阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第37号
松茂町の地形と地下地質

地学班地学団体研究会吉野川グループ
  橋本寿夫1)・石田啓祐2)・

  寺戸恒夫3)・横山達也4)・

  中尾賢一5)・東明省三6)・
  森永宏7)・久米嘉明8)

I.はじめに
 板野郡松茂町は、東に紀伊水道、北に讃岐山脈、南に吉野川を隔てて四国山地を望む徳島平野の東端に位置している。徳島平野は、流域面積が3,750平方キロメートルに達する四国最大の河川である吉野川に沿って発達してきた沖積平野である。その地下は、厚さ 100m を越える泥や砂礫などの未固結の堆積物などから成る。これらの地層のうち、地表から約 45m までは、第四紀の最終である w■rm 氷期(約7万年〜1万年前)の低位海水準に対応して形成された旧吉野川の谷がその後の気候の温暖化にともなう海進によって埋積されてできた地層で沖積層といっている。この沖積層の下位には、さらに古い時代の地層である洪積層が堆積している。徳島平野のこれらの地層については、すでにいくつかの研究が行われている。鈴木・北崎(1964)は、これらの地層を構造物の支持層としての観点からとらえて研究した。中川・須鎗(1965)は層序学的な研究を行い、w■rm 氷期(最大海退期20,000年前)以降に堆積した地層を徳島層(沖積層)とし、さらに徳島層を上部層・下部層に2分した。阿子島ほか(1972)は、縄文期以降(約10,000年前以降)に堆積した地層を徳島層(沖積層)と再定義し、さらに徳島層を上部層・中部層・下部層の三部層に細分し、徳島層の下位を北島層(洪積層)とした。村尾(1988)は、吉野川北岸下流部を対象に平野の微地形、三角州堆積物、歴史的遺物の分布について調査し、−50m 以浅の堆積物について研究した。横山(1990)は、ボーリング資料、火山灰などのコア試料、貝化石、14C 年代等を検討し、徳島平野の沖積層の発達過程について研究した。
 今回の総合調査で、地学班は、松茂町地域の地形区分と地震災害の調査、収集した約100本のボーリング資料に基づく地下地質の推定、ボーリング・コアから介形虫などの微化石の検出と堆積環境の推定を行った。

II.松茂町の地形
1.地形概説
 松茂町の地形は、全域が吉野川により形成された沖積低地と、沿岸の浜堤よりなる。その特色は、最も早く作成された近代的地形図(明治29年測図、同33年製版の陸地測量部)5万分の1「徳嶋」図幅にみられるように、当時の村内記載地名12のうち、半数(満穂、豊久、住吉、豊中、豊岡、長岸)の末尾に新田名が付される状況より、そのほとんどが江戸時代とそれ以後の干拓、埋立による人工地形であることで、初生的な地形は皆無に等しい状態である。約6,000年前といわれる縄文海進極盛期以降、現在に至るまでの地形変化(地形発達)については、すでに古図や地形図をもとにして阿子島(1975)が述べているので、今回は現状を踏まえて、地形の分類を行うと共に、地形と災害の関係について、部分的ではあるが調査および作業を行った。

2.地形分類
 ア.分類の基準
 上述の観点に加えて、利用しやすさも考え、以下のような地形面の分類を行った(図1)。
A.自然地形あるいはそれに近い地形面(図1の1)
 町内には人工と全く無関係の初生的な地形はほとんどなく、何らかの形で人工の影響を受けている。ここでは自然の作用を比較的多く受けて形成された地形面をこれにあてる。
B.一次人工地形面(図1の2)
 等2次大戦に備えた飛行場建設以前の地形で、主に江戸時代とそれ以後の築堤、干拓、埋立てによって出現した地形が、原面として残っている部分である。
C.在来の集落と付属の園地がつくる面(図1の3)
 本来は一次的地形面に属するが、屋敷形成のため若干盛土してある部分で、宅地と一体となっている畑あるいは樹園地を含めたもの。
D.旧航空隊面(図1の4)
 昭和10年代に海軍航空隊用地として収公され、埋立てられた原面がほぼ残っている部分である。
E.二次人工地形面(図1の5)
 第2次大戦後の1946(昭和21)年12月21日の南海地震とその後の地盤沈下により、本町の水田の多くは塩害を蒙るようになった。そのためサンドホンプなどにより 35cm 内外の客土が行われた。この客土された地形面がほぼ原面として残っている部分である。
F.三次人工地形面(図1の6)
 昭和30年代の高度成長期から現在に至る間に、以前の地形面の上に新たに埋立てられたり、河川沿岸に造成された土地で、松茂町の工業地化、住宅地化を端的に示す地形である。
周辺より幾分高い部分が多く、盛土は最近益々高くかつ広くなる傾向がある。
G.徳島空港面(図1の7)
 旧航空隊面を主として利用した面であるが、近年海側へ滑走路が延長されるなど変化が認められたのと、一連の地形面であるので、一括してこの面とした。故に西半は旧航空隊面、東半は前記の三次人工地形面に相当する。

 イ.分類作業
 基礎的な分類は、主として松茂町開発課所有のカラー航空写真(中庭測量コンサルタント、縮尺12500分の1、1988―昭和63―年5月18日撮影)の判読によって行い、標高並びに区域の検討には、松茂町2500分の1地形図(中庭測量コンサルタント、昭和59年測量、昭和63年7月修正)を参照した。過去の地形については、国土地理院の空中写真(縮尺40000分の1、1962―昭和37―年撮影)および地形図によって作業を進めた。なお一部は現地調査によって補った。
 ウ.分類の結果と考察
i.松茂町の本来の地形面(一次人工地形面)は、西に高く東に低い。水田面では、旧吉野川左岸の長岸付近の標高 0.9m が最高所である。同じ長岸でも右岸の新田では 0.6m であるので、前者が自然堤防、後者が旧河道に由来するものであろう。町南東の豊岡付近の水田は、南海地震後客土している二次人工地形面と思われるが、標高は 0.2〜0.4m である。このように本来の地形は自然に支配される率が大きいので、高い所は自然堤防、砂州、浜堤に、低い所は旧河道や後背湿地に起源すると考えてよい。
ii.住居や鉄塔のような建築物を除くと、町内の最高所は、長原の最南端の堤防上で標高8m、これに次ぐのが滑走路東端付近の 6.8m である。なお自然地形の部分での最高点は 5.8m で、長原の三好長治終焉の地碑南 160m 付近、堤防背後の砂地である。汀線から約 40m しか離れていない。往時はおそらく相当な幅の浜堤の一部と考えられ、二重のテトラポットが、付近の海岸侵食の激しさをものがたっている。なお滑走路北方の月見ケ丘海水浴場の最高は4m 強で、これは堤防の海側にあるので、砂の吹き寄せによって高度が自然のままより高まった可能性が残る。
iii.町内の普通にみる地形面で高い所は、空港駐車場北方の標高2m 内外である。上記の地形分類でみると、一般に現在に近いほど地盤が高い。ごく大ざっぱに言って、一次人工地形面は標高1m 未満、二次人工地形面は1〜2m、三次人工地形面は2m 内外あるいはそれ以上とまとめられる。土地利用もこれに従っており、水田面は標高1m 未満、畑地面は 0.5〜1.5m、一般住宅や団地面は 1.5〜2.4m という目安がたてられる。古くからの集落は、長岸、中喜来、広島のそれぞれの主集落のように自然堤防上や、長原のように砂州上に立地しており、標高は1m 前後の土地が多い。これらの土地の新築住居に共通する事項として、地盤を土盛りしてより以上に高くする点を挙げることができる。低湿地として浸水に苦しんだ父祖の代からの伝承が生活に生きている。これに反し、主要交通路沿いに建てられた商店などの地盤が低いのは、現状のみしか意識していないことが一因であろう。
iv.意外に思われたのは、役場所在地の広島の住宅地の地盤が低い(0.8〜1.2m)点で、現状では豪雨時に町内で最も冠水しやすい地域と考えられる。
v.二次人工地形面の客土は、厚さ 35cm 内外である。客土は公共事業として行われたものと私的に行われたものがあり、前者は広範囲にわたって一様に行われた結果、ほぼ同一の平坦面となるのに対し、後者は隣り合わせに高低の土地が存在する場合が少なくない。
vi.一般に水田やレンコン畑は低所、畑は高所という認識があるが、本町では客土した土地を水田やレンコン畑に利用する場合もあり、土地利用を高低と結びつけられない面がある。
vii.向喜来付近では、本来の土地が低湿であったせいか、養鰻場跡地の埋立てが高低に二極分化を生じている。旧来の高さに埋め戻す所がある反面、2m 以上に埋立てる所が少なくない。

3.地形と災害
 松茂町は、大部分が臨海の沖積低地にあるので、津波を含む地震災害と洪水災害が主な自然災害である。
 ア.地震災害―噴砂分布―
 1964(昭和39)年6月の新潟地震で、鉄筋コンクリートのビルが多数傾斜して以来、沖積層の流動化現象(噴砂)が、地盤の弱い土地を示すものとして注目されてきた(大崎,1966)。そこで本町でも、軟弱地盤の予察につながるので、1946(昭和21)年12月の南海地震時の噴砂などの状況について聞き取り調査を行った。図2に関連する土地を示す。
 図2のAは、現コスモ石油貯蔵所すぐ北隣りの水田、Bは笹木野山上の和西安雄氏宅の水田中の噴砂である。Bでは合わせて10カ所ほどの噴砂が見られ、大きいもので直径約 15cm、高さ約5cm で、北東から南西方面に列状に並んでいたという。CとDは、中喜来郡恵の富士武茂氏による位置で、Cは水田中に2〜3カ所認められ、きれいな青砂が印象的だったとのこと。Dは現在の旧吉野川河口堰右岸あたりで、当時カヤが生えていた。それを刈りに行ったところ、地震前日には見られなかった所のあちこちに、砂が高いので 20〜30cm、すり鉢を伏せた形で見出されている。EとHは、中喜来なだの北田勝氏の指摘である。Eでは噴砂の分布に地域的な差があり、大谷川に近い所や、堤外地のような開拓の新しい所に多く、高さ 20cm ほどの噴砂が長さ1m 以上、幅 50〜60cm という細長の形を示していた。Hは牛屋島橋西方の堤外地で、数も規模もなだ付近より多かった。そして噴出した砂は中喜来に比べてやや粗く、コンクリート用に近い粒径をもっていたという。Gは長岸右岸の坂東博美氏によるもので、自宅南方の北島町太郎八須工業団地内の位置に見出された。10カ所以上あり、低い所ほど砂が多く、少し高かった自宅付近の水田中には噴砂は認められなかったという。円いものが多く、直径約 50cm、高さは 15cm 位とのこと。Fは鳴門市大津町大幸の仲須直氏によるもので、水田中に噴砂は認めたが割れ目はなかったという話であった。以上の噴砂地点に共通する事項は、いずれも低湿地で旧河道の性格の強い地域であった。噴砂としては小型であるが、新潟市同様に松茂町も震度がV程度になると、同じような現象が生起することをものがたっている(宇佐美,1987)。町内の他の地域も調査したが、噴砂の話は得られなかった。おそらく見過されたのではないか。噴砂の供給源は、地表より数 m 以内である場合が多いので、町内での重量建築物にはより深い基礎が必要とされる。
 図2の×印は、南海地震(M=8.0)に伴う津波による撫養川大里橋北西の破堤地である。現在の町内の堤防が、この程度の津波を基準として設定されているならば、一応警戒を要する。同じ南海地震でも1854年の安政南海地震(M=8.4)は、県南各地でより大きな津波が来襲しているためである。

 イ.洪水災害
 松茂町のように標高が低く周辺に堤防をめぐらす、いわゆる輪中地域では、上流からの洪水と内水災害が問題となる。しかし、吉野川上流のダム建設および本流の堤防強化により前者のおそれは少なくなった。現在最も考えられるのは、堤防内の豪雨による内水災害で、町内の高度が以前に増して複雑化した点から、単に排水機の能力アップだけでは解決できない事態に至っていると思う。当面は人工的な微地形の変化の調査が考えられるが、長期的には土地利用計画を平面図の段階に終らせず、立体的な観点からの立案検討を加える必要がある。

III.地下地質
 1.沖積層の層序と構造
 井関(1966)によれば、W■rm 氷期最盛期は最も新しい汎世界的な不整合面形成期で、この時期に形成された不整合面が、沖積層と洪積層以下の地層との境界面になると考え、少なくとも臨海平野においては、W■rm 氷期最盛期(約18,400y.B.P.)に形成された不整合面上に主として水成堆積により形成された地層を沖積層として定義している。横山(1990)は井関の考えに従って徳島平野の沖積層を、層相から上位より、上部泥層(UM)、上部砂層(US)、中部泥層(MM)、下部砂層(LS)、基底礫層(BG)の5層に細分した(表1)。筆者らは、図3に示す松茂町内のボーリング資料を新たに収集し、横山(1990)の区分に基づき松茂町の地下の沖積層を区分した(図4)。

1)上部泥層(UM)
 本層は主として青灰色〜暗灰色の粘土、シルトからなるが一部砂まじりのところもある。N値は3〜4。軟弱含水層で、全体的に腐植物が混入してする。砂混じり層は少量の貝殻片を含む。新加賀須野橋北付近(No.3)の地下2〜5m 付近にみられる。層厚4m 以下。横への連続性はよくない。
2)上部砂層(US)
 本層は青灰色〜暗灰色の砂層からなり、全体的に腐植物・貝殼片を多く含んでいる。ところにより礫を混えながら厚く発達しており、上流への層相の変化は著しい。新広島橋北(No.5)付近では、−2.2〜−14.30m に分布。N値は5〜15。層厚 12.1m。
 鳴門市大津町矢倉の水門工事に伴うボーリング(No.10)で、−2.20〜−4m、N値5、層厚 2.20m のシルト質砂層中−3.20m の層準から海棲の貝化石(図版1)が採集されている(奥村・横山、1988)。この層の下位の砂層を加えた全層厚は 11.20m である。
3)中部泥層(MM)
 本層は沖積層中最も厚い海成層で、主として暗灰色のシルト・粘土層からなり、一部砂混じりになっている。N値は粘土・シルト層で4〜6、砂混じり層で、9である。また、本層中には、層厚 30cm〜1m の乳白色の火山灰層を挟んでいることが多く、吉野川下流域に火山灰層が厚く堆積し、上流にむかうにともない尖滅する。層厚は最大 20m でよく連続する。松茂町満穂(No.19)では、−18.4〜−24.40m がシルト層、−24.40〜−28.50m が粘土質シルト層、−28.50〜−29.10m が砂質シルト層、−29.10〜−30.80m がシルト層、−30.80〜−31.20m が火山灰層、−31.20〜−34.50mが粘土質シルト層からなり、貝殻片が多く混入している。N値5〜6、全層厚 16.10m。横山(1990)は、この地点の火山灰をアカホヤ火山灰と同定している。
4)下部砂層(LS)
 本層は暗灰色の砂層を主とし、しばしばシルト・粘土を含んでいることがある。調査研究地域においては、本層はあまり厚く堆積していない。松茂町旧吉野川河口堰(No.23)では−34.60〜−37.65m がシルト質砂層で、細砂を主体とし、貝殻片を含む。N値15〜32、−37.65〜−41.20m が中・細砂層で、N値 31〜41、−41.20〜−43.30m は砂質シルト層。N値は、42.15。全層厚 8.90m。
5)基底礫層(BG)
 本層は沖積層の基底をなす地層で、青灰色で粗砂および5〜10mm の亜円礫および亜角礫を主体とする。徳島平野では吉野川河口から西方にかけてよく連続し、麻植郡鴨島町付近では、地表下数メートルの層準から下位に本層が分布している。N値30以上、層厚約 20m。松茂町役場(No.25)では−40.00〜−42.10m で、2〜20mm の円礫を混じえた砂層でN値は、32.7〜34.7。−42.10〜−47.00m は、暗灰〜淡緑灰色の2〜40mm の亜角礫を含む砂礫層でN値60以上である。
2.ボーリング・コア中の火山灰
 徳島平野のボーリング・コアは火山灰層を含んでいることがある。この火山灰は広範囲にしかも短期間に堆積するため、よい鍵層となる。さらにその噴出年代等が明らかになれば、堆積当時の環境や他地域との対比に大いに役立つ。徳島平野中にはこのうち、姶良 Tn 火山灰とアカホヤ火山灰が挟在していると考えられている。このうち、姶良 Tn 火山灰(AT)の給源火山は、鹿児島湾北部を占める姶良カルデラで、日本列島はもとより日本海全域、朝鮮半島、東シナ海、太平洋四国海盆を広くおおっている。噴出年代は 21,000〜22,000y.B.P.(町田・新井、1976)ないし 24,720±290y.B.P.(松本ほか、1987)と推定されている。また、アカホヤ火山灰(Ah)の給源火山は鬼界カルデラで、竹島と硫黄島を残してその大半が浅海底に沈んでいる巨大カルデラの1つである。アカホヤ火山灰は九州・四国一円から東北地方南部までをおおっている。噴出年代は多くの研究から、約 6,300y.B.P.とされている。四国では両者を区別しないでオンジ火山灰と呼んでいる。
 横山(1990)は、徳島層(沖積層)中に介在している火山灰の化学組成を、標準資料の姶良 Tn 火山灰とアカホヤ火山灰試料の化学組成と EPMA により分析し比較することによって対比を行った。その結果、板野郡板野町犬伏の−23m に挟在する火山灰を姶良カルデラの火山灰に、また、松茂町満穂の、−30m、層厚1m のボーリングコア中の火山灰を、アカホヤ火山灰に対比している(図5)。松茂町内では、火山灰は、No.1−4,25,35,36,41−44,45−48,53−60から産している。また、層厚は、数 cm〜1.3m と分布に片よりがある。図4の火山灰はいずれもアカホヤ(Ah)であり、同一鍵層と判断できる。また基底礫層により上位であることからも、AT ではなく、Ah であることになる。ちなみに AT は、徳島平野周辺では、鳴門教育大学構内のボーリングコア(−38〜−39m)で知られているのみで、Ah は−30m 程度までに分布する。

3.産出化石
1)貝化石
 松茂町内およびその周辺の沖積層からの貝化石としては、これまで、奥村・横山(1990)による鳴門市大津町矢倉、標高は0m、大谷川と旧吉野川の合流地点(No.10)からの報告がある。この地点は海岸から約4km 離れており、腹足類3種、二枚貝類9種、合計12種が同定されている(表2)。特に産出が多いものとしてはマガキ Crassostrea gigas (Thunberg)、ヤマトシジミ Corbicula japonica prime、ハイガイ Anadara (Tegillarca) granosa bisenensis、アサリ Ruditapes philippinarum (Adams & Reeve) がある。ヤマトシジミ Corbicula japonica は淡水または汽水性種であり、マガキ Crassostrea gigas は多少塩分濃度の低い内湾または淡水の影響の強い河口部の地物に付着する。アサリ Ruditapes philippinarum も内湾の泥質底を指標する種である。このほかにも、ヒメシラトリガイ Macoma incongrua (V. Martens)、イボウミニナ Batillaria zonalis (Bruguiere)、オオノガイ Mya (Arenomia) arenaria oonogai Makiyama など内湾の泥底を指標する種を含んでいる(図版1)。また、筆者らは、今回、松茂町のクリーンセンター(No.20)および加賀須野橋のボーリングコア(No.3)からも検出した(表2)。

クリーンセンターボーリングコアは−22.15〜−22.45m から得られたシルト質砂で、破損しているものが多いが、マメウラシマ Ringicula doliaris Gould、トリガイ Fulvia,mutica (Reeve)、マテガイ Solen strictus Gould、チヨノハナガイ Raeta pulchella Adams & Reeve、カガミガイ Dosinia japonica (Reeve)、ケシトリガイ Alvenius ojianus (Yokoyama)、などで、松島(1984)の分類を適用すれば、内湾泥底群集に属する種と、内湾砂底群集に属する種が混じっているが、全体としては、内湾の潮間帯〜潮下帯以深の砂泥に棲息する種が多い。このほか加賀須野橋のコア−10.65〜−10.90m および−13.15〜−13.45m 中粒砂から、マガキが検出された。
2)介形虫
 筆者らはクリーンセンターのボーリングコア(−22.15〜−22.45m)のシルト質砂中から介形虫を検出した(表3、図版2)。介形虫の保存状態は良くなく、環境を示準する特徴的な種は産していないが、堆積相および群集構成から内湾の中にあってやや外洋に近い潮間帯以深の海域が想定される。同じサンプルからは、貝化石や有孔虫も検出されている。

3)有孔虫
 介形虫と共に検出されたものは、底性有孔虫の Ammonia beccari, Elphidium jenseni, E. matogordanum.,(図版2)。このうち Ammonia beccari. が非常に多く産している。この種は、内湾〜汽水、特に汽水域に多いとされている。
4.沖積層の発達過程
 前章に示したボーリング資料、貝化石、微化石資料、14C年代、火山灰資料等に基づいて松茂町付近の沖積層の堆積過程について考察する。
1)基底礫層(BG)
 本層は W■rm 氷期(約18,000y.B.P.)の最低位海面期に吉野川による礫の運搬作用によって拡大した扇状地性の河川堆積層である。また、本層の上限を紀伊水道の海図等から推測すると、徳島平野下流部では−50m 付近にあると考えられる。ボーリング資料(図2)では、新加須賀野橋北(No.4)で−41m、松茂町役場(No.8)では−41.8m、空港ビル(No.14)では−47.9m、クリーンセンター(No.20)で−50m 付近から砂礫層が見られる。これらの礫層には、直径が 60〜100mm の礫も混入している。徳島平野下流部では基底礫層の上限は、だいたい−45〜−50m にあり、本層堆積当時には松茂町付近においても旧吉野川の礫の供給が盛んであったことがうかがえる。鳴門市撫養町弁財天下−60m の層準から採集された木片の 14C 年代が 37,800y.B.P.より古いという結果が得られている(横山、1990)。したがって、本層の下限はこの層準よりは浅い。
 板野町犬伏の基底礫層の下位の火山灰層の同定で明らかになった姶良 Tn 火山灰(AT)の噴出年代値は約21,000〜22,000ないし24,720±290y.B.P.(前出)である。また、最近、姶良 Tn 火山灰降灰当時の気候環境がかなり詳しく研究されており、火山灰降灰直前から寒冷化のきざしがあったが、降灰直後の寒冷化はことに顕著になることが、泥炭層の花粉分析から明らかにされている(辻、1983)。海上保安庁刊行8万分の1の紀伊水道の海底地形図を用いて作成した等深線図(図6)によると、−70〜−80m に広い平坦面がみとめられ−90m 以深では、等深線が込み入って陸棚外縁部となる。吉野川下流部における基底礫層の上限が−50m 程度であり、旧河床勾配等からみても、徳島平野の試削地点における基底礫層を延長すると、−70〜−80m の平坦面にうまく対応することから、この平坦面は W■rm 氷期最盛時の侵食基準面と考えられる。このことから、基底礫層堆積当時には、紀伊水道の現海面下 90m 付近まで陸地が広がり、この−90m 付近が当時の旧吉野川の旧河口位置であったと推定できる。よって、本層堆積当時の吉野川をはじめ和歌山県の旧紀の川、大阪府の旧大阪川等が紀伊水道で合流し太平洋に注いでいたのではないかと思われる。

2)下部砂層(LS)
 基底礫層の直上に整合にのり、層厚3〜5m と極めて薄い。下部砂層は、これまでの扇状地性の堆積環境がその後の海進による沈水によって三角州性堆積に移行したために、三角州前置層として形成されたものである。松茂町での本層の堆積がそれより南西方向の地域より若干厚く堆積していることから、本層堆積当時の旧吉野川の流路の位置は北よりをとっていて、その他の地域では、所々泥炭層を介在することから、後背湿地的な堆積環境であったと思われる。また、大麻町姫田における本層からは、海棲の貝化石が産出されており、そのうちハイガイ Anadara (Tegillarca) granosa の殻を使用した 14C 年代は、7,950±120y.B.P.を示しており(奥村・横山、1990)、縄文海進がこの地域ではすでに進んできていたことが推定される。
3)中部泥層(MM)
 本層は沈水速度が堆積速度を上回り、河川の運搬する粗粒物質の到達が著しく減少し、三角州の前置層的堆積から底置層的堆積へと移行してできた地層である。これは、とりもなおさず縄文海進によるものであり、徳島平野においては沖積層のうち最も厚く堆積している。縄文海進の海水準について、阿子島(1972)は、沖積低地の島に残っている縄文海進時の波蝕ノッチおよび Honeycomb structure の高度は、徳島・小松島地域では、+2.5〜3m に比較的揃っているとしている。井関(1978)は縄文進時の海進最高期は現海面より2〜3m 程度高くなっていたことも報告している。横山(1990)は、松茂町満穂の−30m の火山灰層について分析およびその同定を行い、アカホヤ火山灰であるとしている。アカホヤ火山灰の噴出年代は、このテフラの上下あるいはそのものの中の有機物に関する14C年代は、これまでに40を越しており、約 6,400y.B.P.であることがわかっている(町田・新井、1978)。また、アカホヤ火山灰降灰当時、気候はいわゆるヒプシサーマル期を迎え、完新世のうちでも高温多湿な時代であったことが、最近の花粉分析からわかっていて(Sakaguchi et al.,1982)、海面は降灰の直後に縄文海進・高海面のピークがくる(町田・新井、1980)。
 また、横山(1990)は、上助任町の本層中(アカホヤ火山灰直下の層準)から採集した海棲の貝化石によると、産出頻度の多いものは、ハマグリ Meretrix lusoria、カガミガイ Dosinorbis (Phacosoma) japonicus、ウラカガミガイ Dosinia (Dosinella) penicil lata、ヒメカノコアサリ Veremolpa micra、マメウラシマガイ Ringicula (Ringiculina) doliarisで、これらはいずれも内湾性を指標する種で、その他の種も内湾の砂泥底の水深10〜30m を指標するものがほとんどであるとしている。このことは、今回松茂町クリーンセンターのボーリング・コアサンプルから検出された貝化石や微化石群集(図版2)の特徴とも一致している。したがって、中部泥層堆積当時、松茂町付近は、内湾の海面下およそ10〜30m の海底であったと考えられる。
4)上部砂層(US)
 本層は下位の中部泥層の堆積がその後の小海退によって、ふたたび三角州性に移行し、三角州前置層的な堆積になったと推測される。全体的に腐食物を含み、鳴門市大津町矢倉大谷川の本層中の貝化石によると、特徴種としてのハイガイ Anadara (Tegillarca) granosa、ヤマトシジミ Corbicula japonica は淡水・汽水域に生息する種であり、マガキ Crassotrea gigas は多少塩分濃度の低い淡水の影響の強い河口部に生息する種である。このことから、本層堆積当時は淡水性または汽水性の生物の生息が可能な環境であったことがわかる。また、ハイガイ、Anadara (Tegillarca) granosa による 14C 年代は 2,090±85y.B.P.を示している(奥村・横山、1990)。したがって当時は、再び海岸線が紀伊水道に退き、松茂町付近は、吉野川の河口付近にあり厚い砂層が堆積する環境にあったと考えられる。
5)上部泥層(UC)
 本層は厚さ8m 以下で、三角州頂置層に相当するものである。N値が3程度の軟弱含水層であり、全体的に腐植物を多く混入している。現吉野川南岸から北岸にかけて側方方向によく連続している。このことから、海面高度は現海水準に達して海進は完全に離水し、本層堆積当時の吉野川の度重なる氾濫・蛇行によって氾濫原は湿地帯、沼地帯的な環境であったことが推定できる。ただ、松茂町では、新加賀須野橋(No.3)付近に認められるのみで他地域では、15〜20m の厚い砂層が堆積している。これは、堆積場所の違いによるもので前述の地域より河口に位置していて、三角州前置層的な堆積が本層下位の上部砂層堆積時代から引続き行われていたことが考えられる。
IV.まとめ
 地学班は松茂町内およびその周辺の地形と地下地質に関する調査および資料収集を行い、以下について論述した。1)航空写真と現地調査に基づいて地形区分を行い、南海地震の際の噴砂現象の発生した地点を整理し、防災について考察した。2)ボーリング資料に基づいて沖積層の層序区分を行った。3)ボーリング試料の分析および表層調査によって微化石およびマクロ化石を検出し、沖積各層の堆積環境を推定、岩相区分を基に徳島平野沖積層の形成過程に関する考察を行った。
謝辞 本調査研究を進めるにあたり、徳島平野の沖積層から産した貝化石の資料を提供下さり、終始貴重なご助言をいただいた鳴門教育大学・奥村 清教授、有孔虫の同定をいただいた徳島県立博物館・両角芳郎博士、ボーリング資料を提供下さった建設省四国技術事務所および地質資料の供与、調査研究の便宜をはかっていただいた松茂町教育委員会の各位に厚くお礼申しあげます。

文献
阿子島 功,1972:Honeycomb Structure と海水準。徳島大学学芸紀要(社会学科),vol.21,p.9-21.
――,1975:徳島臨海平野の地形.松茂町誌編纂室,p.40-53.
――・寺戸恒夫・岩崎正夫・中川衷三・須鎗和已,1972:徳島県の地質.137p,徳島県.
――,1975:徳島県の地形・地質.松茂町誌上巻(松茂町誌編纂委員会),松茂町編纂室,p.36-54.
――,1975:徳島県の地形・地質.松茂町誌上巻(松茂町誌編纂委員会),松茂町編纂室,p.36-54.
井関弘太郎,1956:日本周辺の陸棚と沖積統基底面との関係について.名古屋大学文学部研究論集,vol.16,p.85-102.
――,1966:沖積層に関するこれまでの知見.第四紀研究,vol.5,no.3〜4,p.93-97.
――,1978:日本における海水準変動研究の展望.地理学評論,vol.51-2,p.188-196.
町田 洋・新井房夫,1976:広域に分布する火山灰―姶良 Tn 火山灰の発見とその意義.科学,vol.46,no.6,p.339-347.
――・――,1980:日本のテフラカタログI―西日本〜東北地方の第四紀後期示標テフラの岩石記載的研究―.軽石学雑誌,no.6,p.65-7.
松本英二・前田保夫・竹村恵二・西田史朗,1987:姶良 Tn 火山灰(AT)のC14年代.第四紀研究,vol.26,no.1,p.79-83.
松島義章,1984:日本列島における後氷期の浅海性貝類群集.神奈川県立博物館研究報告(自然科学),no.15,p.37-109.
村尾三枝,1988:吉野川北岸の三角州の形成について.鳴門教育大学大学院学校教育研究科.修士論文(未公表).
中川衷三・須鎗和已,1965:徳島北部海岸平野の地下物質.徳島大学芸紀要(自然科学),vol.15,p.25-35.
大崎順彦,1966:軟弱地盤における建築物に関する調査研究.新潟県地震防災総合研究報告―その2―,防災科学技術総合研究報告12,国立防災科学技術センター,p.3-9.
奥村 清・横山達也,1990:徳島平野北部,大谷川および姫田より発見された貝化石群とのC14年代.地学研究,vol.39,no.1
Sakaguchi,V., F. Arai, and H. Sohma, 1982:On Deposits of the Ozegahara Basi n ―A Contribution to Late Quaternary Evolution of the Largest Raised B og in japan and lts paleo- Enviroments. Ozegahara:Scientific Reseach of the Highmoor in Central Japan, p.1-29.
鈴木好一・北崎梅香,1964:徳島臨海地帯の地盤.都市地盤調査報告書,vol.7,184p,建設省,徳島県。
辻 誠一郎,1983:下末吉期以降の植生変遷と気候変化.アーバンクボタ,no.21,p.44-47.
宇佐美龍夫,1987:新編日本被害地震総覧,東京大学出版会,434p.
横山達也,1990MS:徳島平野の沖積層の発達に関する研究.鳴門教育大学大学院学校教育研究科.修士論文.

図版説明
図版1
鳴門市大津町矢倉(図1:No.10,深度−4〜−5m)の上部砂層(US)から産した貝化石。
1.Mya (Arenomia) arenaria oonogai Makiyams ×0.6
2.Corbicula japonica Prime ×0.6
3.Macoma incongrua (v.Martens) ×0.6
4.Cyclina sinensis (Gmelin) ×0.6
5.Anadara (Tegillarca) granosa bisenensis Schenck & Reinhart ×0.6
6.Ruditapes philippinarum (Adams & Reeve) ×0.6
7.Siliqua pulchella (Dunker) ×0.6
8.a, b. Hminerita japonica (Duker) ×0.6
9.Solen (Solen) stictus Gould ×0.8
10.a, b. Batillaria zonails (Bruguiere) ×0.6

図版2
 介形虫および有孔虫の走査電子顕微鏡写真。いずれも松茂町クリーンセンターのボーリングコア(図1:No.20,深度―22.15〜―22.45m)の中部泥層(MM層)中のシルト質砂層から産したもの。
 スケールは、すべて100μm。A:3,4,6.B:5,8,9,11.C:1,2,7,10,12,13.
介形虫
1.Spinileberis? sp. 右殻
2.Spinileberis? sp. 右殻
3.Trachyleberis sp. ♀ 右殻
4.Trachyleberis sp. ♂ 右殻
5.Echinocythereis bradyformis lshizaki 右殻
6.Trachyleberis sp. 両殻(背面)
7.Pontocythere sp. 右殻
8.Parakrithella pseudadonta (Hanai) 右殻
9.Bicornucythere bisanensis (Okubo) 右殼
10.Loxoconcha sp. 右殻
有孔虫
11.Elphidium jenseni (Cushman)
12.Elphidium metagordatum (Kornfeld)
13.Ammonia beccari (Linn■)

1)土成町土成小学校 2)徳島大学教養部 3)徳島文理大学 4)板野町板野中学校 5)徳島県立博物館 6)日和佐高校 7)東祖谷山村菅生小学校 8)石井町石井中学校


徳島県立図書館