阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第37号
三好長治の自刃

史学班  田中省造1)

 天正初年、現在の松茂町長原で三好長治は自刃したと伝える。異父兄細川真之の反乱の結果であり、ここに畿内に覇を唱えた阿波三好氏も滅亡したのである。拙稿ではこの事件について小考を加えるが、紙幅の関係で以下に要点のみを記すこととする。
 自刃の日時:長治自刃の日時については諸書により異同がある。(1)永禄11年(1568)ごろ説(『細川家記』)、(2)天正4年(1576)12月12日説(『三好別記』)、(3)同年12月27日説(『昔阿波物語』・『みよしき』)、(4)同5年3月28日説(『三好記』・『平島記』・『南海通記』・『阿波志』等)の説があり、他に(3)説に近い、同4年12月27日から同5年1月5日の間と読める『三好家譜』の説がある。いずれが正しいのであろうか。(1)説は問題にならず、(2)説は天正14年12月12日に戦死した十河存保(長治同父弟)と祥月命日が一致するので疑問がのこる。従来通説とされてきたのは(4)説である。しかし某年正月19日付本願寺顕如書状案1 (織田信長の石山本願寺攻めの内容をふくむとみられ、天正5年と推定する)によれば、「今度三好彦二郎生害につきて」とあり、「長春 三好彦次郎也」(『平島殿先祖并細川家三好家覚書』)と考えあわせれば、同書状案は三好長治の自刃を伝えたものに違いない。よって(3)説が正しいと考える。
 (3)説を伝える『昔阿波物語』の著者は、河野幸夫氏(『ふるさと阿波50号』)によれば、三好家に仕えた二鬼島道智のちの仁木又五郎義治のことである。後知恵ではあるが、他の諸書に比して信頼性の高いものといえよう。
 真之反乱の背景:名目的な君主の地位にとどまっていた細川真之が反乱を起こした原因としては、従来、長治の横暴なふるまいがあげられることが多かった。しかし、家を創業した人物と違って滅亡に導いた人物に対しては、その人物を打倒した新しい権力者への追従もあり、後世の史書の評価が厳しいのが通例である。たしかに諸書に描かれる三好長治像は好ましいものではないが、これら諸書をうのみにするのも危険であろう。北条高時や平宗盛が巷間伝えられるほど無能であったかは疑問ののこるところである。
 三好長治の場合もそうではなかろうか。細川真之は勝瑞城を脱出し、福良連経を頼ったといわれ、やがて長宗我部元親に援を請うたといわれる。また、それに呼応したのが、一宮成助らであったという。その通りではあろうが、この事件の背景には畿内における三好氏の勢力が瓦解の危機にあったことも事実としてあげておかねばならない。そのような情況をつくりだした人物こそ、織田信長であり、前掲の顕如書状案はそれを物語っている。そうだとすれば、細川真之反乱の背後に織田信長がいたとする『三好家譜』の説は的を射たものと評価できよう。畿内における信長の覇権は阿波における三好氏の権力基盤をも動揺させつつあったに違いない。
 注1 :『和歌山市史』第4巻299号文書

1)徳島市史編さん委員


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