阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第37号
幕末・維新期における「情報・記録」の意義
    −「他見無用帳」と「斉裕臨終御容体心覚」−

地方史研究班

  宮本和宏3 ・立石恵嗣2・徳野隆4・

  泉康弘1(文責)

はじめに
 現代は高度技術の高度情報化の時代である。“時と距離”を超克した、そんな時代にわれわれは生きている。あまりに高度に達したために、われわれは自分の立っている位置を見失っている。このことを自覚するために歴史研究が再評価されねばならない。
 「松茂」は徳島県の表玄関になっている。松茂空港から1時間余で東京(江戸)に行くことができる。この時と距離の超克がどれほどのものであるかを考えてみよう。日本史上で激動の時代の1つである幕末・維新期に、現代と同じ行動をしたときには、どれだけの時間が必要であったか。約 600km、150里の距離を克服するためにどれだけの時間と労力が必要であったか。また江戸と阿波の間での情報交換がどのように、どの程度で可能であったかを考えてみよう。現代はイラク・クウェートのペルシャ湾岸戦争の情報を全世界で同時に知ることができる。
 幕末・維新期に阿波から江戸へ行くのに10日〜14日、大名行列で19日1 余を要した。情報入手のために、南海路を利用した江戸―撫養の直通便で3日〜7日前後、東海道を利用した速達便で約10日、普通便で14日〜20日であった。
 幕末・維新期の阿波の松茂での情報把握を三木文庫2 の「他見無用帳」によって考え、さらにそれに関わる関寛斎3 の「家日記抄4 」によって、戊辰戦争期の徳島藩の立場・裏面を徳島藩13代藩主蜂須賀斉裕の「臨終御容体心覚」の克明な記録によって明示し、激動の幕末・維新期における「情報・記録」の意義を考えたい。
 阿波藍商の全国的展開
 幕末期における阿波藍の全国各地への移出は株仲間組織の売場株が設定されて、特定の藍商人仲間が各自の販売圏に移出する形態で行わ5 れた。売場株の設定は先進の特権化した藍商人が後進の藍商人の進出を抑えることで販売市場を寡占することによって、乱売による過当競争を防止することを主目的とし、他国地藍に対する競争力の維持、藩財政収入増加を意図して、藩権力と共生関係を成立させることを背景に成立させたものである。享和3(1803)年の関東売場株設定を最初として、文化7(1810)年の五畿内・大阪売場株、勢尾売場株、文化12(1815)年に京都売場株、天保元・2(1830・31)年の両年にはほぼ全国的に売場株が設定された。
 このような阿波藍商人の売場株仲間形成は、徳島城下の銀札場調達方御用利として藩財政にも深い関係を持っていた木下弥三右衛門と関東売仲間で住吉屋宗兵衛を称し、藍方御用利、徳島城下の干鰯問屋頭でもあった板東貞兵衛の養嗣である板東嘉兵衛の提唱で全国的に拡大されたものである。阿波藍売場株の全国的な展開は、阿波藍商の人数を天保元年時点で限定することにより、阿波藍移出の権利を冥加金を上納した藍商にのみ許可することで、阿波藍を流通面で統制し三都を中心とする幕藩制的商品流通の枠を超えて、徳島藩が全国的に高い市場占有率を持っ阿波藍独占による売専体制を確立したものである。天保12(1842)年の幕政改革による株仲間解放令の際には江戸の関東売仲間は鑑札の返上など形式的な解散の形をとったが、藩権力との共生関係によって実質的な影響は受けず、嘉永5(1852)年の株仲間再興の時には26人の阿波藍商人が株仲間規定に連印して仲間組織を再編強化して幕末期をむかえた。当時には図1のように31売場680人がそれぞれの株仲間を構成して全国的に展開していたのである。

注 奥羽売は4 と1 は出羽米沢。越佐売は越後売8 と佐渡3 。勢尾売は勢尾58 で他の9ケ所は不明。山陰売は石見24 ,因伯21 ,出雲9 ,隠岐2 。讃岐売は讃岐46 ,小豆島5 。肥前売は肥前10 ,壱岐対馬3 ,肥前天草3 。薩隅日売の薩隅○はこの当時排斥されていたので日向4 による日向への移出量。薩隅売場は慶応元年に5 で復活。国内売のX は,当時の藍玉製造人=藍師数が弘化3年に1391人嘉永6年に1352人,安政4年に1470人と記録されているので,他国売の人数を差引した数で推測される。

 図1の文久元年の阿波藍移出量179,536俵は減少した数字である。関東売藍商が移出した阿波藍の数量は嘉永6(1853)〜安政2(1855)年の平均で45,430本(1本は1俵と同じで藍玉20貫入)であり、関東への移出は4〜5万俵の範囲を上下する状況であった。幕末の諸物価上昇が著しくなった時期に幕府の樽会所が調達したのに対し、関東売仲間は仕込高と売払高の全部を次のように申告6 している。
   仕入高 売払高
  文久3年(1863) 190,800両 215,689両
  元治元年(1863) 203,535両 215,290両
  慶応元年(1865) 237,002両 250,061両
 これらの阿波藍の移出、販売の営業体系を関東売藍商の場合についてみると、阿波国元の本家(本店)と江戸の江戸店(支店)と売場先(紺屋)とを密接に結ぶことによって藍商経営が成立していた。藍屋与吉郎(三木与吉郎家)は板野郡中喜来浦(松茂町中喜来)に本店を置き、旧吉野川口の交通の便を利用して、自身でも観音丸などの廻船を所有し、江戸本材木町4丁目に藍屋与吉郎の屋号で江戸店を構え、文久元年には江戸府内で42軒、相州・山方に45軒、武州・越ケ谷・下総に52軒の売場先紺屋をもっていた7 。江戸以外の紺屋所在の村々を列記すると下記の如くである。これらの各地を巡回することで、その地の情報が収集され、本拠の松茂に報告されたのである。
 武州
 府中宿・八王子河原宿・野火多村・太津見村・南沢村・野口新田・所沢・荒幡村・町谷村・村山高城村・中神村・南小曽木村・下飯岡村・上飯岡村・二又尾村・沢井村・願和田杵島・八王子尾崎村・上布田村・高井戸村・円師村・十日市場・八郡村・大場村・瀬田村・山田村・池辺村・島山村・西寺庵・大師河村・小川新田・下飯村・入曽村・広瀬村
 相州
 浦賀・相原村・川入村・中新田・戸塚
 武州越ケ谷・下野
 千住在五反野村・板戸・草加・蒲生村・越ケ谷4丁野村・鷺堀村・高田村・越ケ谷花田村・吉川・中曽根・岑村・漆松村・岑村新田・新里村・新堀村・舎人村・八王子滝川村・鳩ケ谷村・赤山嶺・長松新田・越巻村・若戸海屋新宿・竹ノ塚村・葛酉領・葛西領長鳩村・隅田村・葛西川村・立石村・弐合半領半利
 下総
 平松村・行漆村・行徳河原村・海神村・吉橋村・神崎村・佐原新地・佐原田宿・中川村・佐倉田村・検見川・大戸河・押畑村・松崎村・佐原。
 他の関東売藍商8 の播磨屋九兵衛(松浦)、大坂屋庄三郎(久次米)、野上屋嘉右衛門(西野)、鹿島屋甚右衛門(井上)などの場合も同様に各地の紺屋への販売体系を形成し、売場先―江戸―阿波への情報交換・指令の書簡往復が頻繁に行われ、さらに仲間相互での情報交換の寄合が適宜に、また緊急に開かれていたのである。
 「他見無用帳」の情報
 嘉永6(1853)年のペリー来航以来の黒船騒動について、前節に記したような阿波―江戸―関東各地売場の経営体をもつ藍商人たちはいろいろの情報を収集して、本店―支店間で緊密な連絡が行われた。藍屋与吉郎の三木家の場合には浦賀に売場紺屋をもっていただけになおさらのことであった。三木文庫に所蔵される文書の中に江戸店(藍屋与吉郎)から本店への商況報告・時事報告が多数ある。その江戸からの報告は3日おきに出され、本店からは10日おきに指令書簡が出されている。それらを中心にして他から入手したものをも合せて、安政5(1858)年から慶応4(1861)年までのものを筆記した9冊の「他見無用帳」が現存する。他見無用=秘 というところに既に重大な意識が含まれている。
 嘉永6(1853)年7月57番書簡
 (前略)1.江戸近在仕入紺屋仕事相応ニ相見エ申候地細工場所之義モ八月中頃ハ仕業出可申与奉存候、当年ハ諸方ヨリ注文沢山ニテ荷高商内仕候ニ付是迄取立相応ニ御座候。去ル異国船来朝以来ヨリ人気騒ケ敷御屋敷方ハ諸事御倹約之御触ニテ御座候、乍去町方ハ倹約相守候様之御触ニテハ無御座候、武家方倹約ニ付此段相達与之御触ニテ御座候。是迄町方倹約被仰出候時ハ追々不融通ニ相成申ニ付此度ハ無其儀武家辺ニテ御座候、扨異国船御手当テ御物入ニ付御旗本衆ハ当盆季懸取御留与申屋敷も数多有之且御代替ニ付きゑんノ御触ニテも出可申哉之取沙汰ニテ人気甚ダ不宜候、尤きゑん抔ハ決而有間敷与奉存候、併盆季取立段々相後候者も御座候ニ付為登無数奉恐入候、尚取立出精仕可申上候。
1.将軍様御他界被為在候儀当月二十二日ヨリ御停止家業留ニテ御座候、今日ニテ五日ニ相成候ニ付今日ハ明キ可申ト奉存候。
1.右大将様御本丸へ御移被為遊当月二十三日ヨリ上様与奉称候。扨西御丸江ハ一橋様ヨリ被為入此殿様ハ水戸七男様ニテ被為在御発明ニテ下々之事御存知与承リ申候。
1.水戸御隠居様ハ将軍後見ニテ日々御登城ニテ御座候。
1.当将軍様御仁政厚キ事是迄之御評判与ハ大ニ相違之取沙汰ニテ御座候。
1.当月二十三日大森ニ於テ石火矢筒御試有之筒先ハ房州へ向ケ沖中ニ的立其間数百間ニテ打候所房州山ニ住居申鷲大森ニ捨テ有之死馬掴ニ来リ申所右鷲鳥之羽膂ヲカスリ海上ニ落下ニ付早々船こきよせ生取ニいたし将軍様江指上申候。就中先達テ参候異国船之惣大将之紋ハ鷲ニテ御座候ニ付上様御悦喜不料、武家方ハ申不及町人ニ至迄異国船若八月ニ参候トモ日本勝利無疑与一同相勇ミ前顕之不人気も三四日以来ハ少々立直リ候様ニ相見申候、亦一説ニハ八月ニハ参リ不申当十一月参ルトノ沙汰も有之、左候得バ店方ノ都合宜敷儀テテ御座候。
1.当時候儀も七月十一日風雨十分之潤ニテ風も格別障リニ相成不申候、其後天気続ニテ御座候、昨二十五日夕立少々ニテ早々快晴宜敷順気ニテ御座候、先着申上度為登御案内請取書添状如此ニ御座候。尚都船便之時ニ恐憧謹言
 丑七月二十六日 藍屋与吉郎店中
 三木与吉郎様
 同 御家内様
嘉永6年10月書簡78番
(前略)
 此度別紙仕切書之通徳福丸留吉船へ積入申候間着岸之刻御受取被遊可被下候、右徳福丸儀ハ浦賀表ヨリ今日位出帆仕可申候、右代品物此度買入候内ニテ不宜分ニテ御座候、先達而御申越ニハ千五百俵程之御注文ニ候得とも追々高値と見込候ニ付二干俵丈ケ買付御座候間若御不用ニ相成申候儀ニ候得バ徳福丸入之分御払可然与奉存候、跡ハ何れも宜敷品ニテ御座候
1.41番 九月 十四日出 十月 逆日着
1.42番 九月二十一日出 十月 九日着
1.43番 十月 朔日出 十月十二日着
 右御申越夫々承知仕候
1.江戸注文高千百本奉願上候処当地商内方弁利ニ付右員数之内三百本程外売場注文刻ヨリ余慶ニ年内中ニ御仕出之儀奉願上候処四十三番御申越ニテハ追注文与御聞済之段御申越候得共実ニ多分之儀数ハ売不申当地懸引ニテ年内中ニ商内仕金子品取ニ可仕積ニテ三百本品御仕出奉願上候得共書状認メ方分リ悪敷候ニ付御読取相間違候方ニ奉存候、依而此府相改左ニ奉申上候
1.藍玉千百本 江戸
 此内三百本、外売場俵数割合ヨリ余慶御仕出品々奉願上候
1.同 八百五十本 山方
1.同 七百五十本 相州
  ○ 三千七百本 右之通奉願上候
1.異国船来春参可申様盆前以来取沙汰ニテ人気悪敷御座候。先達而参候節アメリカヨリ御公儀様江指上候書翰去ル御屋敷ヨリ写取御座候得とも紙数多ク候ニ付永福丸へ積入可申候、前顕之運故諸家様方御用意専ニテ御座候、既ニ阿州御屋敷様ヨリ被仰渡御座候ニ付てより昨日廻状ニテ支配人寄合仕候処異国船来春来候節ハ太守様本牧御台御承被遊、御家中不残御出張ニ相成ニ付テハ御留主之守護国人ならては御用ハ相成不申尤夫人足位之者ニテハ御奥向守護ニ事足リ不申ニ付藍屋中ニテ人数指出候様被仰出候得とも何れも多人数指出申儀迷惑ニ付段々相減藍屋中ニテ五十六人、店ヨリ三人指出可申様御請仕候間右様御承引奉願上候前段懸リ故仲間中ヨリ藍玉注文多分ハ仕間敷与奉存候、左候得ハ十一月中ニ相成候得バ下落可仕与奉相察候其節沢山御仕入奉願上候
1.粕物之義追々高値ニ相成此間買付之値段と只今之相場ニテハ壱貫五百匁も引シマリ申上候、此度積入之残千六百俵程ハ永福丸徳寿丸両艘ニ当月中ニ積入可申候
1.助三郎様嘉兵衛殿子供壱人先月二十五日御発足被成候同趣ニ候得ハ最早今明日之内ニ御着ト存候、先ハ右之段奉申上度如此ニ御座候、当期舟便之時ニ恐惶謹言
 丑十月十二日 藍屋与吉郎店中
 三木与吉郎様
 同 御家内様
 ペリー来航は大事件と認識され、関東売藍商人の場合には江戸店から阿波の本店へ刻々の情報が通信された。ペリー再来の予測不明の中で武家方、町方の対応の相違、将軍代替りにともなう棄捐令の風評、それに対する観測が記され、78番書簡ではアメリカ大統領の国書を「さるお屋敷」から写しとらせてもらったが長文なので船便で送るというように行われる。この船便での永福丸・徳寿丸などは撫養の廻船問屋・塩大問屋の山西庄五郎9 の廻船である。ペリー再来の時には藩邸の武士が全員出張するので、屋敷の守護ができなくなり、その守護はやはり阿波の同国人でなければなるまいから藍屋仲間から留守居を出してくれとの要請のもとに56人の奉仕をきめ、藍屋与吉郎は3人を出すことを引き受けた。
 安政5(1858)年の井伊直弼の大老就任にともなう日米修好通商条約調印をはじめとする5ケ国条約調印、神奈川・長崎・函館の開港、諸物価高騰によって、危機意識が高揚され、江戸の町触れ、外国銀と日本の金小判・銀貨との交換規定、開港にともなう取りきめなど克明な報告が記録される。安政の大獄による水戸の斉昭への謹慎処分、朝廷の動向をも記録する。
 万延元(1860)年3月3日の桜田門外の変についても、正確な諸種の情報とともに、当時の狂歌をも記している。
 凡そ世の中ないもの尽し多い中にも、今年のないものたんとない、上巳の大雪めったにない、桜田騒動とんでもない、それでもどうやら首がない、それにちっとも追人がない、壱人や弐人じゃしょうがない、上杉辻番いくじがない、御番所どことも止人がない、浪人少しもよわみがない、脇坂取次出人がない、桜が咲いても見る人がない、茶屋小屋芝居は行く人がない、唐人はなしがさっぱりない、伯耆の噂も嘘でない、そこに板倉詰らない、讃岐の騒動も友人がない、其外このせつ呼人がない、水戸の窮民宝がない、一躰親父は人ではない、薩摩の助太刀已にない、諸家の門々出入がない、夜はさっぱり通りがない、町人金持気が気でない、老中供増しみつともない、仙台の全体役人腰がない、是では世の中治らない、それでもまづまあ戦さはない、どこでもわっちはうけあわない、ないもののなくはともあれうちもない、めったな事を言うものでない。
  いいやよい雛の祭りは血祭りと赤く染なすさくら田の雪
  大雪や隠居仕事の鴫を志め
  井伊ことに油断したのはあやまりか諸て志まいは水戸もなかろう
  井伊事と思ひのほかの掃部さん頭とられて水戸もなかろう
  井伊花は散て伯耆の掃そうじ是迄の忠勤みんな水戸の阿波
 次いで、アメリカヘの条約批准使節、ヒュースケン斬殺事件・同事件への幕府指名手配書、坂下門外の変、江戸大火事の模様、京都の情報、勅使下向、攘夷綸旨の出された評判、中島永吉(錫胤)の「賛下の近事」という京都よりの書簡、将軍上洛準備、生麦事件、外国貿易商黒江屋への攘夷浪人の脅迫、文久改革にともなう藩主蜂須賀斉裕の陸軍総裁の上に海軍総裁を兼帯せよとの命令に対する世嗣茂詔を中心とする京都で勤王に勤める者からの猛反対、家中での評定、土佐脱藩23士の海部郡への脱走など、江戸・京都・徳島における種々の情報を把握して記録しているのである。
 文久2(1862)年12月12日出書簡98番
 (前略)1.京都より攘夷の御勅使御下向且大名方京都ニ御引留ニ相成上方筋ハ何カト不穏人気勿論、当地ハ枕元之事故売事程能難行被見込候成外藍屋中都而荷物相扣候様見此砌ニ相成候テモ荷物潤沢不仕候、尤攘夷之取沙汰専ニ候得共少も人気相障不申景気宜敷方ニテ御座候、畢意如何様成行候儀モ難計候とも策略ハ御武将之御職ニテ京都ヨリノ御指図通ニも相成申間敷先御防戦守備之上夷人共へ破約御応対被為有速ニ返候得ハ重毎々仮令破約承引不任候共一先夷国へ引取候上之事ニテ危急ハ少モ無御座様一同相心得申候。
 風聞書
 前紙ニ奉申上候、此度英船渡来之発端ハ先達而生麦ニテ異人切捨之一件且又其後御殿山英吉利西屋敷焼払候一条右二ケ条悉立腹仕軍船拾五艘を以薩■江乗込種々申候得共薩州手強掛合既ニ可打払迄ニも相成リ候処英人恐怖此感平ニ詫入同所返帆仕候由ニ御座候、右船横浜迄乗込公辺へ申立候義ハ島津三郎殿并ニ久世安藤三人ヲ渡呉候カ又ハ詫入印として五拾万ドル指出候呉候カ両様之内有無早急返答承度、其返答之次第ニ寄差含も有之杯与不届至極之申立ニテ只申威之様子ニ候得とも公辺ヨリ御手強之御掛合被為在候得心日本丸負同様ニテ已後異人共段々ニ付上リ終ニハ持てあまし次第ニ可相成事ニ付此度ハ逆モ和儀ハ無之必御決答相成可申与風聞仕罷在候如何様ニも異人共横浜ニテ取合相始候共浦賀・房州南方ニテ被取切候時ハ、袋之内ノ鼡進退兵糧之運送不成自由只居合之船而己ニテ減亡相待ヨリ外ハ御座有間敷地利ニ候得バ容易戦闘相好候儀ハ決而御座有間敷与惣存仕候、先ハ風聞辺奉上候以上。
 別紙ニ奉申上候、就ハ当地米穀之儀随分品沢山ニテ仙台米抔ハ売人而巳ニテ買人ハ更ニ無御座候、然処英船一件ニ付急ニ相場引上ゲ候得共全景付上ゲニテ既ニ一昨日ヨリ相場相ゆるみ地盤品沢山之上一昨日ヨリ只今ニ至迄南風吹詰居申候ニ付品川被入船沢山可有御座候左候得バ最早此上高値ニ相成候義ハ御座有間敷存候。
 このような「外患」に対する情報に加えて「内憂」の情報が伝えられる。慶応2(1866)年頃より各地で頻発する打ちこわしの状況が伝えられる。5月28日〜6月3日に何者とも知れぬ300人余が芝田町から浜松町までを打ちこわした。
  慶応2寅年5月晦日夜九ツ時何者とも不相知凡三百人余リニテ芝田町ヨリ相始メ浜松町迄相砕候人数并ニ被砕候内
打砕覚
1.五月二十八日夜 品川辺砕家数凡五十軒
    二十九日 芝田町ヨリ浜松町迄凡十軒
  六月 朔日 西ノ久保切通しまで十二軒
     二日 赤飯鮫ケ橋ヨリ市ケ辺迄、凡百十軒
     同夜 泉町大六ト申ス唐物屋、砂糖屋二軒
     三日朝 丁字屋銀次郎。
 打ちこわしの状況は特別に注意された。大局的な政治動向を決した薩長同盟成立後の倒幕運動の急展開の中で、薩摩藩の三田屋敷は策謀の拠点であったが、それに隣接した徳島藩三田江戸屋敷にも余波がおしよせた。薩摩藩邸が襲撃されたときにはその負傷者や死者の処置を留守居役が行い、その後で藩邸が撤収されて、藍塩方に野村林助だけが残るなど、関東売藍商も大きな影響を受けるのである。社会不安の中で織物業の不景気、金繰りの困難のために紺屋から藍玉値下げ要請が出され藍商活動にも悪影響が出る。
 慶応4(1868)年の3月から4月にかけての幕府崩壊の最終過程から戊辰戦争への状況は次の史料のように伝えられた。官軍の江戸進軍からそれにともなう町中の避難の準備など市中の全ての商人が商売不能となり、藍商も休業同然となった。
 江戸慶応4年3月10日出4月4日着書簡(1868)
1.御勅使様先遣最早品川御浜御殿台場目黒板橋加賀様御屋敷并其近辺八王子高井戸新宿何れも御入込ニ相成居申候間先達ヨリ御大名様奥方夫々御自国江御引取ニ相成申候。御旗本様も同様に御座候間町人達もやはり同様にて夫々田舎親類ヌハ懇意先無之人ハ百姓家借受夫々荷物相かたづけ申候間大川筋又ハ立川通抔イ引越ノ荷物船ニテ誠ニ賑敷事ニ御座候。右ニ付本店ヨリ船橋辺両国千住辺夫々近在ハ明家壱軒も無之誠ニ心細キ事ニテ御座候、左候得ハ店方ニも荷物者今以かたづけ不申候得共先心当之内ハ借置何れ成方も宜敷様支度ダケハ致置候共且又右ノ次第柄ニ候エバ御公儀様ニハ少しも御戦之気無之只々御あやまり被成候ばかりニテ尤戦之武士ハ壱両相見エ不申ニ付テハ御町触もやはり市中平穏ニ可被改との御触面々と御座候。乍併前顕之分柄ニテ御座候間何故ヘ市中騒ケ敷ニ付大店田店売之外ハ何れも戸締売家又ハ逼塞元札ヲ掛板囲等いたしひそと致居申候。又人出入之節ハ裏口ヨリ出入致居申候、就テハ右様ノ成行ニ相成候事故市中諸商人とも借有之候トモ払不申、紺屋方も是又同様ノ事ニテ正ニ心配仕居申候尤仕入紺屋并ニ御府内細エ紺屋等仕事無之休同様ニ御座候。(中略)誠ニ当時之事ハ拾人寄候テも実節ノ事相分リ兼候義ニ御座候。
江戸慶応4年辰閠4月12日出5月4日着書筒(1868)
1.当地人気之義先月中旬迄ハ相沈居所諸々戦争東方勝利有之候ニ付人気相勇居申候尤諸職人極日間ニテ御座候田舎筋地細工之義ハ田植仕舞候得バ相応仕事も出可申与相察居申候仕入紺屋之義ハ奥羽節之騒ニ付買人更ニ無御座候併少々ニテも作リ候得ハ宜敷相成可申見込ニテ御座候
1.御当家御家督之義ハ田安様ニ相極リ候様子ニテ御座候惣督有栖川様近日之間御立与申評判ニテ御座候。
1.野州筋合戦之義ハ日々有之候様子ニ御座候得とも関東方勝利之由ニテ御座候、未ダ会津勢トハ手合ハ無御座徳川家脱走之諸士ノミニテ所々伏兵仕大合戦ハ無御座候得共所々ニテ日々合戦仕候由、信州辺関西ハ奥羽之勢余程廻リ大半関東方ニ相成リ由専風説仕候得とも確といたし候義も承リ不申尤信州松本へ脱走ノ浪士ヨリ懸念仕関東方ニ付候由。
戊辰激動の中での藩主松平(蜂須賀)斉裕の臨終と関寛斎
幕末・維新の激動期に御典医である自分の立場で極めて客観的な記録である「家日記抄」を残したのが関寛斎である。この「家日記抄」は激動の裏面を克明に記録し、徳島藩の動向と人々の交流を示している。寛斎が藩主の御典医として登用されるのは文久2(1862)年12月1日に江戸藩邸においてである。俸禄として25人扶持が与えられた。寛斎が長崎でポンペに学び、生国の下総に帰って銚子で開業してその医業が軌道に乗りはじめた時であった。佐倉順天堂の先輩であり、徳島藩江戸藩邸詰の蘭方医であった須田泰嶺によって強く推挙されたからである。12月1日に登用されて、12月9日に初めて「太守様拝診」して以来、斉裕が戊辰戦争が勃発した最中の慶応4年(1868)正月6日の臨終まで、厚い相互信頼の関係を持った。
 寛斎が御典医となった時、島津久光による文久の幕政改革で、徳川慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職への就任に次いで、松平(蜂須賀)斉裕は陸軍総裁職兼海奉行を命ぜられていた時であった。斉裕の陸軍総裁兼海軍奉行は11月から翌年1月の辞任まで2か月ほどであった。その就任に対して、文久3年以降は勅命による京都護衛を行うことになる世嗣茂韶を中心とする反対があって辞任する。
 文久2(1862)年は坂下門外の変、生麦事件が発生した年であり、前節で記したように、全国各地での多事多難が報ぜられたときである。
 斉裕は13代藩主の斉昌に子がなかったので将軍家斉の22子が迎えられて14代徳島藩主を天保14(1843)年に襲封する。斉裕の夫人は関白鷹司政通の娘である。
 開国の外圧、攘夷の内情の中で、勤皇と佐幕、開国と攘夷、さらには佐幕と倒幕などのいろいろな論理が錯綜する。その中で江戸と京都が二極化し、それに対応する藩論決定が臨機に迫られることになるが、斉裕は「佐幕にして勤皇」、「開国派にして攘夷論者」とされ、「その思想と行動は、かなり矛盾だらけだが単純である。遠謀深慮の日和見主義だ。」とされる10 。徳島藩が「公武合体論」の立場であり、「あいまい藩」であったことは、藩主斉裕の立場が象徴的に示しといる。
 斉裕は人物的には、将軍継嗣問題では一橋派に属し、松平慶永・島津斉彬・山内豊信・伊達宗城らとともに安政改革を指導する「明君」の一人に数えられていた。井伊直弼が大老に就任して安政大獄が断行された時期から文久2年の幕政改革が行われるまでの間は斉裕は専ら藩政改革による経済力の増強と洋式調練による軍制改革とにとりくんでいた。藩士池辺真榛(国学者)に横浜の貿易の調査や長崎で反射炉の研究をさせたり、後に英国公使パークスと書記官アーネスト・サトウの徳島訪問の契機となるサトウの「英国策論」を訳す沼田虎三郎を横浜に駐在させたりする開明的な一面をも持っていた。
 文久2(1862)年に幕政を担う一人として陸軍総裁兼海軍奉行に登用されたものの2か月で辞任し、その直後の文久3年1月29日に関寛斎をも伴なって江戸を出発し、2月15日に京都に着き、2月18日に茂韶と共に宮中に参内して「攘夷の勅諚」を21人の有力藩主・世子で受ける。
 そのあと、寛斎が「3月14日御供にて京都出立、17日淡■着、28日御供にて国許着」と記すように、斉裕は徳島に帰り,以後の8月18日の政変によって都落ちした三条実美ら七卿連署の檄文を送られたりするように尊攘派から頼りにされたり、公武合体派の巨頭と目されたりしながらも、激動する政局には再び登場することはなかった。
 斉裕が徳島城で「内鬱」する気持ちを「酒」にまぎらして激動の局外で生活する相手に関寛斎がなる。寛斎は徳島に土着することを覚悟して文久3年(1863)11月16日に下総での生活を整理するために出発し、12月8日に江戸に着き、上総・下総での親戚知己との別れや家財等の整理を済ませ、4月5日に銚子と上総よりの荷物27個を、江戸の塩問屋で撫養の山西庄五郎と取引きのある広屋吉右エ門の廻船に輸送を依頼して、4月13日に妻や子を連れて江戸を出発し、29日に大阪、5月8日に徳島に着き富田裏掃除町の借宅に落ち着いた。「五月九日、両殿様御目見。十六日門人耕庵・玄碩・慎吾・三郎・栄輔・良助・良庵・戈司と共に夜会ヲ始メ内科書ヲ講ズ。」というように徳島での生活を使命観をもって始めた矢先、「五月十八日 初メテ御番出勤。早朝山西庄五郎ヨリ使ニテ先月十八日荷物不残遠■沖参■灘目ニテ流失之届。大小三十箇、調合諸道具入込等、時価三百両」という悲報が届いた。寛斎と妻が築いた全財産を失ってしまったのである。これは幕末・維新期における江戸―阿波間の情報交換の一面を明示するものでもあり、無関係に見えた三木文庫の「他見無用帳」の情報とも密接に関係するものであることを明示する。後に関寛斎が町医となったときには三木与吉郎と親交が結ばれる。全財産を流失させてしまった寛斎は藩よりの「前借」によって当座をしのぎ、生活をたて直して、斉裕の御典医としてと同時に賀代姫、尋姫の診察をも受け持ち、賀代姫の病死を看取るなど、漢方医の中での蘭方医として斉裕の信頼を厚くする。
 長州征伐・再征と続く時期に、軍制が蘭式から英式調練に切りかえられ、洋学校を創り実力養成の方向にうごいたが、斉裕は長州再征には反対で、病気を理由に出征を固辞し、代わって茂韶が出陣し、稲田邦誠が兵800人で従った。
 薩長同盟が成立し、西南雄藩連合による倒幕が具体化しつつあった頃、西南雄藩連合政権構想の推進者であるイギリス公使ハリー・パークスとその書記官アーネスト・サトウの一行が斉裕を訪ねて徳島に来た13 。
 斉裕は、一行の接待を済せたあいまに、「こっそり私(アーネスト・サトウ)の耳に、自分は隠居してイギリスヘ行ってみたい、とささやいた」という。慶応3(1867)年8月3日のことである。
 大政奉還、小御所会議における王政復古のクーデター、将軍慶喜の辞官、納地が決定されて、鳥羽伏見で戦闘が勃発した慶応4年1月3日には斉裕は徳島城下で危篤に陥っていた。寛斎はカテーテルで排尿手術をしていた。斉裕は1月6日に没する。享年48才であった。万年山墓地に「故阿淡二州太守源戴公之墓、慶応4年戊辰正月13日薨」とある。
 御容体心覚12
 御性来御酒ヲ御好被遊候処近頃御時会厚御配慮ニて御精神御欝シ被遊表不被仰出只々御内欝被遊候御事勝ニ被為入候然処ヨリ御酒ニテ御マキラシ被遊候得共昨秋ヨリ時々四支振慄等被為成免角御気重ニ被為入候処ヨリ右御マギラカシ之為メ一層御酒好被遊候処同十一月上旬ヨリ御心下懊悩毎朝御黄水ヲ吐キ被遊候、乍去御秘シ被遊御絶食ニて御酒耳ニ被為在候其砌寄々諷諌申上候得共右等之儀者御承知之上ニテ只々御按シ申上迄ニ心痛仕候然ル処同中旬ヨリ御風邪之御気味ニて少々御発熱兼テ御気分重リ振慄益々加リ眠リ難ク不食之御様体ニ被為在兼てヨリ毎夜水潟三四行被為在且盗汗も始終被為在候当時御引続キ之処十二月朔日夜四五行ニて一時ニ御脱力ニ相成熱勢加リ譫言妄語振慄等振揚譫妄之御諸症著ク備候
通シテ漢医ハ隠症疫ト云ヒ洋医ハ第扶思ト云フ的症ニ着眠スル事ナシ表ニ言ヘハ実アリ只人情ヲ取捨シテ其場合ニ順ヒ軽ク的応ノ方ヲ述ブル耳或ハ清涼薬ト言ヒ或ハ香気薬ト云フ心中甚タ究セリ
漢医者流ノ柴胡剤予ガ阿片幾涅ノ合剤ヲ兼用シ聊佳境ニ赴ク処同十一日ノ夜甚ク脳症ヲ発シ胃部疼痛シテ更ニ精神昏冒シ夫ヨリ昏睡状ニ陥リ十二日ノ朝御寝覚ヨリ精神御一新シテ小兒ノ如ク極老人ノ如シ十三日甚ク脳ニ感傷ヲ起シ必死ヲ究メ只々精神沈鬱シ食気ナシ先方ニ纈草浸ヲ増ス十四五日ノ頃ヲ佳境ニ赴ク然しトモ酒ニ耽淫スルカ如ク甲乙ヲ誤リ條理ヲ失ウ事多シ、四月十七日京師ニテ辨ヲ以テ行ワルル新宮涼民子著ニテ同法方ニ基キ少ク色薬ヲ換ヘテ人気ヲ悦バシム彼ノ説ニハ第扶思ヲ以テ此レ既ニ疫ヲ以テ公告アルヲ以テナリ又説ヲ立肝ニ炎性ヲ有スト■針ヲ貼セン事ヲ主張ス然レドモ少量ナリ
此レヲ拒メバ彼ヲ非トスル事顕然タリ彼ヲ激スレバ遠方ヨリ引クノ医ニ無用ニ属スレバナリ且燐酸十滴ヲ一日ノ量トシ指上ル同廿二頃ヨリ下利只粘液耳。漸々御体力衰へ譫妄症御増ニテ不眠狂語多ク然レドモ暴ナル御話ニハ無之只快語耳。菓子茶等ヲ被賜或ハ坐上ニテ笑語ヲ御楽被遊難有一日ニ両三度宛御自手ヨリ御菓子被下四月廿七日密ニ新官氏旅宿ヲ尋テ振■譫妄ノ證ヲ話シス彼レ此ノ症ヲ知ラス故ニ究氏薬性篇阿片ノ條下ニ付テ説ク彼レ初テ悟ヲ大ニ喜ブ翌廿八日燐酸ヲ去リ滋養剤ニ幾那ヲ指上ル御下痢少ク止ム廿七八日ノ御頃御同断乍去少々宛御衰弱加リ更ニ御痛苦ナク安眠ト御精神錯乱ト御正気ト交代ス御精神乱ルト雖只御酒ニ酔中ノ興味ノ如ク頻リニ人ヲ愛シ大ニ飲食ヲ賜フ笑テ坐右ニ御勧語ス乍去修理ヲ誤ル事大酔ノ人ノ如シ其内ニ精神正然タル事モアリ難有御側ニ在テ御菓子御茶等ヲ毎々御手ラ被下直ニ拝味仕候事ハ難有候。御喰料も御粥ニテ一日ニ百目前後ニ有之候処廿九日頃御惣体御衰弱御加リ候是迄毎夜御寝中ハ必ス御発汗アリ時ニヨリ御襯衣ヲ湿スニ至ル事モアリ正月朔日ヨリ御全身紫班ヲ顕シ口臭甚敷御精神益々御衰弱然レドモ覚ル時ハ快美ノ事ヲ語リ楽ミ御笑ニテ手指ニテ一種ノ御形ヲ為シ笑テ御楽ミの状嬰児ノ如シ但シ此迄御起坐御自由ナリ今日ニ至テ御脚運動セス只々御手ト御頭部トノ御運動ノミ御大小便御不通同二日御同断同三日御同断之御内前症益加リ小腹御満小便御秘スルニ由テ加■的兒術ヲ指上ル御利尿御十分今宵御安眠ナク昨日ヨリ詰切ニテ御世話申上候事至極御機嫌ニテ御手ら御菓子弐つ被下直ニ喰候様被仰付直ニ頂キ候処至極御満足ニ被思召御笑ニテ被為在御自手頂キ候儀此時社終リニ御座候夕刻御側ニテ御側不残并ニ涼氏同僚壱統江御酒肴被下此迄ハ色々骨折ト段々被仰出今宵御衰弱ノ御極度ニ付御家老初御側江惣出同僚更ニ御サスリ等申上二日ヨリ御絶穀御薬モ同断被召上五日御同断益々御衰弱乍去御機嫌御宜ク時々御笑被思軽ク御意モ被仰出御苦痛等ハ聊無御座六日暁卯刻御逝去被遊其砌モ御側ニテ御サスリ指上候。七日御存命中御福引御思召之御品被下扇子一、手拭一
八日
御位牌奉拝候
大龍院殿故阿淡ニ州太守正四位上参議宰相登雲泰源大居士戴公ト申上 愛民好治曰戴同月十六日六ツ半時御収リニ付御後ヲ慕ヒ申上大安寺御山上迄御供
 このように藩主蜂須賀斉裕の御典医としての関寛斎が病状及び施薬治療を克明に記している。各藩の藩主が列座した小御所会議の頃は斉裕は局外にあり、病中であって激動と無縁であったのである。既に記したように、パークスやサトウと会った時、「自分は隠居してイギリスに行きたい」と耳うちしたと言われるが、「勤皇にして佐幕」「開国派にして攘夷論者」といわれるような立場のあいまいさが「御内鬱」と記されるような精神状況に追い込み、その精神的な鬱積を「酒」でまぎらしていたことが、英明さを持つ人物であっただけに「アルコール中毒症」となっての「最期」となったのである。「大名の臨終」がこれほど微細に記録されていることは稀有のことであり、寛斎の医師としての力量と几帳面な性格、記録能力の優秀さを示すものである。
 徳島藩では斉裕が病中にあった慶応3年(1867)12月21日に、世嗣茂韶を中心にして100石以上の家臣を集めての、藩論を決する大評定が行われた。裁定は茂韶の手にゆだねられることになったが、藩論が討幕に決せられるのは慶応4(1868)年1月3日の鳥羽・伏見の戦いが勃発してからである。鳥羽・伏見の戦いの時でさえ、慶喜の軍と討幕派の軍の双方が、大軍(約3000人)を擁する徳島藩を味方だと信じていたといわれる。双方から信頼されるほどに実力をもちながらの「あいまい」であったのである。
 斉裕が1月6日に48歳で没し、茂韶が1月17日に就封し、松平姓から蜂須賀姓に1月27日に復した。
 蜂須賀茂韶は2月14日に寛斎をも供にして京都へ向かい、18日に京都二条の藩邸に着いた。それからの3月中は寛斎は京都において各藩の藩医連中と積極的な往来をして状況の把握に努めていた。
 4月6日に寛斎は張庵・立章・道張と共に銃隊指添で官軍への参加が命ぜられる。梯津守組銃隊100人と共に4月17日に蒸気船で江戸に向かい24日に品川に着いた。
 5月11日に講武所を拠点とし、15日に行われた上野彰義隊との戦闘での各藩の負傷者の処置を行った。その中に益満休之助、中村半次郎なども含まれていた。この時の戦傷者への外科的な処置の優秀さが大村益次郎に激賞され、6月8日に奥羽出張病院頭取に大総督府から命ぜられ、門人の斎藤龍安と共に、徳島藩の銃隊とは別れて、日本での最初にして本格的な野戦病院長として大活躍するのである。緊急に医薬品を大量に横浜で越前屋宗吉を通して調達して6月14日には品川を出艦し、「十五日四ツ時九十九里ノ予が座所ノ沖合ヲ通リ心中に両親ヲ思出」しながら平潟港に着き、平潟地福院を病院として臨戦態勢に入った。6月17日より9月晦日までに野戦病院への総入院273人、その内93人横浜行、53人出兵、23人死去、102人滞院という数字が残され、その賄10,252人であったと記されている。これらの治療を寛斎を頭取とする13人の医師団で行った。その総費用は8,340両であった。寛斎に100両の下賜金が行政官より与えられた。

 おわりに
 高度科学技術・高度情報化社会の現代に生きるわれわれが、ややもすれば自分の立つ位置を見失う傾向を反省して、日本史上の激動期であった幕末・維新期における「情報」と「医療」の状況について検証してみた。現代は、あまりに速く、あまりに多い情報によって、われわれの生活が不安定で記録力・判断力に自信がもてなくなっている。ペルシャ湾岸危機による近代戦が、同時中継によって全世界に放送されるマス・メディアの普及、医学では生体肝移植が日常化した治療法となろうとしている現代との対比において、幕末・維新期の情報と医療、人々の行動について考える資料を提示したものである。
 ペリーの来航(1853)以後の「黒船騒動」による社会不安や阿波藍商の情報収集の状況が推測され得たと思う。その当時における最も体系的な営業であった阿波藍商人の営業組織が収集した「情報」を見ることで、「阿波」のその当時における日本国内の位置を測る座標ともなると思う。
 戊辰の激動の中での徳島藩主蜂須賀斉裕の「臨終」があいまい藩徳島藩の立場を象徴することになり、日本史の中での地域徳島の歴史と重大な関連をもつのである。その臨終の場に御典医の関寛斎がおり、封建的な身分社会の場で、冷徹なまでの「容態の心覚」を記録しているのである。
 幕末・維新期の情報と徳島藩や阿波藍商の動向を「他見無用帳」(三木文庫蔵)と「家日記抄」(東大史料編纂所蔵)の二つの史料から、それぞれに関係のないように見過ごされがちなことを、阿波藍の全国的展開、当時の徳島藩という視点で合体させてみたものである。

〈注〉
1 三木 安平『参勤交代私見―蜂須賀はんの場合―』
2 板野郡松茂町中喜来所在。
3 泉  康弘「城東高校と関寛斎」(城東高校誌『渭山』18号)
  同 「関寛斎、その人・めぐる人々」(徳島の文化を進める会『徳島の文化』第7号)
 司馬遼太郎『胡蝶の夢』、『街道を行く』(15)北海道の諸道(32)阿波紀行
 城山 三郎『人生に余熱あり』(1989.光文社)
 徳富 蘆花『みみずのたわごと』『新春』
 鈴木 要吾『関寛斎』(1936)
 戸石 四郎『蘭医・関寛斎』(1980.千葉・崙書房)『関寛斎―最後の蘭医』(1982.三省堂選書89)
 川崎己三郎『関寛斎―蘭方医から開拓の父へ―』(1980.新日本選書283)
  同 『近代の波涛と人物像―寛斎・関寛の生涯』(1979.新日本出版社)
 鈴木  勝『関寛斎の人間像』(1979.千葉日報社)
 米村晃太郎『野のひと一北の肖像・関寛斎』(1984.春秋社)
 福島 義一『阿波医学史』(1970.徳島県出版文化協会)
  同 『阿波の蘭学者』(1972.同上)
4 東京大学史料編纂所蔵
5 泉  康弘「近世商品流通史上における阿波藍商人」(徳島地方史研究会『阿波・歴史と民衆』II)
6 『西野家跡書帳』(慶応2〜4年)
7 三木 文庫「江戸藍売帳大綱心覚帳」(天保12年)
8 泉  康弘「幕末・維新期の藍商経営」(徳島地方史研究会『史窓』2号)
  同 「阿波藍商人と明治維新」(『徳島藩の史的構造』名著出版)
 真貝 宣光「関東売藍仲間定書帳」(徳島地方史研究会『史窓』第20号)
9 泉  康弘「瀬戸内海水運による阿波藍の流通」(渡辺則文編『産業の発達と地域社会』渓水社)
  同 「吉野川平野への魚肥移入と阿波藍」(柚木学編『瀬戸内海水上交通史』文献出版)
10 佃  実夫「維新の傍流―阿波藩の場合―」(思想の科学研究会編『明治維新』徳間書店)
12 関  寛斎「家日記抄」
13 アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』
  平瀬金造編『パークス英公使徳島城を訪ねたころ』

注 1 県立城東高等学校 2 鳴門教育大学大学院 3 鳴門教育大学大学院 4 埋蔵文化財センター


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