阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第38号
半田町の民家

建築班(日本建築学会徳島支所)

 酒巻芳保1)・四宮照義2)・

 木下龍一3)・林茂樹4)・野口政司5)・

 西山功6)・中川俊博7)

はじめに
 半田町は北部において吉野川に接し、JR 徳島本線や国道192号線も通過しているが、町域ほとんどが山間部を占める山の町と言えよう。
 集落としては吉野川沿いの街道筋と盆地の役場周辺の町屋(写真1)、半田川やその支流の川沿いに張り付く谷間の町筋、そして山腹にしがみつくように点在する集落との3種類に分けられる。
 本調査は、I平地の町屋2軒(商家1軒、擬洋風医院建築1軒)、II川沿いの民家3軒、III山間部民家5軒の計10軒の民家を調査したが、そのうちでも山間部は特に高齢化と過疎化が進み、廃屋となった家が3軒、老婦人だけの独居家庭が2軒で、山から人が消えつつあり、気候風土に根ざし築き上げてきた民家の工法、間取りといった知恵や工夫も共に失われつつある。今我々にできることはこれらの知恵を探り、今の家造りに生かすと共に共有財産として後世にも伝えることであろう。
 調査員は、昭和7年より故今和次郎氏に随行されて民家調査に携わり、60年のキャリアの酒巻先生(写真2後列中央)をはじめ、日本建築学会徳島支所会員を中心に構成されている。

目次
I.平地の町屋  1.大久保甚吉家(商家) 半田町小野
         2.北室医院(擬洋風建築医院) 半田町松生
II.川沿いの民家  3.中川金一家(懸崖造りの家) 半田町小谷
         4.武岡忠利家(五人組の家) 半田町下喜来72
         5.武田宇佐雄家(川筋の家) 半田町下喜来
III.山間部民家  6.山下宗一家(持出し梁の家) 半田町字陰名595
         7.酒井キミコ家(床梁のある家) 半田町中熊
         8.水野喜平家(大黒柱のある家) 半田町長野
         9.下北サカエ家(矩折広緑の家) 半田町日谷尾
         10.中村コハマ家(大蓋の家) 半田町日谷尾44
IV.町屋その他
V.総括

I.平地の町屋
 (4)大久保甚吉家(商家) 半田町小野
 国道から半田町に入ると、本瓦葺きの屋根が幾重にも重なって見える(写真1−1)。これが有名な阿波の半田漆器の間屋の屋敷であった大久保家である。西側道路側に入母屋本瓦葺き懸魚付きの屋根に、外壁は漆喰白壁の生子壁の腰を付けた立派な長屋門が在る(写真1−2)。長屋門の中央に欅造りの重厚な門扉があり、左右に番屋と納屋を配している(図1−1)。建築年代は棟札を調べることができなかったが、聞くところによると築後200年程になるとのこと。町筋に連なって建っている商家と異なり、この家は一つの屋敷構えを持った商家建築としての価値がある。また、大きな屋敷の常としてここ大久保家に於いても陰陽師(家相見)によって方位の吉凶、屋敷割りをして建てられた。(四宮)

  

2.北室医院(擬洋風建築医院) 半田町松生
 JR 徳島本線の線路沿いにハイカラ建築が建っている。大正11年頃の建築で屋根は日本瓦(平)葺き寄棟、正面玄関部分の上部は切妻屋根とし、ポーチ屋根は銅板一文字葺き寄棟となっている。外壁はドイツ下見板張り(箱目地横羽目板張り)で腰部は竪羽目板張り。窓は引違い窓で、外壁、窓など全てオイルペイント塗りである。2階の院長室の窓は当時としてはハイカラな「上げ下げ窓」である(写真2−1)。
 1階には診療に必要な各室をとり、2階には入院室、看護婦室、院長室などを設けていたが今は使用されていない(図2−2)。
 明治の初めに西洋建築様式が伝えられて、昭和の初めまで官公庁の建物に採用されたが、民間でも病院や分限者の応接室などに採り入れられた。これらの建築様式を「明治建築」と呼び、西洋ハイカラ建築に日本建築の技法が混ざった一種独特の建築様式を生み出した。
 北室医院でも大工棟梁の匠の意気を示した手法が、ポーチの天井飾り(写真2−2)、破風飾り等に擬洋風、内部の階段室には数寄屋風が見られる。また、住居である主屋は本瓦葺起り破風の入母屋屋根といった重厚な日本風の建物で(写真2−3)、千鳥破風入母屋の玄関や外壁の虫篭窓、その下の漆喰飾り(写真2−4)などに贅を尽くした技術の粋を見せている。(四宮)

II.川沿いの民家
 (3)中川金一家(懸崖造りの家) 半田町小谷
 山間部では、谷間に沿って造られた道を挾んで民家が建つ。谷川に面した家は半分谷に張り出した形となり、桟敷の柱を谷側に建てて納屋を建てる。この納屋を「下納屋」と土地の人は呼ぶ。谷から見ると2階建てのようであり、この様な建て方を「桟敷造り」と呼ぶ。一方山側は道路造りのため削り取られて崖や急斜面になっているのが普通で、家は建てる事ができない。ところが、人々は数少ない山の緩い傾斜地を見つけこれを拓いて母屋を建てる。
 中川家は(写真3−1)のように道路の山側に建つため、長い石段を築いて(写真3−2)3m 近く高い位置に平坦な敷地を造り主屋を建てている。そして、主屋の床を下部の傾斜地に道路まで張り出し、納屋、風呂、便所などを下に設けているので、道路側からは2階建てのように見える。この様な家造りを「懸崖造り」と呼んでいる(図3−1)。主屋は茅葺寄棟屋根にトタンを覆っている。
 間取りは右勝手の四間取りだが、道路(谷)側が南のため開口を取っており、外に縁を巡らせている。家人によると築後70年位とのこと。(四宮)

 (4)武岡忠利家(五人組の家) 半田町下喜来72
 半田川沿いの県道から一段上がったところに四方下の大きな茅葺き屋根が見える。これが武岡家で(写真4−2)、向かって左側と全面の左に付属屋がある(図4−1)。棟札によると寛政2年(1790)の建築で、弘化2年(1845)の改造時の家相図が有り(図4−2)、これによると主屋は前面に湯殿を持った左勝手六間取りで、当初から広い15帖間が在ったことが伺える。また、6帖間以上の4部屋には囲炉裏が在った。
 現在の間取りは(図4−3)のとおりで、当初は(写真4−1)の様に茅葺き四方葺下ろし屋根だったものを10年ほど前に軒先を切ってオブタ(下屋)をつけ、建具を入れて部屋や廊下とし、四方下の屋根となった。そして、そのときニワに床を張って応接間としてあり、玄関を増築して入母屋屋根を架けてある。
 こういった山間部では四間取り以下かその変形が主で六間取りは珍しく、15帖という広い部屋(オモテ)も五人組といった役目から会合などの用途に必要だったものかもしれない。座敷には長押があり、鶴亀の釘隠しがついている(写真4−3)。また、天井が張られており、それぞれ囲炉裏のための煙出しの開口部が設けられている(写真4−4)。
 しかし、囲炉裏の方は現在15帖間だけしか残されていない。架構は叉首組の一般的なもので(写真4−5)、屋根は昔の葺下ろし時は2段に葺かれていたが現在は下屋がつき葺脚が短くなったためか段は付いていない。(林)

 (5)武田宇佐雄家(川筋の家) 半田町下喜来
 武田宇佐雄家は、中喜来の川筋に沿う高台に、納屋、主屋と横に並列して(図5−1)南面の谷を見おろすように建っていた(写真5−1)。
 86歳になる武田こゆきさんのお話によれば、現在の主屋(写真5−2)は町誌に掲載されている如く、正徳2年(1712)に建ったもので、武田家の先祖は、尚もう一代前に半田本町より99谷を渡って当地にこられたと言う。
 町内随一の古民家であるが、平面はくい違い四間取りであり(図5−2)、現在は大幅に改造されているにもかかわらず、上屋桁のレベルの低いことや、小屋材の仕上げ様が非常に古風な趣を今に伝えている。(木下)

III.山間部民家
 (6)山下宗市家(持出し梁の家) 半田町字陰名595
 山下宗市家は、標高600m程ある陰名集落のほぼ平たい山の背にはりつくように2層の納屋インキョ(写真6−3)、ムシヤ(写真6−4)及びイドノに囲まれ、無住の状態で夏草に埋くまっていた(図6.1)。
 屋根はもっこりした四方寄棟の茅葺きであり、棟の飾りは滑落しているものの、おそらく段葺きであったろう力強い起りのあるオマには、横筋が一本引かれていた(写真6−1)。
 桁行き5間半、梁間3間半の平面は右勝手で、山間民家に特徴的な横並列二間取りの形式をもち(図6−3)、オモテ8帖には半床があり、奥のネマには美しい車びつが発見された(写真6−2)。
 小屋組は叉首構造であり、四間の主梁は折置きに組まれ、東面谷川のエンの上に、真ん中だけ持ち出して軒桁を支えている(写真6−5)のがこの家の特徴である。なお、いもぶろのあるニワより70cmも高い床下の構造として、栗の根がらみ根太のたくましさが印象深かった。(木下)

 (7)酒井キミコ家(虹梁のある家) 半田町下喜来
 急斜面を、北西〜南東方向に長く切り開いて裏築と呼ばれる石垣を積み上げ造成した敷地の北西入口側より、主屋(写真7−1)、ハナレ、ムシヤ(写真7−3)(コウゾ、ミツマタ等を蒸した)を配して構成されている(図7−1)。
 前後はかなり狭く左右に長いため、主屋は切り開いた崖いっぱいに建てられている。
 主屋とハナレの間には庭を配し、ハナレ脇にはイズミが設けられている。
 主屋は桁行6間、梁間3間、茅葺寄棟造りで、敷地奥行きが狭いため北側に入り口を取った右勝手、横二間取りである(図7−2)。
 建築年代は棟札により文化3年(1806)である事が判明した。カケナガシ(葺き降ろし)屋根(写真7−2)の架構は叉首組(図7−3)、また、軒先に落とし縁を備えており、オモテの間からは落とし縁越しに谷向こうの猿楽方面の絶景が見渡せる(写真7−4)
 床下には虹梁(床梁)を配しており、現在の束柱を多用する工法以前の構造となっているのが特徴である(写真7−5)。
 なお、住人の老婦人に聞くところによると、亡くなられたご主人は茅葺職人であったそうである。(中川)

 (8)水野喜平家(大黒柱のある家) 半田町長野
 車を降りてから細い山道をしばらく歩いて降りたところに水野家はあり、半田町の山間民家によく見られるように、かなりの急斜面を切り開いて敷地を造成している(写真8−1)。
 東西に長い敷地には、南面する主屋を中心に東にウマヤ、西にフロ(写真8−2)が建っている(図8−3)。古くから農業をやっていた旧家で、主屋には文化5年(1808)の棟札があり、長野では初めての礎石建てであり、それ以前は堀建であったとのこと。現在の主屋は桁行き7間半、梁間3間半、茅葺寄棟造りで大屋根を軒先まで葺下ろしていて庇はない(図8−1)。
 間取りは右勝手横二間取で改造がほとんどなく、創建当初の姿をよく伝えているが、雨漏りで傷みがひどい。ナカノマ、ザシキ境の前面の縁に続いて便所が設けられており、四国の古い山間民家の特徴をよく現している(図8−2)。
 ウマヤは一段下がった場所に傾斜地を利用して3階建てとなっており(写真8−3)、平地の無い地域の空間利用の工夫のすさまじさを見た思いがした。(野口)

 

(9)下北サカエ家(矩折広縁の家) 半田町日谷尾
 敷地は日谷尾の奥深いところにあり、西側は道路に面し、東、北、南側に谷が迫っている。敷地には現在主屋のみが建っており(写真9−1)、建物前面が狭いため北側にオモテニワがある(図9−1)。
 主屋は桁行6間半、梁間4間、茅葺寄棟造りで、正面向かって右側にニワ(土間)を取る右勝手四間取りの構成で、イドノと落とし縁が正面に在る(写真9−2)。また、南面する部屋に面して広縁をL字型にめぐらしているのは山間民家には珍しい特徴であるといえよう(図9−2)。
 建築年代は不明だが、四方にオブタ構成するための柱が建てられており、葺下ろし屋根から四方下屋へと移行する間の形態であると思われる。また、屋根架構は叉首組の中に、叉首を支える中梁と束柱がT字型に架けられているのが特徴である。(中川)

 (10)中村 コハマ家(大蓋の家) 半田町日谷尾44
 下北家の北西、車道より一段低い位置に急な斜面を切り開き、敷地を造成して中村家はある(写真10−1)。敷地は等高線に沿って南東〜北西に長く北東側に谷、南西に山が迫っている(図10−1)。屋敷内には主屋の他に納屋(煙草の蒸屋)が北西に離れて建っている。
 主屋は桁行8間、梁間3間、茅葺寄棟造り(現在は鉄板で覆う)で、北東の谷側を向いている(写真10−2)。右勝手で、ニワに続いて3室(ナカノマ、オモテ、ザシキ)が横に並ぶ(図10−2)。
 ザシキは後に増築したもので、当初はニワとナカノマ、オモテの横二間取りであった。大黒柱は無いが、柱は太く4.5寸あり内法材共に桜である。元文3年(1738)に建てられ、半田町の民家としても、下喜来の武田家と並んで、最も古い時代のものと考えられる。(野口)

IV.町屋その他
 うだつ
 吉野川流域の町並みには卯建「うだつ・うだち」が多くみられる。脇町はうだつの町並みとして国の重要伝統的建造物群に指定され有名であるが、ここ半田の町筋(写真11−1)にもうだつの上がった町屋が7棟見られる。内訳は寄棟両側1棟、切妻両側1棟、右側3棟、切妻2段左側1棟・右側1棟で、切妻がほとんどであり、そのうち2棟は2段の豪華な漆喰レリーフが施されている(写真11−2)。これはうだつの数が県下で一番多い隣の貞光町が切妻重層うだつが特徴であることから、その影響を多分に受けているものと思われる。なお、脇町はほとんどが寄棟うだつである。

 擬洋風建築
 松生の北室医院は大正期の洋風建築で、現在も立派に使用されており調査を行ったが、東中の町筋の三叉路にもよく似た擬洋風の2階建ての医院建築が建っている(写真11−3)。これは逢坂医院で、玄関の作りや細部の納まり、プロポーションや破風廻りの装飾などに類似点がみられ、同じ設計者の作品と考えられる。これらは共に玄関を中心に置いたシンメトリーのデザインで、北室医院は右に部屋がある部分を半間セットバックし、視覚的にシンメトリーを保っている。外壁はドイツ下見に腰を竪羽目にしているのも同じである。

 茅葺き屋根
 町内を見て回っていて気付いたのは茅葺き屋根が2段になっているものが多いことで(写真11−4〜6)、調査に入った酒井家や中村家なども2段になっていた。

 過去の調査では池田町に見られたが、他では余り見かけず、特に県東部から南部にはなかった。
 武岡家では増築前の葺下ろしの時は前部のみ2段になっており、上部をミネ、下部をシタと称していたそうである。さて、この2段にした理由であるが、次の3案が考えられた。
1 雪への対策 2 上下別に段を境に葺替えを行う。
3 デザイン上変化を持たせる工夫。
 これを明らかにしようと、現在松茂町で茅葺屋根を施工中の現場を訪ねて茅師の方々にお話を伺った。滋賀県の方ばかりで、県内の方はいられなかったが、この現場は葦(ヨシ)葺だが、普段茅を葺いている人もおり、葺方に余り差はないそうである。2段葺を彼らは初めて見たそうで、滋賀には無いとのこと。
 しかしこれは合理的だとのことで、普通に葺上げてゆくとどうしても棟の方は葺厚が薄くなり、2段にして厚みを増すことは雨仕舞には良いとのこと。
 また、下部(シタ)だけの葺替えも可能で、上段(ミネ)の下に竹を敷き持ち上げて下を葺替える。
 軒先から傷むので理にかなっており、全面葺替えの出費を押えるための知恵とも言える。しかし、裕福な大きい家にもあるためデザイン上という面も多少有りそうだが、大方は物理的な理由からこの2段葺が行われたといっても間違いなさそうである。
 ちなみに、武岡氏によると半田町内の茅師は多田義夫、岡田権三郎、大泉留造の各氏とのこと。(林)

V.総括
 半田町における民家は、平面形式としては酒井家・水野家の横二間取り、中村家が横三間取り、山下家・中川家・下北家・中村家が四間取り、武田家はそれの変形、武岡家が六間取りとバラエティーに富んでいるが、山間部(写真11−8)は傾斜地を拓いた敷地なので奥行きが狭く、横二間取りが多く、ゆとりある平野部(写真11−7)は四間取り以上が多い。入り口の勝手(ニワの位置)は調査家屋で見ると、川沿いの民家のうち2軒が左勝手で他は右勝手。特に山間部の民家は全て右であった。

 徳島県の平野部の民家は石井町、上板町あたりから吉野川を西へ登るほど左勝手が多くなっているので半田町も平野部、川沿いは右の方が多いようである。しかし山間部が右なのはどうしてであろうか。また、古い家には便所を主屋正面中央の外部に張り出して構えるものが多く、祖谷地方などと共に剣山周辺の山間民家を特徴づけるものであろう。
 山の民家の特徴は他に、中川家のような「懸崖造り」や、水野家の3階建てウマヤのように傾斜地に建てるための工夫がされている事である。
 屋根形式であるが、茅葺は寄棟で古いものは葺下ろし、四方下屋の付いたものは新しい家や改造されて付いたものも多い。県西部で見かけた入母屋はここには無かった。そして、2段になった茅葺屋根が半田町に多いことも特徴として挙げられる。
 今回、民家ではないが調査したのが西洋館(擬洋風建築)の北室医院である。明治から昭和初期に建てられた西洋館は日本の町並みには極端に違和感のある容姿でロマンチックなイメージと怪しい雰囲気を漂わす二面性で我々の好奇心をそそる。その用途は様々で、半田町では医者が先進性を表す必要があったためか、2軒あったのは共に医院であった。
 また、デザイン様式も多様でいろいろの国の時代を越えた様式が入り乱れているから面白い。半田町は、山間民家が素朴でおおらかな古い形式を残して維持しているのが特筆すべき事で、江戸時代の生活様式をそのまま見せてくれたのと、相反する西洋館で調査する我々を楽しませてくれた。この、生活そのものといった文化は正当な評価を得る事無く朽ち果ててしまう運命にあるのだろうか。数百年を長らえて来た民家の断末魔のうめき声が山々にこだまして、新しい物ばかりを追い求める我々に訴えかけているようである。(林)

1)酒巻建築設計事務所主宰 2)徳島建築文化財研究所主宰 3)アトリエRYO主宰
4)林建築事務所設計室長 5)野口政司建築事務所主宰 6)西田建築設計事務所部長
7)中川建築デザイン室主宰


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