〈目次〉 徳島空港史考 1.空の玄関・松茂町 2.徳島海軍航空隊の誕生 3.海上自衛隊徳島教育航空群の誕生 4.徳島空港の誕生とあゆみ (1)空港の始動 (2)空港の台頭―乗れない空港― (3)徳島空港協議会の設置 (4)大型ジェット機の就航 (5)徳島空港のあゆみ 5.徳島空港の近代化―ジェット化時代― (1)ジェット化へ離陸 (2)ジェット機就航―県勢発展の起爆剤 (3)1800m
滑走路完成、MD81 型就航 (4)2000m 滑走路完成、A300
型就航 (5)新徳島空港ビル竣工 (6)乗降客90万人を突破 6.徳島空港の輸送実績、発着、便数の推移
1.空の玄関・松茂町 松茂町は、北島町・徳島市・川内町とともに県下50か市町村のなかでも、最も開拓の新しい町のひとつである。 開拓の始まりは、諸資料を総合すると、戦国末期(16世紀後半)、資料の正確度から言えば、江戸時代初期が妥当であろう。『松茂町誌』に「永禄年間(1558〜69)に別宮浦の漁民が孤島無人の長州に移民して開拓した」とある長原浦が最も早い。ついで、中喜来や太郎八須は慶長年間、長岸村は天正年間、笹木野が元和年間に萱原の沖積地を開拓し村々を形成したことが史料により知ることができる。住吉新田・豊岡新田・満穂新田の名の残っているように、400年の歴史を持つ新田開発村である。 開拓400年の歳月が、三角州の萱原に美事な田園地帯を形成、しかも新時代に適応する諸施設が地の利を得て整えられ県下最大の変ぼうと発展を遂げるに至ったのである。 享保元年(1716)の『郷村高辻帳』に「広島浦家数11軒人数70寺1牛8頭馬2頭」とある。現在の広島をみるとき、その激変振りは、隔世の感がある。短期間のうちに大きな様変りを見せた町が松茂町である。 松茂町は、昭和36年に町制施行するとともに39年には新産業都市徳島地区に指定され、続いて46年には東部地区広域市町村圏の指定と都市計画に基づく指定区域に入り、工業・住宅団地づくりが着々と進められ、粟津・今切両港の開発と鳴門大橋の完成に続いて明石海峡大橋の架設により流通産業の拠点として、また交通の要衝として松茂の将来が期待されている。なかでも、徳島の空の玄関・徳島空港をもつ意義は大きい。今や、文化・産業・経済のうえで大きな役割を果たしている。まさしく松茂の顔であり看板であるとともに、シンボルでもあろう。昭和17年徳島海軍航空隊が設置された時には、他町村民に想像もできない航空基地としての心身ともに厳しい生活にたえたものである。戦後、海上自衛隊徳島航空隊の設置により再び基地の町となったが、やがて防衛庁との共同飛行場として徳島空港が発足し、空の玄関として生まれ変わった。 過疎化の進む徳島県の町村のなかにあって、大きく飛躍発展をみせる、すばらしい立地条件をそなえた松茂の今後の発展がたのもしい。
2.徳島海軍航空隊の誕生 昭和13年に海軍航空隊基地として徳島海軍航空隊の設置がきまり、用地の造成・施設設備の工事が進められ、昭和17年(1942)4月に徳島海軍航空隊(呉鎭守府所属第12連合航空隊に編入、松茂町旧吉野川河口260万平方メートル)が開隊した。 昭和18年10月より艦上機(96戦闘機・零戦)操縦専修飛行学生・予備学生・予科練習生の教育を行うこととなった。昭和19年2月1日には、第13連合航空隊に編入し偵察練習生の教育を担当した。沖縄戦(本土決戦)を前にした昭和20年5月に練習航空隊の指定がとかれ、作戦航空部隊(連合艦隊第5航空艦隊第12航空戦隊)となり、神風特別攻撃隊徳島白菊隊が編成された。航空要員養成の学校が実践の航空隊に衣がえをしたのである。そうして、昭和20年の敗戦近い5月25日〜6月26日にかけて、30歳・57人の若人が沖縄作戦に出撃し南海の海に散っていった。 神風特別攻撃隊徳島白菊隊は、高知・上海・青島より集結して来た100余機(主として偵察機)を以て編成した。白菊特別攻撃隊は、8機の編隊で組織され乗員は1機2人で機銃整備さえもたない無防備のうえ、片道燃料で250キロ爆弾を抱いて出撃している。出撃は第5次にわたっている。第1次白菊隊(5月25日)・第2次白菊隊(5月28日)・第3次白菊隊(5月29日)・第4次白菊隊(6月22日)・第5次白菊隊(6月26日)となっている。 華々しく誕生した徳島海軍航空隊の終えんが、太平洋戦争最後の沖縄作戦において特別攻撃隊の出撃ということで幕を閉じたことは徳島県史にとっての悲しい一頁でもある。
3.海上自衛隊徳島教育航空群の誕生 戦後の昭和33年3月、農地に還元されていた旧徳島海軍航空隊跡の約100万平方メートルの敷地に海上自衛隊徳島航空隊が開隊され、空の基地松茂が再現した。 徳島教育航空群は、海上自衛隊機の操縦士の養成を主任務とすると共に海上保安庁、航空自衛隊のパイロット学生の教育も併せ行うことになった。ここの操縦士教育は飛行計器のみによって航空機を操縦する計器飛行教育である。なお、航空機や船舶が遭難した時の捜索及び救助活動や災害時の被災地に対する救助と救急患者の空輸活動や建設省国土地理院の航空測量業務の協力支援などを使命として誕生した。 その後、昭和36年9月に第3航空群に編入され、太平洋や日本海岸の警備と救難の任務が与えられることとなった。昭和48年3月には第3航空群を解体し新しく、徳島教育航空隊群(第202教育航空隊・第202支援整備隊・徳島航空基地隊)に改編され、1等海佐国分道明が航空群司令に就任している。この教育群は千葉県下総にある海上自衛隊教育航空集団隷下の部隊で、山口県小月・鹿児島県鹿屋の教育航空群と連けいして操縦士養成に当たっており、750人の隊員がピーチクラフト社で製造された、「B65うみばと」20数機で訓練を行っている。以外の計器飛行練習機には
VC90 航測機・VC90 救難機 S62・哨戒機 S2F が保有されている。また、昭和60年4月には、救難ヘリコプターS61A
型が増強配備され救難の強化に当たっている。 徳島教育航空群の施設は、略図のように面積1023.137平方メートルの航空基地には滑走路(長さ1500m、幅45m)・管制塔・格納庫・訓練機室・隊員隊舎・資料館・庁舎・グラウンドなどの施設をもっている。なお、昭和48年3月に徳島航空基地記念館を建設開館し、徳島教育航空群に関する写真等の資料や海上自衛隊関係・旧海軍関係資料を併せ展示している。
4.徳島空港の誕生とあゆみ (1)空港の始動 戦後の徳島の空の便の始まりは、昭和32年(1957)徳島〜大阪間の航空路の運航に始まる。 当時の航路は、日本唯一の水上機
DH
ビーバ機によるもので、大阪堺市の水上基地〜徳島吉野川基地を結び1日2便の定期航路であった。 昭和37年(1962)10月、運輸省告示378号により防衛庁との共用飛行場として徳島空港が誕生することとなる。 昭和38年に、大阪〜徳島線・徳島〜高知線が、翌年6月に東京〜徳島線が定期航空事業として認可され徳島も本格的航空時代に入ることとなった。 また同年に、日東航空・北日本航空・富士航空の3社が合併して日本国内航空会社が設立され、徳島空港も、その傘下によって空路を開いた。また、徳島〜大阪間の空路と別に徳島〜東京間の直行便がスタートした。その初の直行便の様子が、昭和39年8月1日の徳島新聞に次のように報道されている。「……初飛行記念に徳島・高知両県の知名人が招かれて西へ東へ―“ホタルの友情”を乗せて、施設の子らもあこがれの東京へ飛んだ。東京では午後1時から菅野国内航空社長の挨拶、花束贈呈などの祝賀行事があり高知県出身の映画女優原知佐子さんが紅白のテープを切って、同1時40分飛び立った。……飛行機は、コンベア240型(40人乗り)遠藤忠雄機長……飛行時間5,000時間を越えるベテラン……この日の東京は快晴、機は三浦半島から箱根を越え富士山を右に見て、一路大阪への直進コースを西にとりさらに南下し之和歌山・鳴門を経て徳島空港にすべり込み徳商ブラスバンドの演奏・花束の歓迎を受けた。…(略)」 (2)空港の台頭―乗れない空港― 昭和40年に入り、フランスの新鋭機ターボ・ジェット旅客機ノール262型・YS11
型60人乗りを導入就航させている。YS
機(日本航空技術の粋を集めた初の国産旅客機で安全性・乗心地の優秀性をもって世界の翼として航空界に活躍した機)は、徳島空港の貴重な足となって大阪・東京間を就航し、昭和60年代の大型ジェット化まで続くこととなる。 40年3月に、松茂町・徳島市・県・財界関係者によってターミナル建設準備会が発足、同年9月に徳島空港ビル株式会社を設立し、昭和41年4月建設工事に着手、同年10月空港ビルが完成し翌年2月徳島新空港がオープンした。ここにいたり、ようやく徳島の空の玄関として徳島空港が重要な地位を占めるに至ったのである。当時の徳島空港の概要は次の通りである。◇所在地 松茂町笹木野八北開拓地 ◇飛行場の種類 海上自衛隊との共同飛行場 ◇滑走路長さ
1,500m 幅 45m ◇誘導路(民間地域)長さ 206m 幅 18m ◇駐機場(民航地域)長さ 150m 幅
70m(3バース) ◇面積(民間地域)57,384平方メートル 徳島新空港ビルは、敷地面積3,011平方メートル、建設面積1,620平方メートル、地上2階建、空港ビル内部には官庁・民間会社7社の事務所・事業所(徳島空港ビル株式会社・丸新エアサービス空港営業所・東亜国内航空株式会社徳島駐在整備室・運輸省航空局徳島空港事務所・徳島地方気象台徳島空港出張所・北島警察署空港警備派出所など)がある。 徳島新空港のオープンを機に、徳島〜大阪線1日7往復・徳島〜東京線1日2往復となる。また、完成を記念して徳島空港まつりが開催された。 昭和46年5月、日本国内航空と東亜航空が合併し東亜国内航空として発足した。また昭和47年に航空料金の値上げにより、徳島〜東京間10,400円・徳島〜大阪間が、3,400円となる。 航空機利用の増加は急速に伸び、昭和53年には、YS11機が徳島〜大阪線11便・徳島〜東京線を3便と増強したが、徳島空港は、「乗れない空港」の代名詞までつけられる状況にあった。徳島空港開設当時の利用客は、7,034人に対し、昭和41年には93,801人と13.3倍となり、昭和53年には、525,625人と75倍の増加を示している。利用率は、徳島〜東京線の97.94%・全線平均93.9%の高率を示す状況であった。こうした増加する旅客に対し増便対策が講じられているが、発着回数の制限と滑走路の制約から、これにこたえられない現状が、昭和40年〜50年代の徳島空港の姿であった。 (3)徳島空港協議会の設置 昭和42年2月に空港整備工事が完成し新空港が開港されたのを機として、その9月に、地元松茂町・県・市・商工会議所・財界代表者・報道機関その他の関係者によって「徳島空港協議会」が設置され、その事務局を徳島空港ビル内に置いた。協議会設置の最大の理由は、昭和42年2月に新空港が開港はされたものの益々航空機利用客の増大と社会情勢の著しい進展に伴い徳島空港の収容能力が飽和状態に達し早急に拡張整備と諸施設の完備が極めて重要な課題となって来たためだ。こうした事態に即応して県民の期待にこたえられる近代空港への整備と拡充を促進する機関として設置されたのである。今後の徳島の空の足を担う重要な機関としての役割を果たすこととなる。空港協議会は、徳島空港の整備と拡充に向け、「民間機専用誘導路の新設」「徳島空港の拡張整備計画の推進」「次期就航機の機種選定」「大型ジェット機の導入」「周辺の公害対策・騒音対策」などについての施策協議を懸案課題としている。 この徳島空港協議会の推進により、種々の難問題を解消して大型ジェット機導入の実現を見ている現在である。 (4)大型ジェット機の就航 前項で述べたように、徳島空港協議会は、県政の重要施策のひとつとして、空港の整備拡充を強力に国へ要望を申し入れた。このことは、空路を利用する傾向は益々増加する一方であり、21世紀に向けての県の施策の重要課題でもある。 政府も、昭和47年3月閣議において、航空機の大型化と高速化の必要から、「第2次空港整備5か年計画(昭46〜50年)」を了解決定し、徳島空港もこの計画にもとづき、駐機エプロン・付帯施設を含め滑走路を2,000m×45mの整備計画がうち出された。
こうした徳島空港の拡張・ジェット化に対して、地元松茂町の拡張反対住民が、町議会・県知事・県議会に対し反対陳情を行いジェット化阻止を訴えている。こうした県・国の施策(ジェット機暫定就航=昭58.11.18)・空港ターミナル建設位置の解決(昭和60.7)までの町民・町議会と県・国との交渉の経過からみて、町理事者・町民の苦悩、対策に対しての厳しさを知ることが出来る。 県への陳情書と県・国への交渉経過は次のとおりである。 ◆陳情書〈飛行場(滑走路)拡張及ジェット機乗入れ反対について〉 昭和32年第3航空群が設置され、加えるに昭和37年日本国内航空が飛行場を使用現在に至っている。(略)新聞紙上によると大型化・高速化をはかるためジェット機乗入れのための滑走路の拡張を運輸省において計画、予算もついたと報道されている。(略)昭和32年第3航空群設置の際ならびに昭和40年滑走路進入表面化下の防潮林伐採の際、将来共ジェット機は絶対飛ばさないとの確約のもとに住民は協力して参りました。 知事は常々住民との対話をいうておりながら、本町理事者・議会には何の連絡もなく、まして住民との対話もない。(略)昭和46年11月2日、本町によりジェット機乗入れのための滑走路拡張反対陳情を知事・県議会に提出(略)12月定例議会で審議の結果、不採択としたという町長宛の通知に接したことは遺憾であり本町住民を無視していると考えます。なぜならば、80万県民のためなら8,000余の松茂町民は犠牲になれというに等しい。(略)ここにジェット機・大型機乗入れのための飛行場拡張に強く反対し陳情いたしますと共に充分御審議のほど懇願いたします。 徳島県知事・徳島県議会議長殿 昭和47年2月22日 (5)徳島空港のあゆみ
5.徳島空港の近代化―ジェット化時代― (1)ジェット化へ離陸 徳島空港のジェット化は、昭和47年3月運輸省の第2次空港整備5か年計画で決定され総工費予算254億円をもって着工に入ることとなる。計画案によると、1,500m
の滑走路を 2,000m
滑走路に改良しジェット機の就航を進める構想で、昭和52年6月、運輸省と防衛庁の間で合意締結した。 昭和56年8月に入り、ジェット化に向けた空港拡張工事が始まる。同年12月には、運輸省は空港拡張によるジェット化までの手段としてグルービングによるジェット化をはかり、58年11月には暫定ジェット化のための空港改良工事が進められ、同年に空港改良工事を完了して審査飛行のため、DC9−41
型が初めて就航したのである。 (2)ジェット機就航―県勢発展の起爆剤― 昭和58年11月18日、徳島空港〜東京国際空港間の定期航路に、DC9−41
型ジェット旅客機(128人乗り)が初就航した。昭和39年夏、同路線が開設されてから20年目、全国77空港のうち35番目のジェット化で、乗れない徳島空港の悩みから解放された。従来の
YS11
型機(64人乗り)に比べ座席が倍増すると同時に首都圏が1時間余りで結ばれ文化や経済発展に大きく寄与することとなり県史に一頁を飾る記念の日となった。 三木県知事は、「徳島〜東京間は、39年の開設以来、最も乗れない便の状態が続いてきた。その悩みを解消するための本格的ジェット化へ向けて空港整備を進めているが、完成目途の60年代前半まではとても待ってはいられない。暫定的ながらグルービングによってジェット機就航が実現した。これは県勢発展に大きな意義がある。このうえは1日も早く本格ジェット化へこぎつけたい。」と決意を語る。 (3)1,800m
滑走路完成・MD81 型ジェットの就航 中距離型ジェット旅客機エアバス A300 クラスが就航できるように、現在の 1,500m の滑走路を
2,000m に延長しようという拡張整備工事は急ピッチですすみ、61年春に 1,800m 滑走路が完成、4月23日から DC9−41
型ジェット機に代って、MD81 型ジェット機(163人乗り)が就航した。滑走路はさらに1年後の62年春までに 2,000m
滑走路が整備され、最終的に大型エアバス(281人乗り)の就航を予定した。 (4)2,000m 滑走路の完成・A300
型ジェット機が就航 昭和62年4月24日、2,000m
滑走路が完成し徳島空港が本格的なジェット時代を迎えた。 4月30日、県民待望のエアバス A300
型ジェット旅客機(281人乗り)が就航した。 徳島空港には、午後10時過ぎ日本エアシステムの A300
型機下り初便が到着し、早速記念行事で就航を祝した。便数当初1日1往復(平成元年7月より往復2便)だが、従来の MD81
型機(163人乗り)と比べ1便当たりの旅客、貨物輸送量は大幅に増える。乗れない悩みの緩和だけでなく、フライト特産品の出荷増・県外観光客の誘致など各方面からの期待がいっぱい。本県は、39年夏の徳島東京定期航路開設以来、25年目にして本格的な大量高速輸送時代を迎えた。初便記念行事にあたり、三木知事が、「高速交通時代を迎え、
A300 型機就航は県勢発展に欠かせない。産業文化などに多大な影響をもたらしてくれるだろう。」とあいさつをしている。 就航した A300
型ジェット機は、エアバスインダストリー社(本社フランス)が開発した世界初の広胴双発ジェット旅客機。全長 54m、全幅 45m、全高
17m。四国の4空港に就航している機種の中では最大の輸送能力がある。
(5)新徳島空港ビル竣工 徳島空港の新旅客ターミナルビルが平成元年4月26日に完成し、早速、始発便から使用を開始した。開館行事は午前10時から新旅客ビルで行われ県・運輸省関係者ら約250人がテープカットなどでオープンを祝った。 新ビルは、昭和63年4月から工事を進めてきたもので、旧ビルの3.2倍の広さを持ち、ロビーでの混雑が一気に解消され、A300
型ジェット機の便数増など将来の課題にも十分対応できる。新ビルは鉄筋コンクリート一部3階建、延べ6,079平方メートル。1階はチケット・到着両ロビー・有料待合室、3階は送迎デッキ。2階から飛行機に乗り込める。固定橋は2基あり東側を東京線用、西側を大阪線用としている。各ロビーには、阿波藍、鳴門の渦潮をイメージした藍色の波ガラスを施すなど内外装に工夫がこらされている。 総工費約14億8000万円、年間約150万人の利用が見込まれている。 新空港ビル完成とともに、計器着陸システム(ILS)が完成した。この導入により、徳島空港は国際空港並みの安全施設を備えたことになり、欠航便の大幅減・事故防止の面で期待されている。計器着陸システムは、着陸する航空機に電波ビームを送り、滑走路に対する方位角度をパイロットに知らせる装置である。 滑走路の北に方位角度指示アンテナ(高さ5m、幅45m)と棒状の進入角度指示アンテナ(高さ10m)を設置し着陸に役立てる。
(6)徳島空港乗降客90万人を突破 平成元年:1年間の徳島空港の乗降客数は949,030人に達し開港以来初めて90万人の大台に乗った。徳島空港ビル株式会社の集計である。A300
型ジェット機(281人乗り)1往復増便が影響し前年を87,181人上回っている。昭和42年の11万人台が、以降は年々利用者が急増し、52年には50万人台となり60年には70万人をオーバし、平成元年には、昭和42年の約9倍の90万人を越す利用状態となった。今後も、航空機の利用増大の傾向は続くであろう。
6.徳島空港の輸送実績・発着・便数の推移
前頁表の数値のうち、平成2年の乗降客数と貨物数量は、1月〜11月の11か月の数量であり、12月の数値は含まれていない。また、航空機発着回数については、昭和42年〜59年までの機数は、往復2機として計算、60年以降は往復を1機としての機数である。上表は、昭和42年以降24年間の輸送実績・航空機発着・便数の推移表であるが、いずれも、年々増加の傾向を見せている。特に乗降客数については(S42年と平成元年対比)約8倍・貨物数量では約11倍の増加をみせている。以上のように徳島空港の果たす役割は増大することは必至である。
〈資料〉 資料1 徳島空港の概要 (1)名称 徳島飛行場 (2)空港の位置 N34°07′47″ E134°36′31″ 標高
8.0m (3)所在地 徳島板野郡松茂町笹木野 (4)管理者 防衛庁長官 (5)種別 共用飛行場 (6)飛行場の基本施設 1
着陸帯 2,260m×300m 芝張り 2 滑走路 2,000m×45m アスコン舗装 3
誘導路 防衛庁 2,900m×26.5m 及び 18m 民航区域 166m×23m 4
駐機場 防衛庁 428m×82m 民航区域 285m×150m 5
面積 総面積 1,552,192平方メートル (7)航行援助施設 NDB 無指向性中波無線標識 VOR/TAC 超短波全方向式無線標識施設,戦術単位無線装置 PAR 精測進入レーダー ASR 空港監視レーダー(ターミナルレーダー) SSR 2次監視レーダー ILS 計器着陸装置 (8)民航区域の主な施設 1
官庁ビル 庁舎 822.57平方メートル 電源局舎 252.1525平方メートル 2
ターミナルビル 旅客ビル 6,079.99平方メートル 貨物ビル 1,010平方メートル 3
駐車場 収容台数 530台 4 給油施設 200KL タンク(JET/A-1
専用)1基 タンクローリー 3台 (9)定期便発着状況 日本エアシステム 大阪―徳島 10往復/日 東京―徳島 5往復/日 資料2
〈参考文献〉 徳島年鑑(昭和55〜平成元年)徳島新聞社 徳島県統計書(昭和40年〜平成元年)徳島県刊 松茂町誌(上・中・下・続編)松茂町誌編纂委員会刊 徳島空港の概要 平成2年1月刊 徳島空港ビル株式会社刊 徳島新聞切抜き集―徳島新聞社 徳島県史 昭和39年3月 徳島県史編纂委員会編 徳島市誌 昭和33年3月刊 徳島市教育研究所発行 徳島交通史資料等(第一〜第三集)昭和20年以降 小原亨編 徳島市史 第一巻 昭和48年10月 徳島市史編纂室 |