阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第37号
長原漁民の伝統的地理認識 −漁労民俗調査から−

郷土班  森本嘉訓1)

はじめに
 今回阿波学会学術調査では、板野郡松茂町長原における伝統的漁労文化について調査を行った。調査項目は多岐にわたるが、小報は「長原漁民の伝統的地理認識」について報告を試みたい。記述は伝承者からの聞き取りと海上からの観察記録をまとめたものである。
 科学技術の発達により漁労活動にもさまざまな技術が導入され、往古より伝承されてきた知識や技術が、あるものは消減しまたあるものは変容しつつ受け継がれてきた。伝統的なものが否定され科学技術が最良のものとして、漁労も含めたあらゆる生産現場に受け入れられ展開された結果、皮肉にも自分自身を追い詰めるという状況を呈するに至った。漁労の面から考えれば、乱獲による水産資源の枯渇、工場廃液のタレ流しによる稚魚・稚貝の死滅、海砂の盗掘による海底の破壊、軍民併用飛行場の滑走路延長による漁場攪乱等々である。栽培漁業への展望も考えられるが、本来「海」のもつ生産性、歴史的な人との関わりをもう一度考え直す時期に来ているのではなかろうか。海は漁民だけの問題でなく、すべての人々の「生」に関わってくる重要なテーマであると思われる。豊かで母なる長原の海も今は死の海になりつつある。そうした場面を現地で直視しつつ調査を進めたが、調査者が浅学なこともあって幅広く深い調査も報告もできなかったことをお詫びしたい。またこの調査にご協力ご指導下さった條半吾氏をはじめ長原のお一人お一人に厚くお礼を申し上げます。
1.気象知識(天気予知)
 海を活動の場とする漁民や船乗り達は気象に極めて敏感である。風の動きによって雲が流れ波(海面上の)が変化し、雨もそれに伴ってくる。台風の時は特に風や雲の動きを一早く察知しすみやかに避難する必要があり、機械船でなく帆船の場合は特にその読みが必要で、誤まれば生命にも関わってくる。長原で熟練した漁民は気象台の天気予報よりよく当たると言われている。漁民の日常の常識として、前日に見通しのよく効く場に出て風・雲・気温等を見て明日の天気を予知する。朝の日の出回り(水平より少し登った時)も重要な判断材料となる。

 風の場合、マゼ(南東の風)は和田(小松島市)の方から吹く風で比較的なごい。淡路のタカヤマに雲がかかると南東の風になりやすく、かかりようによっては強風になる。そしてこの雲が下がってくると天気がくずれてくる。台風の風の場合沖を通ると東北から北北西の風になり、陸(おか)寄りを通ると南風になりやすい。山から吹き下ろす風は「オトシ」と呼ぶ。このオトシが問題となるのは帆船で淡路(土生(はぶ))と沼島(ぬしま)の間を航行する時で、なるべく淡路寄りを進んだ。西風の場合も淡路寄りで北風は沼島にセリいずれも風上手(かざうわて)に船を置き風の具合によって帆の調整をした。漁も風の状況に影響される。長原の海では10〜11月頃淡路と沼島の間の方向から吹いて来る風は「ウミカラシ」と呼び獲れている魚でも獲れなくなる。秋西風が吹くとシラスが陸に寄って来る。これはバッチ網が発達していなかった時代に生きた風の知識であった。
 雨の場合は、西から天気がくずれることから、まず西の谷(阿讃山脈と四国山脈の間、吉野川流域を長原の漁民は西の谷と呼ぶ。)に雲がかかっているかどうか、その雲の暗さ等から雨が近いことを知る。また夏期に通り雨がかたまって来ることがある。これは「ソバエ」と呼ばれるが、その後に「ハヤテ」と呼ばれる風がついてくることがある。またサダチ(夕立)は漁が少なく特にヨサダは魚がいなくなると言われる。雷も光線が海に差し込み漁に影響する。風の知識は海上だけでなく室内の作業にも使われる。春になりマゼ風(南東の風)が吹きだすと綱にするため打った藁がやわらかくなる。反対に西風が吹くとサラーとして綱になりにくい。

2.潮・波の知識
 基本的には鳴門方面(瀬戸内海へ)へ流れる「ミチシオ」、反対(伊島方面)へ流れる「ヒキシオ(ヒシオとも)」とがある。海部地方沿岸で見られる複雑な潮の流れの伝承は聞かれなかったが、長原の漁場での特徴は、吉野川・今切川・旧吉野川からはき出される川の水が潮の干満に応じて変化することである。加えて空港の滑走路、港の波止等が陸近くを流れるシオに影響を与えて「ワイシオ」を作る。前述の河口にもワイシオによく似たのができることがある。沖を通る潮は障害物がなく「シオスジ」となって流れる。
 波は、台風の前に来る大きな波を「ウネリ」「オーラ」等と呼び、これに風が乗ると「ナゴロ」と呼んで船の航行に影響を与える。潮の流れに逆らって風が吹くと「サカナミ」ができる。波と波がもつれ合うと「サイナミ」になるが長原では少ない。サイナミがよく発生するのは堂ノ浦と島田島(共に鳴門市)の間の海峡で、満ち潮が瀬戸内海へ進んで行き反対に瀬戸内海の方から風が来た場合にこのサイナミができる。

3.海面の区分
 長原から東(沼島方面)へ向かって左側が上(カミ)、右側を下(シモ)と呼ぶ。陸地を陸(おか)、海に向かっては沖、船上から陸地の方に向かって陸寄り、沖は「オキの方」と表現する。陸を「ジカタ」と呼ぶ漁民もある。「ダイナン」は人によって多少相違が見られるが、およそ陸から1里(4km)程度出たあたりから沖を言う。これは櫓船時代の名残りであろうか。最近は沼島あたりより沖とする人もあるからダイナンの意識も時代と共に変化するようである。

4.海底の状況
 熟練した漁民は海底の状況を地上のように知っていると言われている。長原の漁場は一般に「シ」とか「セ」とか呼ばれる岩礁の所はなく、そのほとんどが吉野川等からはき出された砂が堆積した「スナッパラ」である。土質は陸より1 砂2 砂と土(ドロ)が混合されたヒメズナ3 15〜20尋では土(ドロ)の状態となる。それぞれの土質に生息する生物にも相違が見られ、これも漁民の大事な知識である。1 にはカレイやクルマエビ、2 はバイの漁場、3 は小エビ(ムキエビ)が多い。バカ貝は1 2 、ハマグリは河口に発生(ワクと表現する)する。
 漁民の長年の経験から深さも頭の中に刻み込まれている。波打際より 400m 沖で約4尋、ここで山を立てると「4尋山で何が獲れる」と覚え込む。こうした情報の多さが水揚げに大きく影響を与える。

5.山タテ
 「山タテ」は「山アテ」とも呼ばれ、漁民や船乗りの海上での位置確認に使われる伝統的方法で、陸(おか)に展開する山や樹木・建物、また島や燈台等沖の目標物を前後2方向(3方向もある)に組み合わせ(角度は直角とは限らない)、海底の地形や魚貝類の生息状況を経験的に把握するものである。長原漁民の山タテの目的は1 魚貝類の漁場確認2 海底障害物(沈船・流木の埋まったもの)の位置確認3 海中に紛失した道具類(網等)の位置確認4 アジロの境界確認等である。魚群探知機が発達しても長原ではこの方法がまだまだ漁労活動に生きており、沖から帰宅した漁民間のコミニケーションにも大きく役立っている。また陸地形の変容は新たな山タテの対象物を生み出し、漁民の対応の豊かさには驚かされる。
 長原において山タテの方法(合わせ方)には4通りが見られる。第1には「モタレ」と呼ばれる方法で、海より見て手前にあるもの、例えば松・建物・エントツ等と後方の山を合わせるものである。長原の堤防には松の大木が並んでおり(戦時中大量に伐採された)、これらの松は1本あるいはグループ別に山タテ上の呼称が付けられている。例えば「下の松」「八田の松」「サンマイの松」「学校の松」等である。堤防下の家や施設の名を付ける場合が多い。また堤防には構造上の特徴や施設が見られ、これらも一つの目標になっている。例えば「善宝寺さん」「天石(てんいし)」「キレト」「青石境」等である。建物やエントツは戦後にできたものが多く目標としてよく使われるが、エントツの場合は霧がかかると見えにくい欠点がある。これらの手前のものを後方1 「オカヤマ」と呼ばれる阿讃山脈・四国山脈の山々と合わせる。阿讃山脈では「大山(図1.2.3参照)」「ミツブ」「大麻山(ウワサ山と呼ばれる)(図4参照)」「小大麻山(コウワサ山と呼ばれる)」「イイ山」等があり、四国山脈では、「津乃峰」「日峰」「中津峰(ナガ山と呼ばれる)」「焼山寺山」「眉山(サコ山と呼ばれる)(図5参照)」「高越山」等がある。また四国山脈と阿讃山脈の間(吉野川)は「西の谷」と呼ばれ目標の一つになる。「モタレ」の表現法としては「下(シモ)の松大山モタレ(図1参照)」「ウツミの松大山モタレ(図2参照)」「(元)学校の松大山モタレ(図3参照)」「出雲はん大麻山モタレ(図4参照)」「下の松佐古山モタレ(図5参照)」等と言う。
 第2には「ダシ」と呼ばれるもので、島や半島状の部分(主に端)に後方のものを合わせるものである。長原で「ダシ」と言われるのは鳴門市東端の「イワシ山」を手前の基準として、後方の島・岬・山・在所・凹地を合わせるもので、船を東(沼島方向)へ進めた場合、下記のような順番で後方の目標物が出てくる。

 1 トビシマ(沖のトボシマ・陸のトボシマと呼ぶ。陸のトボシマは大鳴門橋の下になっており地図では裸島となっている。)2 モトヤマ3 オカメ4 カヤノ5 オモダカ6 クロヤマ7 ウマゴエ8 カルマタ
 表現方法としては「丸山ダシ(図6参照)」とか「トビシマダシ(図7参照)」とか「カヤノダシ(図8参照)」と言う。鳴門の戸が「しまった」とか「開いた」とか言う場合も一種の「ダシ」であろう。
 第3には「クイアイ」と呼ばれるもので、手前の山と後方の山が重なり合う境目にポイントを取るものである。「コドのクイアイ(図9参照)」とか「オカメのクイアイ(図10参照)」とか「エビスの松沖の高クイアイ(図11参照)」の表現がある。以上3種の山タテ技術を紹介したが、これらは完全に分類しうるものではなく漁民によって使用や表現に差が見られる。今回の報告では長原の柏原安祐氏の山タテ法を基準にした。一般には第1の「モタレ」と第3の「クイアイ」が1つの方法として使われる場合が多い。

 第4には手前に目標物がない場合「ミトウシ」と呼び見える目標物をアテにする方法が用いられる。北は淡路方面で1 土生(はぶ)の端2 高山(たかやま)3 潮崎(しおざき)4 阿万(あま)5 福良高(ふくらだか)6 福良口(ふくらぐち)7 双児山(ふたごやま)8 行者高(ぎょうしゃだか)等があり、沼島(図12参照)では1 下(しも)のタテガミ2 在所の下(した)3 上(かみ)の端等、南には1 伊島(ひょうたん山)2 淡島3 丸島4 日峰(シバ山と呼び1番高・2番高・3番高とある)等があげられる。この方法は船から魚のイロを見る場合、漁労活動上の業務連絡として使われる。「シバ山1番高見通しじゃ」とか「沼島下タテガミにイロがおる」とかの表現方法である。

 以上、4種の山タテ法を紹介したが、山タテにより海面上でポイントを決定したら、そこからも位置を測って(目測)新たなポイントを作れるし、山を立てた所から小しずらした所を山にすることもでき、山タテの組み合わせは無限に近いように思われる。ただ漁民の必要により取捨選択されるわけで、山タテにより描かれた海の地図は、まさに漁民の地理とも言うべきものであり、その体系や思想は後世に長く伝えなければならないと考える。
 山タテの技術は親から子へそして孫へと伝えられていくと同時に、漁民間のコミニケーションまた共同労働を通して波及し定着してきた。山タテにおいて等閑視できない重要な問題として、漁民の山に対する関心がある。長原の海上から望見できる山のなかでインパクトの強いものがいくつかある。北西に大麻山・大山(おおやま)、西に高越山・焼山寺山、南に津乃峰・日峰・中津峰等で、それらの山々には寺や神社等信仰対象物が設けられており、漁民の信仰対象にもなっているものもある。従来、山は山地民や農民の生業との関わりにおいて論ぜられることが多かった。すなわち生活・生産の場である山、水利の源である山の意識である。今ここで採り上げた山タテからも漁民と山との深い関わりが問題となってくる。長原のある老漁民は海へ出ると必ず津乃峰・日峰・中津峰に安全を願って手を合わせると言う。こうした漁民の心理が山岳信仰の一端を担っているのではないかと思われる。

1)阿波郷土会員


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