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〈はじめに〉 松茂町総合学術調査における史料採捕の過程において加賀須野橋建設に関するものを管見する事が出来た。「大正7年6月改 旧記及び参考書編冊 賀川州邨携」との表題のある綴本(北島町 三木安平氏蔵)である。この文書は元は川内村役場に所蔵されていたものと考えられる。文書の内容は公式文書は少なく、多くは申請書類の扣類であり全てを史料として採用するについては多少の不安を禁じ得ないが、明治期における渡船営業、賃取橋経営に関する史料があまり発表されていない現状に於いて、それらを活字化する事は意味ある事と考え、史料紹介を中心に本稿を構成したいと思う。従って特別に注記しない限り上記史料に依るものと了解されたい。 徳島市川内町加賀須野から今切川を横切り板野郡松茂町広島へ至る加賀須野渡しが開設された時期は史料未見のため明らかにする事が出来ない。しかし藩政期にあっては五街道(淡路官道、川北本道、伊予本道、土佐本道、讃岐本道)の1つである淡路官道の裏街道として重要な位置を占めた下寄街道が通じており、加賀須野渡しは南北交通の要路であったと考えられる。下寄街道は淡路官道が撫養上道と呼ばれたのに対し撫養下道と称された。下寄街道とは徳島・撫養を結ぶ主要道で淡路官道より下手側の街道という意味であろう。淡路官道が政治・経済上の主要道路であり武士・飛脚等の往還が多かったのに比し、下寄街道は一般庶民の利用が多かったという(ふるさと阿波 135号 岡泰氏著 五街道)。また徳撫間の官程が淡路官道より約10町程短かかった事(史料1
)も便利であったと考えられる。淡路官道 下寄官道の経路を記すと次の通りである。 ・淡路官道(撫養上道) 徳島城門―上助任―別宮川(古川渡し)―古川―今切川(鯛浜渡し)―鯛浜―中村―吉野川(東馬詰渡し)―牛屋島―立道で川北本道(撫養街道ともいう)に合流 ・下寄街道(撫養下道) 徳島城門―下助任―別宮川(鈴江渡し)―鈴江―沖島―大松―加賀須野―今切川(加賀須野渡し)―広島―向喜来―吉野川(徳永渡し)―徳永―木津で川北本道に合流 以上の様に橋梁の架設が技術的、経済的にもむずかしかった近世にあっては淡路官道、下寄街道のような主要道路に於いても河川横断には渡し船が利用されていた。しかし近代に入り人馬の往来、物資の移動が頻繁になってくると大量輸送に不向きで、強風、波浪の際には運行を休止せざるを得ない渡船では不便をかもすに至った。その為、維新政府は明治4年12月 府県に対し橋梁の架設を奨励するとともに地方有志に税制上の優遇措置を与えて架橋の促進を図った(史料2
)。また徳島県令北垣国道は明治13年10月11日付で粗雑な構造の架橋を改めるため、橋梁架設の設計基準を布告し新規の橋梁は勿論、既設のものについても設計基準に適合させる様にとの通達を出している。この様な時代要請のなか名東県布達(明治6)の如く渡船営業によっていた加賀須野・広島間に地元有志による賃取橋の建設が計画されたのである。 冒頭に記した史料中、加賀須野仮橋についての一番古いものは明治21年5月の約定書(史料3
)であり、最も新しいものは仮橋を取り除き渡船営業に変更したことを示す明治44年11月の「船体検査証下附申請」である。この間あとに記すような変遷を辿るのであるが仮橋営業は度重なる津波・洪水等による被害、人件費・諸物価の高騰、通行人員の見込み違い等により、その経営は困難を極めたのである。しかしながら明治28年1月の「仮橋変更架設願」に添付された書類(史料4
)にみられる様に、一部舟橋となっていた仮橋をガス燈を設置し船通しを設けた開閉橋に改良したい旨の申請書類の存在は仮橋営業人が進取の精神に富んだ人物であった事を今日に伝えると同時に 北島町老門に明治21年に建立された航海安全を祈願した燈台が現存する事と相関連して 藍、肥料、雑貨等を積載した平田舟・帆かけ舟が今切川を盛んに往来していた事を教示してくれる。 開閉橋の建設は繰り返し申請されるが実際に建設されたかどうかは、史料調査によっても、地元古老からの聞き取りによっても確認することが出来なかった。明治37年には「渡船営業加入願」が提出されている事から、その頃には何らかの事由で旧仮橋は撤去され、渡船による渡河が行われていたのであろうが、明治43年に新たに免許され建設された橋がおそらくや開閉橋ではなかったか?と推測されるのみであり、新史料の発見が待たれるところである。以下に加賀須野橋関係年表と関連史料を掲げる。 〈加賀須野橋関係年表〉 明治6年12月22日 名東県布達(徳島市史 3巻 875頁) 名東県から区戸長宛の布達に加賀須野渡船の賃銭は「人―2厘、牛馬荷牛馬―4厘、両掛駕諸車其他器械―2厘、中水―4厘8毛、大水―9厘2毛」と定められている。 明治21年5月(史料3
) 広島浦総代、加賀須野村総代、起業人間で加賀須野船橋架設に伴う約定書を締結。 明治21年7月11日 広島浦総代、起業者間で約定證を締結。(総合学術調査発表会資料、H2年12月16日に紹介)、内容は史料(3)に類似。 明治21年11月12日 県より加賀須野仮橋の営業許可がおりる(期間10年間)。 明治25年 海嘯(津波)の為、全て流失。 明治27年9月 暴風雨・出水の為、過半流失する。直ちに古木を相交ぜ修繕。 明治28年1月30日(史料4
) 従来の北岸附近を船橋とした構造を改め、船通しを設けた開閉橋にすべく県知事村上義雄宛、仮橋変更架設願いを提出。 明治29年 洪水の為流失。 明治30年 洪水の為流失。 明治31年10月28日(史料5
) 徳島県知事山縣伊三郎宛、流失等により諸費用が嵩み償却が出来ない為、営業期限を明治41年10月まで10年間延長を願い出る。 明治34年7月23日 徳島県知事小倉久宛、仮橋営業人の四宮万五郎、新居見嘉平の死去に伴い四宮万五郎新居見友太郎が営業を継承するとともに賀川英太郎が新たに加入し島谷定次郎との計4名で営業する旨を届け出る。 同年同月同日 明治31年10月28日付で提出の「仮橋営業延期願」を願人異動、償却方法に変更を生じた為、収支計算等の指換を申請。それによると賃銭を人―5厘、人力車―1銭、牛馬―1銭4厘、両掛―7厘、荷車―1銭4厘と改め、年間収入予算を427円5銭、支出予算を番人給―1人1日25銭、石炭油―1石15円、炭―1俵40銭とし計203円5銭と改め、収支決算は利息が増加したため償却不足金が992円となりそれを7年償却としている。 同年同月同日 仮橋架設営業延期願いを提出。文面は31年10月28日のものとほぼ同じであるが、延長期限を明治34年7月から41年6月までの7年間とし、渡橋賃の増額を申請している。 明治36年7月13日(史料6
) 仮橋営業人4名(島谷定次郎、賀川英太郎、四宮万五郎、新居見友太郎)の財産調書を提出するとともに、橋銭額を人―5厘、人力車―1銭、牛馬―1銭5厘、荷積車―2銭、1ケ年の収入予算455円92銭5厘、支出予算343円95銭、20年償却(893円12銭)として仮橋架設を再申請する。なお工事に要する期間は許可の日より60日以内としている。 明治37年4月13日 福井増蔵の渡船営業廃業届とともに福井竹二郎が渡船営業加入願いを県知事床次竹二郎に申請(4月20日許可される)。 明治37年5月9日(史料7
) 矢野藤三郎、福井竹次郎が4月22日付で申請した加賀須野渡船営業賃銭変更が許可される(徳島県指令書 乙第5268号)。 明治40年11月4日(史料7
) 矢野藤三郎、福井竹次郎の両名が徳島県知事谷口留五郎宛「渡船賃銭増額願」を提出。 明治40年11月8日 渡船営業人の2人(矢野、福井)より撫養警察署長服部覚助宛、渡船乗載許可証の再交付を申請する。 明治43年2月24日 加賀須野仮橋免許される(徳島県指令丙土第434号ノ2)。 明治44年10月(史料8
) 仮橋営業者7名より、徳島県知事渡辺勝二郎宛、加賀須野仮橋通行賃銭増額を申請。 明治44年11月 仮橋営業者7名が仮橋を撤去した後、渡船壱艘で営業する為、船体検査証の下附を撫養警察署長亀谷琢松に申請する。同船の乗積制限は平水時において人―30人、諸車4輌、牛馬―4頭、擔荷―10荷であった。 (この間史料がなく不明) 大正12年(徳島市史 3巻 519頁) 下寄街道が県道瀬戸徳島線に認定されたのを機に加賀須野橋を県営に移管する。同年6月県は新橋を架設して無賃橋とする。 昭和31年(徳島市史 3巻 519頁) 北島町の今切港(老門港)に500トン級の船船を航行させる為、総工費1,200万円でハネ上げ式可動橋(バスキュール ブリッジ)を架設する。 その後 改造が加えられ現在に至る。 〈加賀須野橋関連史料〉 史料1
撫養下道(鳴門市史 中巻 10頁) 1御城前より鈴江村渡場迄 弐拾六町三拾六間 但し比渡四町四拾間 1是より加賀須野村渡場迄 四拾参町五拾間 但し比渡壱町拾六間 1是より徳永村渡場迄 弐拾四町五拾四間 但し比渡壱町四拾間 1是より林崎村渡場迄 参拾六町拾七間 1是より岡崎渡海場迄 拾壱町拾八間 合 百四拾弐町五拾九間 四里に平(ならし) 三拾五町四拾三間半宛 五拾町壱里にして弐里四拾町五拾九間 但し上道より九町四拾間近し (鳴門市史より引用) 史料2
布達(徳島市史 3巻 862頁) 治水修路ノ義ハ地方ノ要務ニシテ物産蕃盛庶民殷富ノ基本ニ付府県管下ニ於テ有志ノ者其自費或ハ会社ヲ結ヒ水行ヲ■シ嶮路ヲ開キ橋梁ヲ架スル等諸般運輸ノ便利ヲ興シ候者ハ落成ノ上功費ノ多寡ニ応シ年限ヲ定メ税金取立方被差許候間地方官ニ於テ此旨相心得右等ノ儀願出候者有之節ハ其地ノ民情ヲ詳察シ利害得失ヲ考へ入費税金ノ制限等篤ト取調大蔵省へ可申出事 但本文ノ趣管内無洩可相達事 明治4年12月14日 史料3
約定書 板野郡加賀須野村字蛭子野渡舟従来加賀須野村之御許可ヲ受ケ渡舟営業仕来リ候處今般法方ヲ改良シ船橋架設上願候ニ付テハ架橋所北廣島浦村ナルヲ以テ一ケ年分金弐拾円ヲ与内トシテ村民一同無銭ニテ通行可為致候、然ルニ架橋御許可ノ上船橋架設出来候得ハ船橋中毎年六月弐拾五日限リ冬十二月弐拾五日限リ両度ニ前書ノ通金拾円宛廣島浦村へ指出可申候 若シ暴風出水ノ為メ船橋破損流失致シ従来ノ通リ渡船営業ニ相成候得ハ一ケ年分与内金拾円ニ減額シ右期限ニ金五円宛相度可申候、尤前記約定候ニ付テハ暴風出水ノ節ハ架橋木類等ハ廣島浦村地上エ揚置又ハ渡船営業スルニ於テモ渡守小家敷地等拝借指支無之様可被致筈依テ前顕ノ通リ示談仕候ニ付テハ後日ノ為メ総代及仲裁人起業者連印ヲ以テ約定証書取換申処相違無之候也 明治弐拾壱年五月 板野郡加賀須野村惣代 新居見喜平 四宮万五郎 同郡同村仲裁人 井上徳蔵 四宮竹次郎 同郡同村起業人 島谷定次郎 矢野藤三郎 福井増蔵 同郡廣島浦村惣代 吉岡吉太郎殿 佐藤惣八殿 史料4
―1 仮橋変更架設願 幹流吉野川派今切川筋 板野郡川内村大字加賀須野村ヨリ同郡松茂村大字廣島浦村字浜ノ州へ通 1加賀須野仮橋 右仮橋従来御許可ヲ経営業罷在候処客年九月暴風雨出水ノ際破壊ノ上過半流失致シ直チニ古木相交セ修繕ヲ加ヘ人馬通行ノ便ヲ得候様致シ居候、然ルニ此際危険ノケ処相生シ候ニ就テハ従来ハ北岸附近ノケ処ハ統テ船橋ト致シ有之タルモ一朝風雨アランカ忽チ風浪船中へ浸入シ船体沈没ノ慮毎回有之人馬通行ノ不便ヲ醸スルハ勿論架橋維持上ニ於テモ甚ダ困難ヲ相究メ候旁今般別紙目論見書之通変更仕度ニ付関係書類相添へ此段奉願候也 明治28年1月30日 徳島県板野郡川内村大字加賀須野村43番屋敷 起業人 島谷 定次郎 同大字村63番屋敷 右 同 四宮 万五郎 徳島縣知事 村上義雄殿 前書之通相違無之ニ付奥印仕候也 板野郡川内村長 鈴江直三郎
4
―2 仮橋仕様変更目論見書 1仮橋長百拾間幅 内 三拾間ハ弐間毎ニ橋杭建設、七拾八間ハ三間毎ニ橋杭建設 但シ橋南大字加賀須野村橋台ヨリ北へ四拾弐間(弐間距離ニ拾五ケ所、三間距離ニ四ケ所橋杭ヲ建)架橋ヲ設ケ其北二三間ノ舟通ヲ明ケ亦北大字廣島浦村橋台迄六拾五間(三間距離ニ弐拾壱ケ所、弐間距離ニ壱ケ所橋杭ヲ建)架橋トス。尤橋杭ハ壱ケ所毎ニ旧来ノ如ク三本ヲ要ス之ニ準シ橋梁及行桁ヲ互シ橋板ヲ張両側ニテ押ヘ木ヲ以テ栓留ニシ高サ弐尺五寸ノ欄干ニシ(柱間弐間距離ノケ所拾六間ハ壱間毎ニ、三間距離ノケ所七拾八間ハ壱間半毎ニ建)手摺ヲ附ス。船通シハ別紙図引之通ニス(長三間幅)舟通シ橋板ハ両端ニ押木ヲ以テ(乙)桁ヘ一搦ニシ栓留トス其全体ヲ車仕掛ニシ南へ橋上ヲ挽キ明ケ(甲)橋桁ハ阿弥陀巻ニシテ捲揚トナス

史料5
―1 仮橋架設営業延期願 本村大字加賀須野村今切川筋字蛭子野ヨリ松茂村大字廣島浦村ニ互ル即チ徳撫間に通スル要路ノ箇所仮橋架設ノ義ハ明治弐拾壱年拾壱月拾弐日許可拾ケ年間営業可仕筈ニシテ本年拾月ニテ満期ニ相成居候 然ルニ該年期間ハ毎年数度ノ暴風雨且洪水ノ為メ破損又ハ流亡シ屡々修繕ヲ加へ多額ノ支出ヲ要シ就中弐拾五年海嘯ノ際ハ悉皆流失シ尓後再設ノ覚束ナキヲ憂慮セシ所漸ク再架橋ヲナセシモ毎年損失ノ上斯ク大破ニヨリ改造セシ事故種々費用支出相嵩ミ償却方法相立不申候間右営業年期明治参拾壱年拾壱月ヨリ同四拾壱年十月マテ拾ケ年間更ニ延期継続営業仕償却相遂ケ度候間何卒本願御諾許被成下度別紙収支豫算表相添比段奉願候也 明治参拾壱年十月弐拾八日 板野郡川内村大字加賀須野村四拾参番屋敷 起業人 島谷 定次郎 ■ 同郡同大字村六百五拾五番地ノ一 同 四宮 万次郎 ■ 同郡同大字村四拾八番屋敷 同 新居見 友太郎 ■ 徳島県知事 山縣 伊三郎 殿 前書之通ニ付奥印仕候也 明治参拾壱年十月弐拾八日 板野郡川内村長 中瀬 儀平 ■ 同郡松茂村長 三木 亥四郎 代理 助役 太田 都織 ■ 史料5
―2 假橋架設営業延期願(明治31年10月届)添付書類より作成




史料6
―1 財産調書 川内村加賀須野村 島谷 定次郎 1 耕宅地反別 9町1反2畝2歩 地価 3250円60銭 見積価格 18242円 1 家屋5棟 此坪 92坪 見積時価 2730円 1 34銀行株券 1000円ヲ有ス 賀川 英太郎 1 耕宅地反別 9町4反3歩 地価 3100円95銭 見積時価 18802円 1 家屋4棟 此坪 90坪 見積時価 3000円 1 34銀行株券 1250円ヲ有ス 四宮 万五郎 1 耕宅地反別 7町9反9畝24歩 地価 3117円24銭 見積時価 16000円 1 家屋8棟 此坪 115坪 見積時価 3450円 新居見 友太郎 1 耕宅地反別 1町6反2畝13歩 地価 568円14銭 見積時価 3250円 1 家屋7棟 此坪 60坪 見積時価 1500円 右之通相違無之候也 明治36年7月13日 板野郡川内村長 中瀬 儀平 ■
史料6
―2 仮橋架設費調 1 橋杭 126本(42ケ所立) 但末口4寸長3間 松丸太69本 1本に付金60銭 此金 41,400 末口4寸長5間 松丸太57本 1本に付金1円50銭 此金 85,500 1 橋梁 42本 但末口5寸長1丈 松杉丸太取交 1本に付金38銭 此金 15,960 1 行桁 126本 但末口4寸長2間 松杉丸太取交69本 1本に付金33銭 此金 22,770 末口4寸長3間 松杉丸太取交57本 1本に付金75銭 此金 42,750 1 橋板 106間 但厚1寸5歩長9尺 松栂杉取交 1間に付金3円30銭 此金 349,800 1 欄干柱 126本 但松杉取交2寸丸太 1本に付金4銭 此金 5,040 1 手摺木 86本 但松杉丸太取交 長3間40本 1本に付金45銭 此金 18,000 長2間46本 1本に付金25銭 此金 11,500 1 船通シ捲揚柱 2本 但末口3寸5歩長4間半檜丸太 1本に付金3円 此金 6,000 1 巻揚柱笠木 1本 但末口4寸長1丈檜丸太 此金50銭 此金 0,500 1 船通し用行桁 3本 但長三間末口五寸杉丸太 1本に付金2円50銭 此金 7,500 1 船通し用引戸 1巻 但桁栂3寸4寸角長3間4本 1本に付1円30銭 此金 5,200 梁栂3寸4寸角長1丈2本 1本に付60銭 此金 1,200 1 船通し用桁縛り 2本 但並貫長2間 1本に付20銭 此金 0,400 1 橋杭シヅカイ貫 84本 但並貫又は背板長2間 1本に付20銭 此金 16,800 1 綱 60尋 但苧及椋欄綱 1尋に付8銭 此金 4,800 1 船通し用金具 但獨楽八ツ 1箇に付金20銭 此金 1,600 敷金長6間半2筋 1筋に付2円80銭 此金 5,600 1 釘 10貫目 但 1貫目に付金50銭 此金 5,000 1 橋板押へ木 103本 但杉並貫長2間 1本に付金20銭 此金 20,600 1 橋台石垣 2ケ所 但平八坪 1坪に付金2円 此金 16,000 1 洋燈 2箇 但 1ケに付金1円50銭 此金 3,000 1 大工 250人役 但 1人1日金50銭 此賃 125,000 1 橋守小家 1棟 但瓦葺梁行1間桁行1間4尺 此坪1坪6合 此代金 11,200 1 人夫 100人役 但 1人1日40銭 此賃 40,000 1 架橋中諸器械借上其他雑費 此金 30,000 合計金 893円12銭
史料7 加賀須野渡船賃銭

史料8
―1 仮橋通行賃銭変更願 吉野川派今切川筋 板野郡川内村大字加賀須野村字蛭子野ヨリ同郡松茂村大字廣島浦村字浜ノ州ニ通スル下寄街道筋 1 加賀須野仮橋 右仮橋ハ明治43年2月24日指令内土第434号ノ2御免許ヲ得架設仕リ爾来営業罷在候然ルニ材料騰貴ノ為メ架設費ニ於テ豫算超過シ多額ノ経費ヲ要セシ而巳ナラズ出願當時収入予算ニ比シ人畜ノ通行大ニ減小シ到底費額償却ノ見込難相立旁今般別紙賃銭額ノ通リ変更ノ義特別ノ御詮議ヲ以テ御許可相成度比段上願候也 明治44年10月 日 板野郡川内村大字加賀須野村 島谷 定次郎 ■ 井上 忠太 ■ 賀川 英太郎 加根 安蔵 ■ 新居見 友太郎 ■ 美馬 豊太郎 ■ 四宮 万五郎 ■ 徳島縣知事 渡辺 勝二郎 殿 史料8
―2 別紙 仮橋通行賃銭額表

 

1)阿波郷土会副会長(徳島市) 2)同会理事(北島町) 3)同会理事(徳島市) 4)同会員(羽ノ浦町) 5)同会員(松茂町) |