阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第36号
土成町の伝説

民俗班  湯浅安夫

 はじめに
 伝説と昔話・民話との区別或は史実との関連はなかなか難しい。ここでその区別を述べるゆとりはないが、町内の古老の話や土成町関係の文献によって、伝説と思われるものを集めると、その数50余りとなった。それを分類してみると、1 土御門上皇にまつわる伝説が15、2 弘法大師にまつわる伝説が4、3 神社・寺院にまつわるものが9、4 豪族・旧家に関するものが5、5 雨乞いに関するのが5、6 狸・蛇にまつわるものが9、7 その他6、…合計53であった。紙面の郡合でその全てを紹介することはできないので、そのうちの幾つかを紹介したい。

 1.土御門上皇の屋敷跡
 御所字吉田に「御所屋敷」という地名がある。そこは上皇が土佐より阿波にうつり嘉禄3年(1227)より寛喜3年(1231)崩御までの行在(あんざい)所であったと伝えられている。
 原田家文書によれば、原田義實が上皇を迎えて当地に仮御所を造ったと記録されている。
 昔、御所屋敷は約300m四方に及ぶ広い地域であったが、その後荒地になっていたのを、藩政時代に社地だけを残して開墾し田畠となった。現在、当地には「菅ノ井」「前ノ井」という古井戸があり、付近には一条から七条、御炊所、遊塚、姥塚、山皇子等の地名が残されている。  (原田隆義氏談)

 2.奥御所神社とお腹石
 御所屋敷にいた上皇に、鎌倉より討手がきて、上皇お付きの渋谷権太夫、当地の豪族原田氏も加勢して戦ったが、上皇は宮川内谷を奥へ今の奥御所神社あたりまで逃げ、そこの大岩の上で自害、御歳37歳であった。原田家文書によれば、大幸村の城主忠津将監、原田義實が討手の武士を討ち取り、御装束を取り返し池の谷の地中に埋めたとあり、その戦いで将監は討死、義實は深手を負い6日後に死んだと書かれている。
 上皇自害の大岩を「お腹石」といい、そのくぼみにたまった水は、御所さまの恵みにより害虫の駆除にききめがあるといわれ、毎年夏になると汲みにいって稲にかけたそうである。また、その後そこから下の平間までの谷を「御所谷」と呼ぶようになった。
  (原田隆義氏談)

 3.上皇の墓所
 浦ノ池の蓮生寺の古文書によると、藩政時代、当時の浄土真宗の本山京都の仏光寺より土御門上皇のその後の消息を問い合わせに答えた文書があり、それによると、上皇の遺体は蓮生寺で引きとり、寺より6〜7町南の日吉山に埋葬し、大小二基の石柱をたててある。日吉山では十分管理できないので、それをするにはそれなりの手当てを支給されたし等と書かれている。その後日吉山で石柱を探したが見つからない。    (熊谷直幸氏談)

 4.正則・広則の墓
 吉田の開野谷に「正則・広則の墓」と呼ばれる古い五輪塔が二基たっている。それは、上皇が攻められた時、正則・広則の兄弟も勇敢に戦ったが敗れ、吉田の岡の部落まで逃れ自害した。その兄弟の墓といわれ、今も近在の人が祀っている。  (坂本吉市氏談)

 5.嵯峨原の女御
 上皇が都に残してきた嵯峨原の女御が、上皇の最期を聞き尼さんとなって阿波にやってきた。宮川内の東部(現在の山皇子)に来て庵をたて、朝夕お経をあげて上皇の霊をなぐさめた。村人は「嵯峨の女御さま」といって大切にした。後にそのあたりを嵯峨原と呼ぶようになった。   (『徴古雑抄』)

 6.盆餅が原と豆腐株
 上皇が宮川内谷に逃れる時、鍋倉局(つぼね)と長(たけ)倉局という二人を残して去った。この二人の局と別れた所を「見坂」と呼ぶ。二人の局は上皇に餅をさしあげようと、餅を盆にのせ険しい山道を行く途中、一人の樵(きこり)に会ったので、上皇の居所を聞くと、「はやお覚悟で」と答えた。驚いた二人は盆の餅を投げ捨ててなげき悲しみ、遂に自害した。後に村人は、そこを「盆餅が原」と呼び、近くの山を鍋倉・長倉と名付けた。
 その樵(きこり)の子孫というのが宮川内に住んでいて、昭和初期まで正月の餅をつかず豆腐をこしらえて食べる慣習を残していて「豆腐株」といわれている。  (『土成町史』)

 7.昌(しょう)仙塚と五名(ごみょう)塚
 昌仙塚は土成の西原にあり、上皇に忠勤を励んだ渋谷彦太夫の墓といわれている。五名塚は宮川内の公(きみ)の下にあり、「五名さん」と呼ばれている。上皇が宮川内谷にのがれた時そのしんがりを勤めた剛のもの五名三郎という武士の墓といわれる。  (『土成町史』)

 8.うのた峠
 上皇の都よりお供をしてきた間野右近・宇野左近という二人の近侍(きんじ)がいた。二人は上皇が自害した後、阿讃の国境まで逃げてきて、自害をした。この峠を二人の姓をとって「うのまの峠」と呼んでいたが、後になまって「うのた峠」と呼ぶようになった。  (『板野郡誌』)

 9.平井の水大師
 吉田の平井に「水大師」と呼ばれる小さい庵(あん)がある。昔、みすぼらしい僧が三木家を訪れ水を所望して当地に水が不便なことを知り、法衣の袖をまくり行脚(あんぎゃ)の杖で掘ると不思議なことに水が噴き出した。井戸は平生涸れないという意味で「平井」と呼べといって姿が消えた。これは弘法大師のお化身であろうと、早速、井戸を整えて庵を建て大師像をお祀りした。このことを聞いてこの大師さんにお参りにくる人が増えた。
 大正の中頃、足の不自由な遍路がこの大師に平癒(へいゆ)を祈願したところ、全快して杖を残して立ち去った。そのことが近在に知られ、「お水大師さん」「足の大師さま」として参拝する人がにわかにふえ、大正末には参拝客をあてに店が立ち並ぶ程の盛況であった。昭和2年に本堂、護り堂を建てたが、その後何故か客が減りはじめ、店もなくなりさびれた。
 同じ様に弘法大師が掘ったと伝えられる井戸が、宮川内字藤原の板東家の井戸である。この井戸は「大師泉」と呼ばれ、四季を通じて水が涸れることがない。  (『板野郡誌』)

 10.堂が池
 水田に「堂が池」という所がある。昔、弘法大師が巡錫中(じゅんしゃく)に切幡寺本堂の建立を思いたち、ここで切り組みをしたところであるといわれている。一夜建立の発願をした讃州の大工の棟梁がその帰途、日開谷の奥の相栗という所で夜が明けたので、一行6名の大工が責任を感じて切腹をしたといわれ、その地に「大工地蔵」として祀られている。  (『土成町史』)

 11.薬王子神社
 浦ノ池の氏神で「西の宮」とも呼ばれる。神社の起源は古く、伝承によると、承和(9世紀)の昔、阿波の国司としてやってきた山田古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築いた時に祝祭した。この神は疲病流行の時祈願すると効験あらたかで、「薬王権現」と称されていた。明治元年奇玉(くすたま)神社と改め、更に明治100年に当たり薬王子神社と改めた。神社には古い棟札が残され、現在の社殿は嘉永元年(1847)のものである。
 この薬王権現は、日和佐の薬王寺のもとで、こちらではやらないので日和佐へもっていった。厄除けはこちらが本家と宣伝をしたのが効いたのか、10月の祭礼には多くの参拝客が訪ずれるようになった。  (稲井澄男氏談)

 12.椙尾(すぎのお)神社
 平安中期の阿波の豪族椙尾右馬介資宗(すけむね)の氏神であった。資宗は天慶(てんぎょう)の乱(939)で藤原純友が阿波に乱入したのを、名西の桜井文治行春等と力を合わせて破り、九州に逃亡させた。出陣に際し椙尾神社に祈念し、凱旋しては盛大に報恩祭を営んだといわれている。
 神門は、天和15年(1844)に建築されたもので、その記録は古川家に保存されている。  (『土成町史』)

 13.蓮生(れんじょう)寺
 浦ノ池にあり、寺の由来は、源平合戦で有名な熊谷次郎直実がこの地にきて建立したといわれる。直実は出家して法然の門に入り、「蓮生」という法名を名乗った。それが寺名となり「熊谷山蓮生寺」という。本堂は約150年前の天保年間に改築されたが、市場町日開谷仁賀木にあったケヤキの一本の大木を使って建てたので「ケヤキ一本仕あげの本堂」といわれている。現在の住職は直実より27代目で、15代目までは浦ノ池の政所も兼ねていたそうで、代々男の子には「直」という字を名前につける。  (船田保氏談)

 14.大泉院の愛宕(あたご)神
 大泉院(稲垣家)には、昔から愛宕の神像を祀っている。それにまつわる伝説によると、蜂須賀家政公が出陣の折、「われは愛宕の使僧なり」と呼ばわりつつ一人の僧が奪闘する。その働きがめざましいので家政公は感激して、お召しの陣羽織を与えた。その後使いを出して京都の愛宕神社へたずねさせると、不思議なことに愛宕の神像は陣羽織を着ていた。それから家政公は一層愛宕神を信仰し、別に神像を作らせて大泉院の先祖に賜わったものであるといわれている。  (『板野郡誌』)

 15.稲井家の先祖
 浦ノ池の稲井家の先祖は、系図によれば、清和源氏の八幡太郎義家の6男、源義隆の後流で、応永(15世紀)の頃には、稲井筑後守義俊を名乗り足利氏に仕えた。その後阿波に来て板野の萩原村に居城し、浦ノ池に所領をもって細川持隆に従い勝瑞城におもむいた。
 三好義賢が主君である細川持隆を勝瑞の見性寺に囲んで自害させた事件以後は、三好氏に仕えるのを嫌って浦ノ池に住みついたのが稲井烝太夫義長で、その義長を祖先神として祀っている。現在は義長より18代目という。稲井神社という祠を建て、毎年4月2日に一族が集まり祖先の霊をなぐさめている。  (稲井澄男氏談)

 16.森飛騨守
 土成字秋月の森本家の先祖は、秋月3千貫の城主森飛騨守である。系図によれば元祖は源氏の新羅三郎である。室町時代、細川和氏が四国管領として秋月城に来てからは、その重臣として仕え、細川氏が勝瑞城に移ってからは、切幡城主であった森飛騨守が秋月城主も兼ねて、勝瑞城におもむいて忠勤に励んでいた。やがて三好氏の世となり、土佐の長宗我部氏の阿波攻略がはじまる天正7年(1579)、土佐方に服従した岩倉城主三好徳太郎の謀略にあって、矢野国枝、三好越後守、河村佐馬亮等と共に脇城外におびきよせられ、飛騨守は猪尻の竹やぶの中で殺害された。市場町八幡の八幡神社には、岩倉出陣の時の「旗懸松」という伝承がある。
 その後、飛騨守の子伝八郎が長じて森本飛騨守を名乗り、弟の門左衛門が森門左衛門として蜂須賀に250石扶持で仕えた。現在、秋月城跡には古い五輪塔と共に飛騨守の業績を刻んだ石碑が建てられている。   (森本義之尉氏談)

 17.独鈷(どくこ)の泉
 十楽寺の東隣りに地蔵庵がある。ここの初代庵主は顕証という人で大変な法力を身につけていて、干ばつの折、雨乞いの祈とうをすると必ず雨が降る。この庵の正面20間ほど南に「独鈷の泉」というのがある。この泉は顕証が独鈷(僧の修法道具)の先で掘ったもので、「わが死後、もし干ばつがあれば、この泉に本尊の石地蔵を浸せ。必ず慈雨があるであろう」と遺言した。その後、村人はその遺言通りにして慈雨をいただいたそうである。  (稲井敬次郎氏談)

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