阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第37号
松茂町の都市化をめぐる諸問題

地理班

 樋口忠成1)・寺戸恒夫2)・井上隆3)
 坂東正幸4)・杉本昌弘5)・

 立岡裕士1)

はじめに
 1970年代以降、日本の地域別人口動向は、それまでの三大都市圏に集中する傾向から全国的にゆるやかに増加する傾向へと変化し、人口増減の地域的格差が縮小し、平準化する傾向をみせた。これは、人口増減の地域的格差形成の要因である人口移動が、この時期に大きく変化し、それまでの三大都市圏への集中的な移動パターンから多様なパターンに転換したことがその原因としてあげられる。多様なパターンの諸相として、1 大都市圏から非大都市圏への移動の増大(いわゆるUターン)、2 札幌・福岡・仙台・広島などいわゆる広域中心都市(ブロック中枢都市)の成長に代表される多面的な都市核形成にともなう移動先の多様化、3 都道府県間・市町村間の人口移動率そのものの低下、などがあげられよう。一方、高度経済成長期において、第一次産業の比重低下、エネルギー革命、所得格差の拡大、社会の高学歴化など様々な要因から、人口・労働力を大都市に供給し続け、人口を大幅に減少させた過疎地域では、1970年代以降、人口減少率の低下こそみられたものの、かつての人口を回復するにいたらず、人口の減少ないし停滞基調は依然として続いた。
 1970年代以降のこうした人口移動の転換期において、かなりの成長をみせたのが、県庁所在地クラスの都市であった。こうして三大都市圏や広域中心都市に次いで、地方中核都市の都市化が急速に進展し、地方における人口吸引の核として機能するにいたった。ここに日本の人口分布の分散的集中が進行したのである。
 この時期の地方中核都市の都市化はもう一つの特徴を持っている。それは、日本のモータリゼーションの進展とともに自動車が通勤手段として広く用いられるようになったため、三大都市圏と同様に通勤圏の広域化が進み、都市化の影響が周辺地域にまで及んだことである。地方中核都市においても中心都市の行政域を越えた周辺地域を巻き込んだかたちで都市化が進行し、あたかも大都市圏のような様相を呈してきたのである。
 そこで、松茂町の地域変容を取り扱う本論では、地方中核都市徳島に隣接する郊外地域として松茂町を捉え、その都市化の諸相を様々な角度から分析することとする。

1.徳島市の周辺地域としての松茂町
 松茂町の人口は1990年現在約1万2千人に過ぎないが、戦後ほぼ一貫して増加し続けてきた。表1は徳島県の市町村別の人口増減を5年ごとの国勢調査によって増加・減少の各市町村数の推移をみたものであるが、徳島県には人口減少地区がいかに多いかがわかる。特に1960年代までは、人口増加の市町村は1割ほどに過ぎず、1970年代以降は増加市町村も増えたが、それでも半数以上の人口減少市町村がある。このなかで、松茂町は1955年以降一貫して人口を増加させてきただけでなく、常に増加率上位に位置している。

 1970年から1990年までの20年間で徳島県の人口は約5%増加したが、人口増加地域は、徳島市を中心とした東部海岸地域と吉野川下流地域に限定され、依然急速な人口減少にみまわれている四国山地の山間地域と明白な対照をなしている(図1)。したがって、徳島県の人口分布は、徳島市を中心とした地域に一極集中してきたといえる。徳島市を中心とする地域では、徳島市の北に隣接する藍住・北島・松茂の3町に、特に高い人口増加率がみられ、徳島都市圏の形成とその外延的拡大が想定できよう。
 そこで、都市圏設定の指標となる通勤率について考察する。図2は、徳島市への通勤率の分布を示したもので、各市町村に常住する就業者のうち徳島市で従業する就業者の割合を階級区分したものである。徳島市への通勤率は、北島町・石井町・藍住町で25%以上の高率であり、佐那河内村・小松島市・松茂町がこれに次いで20%以上となっている。
 いずれも徳島市に隣接する市町村である。徳島市周辺の市町村はこのように就業者の従業先の多くを徳島市に求めているわけであり、就業機会を中心市徳島に依存した徳島都市圏に抱摂されていることがわかる。また図1の人口増加率で高率の地域と徳島都市圏との一致も認められる。
 これらのことから、松茂町は明らかに徳島都市圏を構成する部分地域として機能し、その都市化も中心市徳島との関連で進展していることがわかる。

2.松茂町の人口変化と人口構成
 本節では、松茂町の就業人口と就業地の変化をまずみておきたい。図3は、松茂町に常住する就業者とその従業地、および松茂町で従業する就業者とその常住地のそれぞれについて、1960年から1985年までの変化をグラフにしたものである。松茂町に居住する就業者の数は、人口の変化と同様、1960年から漸増している。しかし、そのうち松茂町内で従業する就業者数は、この間ほぼ3,000人程度でほとんど変化がない。したがって、常住就業者の増加分は他市町で従業する労働力であり、流出分なのである。その流出先は、徳島市が最も多く、鳴門市・北島町がこれに次ぐ。いずれの市町への流出も増加しており、1985年での全常住就業者に占める流出率は、徳島市へ20.7%、鳴門市へ11.2%、北島町へ4.4%、その他の市町村へ4.1%となっている。

 一方、松茂町で従業する就業者数の増加は、常住する就業者数のそれよりさらに多く、特に1960年代後半での増加が著しい。1965年までは常住地就業者数が従業地就業者数を上回っていたのが、従業地就業者数の増加によって1970年以降これが逆転し、現在までその傾向が続いている。したがって、松茂町は徳島市を中心とした隣接地域に就業者の多くを流出させているばかりでなく、それら隣接地域からより多くの就業者を吸収しているわけである。こうした現象は、徳島市のような雇用の中心に隣接した地域としては珍しく、松茂町の都市化のきわだった特徴といえよう。労働力の吸収先は、当然流出先と重なり合う。さすがに徳島市からの就業者の流入は、流出者より少ないが、鳴門市・北島町からの流入はそれぞれの市町への流出を上回る。また、その他の市や町からの流入が、流出をかなり上回り、雇用者の吸引圏が流出圏より広い範囲にわたっている。
 次に、こうした通勤流動の特徴を持つ松茂町の産業別就業構成をみておこう。図4は、常住地および従業地による産業別の就業者構成を、やはり1960年以降の5年毎の推移を国勢調査結果からグラフにしたものである。この図からも判別できるように、1965年と1970年で松茂町の(特に従業地による)産業別構成比に大きな違いがみられ、1960年代後半における松茂町の従業人口の増加が、松茂町の産業構造の大きな変革を伴ったものであることがわかる。とりわけ、製造業就業者の急速な増加が目を引く。

 これは、1964年に松茂町を含む徳島地区が新産業都市に指定され、工業誘致が促進された結果である。この地域は、徳島市への近接性が高く、労働力の確保が容易で、都市的施設が利用でき、また交通の面でも、徳島空港に隣接するばかりでなく徳島県の陸上交通の主軸上に位置するため、他地域とのアクセシビリティも高い。また吉野川下流のデルタ地帯に位置するため工業用水の確保も容易で、有利な工業立地条件を備えていた。また1970年代には松茂工業団地の造成も行われるなど、その後も工業集積は進み、製造業就業者も引続き増加している。
 製造業従業者が増加する以前の1960年の産業別人口構成比をみると、従業地レベルでは、農業38.1%と公務34.6%が圧倒的に大きく、両産業を合わせて従業者の4分の3近くを占めていたことになる。公務部門の大部分は自衛隊関係者であるから、松茂町は農業と基地の町であったといえる。農業と公務を合わせた割合は、1970年には約40%、1985年には約27%にまで低下した(いずれも従業地による)。これに対して、製造業が1985年で22%を占め、大分類では最も多くの雇用者を吸引していることになる。
 こうした松茂町の工業化と呼応して、サービス産業の集積も徐々に進み、卸売業・小売業とサービス業の就業者も増加し、1985年現在、両産業で雇用の約3分の1を占めるまでになっている。このように松茂町の都市化は、工業化に始まり、それが商業・サービス業の集積を促すかたちで進展したわけである。
 それでは、松茂町の都市化によって町内の人口分布にどんな変化が生じたかを考察したい。現在の松茂町は1889(明治22)年の市制町村制施行に伴って10か村が合併して松茂村として発足した。旧10か村は松茂村の大字として存続するが、その後名称の一部変更があったものの、町制を施行した現在も継承されている。これらの大字を原則的に踏襲して、一部分割統合された地域単位が地区と呼ばれ、松茂町を細分した地域の単位として用いられる。図5は、地区別の人口分布を示したものである。

 地区別の人口で、最も多いのは町役場のある広島で、笹木野がこれに次ぐ。この2地区で松茂町の人口の半数以上を占める。この2地区は松茂町の中心地区でもあり、町全体の中心的な機能はほぼこれらの地区に集中している。また、この2地区は人口増加数も多く、1975年から85年までの10年間に松茂町全体で増加した1,800人の人口に相当する増加数を、広島・笹木野の2地区のみで満たしていた。
 広島地区は、町役場をはじめとする行政機能があって松茂町の中心であるとともに、松茂町を東北から西に貫く中央幹線である国道28号線〜県道徳島松茂線と、松茂町を南北に貫く国道11号線の結節点に当たる交通の要地でもある。地区の西側では、北島町にまたがって松茂団地・松茂第二団地などの住宅開発も盛んである。笹木野地区は、広島地区の東側から国道28号線に沿って東北に延びる地区と、県道長原港線に沿って南東に延びる地区から成り、徳島空港をはさむような形状をしている。道路沿いに住宅地や商業地が延び、広島地区に次ぐ都市的地域である。
 また徳島空港北部に位置する向喜来・福有・満穂の各地区は宅地化および商業化・工業化が徐々に進み、人口も漸増している。
 これらの地区に対して、第一次産業を中心とする地区では人口減少もみられる。町域西端部の長岸、北部の中喜来は、それぞれ日本ナシ、レンコンの栽培を中心とする農業地域であるが、1985年までは人口が減少している。ただし、中喜来地区は、その後松茂ニュータウンの開発が進みつつある。また、町域南端の長原地区は古くからの漁業集落で、こちらも長期的に人口が減少している。
 次節で取りあげる豊岡地区は、カンショとレンコン栽培が行われる農業地域で、人口は停滞しており、徳島空港南の住吉地区は、自衛隊の基地を中心とする地区で、こちらも人口は横ばいである。
 以上のように、町全体では人口増加基調にある松茂町であるが、地区によってその変化に差異があり、町内に人口急増地区と人口減少地区が同居している。全体としては町の中央部ないし西部に人口の比重が移動しつつあるようである。これは国道11号線バイパスの建設など、交通幹線が町の西部に移りつつあるためと考えられ、町の人口重心も少しずつ西に移動している1)。

3.松茂町の農業―レンコン栽培を中心に―
 1990年の農業センサスによると、松茂町の農家数は286戸、農地面積は 348ha で、1980年と比べると農家数は84戸の減少であるが、農地面積は5%弱減ったに過ぎず、農業は比較的安定しているといえる。専業農家が4割以上を占めていることにも現れているように、この地域は非常に生産性の高い近郊農業地域なのである。主要な栽培作物はカンショ・ダイコン、レンコン、および日本ナシである。本節では、このうちレンコンを取りあげることとする。
 徳島県は、茨城県に次ぐレンコン生産県で、1988年には全国の収穫量の約16%を占めていた。レンコン栽培地域は図6に示すように吉野川下流地域に分布している2)。徳島県のレンコン生産量の推移をみると、全体としては増加傾向にあるが、松茂町においては減少傾向である。そこで本節では、松茂町におけるレンコン栽培の現状を明らかにすると共に、その課題を見いだすことを目的とし、研究対象地域として豊岡地区を選定し、栽培農家への面接調査と統計資料の分析を行った。

(1)豊岡地区におけるレンコン栽培地域の形成過程
 豊岡地区におけるレンコン栽培地域は、水路沿いの低湿地に分布している。
 蓮田の分布は土壌条件と深い関係がある。豊岡地区は第二次世界大戦後に客土工事を行ったため、砂質土壌となっている。この土壌は、粘質土壌と違って一般にレンコン栽培に適していないといわれている。しかし豊岡地区においては栽培が続けられており、特異な例であるといえよう。
 豊岡地区は、江戸時代に新田開発が行われた地域であり、昭和初期まで稲作が中心で、裏作にバレイショが栽培されており、徳島県における主産地であった。しかし水稲の生産性は低く、聞き取りによれば昭和初期において6人の家庭に必要な米を確保するためには、40a の水田が必要なほどであった。
 豊岡地区におけるレンコンの導入は、昭和10年代に鳴門市大津より行っている。主として婚姻関係にある栽培農家より、種レンコンと技術が導入された。松茂町全体でも、大正8年3)に向喜来の佐藤氏が岡山県から導入したのが端緒であり、徳島県下において最も早く導入された地域でもある。この理由として、この地域が水稲の低生産地域であり、より有利な収入作物が求めれていたことがあげられ、その作物としてレンコンが着目され、湿田を中心に導入がなされた。
 昭和20年の南海大地震以後、塩害がひどくなり、水稲の低収益が目立ってきた。このため、昭和24年に作付統制が解除されると共に、急速にレンコンの産地化がなされた。特に、栽培面積の拡大がなされたのは、昭和36年の台風により稲作が全滅に近い被害を受けたのが契機となり、台風の影響の少ないレンコンヘ転換がなされ、多くの専業農家が形成されたのである。
 豊岡地区におけるレンコン栽培は、昭和45年からの稲作転換政策により大きな影響を受けた。松茂町における水田が養鰻業に転換し4)、養殖池からの排水が農業用水に混入して、水質の悪化が生じたからである。このことがレンコンの生育に影響し、レンコン作の低生産性が生じた。
 このため、他の作物への転換の必要性に迫られ、昭和45年頃より、数年計画で砂の客土工事を行い、畑への転換が行われ、カンショと裏作のダイコンを中心とする畑作地帯へと変化している。
 豊岡地区における上記の動向を整理・分類すると、1 稲作+バレイショ→2 レンコン→3 カンショ+ダイコン、という流れとなる。
(2)レンコン栽培の経営構造
 豊岡地区におけるレンコン栽培は、導入期・産地形成期を経て、現在は産地再編成期にあるといってよい。そこで次に経営構造について、生産形態・地域組織・事例農家の研究を通して明らかにする。
 1 レンコンの生産形態
 現在のレンコン栽培の生産形態には、図7のように、大別してハウス栽培と普通栽培の2形態がある。豊岡地区においては、普通栽培のみである。

 普通栽培は、3月末から仕事が始まり、大型トラクターで代かき整地して、田の用意を行い、4月より種レンコンの植え付けを行う。栽植密度は幅2m、株間1m で 10a 当たり約500株が必要である。種蓮根は病害のない土地において生産され、一部では2割程度が掘り残され、これが種レンコンとして使用される。収穫は、普通栽培で9月上旬より始める。掘取りは、ミニ・バックホーを農機具メーカーが低湿地に使用できるよう改良を加え、「掘り取りユンボ」として使用している(写真1)。表土部分を機械で除くことにより、大幅な労働時間の短縮が図られた。

 2 蓮根栽培の地域組織
 収穫されて4kg ごとに箱詰めされたレンコンの出荷形態としては、卸業者がトラックで各農家を巡回して集めている。もう一つの出荷形態として、種レンコンのみを生産し、他の地域の大規模レンコン専業農家が買い取る形態がある。
 それぞれの機能の結合関係から2つに類型化できる。

 アは、農家が直接に専業農家に持ち込む形態である。イは、業者がトラックで農家を巡回してレンコンを集めている。
 豊岡地区においては、経済的機能集団の性格が強い。これは、カンショ栽培が中心となっているため、労働力の集中ができないといった点が大きな要素である。
 3 事例農家
 豊岡地区のレンコン農家は、カンショ栽培が中心であり、多角経営農家としてとらえられる。ここでは2つの事例農家をあげることとする。
 まず最初のI農家では、世帯主(52歳)と妻(48歳)が農業に従事し、基幹労働力になっている。経営耕地はカンショ畑が 130a、レンコン田が 50a で経営を行っている。レンコン田は用水に接する耕地で耕作し、写真2のように畑地と接して耕作されている。経営の主力はカンショであり、レンコンは鳴門市大津の専業農家に種レンコンとして供給しており、専業農家が2〜3月に掘り取っている。

 次のT農家では、基幹労働力として世帯主(65歳)と妻(65歳)で農業に従事している。この家は昭和34年頃よりレンコン専業農家として最盛期には 350a を耕作していたが、現在では、カンショ畑が 120a 、レンコン田が 75a である。レンコンは10月から3月にかけて出荷するが、「松茂青果5)」に「反売り」を行い、カンショ作を中心としている。
(3)むすび
 松茂町においては、レンコン栽培に適さない土地条件にかかわらず、徳島県下で第2位の栽培面積を持つ特異な例である。この理由として次のことが明らかになった。
 1 砂質土は、種レンコンの用途には掘り取りやすく、他地域の専業農家の需要が多い。
 2 卸売業者がきめの細かいサービスを行い、カンショ栽培に労働力を集中したい農家のニ一ズと合致した。
 この2点から、豊岡地区のレンコン栽培は現在の形でしばらく続くであろうと思われる。
(3節文責・坂東正幸)

4.松茂町の商業
 都市化に伴う人口増加は、居住者の消費生活を支えるためのサービス産業の立地を誘発する。したがってサービス産業の立地は、都市化をみる格好の指標である。そこで本節では、松茂町の小売商店や飲食店の立地を検討することにより、都市化の一側面を捉えてみたい。
 松茂町の商業は、人口当たりの販売額でも徳島県の3分の2程度しかなく6)、また町内に大規模小売店がないことからみても、発達しているとはいえない。これは、買回り品など高次な商品の購買先を徳島市などに依存するためで、徳島市に近接するための位置的な利点でもあり、またある意味では不利な点でもある。したがって松茂町の商業機能は、もっぱら低次な商品を供給する近隣型のそれである。
 図8は、松茂町における小売商店と飲食店の1989年現在の分布を、その設立年代別に区分して示したものである7)。これによって商店の分布をみると、松茂町内には商店の集積した明確な中心商業地区がないことがわかる。広島地区に商業施設の集積が幾分見られる程度である。商店は松茂町のメインストリートである国道28号線に沿って線状に分布している。

 設立年代別にみると、1974年までに設立された商店は、国道から少し離れた古くからの集落内部に多く、それは南端の長原地区に典型的に表れている。最近設立された商店は、大部分が国道など主要道路に沿っており、道路の果たす役割がますます強まっていることを示している。また国道28号線沿いの商店も設立年代の古いものはそう多くなく、近年商業施設の空隙を埋めるように国道沿いに商店が立地し、線状の商業地の分布が密になりつつあることを示している。

5.松茂町の土地利用の変化
 都市化は景観として土地利用に投影される。したがって、都市化は農業的土地利用から都市的土地利用への変化であるといいかえることもできよう。この最後の節では、土地利用の変化をみることによって松茂町の都市化の展開を考察したい。
 図9は、1974年の松茂町の土地利用を示す。この図は国土地理院発行の1:25,000 土地利用図をもとに作成した。また、これを現況と比較するためにその15年後の1989年の土地利用図を図10に示した。作成に当たって用いたのは1:25,000 地形図、国土基本図、および住宅地図である。これらの図をもとに、まず全体的な土地利用の変化を概観し、個々の土地利用について考察したい。

 まず15年間の大きな変化として、交通の変革がもたらされていることがわかる。松茂町を貫く幹線道路である国道11号線にバイパスが建設され、松茂町内でルートが大きく変わった。それまでの11号線は、町内中央部を北東から南西に貫通して町のメインストリートとなっていたが(現在の28号線)、新しい11号線は町内西部を南北に貫くルートとなった。また一方、松茂町中央部に広い面積を有する徳島空港が、ジェット化にともなって滑走路を延長し、海に突き出る形となった。これらの交通の変革が土地利用に大きな影響をもたらしたと想像できる。
 土地利用の変化は、住宅・工業・商業の各地区に面積が大きくなっていることに集約できる。その分、農業的土地利用もしくは空地が縮小しているわけである。住宅は、中心市街地である広島地区で著しく、残っていた農地や空き地を埋める形で住宅地化が進行した。また徳島空港北の満穂地区や中喜来地区でも住宅地の面積が増加しており、相対的に交通アクセシビリティの低い南東部長原方面では変化が少ない。
 住宅開発は、公共・民間の両セクターで行われた。1960年代は、平屋建ての町営住宅の建設が主であったが、1970年代以降になると町営の共同住宅の建設が行われるとともに、産業集積に伴う民間の住宅団地建設も活発化した。1985年から中喜来の松茂ニュータウンの分譲も開始され、住宅団地の造成が大規模化している。今後も、徳島市との近接性などで住宅開発に有利な条件を持つ国道11号線沿線を中心に、住宅としての土地利用は進んでいくものと思われる。特に、現在まだ不完全供用となっている11号線バイパスの上下線分離が完成し完全供用されると、中喜来地区の景観も一変するかもしれない。
 工業は、もっぱら町域北東部での変化が目だつ。この一帯は松茂工業団地となっており、1971年から団地造成が開始された。現在でも団地全域での企業の立地は進んでいないものの、徐々に工場が進出してきている。その他の地域では工業地区にあまり変化はなかった。
 商業地は、1974年当時では現在の国道28号線に沿ってまばらに立地していたにすぎず、商業核や面的な広がりを持つ中心商業地域はなかった。1989年においてもそうした面的な商業地域化は見られないものの、国道28号線沿いの商業地は線状のより密な連なりをみせ、また新しい国道11号線沿いに現代的なロードサイドショップ出現の萌芽をみせている。
 こうした住宅地化や工業・商業用地の拡大にともなって、農地や空き地の縮小がみられる。農地は、図の凡例には示されていないが、白く抜かれている部分の多くは農地である。特に1974年当時、中喜来・向喜来の旧吉野川両岸や笹木野に点在した養鰻池が、1989年現在ほとんど姿を消し、中喜来の松茂ニュータウンなどの住宅地に転用されたりしているのが目につく。

おわりに
 この研究では、徳島市に隣接する松茂町が徳島都市圏に組み込まれつつ経験した都市化の諸相を、人口・農業・商業・土地利用の変化から考察した。
 松茂町は、この20年間に、「農業と基地の町」から徳島都市圏の郊外都市へ、また陸と空の玄関口に当たる地域へと、一挙に都市的変貌を遂げた。都市化は、人口増加を生み出し、工業を集積させ、商業機能を増加させ、都市的土地利用の拡大をもたらした。特に最近では、大規模な住宅団地が造成された。
 しかし、松茂町における都市化の過程でいくつかの問題点も指摘できる。
 一つは、松茂町が1889(明治22)年以来の自治体をそのまま維持しているため、町域が狭く8)、都市化の進展に伴って土地利用間の競合が予想されることである。一般に都市化は、農地の転用を伴うものであるが、松茂町の農業は、高い生産性を持つ優良な農業地域に属するが、無秩序な都市化が農業生産を損なう恐れがある。また、土地の狭小性のため土地利用間の住み分けがむずかしくなる恐れがある。このため一層の計画的な土地利用を図る必要があろう。
 二つには、都市化の進展にもかかわらず、業務機能や商業機能の集積が進まず、いわゆる都市核の形成にいたっていないことである。業務機能の集積はむずかしいとしても、核となる商業施設を中心に商業集積地が存在しないと、都市の輪郭もはっきりしなくなる。これは都市のイメージないし都市としてのアイデンティティの問題でもある。
 さらに三つには、松茂町にある随一の中心機能は徳島空港であるが、これが十分都市計画に活かされていないことであろう。徳島空港周辺が徳島県全体の玄関口として整備されていないし、機能集積も進んでいない。都市計画の用途地域でも、徳島空港ビル周辺は準工業地域に線引きされているにすぎない。新しい都市核としての可能性のある地区だけに有効利用が図られる必要があろう。
 今後の都市化の進展に伴って、現在ある資源の有効な利用を図り、いかに快適な居住環境を整備できるかが今後の地域の課題であろう。 (文責〈3節を除く〉・樋口 忠成)

 (付記)調査に当たりまして、松茂町役場、松茂町教育委員会、徳島県庁統計課の方々にお世話になりました。また、聞き取り調査にご協力いただきました豊岡地区の農家の方々にも感謝いたします。なお、本稿作成に当たりまして鳴門教育大学学生柳川純子さんおよび原拓司さんのご助力を得ました。記して感謝いたします。
《注》
1)国勢調査の調査区データを用いて松茂町の人口重心を算出したところ、1985年時点で、笹木野の海上自衛隊北上宿舎付近にあった。これは10年前に比べて180mほど西に移動した結果である。
2)柳川純子(1991)「徳島県の蓮根栽培地域―土壌条件による比較―」(鳴門教育大学卒業論文)
3)大正9年との文献もある。
4)1975年においては、水稲面積48ha、養殖池面積63haであった。
5)香川県を主な販路とし、「土つきレンコン」として市場出荷している。
6)1988年商業統計調査結果による。
7)1986年事業所統計調査の基本調査区事業所名簿を補訂したもの。
8)徳島県では、北島町、羽ノ浦町に次いで面積が小さい。

1)鳴門教育大学 2)徳島文理大学 3)徳島市南部中学校 4)徳島県埋蔵文化財センター 5)徳島市不動小学校


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