八田山と呼ばれた中世から、この地を掌握した権力者の居宅や城塞があったとしてもおかしくない気がする。日浦上部落に「おしとのくぼ(大人の窪)」くもんやしき(公文屋敷)」などの地名が残っている。古くは萩蔵の石積(古墳)の跡もある。石堂神社の祭神は天神7代、地神5代を祀る。峠名は昔8本の松が峠にあったことによる。
(2)石堂越 標高1,000m
 県道 小谷西端山線
 川又−紙屋−大惣−峠−一字木地屋
 紙屋の多聞寺には室町時代の作庭を思わせる枯山水の庭、上喜来には南朝方に心を寄せた人たちによって祭祀された新田神社がある。大惣は一字木地屋と地理的にも経済的にも社会的にも昔からの関係が深い。峠の山頂は一帯の草原でそこにオペリス型の巨大な奇石が立つ。石堂神社は山祇命を祀ると言われているが、本来はこの塔石を御神体とする巨石信仰による。
(3)焼堂峠 標高999m
 県道 上蓮小野線
 川又−上蓮−折坂−峠−一字寺地
 黒谷川に沿って青野、下尾尻、上蓮、段丘崖上に点在する折坂の集落を上りつめると一字寺地に入る。峠の堂宇には2基の地蔵が安置されている。今はこの峠越のみちは雑木で覆われ、寺地の集落も住む人もなく氏堂が淋しく取り残されている。坂根の奈良堂観音堂の正面御拝の3体の龍の彫刻は香美の陽介の作ですばらしい。折坂の御剣神社(祭神 天御中主命、新田義貞)の神明造は脇町の宮大工実藤一族の作である。なぜ峠名に「焼」がついたのか。尾根の乾燥「やけ」からか。
(4)安場峠 標高480m
 県道 小谷西端山線
 川又−高清−蔭窪−峠−吉良、猿飼
 峠へのみちは平坦である。高清鉱山採掘跡、天然記念物高清の大杉、心身障害者のキャンプ場「よもじの里」がある。峠名は峠とおぼしいところの山頂に畳10帖位の平坦な空地があって、高清、吉良、猿飼、笠仏峠へ通ずる地名のよもじ(四方路)で、峠越の旅人がしばし憩う格好の休み場となったところから「安場」となった。
(5)笠仏峠 標高406m
 どうめき−梶尾谷−長谷−笠仏峠−端山
 かつてこの峠へのみちは半田から剣山登拝のみちで、峠から安場峠へ向かう途上に宿屋や茶屋があったことが、菊地武矩の「祖谷紀行」にみえる。峠名は笠をかむった石仏らであるとか。貞光川に沿った今日の一宇街道が開通(明治17〜23年)するまでは道幅が1mにも充たぬ山道であったが一宇ヘの最短距離であって、殊に三好郡東部、西讃岐、伊予からの剣山登拝者は、みな半田村を通って行ったもので、半田登山口には善根宿やお接待所といったものがあって随分殷賑を極めたというが、今日ではすでに過去の語り草になった。どうめき堂南の旧道に剣山登山道が今も用なしげに立っている。
  明治五申年 当村地主 金五良
    八里八丁
   左剣山道 右村方道
  四月三日   信州佐文
      徳次郎 三好郡井ノ内利喜蔵
(6)むすび
 かつての峠みちは今日大方廃道にちかい。しかし、みちとは本来そうしたもので、交通の発達による自然陶汰で古道は旧道に、旧道はやがて新道に取って代わられてゆく。半田から剣山へのみちがまさにそうである。しかし、私は早い時代に文化や農耕技術を運んできた古道や旧道に人間のぬくもりを感じる。峠みちに残る石仏や文化遺産をいつまでも残してほしいものである。   (文責 岡泰)

1)阿波郷土会理事(阿南市) 2)同副会長(徳島市) 3)同会員(半田町)
4)同理事(徳島市)     5)同会員(県立文書館)6)同理事(鳴門市)


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