阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第37号
松茂町の民具

民俗班  青木幾男

 松茂の民具を述べるために、その立地を考えてみたい。地勢や気候や植生によって人の生活は左右せられ、おのずからその土地にあった道具(民具)が使われるのが普通である。
 松茂町は、徳島県が、剣山を要(かなめ)として東方にひろがる扇形の先端、臨海部に位置し、吉野川によって築かれた徳島臨海平野の最先端、吉野川が紀伊水道にそそぐ吐出し口にある。
 徳島臨海平野は縄文時代の海進のとき、浅い海底面であったものが、海が遠のくにともなって、徐々に砂が堆積し、陸地となったもので、その成立の過程は図1に示す通り長年月に渉って小停滞を繰り返しながら徐々に変遷し現在の陸地を形成したものである。

 その地層の堆積状況は、地表面下 20m までもシルト(泥砂)を含む細砂と中砂の繰り返しである。
 松茂地域の海抜高度は0m から2m 以内であって、つねに水害と塩害の危険にさらされながら生きてきた。
 塩害対策には客土を行い、水害には耕作地の周囲に堤防を築いて農業生産を確保してきた。したがって防波堤のほかに、耕地が「小区画ごとに堤で囲われている」状態が、松茂の特徴でもあった。今は人家も建ちならび、道路網も全町に行き渡って過去の農地にかけた苦心のあとは知るべくもない。
 図2は明治中期の地形および土地利用状況を知ることのできる資料である。

 当時は(○○新田)という地名が残されており、それらはほとんどが埋立地であって、新田の内部では数枚の耕地を囲んで、通路を兼ねた小さい堤がめぐらされている。
 明治中期までここで葉藍が栽培されてきた。葉藍栽培は地質的にも適作であり、好成績を上げ、農家に産をもたらしたが、明治中期頃から化学染料に押されて、天然藍が衰退するにつれて、藍の畑が桑園と水田に転換した。第二次大戦後は、桑園が甘藷畑、梨園に転換し、新しい産業として、レンコン栽培、養鰻業がとり入れられた。
 松茂に人が住みはじめたのは、前述の陸地の成立過程から見ても比較的に新しく、記録に残るのは室町時代になってからのようである。しかし人が住みはじめてからは、その土地特有の信仰もあり、生活もあった。移りかわる人間の社会のあゆみのあとには信仰に、生活に、生産に使用された民具(道具)は膨大な数にのぼるが、然しこれらの民具のほとんどは姿を消してそれを調査する方法も資料もない。ただこれまで述べてきた陸地の成立の過程にもとづいて、現存している松茂の民具の特徴を述べてみたい。
 松茂町の農耕地の特徴を一言でいえば砂の多い、軽鬆(けいそう)な、いわゆる軽い土壌である。したがってその土壌に適するように農耕具に能率化の工夫のあとがみられる。
 今回、調査の対象となったのは、松茂町教育委員会が管理し旧町立第二保育所に保管する民具類と、広島字古屋敷2番地の佐藤マサエ(83歳)家の民具と聞き書きおよび笹木野8上17の松尾重義家の民具であった。中喜来地区には阿波の藍師として知られた三木與吉郎家があり「三木文庫」として数多くの資料が資料館に保管されているが、館の方針として当日の写真撮影が許されず、許可に約1週間を要するとのことで調査できなかったので、資料不足のため「藍どころ松茂」の藍の民具の特徴は見出せなかった。
 写真1は長岸の吉川静男家から町に譲られた「テビキ鍬」で総体に大きく、「一人ビキ」ともいい荒おこし、畦立てに使用した。カブトは木製で、固定している。人力でこれが使えるのは松茂の土が軽い故であり、またカブトが大きいのは、強風で畦が崩されるために、大きな畦をつくる必要があったのであろう。

 写真2は広島の佐藤マサエ家のもので「オゴロビキ」といい、麦畠のあい、麦みぞつくりに使用した。他町村で見られる「手引鍬」はほぼこれくらいの大きさであるので比較のためにあげてみた。
 図3は松茂では「大根ビキ」といっている。普通の手引鍬を2つ並べたもので、主として、麦溝や野菜の中耕、除草に使用されていた。2條を同時にひくので能率的であるが、砂質の土壌でないと使えない。他町村でも砂地の多い地方では稀に見ることがある。

 図4は「牛鍬」。松茂の牛鍬としては筆者の見た最も古いもので、中喜来の平島顕吉氏が使用していたものを松茂町に寄託したものである。木製のカブトがついているが、古いころのことで、手づくりではあっても牛鍬に木製のカブトを付けて使えるところに、松茂の土壌の特徴がありそうだ。

 図5の牛鍬は昭和期に入ってのものであろう。カブトは固定して耕起部分に組み入れられ、その翼部は後方のレバーによって自由に調節でき、その最大幅は 60cm に達している。このような大溝をつくるためには両腕が必要となり柄が2本となる。

 図6の牛鍬は昭和20年から30年頃に使用されたものであろう。牛鍬の最後期のもので、このあと畜力から、動力に変化していった。

 鍬の軸部の横に「日の本号、溝揚犂」と記されているが、阿波ではこの種の農具を通称牛鍬といっている。翼部の羽根が大きくなり、その調節を後方のレバーで簡単に操作できるようになったのがこの鍬の特徴である。
 松茂の陸地が低く、水位が高いことが生活におよぼす影響は給水設備の中に見られる。松茂では昭和30年頃まで「フンヌキ」(掘抜井戸)があり栓を抜けば地下水が湧出して自然給水ができた。広島の佐藤マサエ家では屋敷内に「フンヌキ」があり、潮の満干によって水位が変わり、満潮時には地上 20cm くらいまで水位が上ったという。昭和36年に町水道が設備されるまでは松茂の人々は地下水で生活していた。昭年30年頃から工業用水、養鰻用水などとしての地下水の汲み上げ、その他によって地下水位は低くなり、塩水が混入するようになった。田畑への給水は松茂ではフンヌキのないところでは水車(ミズグルマ)を使用した。足踏水車のことで、写真3がそれであるが、他の町村に比べきわめて大形で、車の直径 162cm、高さ 240cm もありこれに登って踏む人の眼の高さは3m に近く、怖いようなものであった。が、松茂では動力ポンプが出回るようになっても遅くまで使っていた。昭和30年頃まで、田植時期になると、1人で水車を分解して棒でかついだ人が次の田に水を入れるために移動している姿をよく見かけたと広島の佐藤マサエさんは話してくれた。
 以上、松茂の土壌に対する民具の特徴を述べてきたが、最後に特徴的民具の図または写真だけを掲げて報告にかえたい。(参考文献、松茂町誌)


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