阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第37号
松茂町における西国33カ所信仰

民俗班  関真由子

 1、はじめに
 西国33番札所と言えば、近畿地方を中心とする観世音菩薩安置の33カ所の霊場を指す。33の数は、観世音菩薩が必要に応じて33身に変じ、教化するという法華経普門品の所説に基づいたものである。観音信仰は、平安時代から鎌倉時代にかけて、貴族の信仰を中心として民衆にまで広がるが、その特徴は、即物的な現世の利益を支えられていた。観音霊場は、多くは現世の利益を求めて籠ることや、そうした考えを広めた民間の宗教的修行者たちの霊場を巡る修行と深い係わりを持って形成される。
 松茂町内にこの西国33カ所の札所が勧請されたのは明治時代中頃のことである。以来、松茂空港の建設、国道の整備などで度々の移転を余儀なくされながらも、そのすべての札所が現在残っており、年配の人々を中心に守り続けられてきた。当然、戦争と、それに伴う様々な世相の変遷はこの西国信仰の在り方にも影を落としてきた。今回はその変遷も含めてどのような形で松茂町の人々の間で息づいてきたかを年配の人々を対象にした聞き取り調査によって考えてみることにした。
 なお、この調査をするに当たり、昭和52年に松茂町婦人会の学級長をされていた岸野郁子さんより「故郷研究―松茂町」で調査をされた資料を提供していただいた。

 2、松茂町における西国33カ所信仰
 松茂町内では、観音信仰が盛んである。向喜来、長原、豊岡では、現在も定期的に土地の婦人たちが集まって観音経をあげるなどの行事が続いている。ことに、松茂町の人々から「西国さん」と呼ばれて親しまれている西国33カ所札所はその代表ともいえる。この札所は、松茂町広島不動院住職、金亀義雄師を中心とした、松茂町の人々の奔走により、明治12年(1879)から20数年の歳月をかけて実現したものである。
 明治・大正時代は、松茂町全域にわたって近所の年配の女性が集まって念仏を繰っていたようだが、特に終戦後を期に急速に廃れていった感がある。「昔はやっていたが、今はやっていない」というような例は少なくない。今は、年配の信仰心の厚い人を中心にしたお参り、そして4月8日の祭りの日の接待が主な年間の行事と言えるだろう。

 3、位置
 松茂の場合は、かなり広範囲にわたって札所が点在する。ちょうど一回りしてまる1日かかる、とのことであった。お堂なども造られその中に安置されている。1番札所は広島不動院境内にあり、そのあと笹木野、住吉、豊中、満穂、徳長、向喜来、長原地区に点在している。(岸野郁子さんの調査による)

 4、信仰状態
 広島1番札所の近くに住む藤本好子さん(大正7年生れ)のお話では普段は世話をする当番はないとのこと。毎日お参りにくる人がいて、お線香、シキブノハナ(シキミ)は絶えたことがない。また3番札所の管理をしている佐藤チエ子さん(大正11年生れ)のお話では、お花(シキブ、色花)が枯れたりすると取り換えたり、掃除などをする程度とのことであった。ただし、お盆、お彼岸は仏壇と同じ様にお霊具、お団子などを供えている。両方とも今も昔もあまり変わっていないとのことであった。広島の6番札所の近くの林 貢さん(大正2年生れ)のお話によると、昔は近所の人が交代でお供え物をしたとのことで、この時、ご飯が3つはいる、把手のついた箱型のお膳を回り持ちで使っていたとのこと。その頃は、近所10軒が参加していた。今は近所と言うより、年配の人々が中心になっている。毎日のお供えについても、近くということもあってか、林さんが中心になっている。(ご飯が3つなのはお堂のなかに、庚申さん―文政3年―、お地蔵さんが一緒にまつられているから)。概して、女性が世話をすることが多いようだ。(写真1)

 同じく広島の7番札所の管理をしている佐野美恵子さん(昭和18年生れ)のお話では、普段は特に何もしていないが、毎日お参りをしている人がいてシキビ、お米、線香が途絶えたことがないとのこと。また近所の年配の人で信仰の厚い人がいて、何かあるとお世話をしてくれているとのこと。
 住吉の13番、14番札所近くの森 綾子さん(明治44年生れ)のお話では、普段は年配の人がお参りをして、水、1円玉、シキビなどを供えていくとのこと。1円玉が月々20〜30枚くらい貯まるので、少なくてもそれ以上のお参りがあるのではないかとのことであった。またここでは、大正時代までは年配の人が毎月決まった日に観音堂に集まってお供えものをしていたようだとのこと。この観音堂には観音像が100体くらいあったとのことで、戦時中に不動院に持っていったが、10年ほど前に焼けてしまった。森さんは幼い頃に、お婆さんがお膳をさげて観音堂にいっていたことを記憶しているとのことであった。
 長原の19番札所の近くに住む川畑タキエさん(明治36年生れ)は、札所が長原の自治センターの敷地内にある関係で、他の仕事も含めて担当の人を雇って、毎日ご飯とお茶を供え、線香をあげている。同じく長原の20番札所の近くの津川五月子さん(大正13年生れ)のお話では、19番と一緒に毎日担当の人がご飯とお茶を供えているとのこと。仕事で海に出る人が多いので信仰心はきわめて厚い。この長原の自治センターでは毎月第2水曜日の夜7時に年配の人が寄ってお経をあげている。前は80歳くらいのお年寄りであったが、2〜3年前から新しいグループに変わったという。豊岡の22番、23番札所の近くに住む土佐剛一さん(大正11年生れ)のお話では、札所が豊岡神社の近くにあることから、当番(豊岡神社の当番)が氏神さんと一緒に毎日おまつりをしている。以前はご飯をあげていたようだが、今は水をあげ、シキビが枯れると取り換えるくらいとのこと。お洗い米を供える時もある。ここでは、年配の女性が毎月17日に集まって、観音経をあげている。いつも12〜13人の参加者があるとのこと。
 福有の28番札所の近くに住む藤本満砂子さん(大正14年生れ)のお話では、普段は年配の人がシキビをあげているくらいで、何かの時には老人会が中心になってお世話をし、それを婦人が助けるといった形をとっているとのこと。また、ここでは昔は旧9月24日、今は7月24日にお祭りがあった。しかし、これがなんのお祭りであるかはよくわからないとのこと。昭和30年代頃までは、キナコとあんの2種類のオハギを作って供え、集まってきた子供たちにわけあたえていたとのこと。またこの時にお霊具を供える。また観音信仰の集まりについては、昔はあったようだが松茂空港の建設など度々移転をしたためによくわからない。
 広島の春藤友子(昭和7年生れ)さんのお話では、昔は5軒今は4軒で当番制で月交代でお世話をさているとのこと。当番である印は月の初めにお膳を回すことにある。その箱型のお膳(高さ43センチ、縦24.5センチ、横21センチ、3段に別れており、1段の高さ13センチ)に入っている3つ分のお霊具にご飯とおかずを入れて、観音さん他3体の仏に供えるのがたてまえであったようだが、今は春藤家では毎日家の中(お荒神さんの下あたり)でお供えをしているとのこと。人によっては毎日、札所に供える場合もあるとのこと。(写真2)

  

 33番札所近くの青山マスエさん(明治38年生れ)、上田 琴さん(大正7年生れ)のお話では、年配の人9人が交代でお世話をしているとのこと。毎月17日にお膳(ご飯、おつゆ、おひら、ならえ、お菓子、果物)をこしらえて供え、後で皆で分けていただくとのこと。お供えは個人持ち、花代はお賽銭とのこと。また戦前までは8月26日、昼間に年寄りや子供が札所に集まり、めいめいで持っていったご馳走を頂いて楽しい時間を過ごしていたとのこと。また月の集まりは現在自治会館で行われているとのこと。(写真3)

 5、祭日
 岸野さんの調査によると「昭和11年頃、旧暦4月8日のお釈迦様の降誕会には、早朝から各霊場に5色の幟が空高く翻り奇麗に掃き清められた本堂や本尊には打ち敷きを掛け、供物を供えて、地区の世話人や老人たちはお接待の菓子などを差し上げていました。近郷近在からは身に白衣、白の手甲、脚絆、首に札挟み、肩に頭陀袋、手に数珠、金剛杖、同行2人の菅笠を冠り、鈴を鳴らしてお参りする遍路姿の老若男女を多数みうけましたけれど、戦時中は航空隊ができて一部霊場も移転され参拝者が少なくなりましたが、昭和40年頃からふたたび霊場ももとの地に帰り参拝者も多くなりつつあります」とある。戦前までは祭日は旧暦の4月8日。広島を皮切りに長原まで歩いて回る。白装束で杖をついて歩いてほぼ1日。お賓銭として、1銭、お米などを持っていく。一方各霊場では5色の幟を立てる。この際の特徴は、近所の人々が寄ってお接待をすることである。戦前は、手拭い、黒麦(麦菓子)などで、戦時中はしばらく途絶えていたが、再開されて今は、ジュース、袋菓子などが多いとのこと。
 広島の1番札所ではお寺がしているので特にこれといったお供えはしないが、お接待をしているとのことで、65歳以上のお年寄りが10人くらい出て、お金を持ち寄り、巡礼の人にお菓子、チリ紙などを接待する。3番札所では佐藤さんが自前ですべてを準備する。お霊具、お菓子、季節の果物を供え、お菓子、ジュースを接待する。なおこの時にたてる5色の吹き流しはハンゲツと呼ぶ。
 同じく7番札所では佐野家によりお霊具、お菓子、果物などが供えられる。側にはハンゲツがたてられる。高さは4〜5メートル。近所の年配の女性の有志(80歳くらいの人で3人)が集まってお接待をする。ほとんどが個人持ちで、お賓銭も加えてジュース、お菓子などを購入する。また、手造りのナゲマキイレも準備され、巡礼にきた人に配られる。
 広島の、林さんのお話ではお接待としてお菓子、ジュース、チリ紙、またお年寄りの手づくりのナゲマキイレ(お米やお賓銭を入れる袋)を準備したとのこと。この費用は近所のお年寄りが集まって1,000円ずつ出す。普段はご飯とお茶だが、この日はお霊具を出して、おかずに煮しめを作った。その他ヨモギのお餅などを作る時もある。親睦を兼ねて近所が寄り合い、相談するのもなかなか楽しいものであった。後でお供えした物を少しずつ分けていただいたり、また寄付をしてくれた人に配ったりする。また、お堂の側には5色の吹き流しを立てた。それは5メートルほどの太い竹竿に、約1間くらいの5色の布をつけたもので、竿の先には一握りほどの色花(季節がら、人参の花が多いとのこと)を飾る。これをとっておくと良いという話があったようだが理由ははっきりしない。場所によってはこの花のことをテントウバナと言う。この花をたてることについては、家の庭先にたてるものと一緒になったもののようだ。
 ◎また、この林家は、大正時代までゼンゴン宿をしていた。その頃は、勝浦や神山からの参拝者があり、彼らは宵の日からやってきて、8日のお参りに備えた。林家にはこういった人が毎年5〜6人泊まっていた。無料で泊めて食事も出す。お参りをする人はだいたい毎年くるので、顔見知りの人を泊めていたようだとのこと。
 長原では、この日は在所でお金を集め、お供えものとお接待の準備に当てている。お霊具、季節の果物などが供えられ、吹き流しも立てられる。お接待は約100〜150個ほど準備するが、足りなくなることも少なくないとのこと。お接待は約20人くらいが参加、55〜65歳くらいの女性が中心。
 住吉13、14番札所では、この日70歳以上のお年寄りが10人前後集まりお世話をする。お霊具、果物、お菓子が供えられる。また宵のうちに5色の吹き流しを立て、花立てに色花をいけておく。当日は早朝からお接待の準備をする。戦前はヨモギ餅、キナコのボタ餅などだったが、終戦後チリ紙、お米一握り、といったものに変わり、最近ではお菓子、パン、ゆで卵の他、お年よりの手作りのもの(千代紙でつくったくす玉、キンチャク、リンすけ―鈴の下に敷くザブトン)が多いとのこと。220〜230個用意して全部無くなってしまうとのこと。お参りにきた人には先ず線香を渡し、帰りぎわにお接待のものをあげる。夕方3時頃に終える。これにかかる費用は婦人会、自治会などから出ているが、個人のもちだしもかなりあるようだ。昔は年配の人たちのグループが近所をまわってお金を集めていた。たいていは快く応じてくれていたとのこと。
 豊岡22、23番札所では年配の女性のグループが中心になってお接待をする。費用の方は在所から出る。竿の先の花について昔はつけていたようだとのこと。
 福有28番札所では10人くらいがお世話をする。費用は自治会で持つとのこと。約200人くらいのお参りがあるとのこと。お菓子、ジュースなどを接待する。
 広島30番札所ではお霊具、お菓子の他、キナコのボタ餅が供えられる(13個くらい)このボタ餅はお茶碗に入れてくるくる回してまんまるにしたもので昔から必ずこれを供えていたとのこと。また吹き流しを立てるがこの竿の先にシキブノハナをつけた。お接待は持ち寄りで、近くのお年寄りが心づくしのものを持ってきてお参りした人にご苦労さんと言いながら渡す。
 向喜来33番札所では年配の人10人くらいがお世話をする。昔はキナコのボタ餅を作って供えていたとのことで、今はお霊具、お菓子など。お霊具の中味は、おつゆ(豆腐とアブラゲ)オヒラ(アブラゲと高野豆腐など)ナラエ(ダイコン、ニンジン、コンニャク、アブラゲ、レンコン、シイタケ他)オチョク(菜と豆腐の白あえ)で、だいたい決まっているとのこと。お接待は持ち寄りで、ジュースなどを渡す。昔はあまりしていなかったとのことで、戦後から少しずつ盛んになっていったようだ。この頃は皆がやりはじめたのでなかなか賑やかであるとのこと。以前は、そら豆をいったもの、アラレをいったもの、などが多かった。

 6、まとめ
 生活様式の変化に伴い、こうした信仰も変化していくことを余儀なくされる。明治、大正時代には松茂町の各在所で行われていた観音信仰の集まりも今は残り少なくなっている。お年寄りのグループから婦人会グループヘとうけつがれているところもあるが、意識的にそれをしないと段々希薄になっていく傾向があることはいなめない。かつては、30番札所でいまも行われているように、回り持ちで当番が決められ、お霊具を供えることが普通であったのだろう。「お婆さんが生きとった頃はようしよったけど―」と言うのがよく聞かれる言葉で、世代が変わるごとにそうした信仰は薄れていく。ただいまだに当番のいない札所にお花や水が絶えないのは、年配の人がお参り続けているということであり、そうした人々の心の支えとなっているということなのだろう。また4月8日は年間を通しての大イベントで、この日は5色の吹き流しのたなびく中、数々のお接待で賑わう。森 綾子さんが自分で作った100個ちかくのくす玉をじっとみつめながら「これは誰かのためと言うより、自分のためにやっています。これで皆に喜んでもらえたら」と話してくれたのが印象的であった。
 最後に、酷暑の中、各札所にご案内下さり、また、数々のご指導を頂きました平島顕吉氏に深く感謝申し上げます。


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