阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第37号
松茂町の伝説

史学班  湯浅安夫1)

はじめに
 松茂町に伝わる伝説というテーマでどんな伝説があるのか楽しみに足をはこんだ。ところが意外に少ないのに驚いた。
 少ない理由の1つと考えられるのは、松茂町は新しく開拓された町であるということである。町誌によれば、松茂町に人々が住みつき開拓をはじめたのが室町末期であるという。そして多くは藩政時代に茫漠たる海岸州、河口州にすぎない低湿地を苦労を重ねて開拓していった。しかも他町村よりの移住者によって開拓がすすめられ、住吉新田・豊中新田等を切り開いていった。これでは他町村に多い弘法伝説など生まれようがなかった。松茂町の町名が示す通り、多くの堤防が作られ松が植えられているのは水とのたたかいの歴史を物語るものである。そのような町の性格を物語る水とのたたかいの伝説の多いのも松茂町の伝説の特色である。
 以下、お年寄に聞いた話を中心に、松茂町に伝わる伝説をあげてみよう。
 (1)新宮社
 笹木野の開拓の祖は、京都の大商人三島泉斎と言う人で、その泉斎を祀ってあるのが春日神社の境内にある新宮社である。
 泉斎は、川内の平石・加賀須野から松茂町笹木野を艱難辛苦して開拓した。その徳を称え新宮社として祀った。宝筐印塔の墓が川内の平石にある。今から30年程前に、泉斎の開拓地の人々が集まって300年祭を祝った。 (平田邦栄さん談)
 (2)鹿の墓
 昔、奈良の春日神社から神鹿が笹木野の春日神社へお使いとして来た。しかし不幸にも犬に襲われ笹木野原でかみ殺された。村人はこれをひじょうに哀れんで、碑の表面に鹿を浮き彫りにして、天明6年(1786)3月26日と刻んだ墓を用水路のそばの田の畦に建てた。また、その巨大な角は春日神社に納めた。
 その後、だれ言うとなく、この鹿の墓に祈願すると歯痛や風邪ひきが治るといい、参拝者が後をたたず、全治者がお礼に供えた赤紙の小旗が林立するに至った。現在、この墓は春日神社境内に移されている。
 笹木野には、もう1つの鹿の墓があって、これは「こずきの神さん」として村内のみならず村外からの祈願者もあり、オチラシ(麦を煎ってひいたもの)を供える風習があった。
 この鹿も春日神社の神鹿であったが、牡鹿は明治7年(1874)5月17日に犬に襲われ死に、牝(め)鹿は明治9年9月18日に死んだので、この2頭が向かい合っている姿を碑に刻み、山の手に建てた。後にこの地が海軍航空支廠(しょう)の用地となったので春日神社の境内に移され、現在、古墓と並んで建てられている。
 なお、笹木野には神鹿の飼料として「にない米」の名で2〜3か月ごとに春日神社の勤番が各戸を回って、ご芳志を集める習慣ができ、この風習は鹿がいなくなっても戦前まで続いていた。 (「松茂町誌」)
 (3)三好長治切腹の跡
 時は下剋上の戦国時代、勝瑞城で土佐の長宗我部との戦いに敗れた三好長治は、松茂の長原まで逃げのびて来て漁船を奪って阪神方面へ逃げようとしたが、沖合より白旗をなびかせた船が何隻もやって来る。敵の手が回ったと逃げるのをやめて豊岡で切腹した。
 後でわかったことだが、白旗をなびかせたのは豊漁旗をたてた漁船であった。また、長治は、地引き網の掛け声を聞いて敵がきたと思い切腹したという言い伝えもある。
 なお、長治の敗れた相手は長宗我部でなく、細川真之に味方する軍勢で、天正5年(1577)3月28日の辰の刻、この地において自決した。行年25歳。家臣姫田佐渡守、浜隠岐守、堀井又五郎、原 弥助等が殉死した。「三芳野の梢の雪と散る花を、長き春とや人の言うらむ」という辞世の句等を書いた案内板が建てられている。
 長治ゆかりの松という大木があったが昭和15年落雷のため枯死し、現在、2代目の松が植えられている。 (南東茂さん談)
 (4)北地の不動さん
 笹木野北地の公会堂の東隣に地蔵さんがある。このあたりは今でこそ家あり道ありで人通りが激しくなっているが、昔はかや野の淋しい所であった。このあたりは、むかし牛や馬を盗んできた盗人がその皮をはいでいた場所であった。その殺された牛や馬の霊を慰める意味もあって地蔵さんが建てられたと言われている。(平田邦栄さん談)
 (5)那須与一ゆかりの圧野家
 笹木野山手の開拓の祖といわれるのは庄野家である。今から10代前の庄野奥兵衛という名西郡中嶋村に住んでいた武士が、百姓等と共にこの地に移住して開拓に従事した。
 庄野家の系図によれば、先祖は源平合戦屋島の戦いで有名な那須与一の血族で天八郎富久と言う人である。また、7代前の清次郎と言う人の時代は、御用役人を勤めていたそうで御用提灯と十手が残されていて、その役人としての勤めぶり等が語り伝えられている。
(庄野良子さん談)
 (6)豊中の開拓の祖豊永家
 豊中地区の開拓の基を築いた1人は、豊永家の10代前の先祖である田崎満五郎である。
 田崎満五郎は、蜂須賀の家老稲田家に仕える武士で、三好郡池田に居住していた。理由ははっきりしないが武士をすててのち桶屋をしていたが、この松茂の地の開拓を思いたち、同志7〜8人と共に、家財道具いっさいを船に積んで吉野川を下ってこの豊中に住みつき開拓に従事した。
 きた当時は、この地に波がうっていて、「お茶をたてているとイナがとびこんできた」といわれるような低地であった。小高い所に家を建て、その開拓事業はいうにいわれぬ苦労があったようで、豊永家の歴史は水とのたたかいの歴史であったそうである。
 田崎満五郎は百姓になったので苗字をすて、明治になってこの豊中に永く住みつくという意味で豊永という苗字にしたらしい。今も「満五の下」という地名が残っている。
(豊永万平さん談)
 (7)勘兵衛のはな
 笹木野山南の海岸を「勘兵衛のはな」という。近くの旧家山本家の先祖の勘兵衛がそのあたりを開拓したのでその名がついた。山本家はこのあたりの大地主で藩政時代は苗字帯刀御免の家で、長屋門のある古い茅(かや)ぶきの家が残されている。
 海岸は海とのたたかいであった。今でこそ護岸工事がすすみ問題はないが、むかしは台風、津波時は高波がおしよせ、堤防がこわれ浸水をくりかえした。山本家の先祖はこのはなに海の神様金比羅宮を勧請して祀った。 (山本信夫さん談)
 (8)金比羅はんの松の木
 勘兵衛のはなの金比羅宮の祀られている所に大きい松の木があった。さしわたし 1.2m程の大木で、長原港に入って来る船は、その木を目印に入港したと言われる。護岸工事のため切り倒され株のみが残っている。 (山本信夫さん談)
 (9)旧吉野川の洪水
 旧吉野川の台風襲来時の洪水はものすごく、各地の堤防は切れ、その濁流は鳴門の木津の金比羅宮あたりまでおしよせたと伝えられる。その時、上流から家や墓がたくさん流れてきた。笹木野周辺の田畑の中のあちこちにある墓は、流れついた墓をおいてあるものだといわれる。 (荒木裕三郎さん談)
 (10)駄賃
 長原の浜では、昔は地引き網が盛んであった。その地引き網を引いたり、漁船のとってきた魚を運ぶのに多くの人手を要した。その人手として豊中や豊岡の農民が雇われて働いた。それらの人々を「駄賃」といった。多くの駄賃が海岸で漁船の入港するのを待ち、入港すると、天秤棒でもっこに魚を入れて運ぶ。いわし漁の時は、浜に大きい鍋がいくつも並んでいて、松の木の割木でぐらぐら湯を沸かす。駄賃は運んできたいわしを湯の中に入れる。煮られたいわしは浜のむしろに乾される。だしイリの誕生である。砂浜を150〜160キロ位もある魚を運ぶのは相当の力仕事であった。農家の現金稼ぎとして終戦直後までこの駄賃は残っていた。 (豊永万平さん談)
 (11)今切川のかわうそ
 藩政時代の記録をみると、かわうそのことがよく出てくる。昔は県下のあちこちに住んでいたようである。松茂町を流れる今切川には明治時代まで住んでいて、今切川を泳いでいる姿をよく見かけたそうである。川岸に穴を掘って住んでいて、胴の太さが 30〜40cmあったといわれている。 (荒木祐三郎さん談)
 (12)池に住む大蛇
 松茂町と鳴門市大津との境に池があった。その池でよくボラが釣れた。ある日、ボラを釣りにいくと、大きい提灯位の太さの大蛇が浮かんできて、鎌首をぐーっともちあげたので釣人は驚いて逃げかえったという。大正中頃の話である。 (酒井キヨエさん談)
 (13)長原の大蛇
 長原地区は、昔は木の繁った淋しい所であった。その長原の下の端という所に堤防があり、そこに大きい松の木があった。その松の木に大きい穴があって水がたまっていて、そこに大蛇が住み、近くに祀ってある水神さんまで通っていたそうである。 (松田イセノさん談)
 (14)八坂神社の大蛇
 広島の北川向に八坂神社がある。そのお堂の中に大蛇が住んでいて、その大蛇は川を渡って北島の毘沙門さんまでいききしていたと伝えられる。 (八木政則さん談)
 (15)このしろ婆さん
 豊岡と満穂の境に立石があった。この付近は昔は入江になっていて絶好の釣り場であった。秋の夕暮れ、数名の漁師が舟を浜辺につなぎ砂上でとってきたばかりのこのしろをあぶり、酒を汲みかわしていた。さーっと一陣の風がふき、燃えていた火が消えた時、何処からか髪をふりみだし、口が耳までさけするどい目付きをした老婆がやって来て、「このしろ欲しやこのしろ欲しや」という。一同生きた心地がしないでおびえていたが、1人の漁師が勇気をだして「ここに1匹もありません、舟にあるのをとってきましょう」といい走り逃げた。残りの者も舟めがけて走り、沖めがけてこぎ出す。老婆は恐ろしい形相をして「だましたな」と追ってくる。一同必死にこぎながら船玉明神に一心にお祈りをすると、老婆の姿は消えた。後に里人はこのこのしろ婆さんを供養し、碑を建て霊を慰めた。その碑は満穂の墓地に残っている。 (「松茂町誌」)
 (16)長原の牛
 長原の稲荷崎(現在の下の端)に夜八つ頃(午前2時頃)になると、広島の鍋川を下ってきた牛が干潮に通るのを里人が見たそうである。当時、村の伍長某がその権力を悪用して、牛の遊ぶ付近の松の木を切り大阪から九州へ通う船の床板や楫(かい)にしていた。その仕事をしていると必ず牛がでてきて、仕事場の周りをぐるぐると回り仕事の邪魔をした。
 また、ある時長原から出た船が淡路の土生(はぶ)という所で暴風のためうちあがり、復旧作業をしていると、長原の稲荷崎で毎夜鳴く、牛の鳴き声がそこまで聞こえたと言い伝えられている。 (「松茂町誌」)
 (17)広島の狸
 広島の地蔵さんのある付近に狸が住んでいてよく人を化かした。大正末期の話であるが、ある人が祭りによばれてご馳走になり、この地蔵さん付近を通ったときは夜もふけていた。
 この付近で道がまがっているのに化かされてまっすぐにいくと、堀におちこんでしまってほうほうのていで帰ってくると土産はすべてなくなっていた。 (八木政則さん談)
 (18)魚の目玉をねらう狸
 笹木野の勘兵衛のはなの土手で、昔はよくチヌなどが釣れた。チヌの夜釣りにいき、釣ったチヌを魚籠にいれて、さて帰ろうとチヌをみると全てのチヌに目がない。狸のしわざということである。 (山本利子さん談)
 (19)勘兵衛のはなの狸
 笹木野山南の勘兵衛のはなには、大きい茅が生え茂っていて、そこに狸が住んでいた。この付近は土地が低いので、サイドポンプを使用して川口の砂をこちらへ入れていた。その砂が動くのを見回っていると、あたり一面背丈位の茅が生えている。その茅が見回りの者が動くと倒れていく。止まると倒れるのもとまる。不思議なことで狸のしわざだろうということである。昭和20年代の話である。
 ここではよく狸のふんを見かけたり、茅を焼くと狸がとび出してくることがあった。
 今から10年位前(昭和55年頃)とび出してきた狸を近所の人がとらえたという話である。 (山本滋子さん談)
 (20)椿の実を投げる狸
 笹木野北地の地蔵さんのあるあたりで昔はよく狸に化かされた。婚礼のあった晩はよくその真似をして提灯をつけて通る。このあたりに椿の木が生えていて、その実の蜜を狸がすって、そのかすを人にぶつけて喜んでいた。 (平田邦栄さん談)
 (21)豊中の狸
 笹木野山手のある農家の人が、豊中の土手へわらを乾してあった。天候が悪くなってきたのでおいのこさんのおだんごを懐に入れて寄せにいった。寄せをしていると何処からともなく美人がでてきてにこにこと笑いかけるので、気味がわるくなってお団子を投げすてて帰ってきた。
 それから7〜8年後、婚礼に行っていた仲人さんが同じ土手で狸に化かされ、婚礼のご馳走をふりまいて帰ったという話もある。昭和初期の話である。 (楠 しげ子さん談)
 (22)うどんをご馳走してくれる狸
 ある爺さんが、用事で隣村へ出かけ、夜になって松茂町北野の土手の上を歩いて帰っていると、みかけない店のようなのがあって「爺さん爺さん休んでいかんで」と声をかけてくれるので「ほな、一服しようか」とすわると、うどんをご馳走してくれた。おいしくいただいて一服していて、ふと気がつくと土手の上に坐っていたとのことである。 (酒井キヨエさん談)
 (23)ちんちろはん
 明治の中頃、豊中神社の近くに「ちんちろはん」という狸が住んでいてよく人を化かした。日露戦争が今にもはじまらんとしていた明治36年の秋の夜中に、秀一じいさんが友人宅でご馳走になり、一杯きげんでふらふら帰っていると、途中美しい女の人に会った。夜中の一人歩きはおかしいとよく見ると、近所のつぎのという娘さんであったので、「つぎのはん、こんな夜中にどうしたんで」と声をかけると、娘さんはにっこり笑って姿が消えてしまった。それと同時にいままで歩いてきた道が急になくなってしまった。じいさんは困り果てて、道の真ん中に坐りこんで大声で息子の名を呼んだ。その声を心配していた息子が聞き、助け声の所へきて見ると、父が道路の真ん中に坐っている。「おおよくきてくれた、しかし道がないのにどうしてこれたんな」「何いっとるんで道の真ん中に坐って」と手をひいて立たせると道が現われた。それはちんちろはんのいたずらだろうと評判がたった。子供がいたずらをすると「ちんちろはんがくるぞ」といえば、いたずらをやめる程の効果があったということである。 (「松茂町誌」)
 (24)手まり唄
つばくろつばくろどこいくぞ
柳の下に麦まきに
なん升なん合まいてきた
1升5合まいてきた
1升5合の奥さんが
おかまの前で子を産んだ
お産の子供に血がついて
小さい川で洗おうか
大きい川で洗おうか
深い川で洗って、浅い川でゆすいで

ばあのぞうりをはいていね、ばあがおこる
そんなら兄のぞうりをはいていね、兄がおこる
そんならわら1束やるけん
足にのせてとんでいね

どじょう1匹ふんまえて
足でとーりゃむごし、手でとーりゃむごし
しゃくの柄でつきさして
じしゃじしゃ切って、くずくずたいて
じいの皿に一杯と、ばあの皿に一杯で
兄の皿に一杯と、嫁にはたらなんだ
嫁がぐずぐず泣き出して
泣くのならいんでくれ
いのうにぞうりがない
じいのぞうりをはいていね、じいがおこる
(松田イセノさん談)

1)徳島中学校


徳島県立図書館