阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第36号
山の神を中心とした小祠信仰

民俗班  関眞由子1)

 土成町では、古くは山の神さん、野神さんをはじめ、オフナタさん、こづきの神さんなどが、人々の信仰の対象となっていた。しかし、現在はそうした信仰もだんだん稀薄になりつつある。その原因としては、山仕事の減少、道路の整備、医学の進歩など様々である。しかし、最も大きな要因としては、明治時代末から大正時代の初めにかけての内務省の訓令による合祀があげられる。この間に数多くの小祠が氏神さんに合祀された。『土成町史』の神社合祀一覧の中でも、数多くの山神社、野神社が合祀されたことが記されている。
 以下の報告は、こうした状況を考慮しながら、年配の方々を対象に、聞き取り調査を行なったものである。また、お伺いしたのは、高尾、宮川内、成当、東原、金地の方々である(なお、その他の地区については今後の課題としたい)。

 I 山の神さん
 昭和30年頃迄は、燃料の薪を求める人々が、数多く山に入り仕事をしていた。御所神社宮司稲垣豊久氏のお話によると、冬ともなると、宮川内の谷に向かって,大八車と人の列が、ひきもきらず続いたそうである。この地では養蚕が盛んであったので、桑のガラ(枝)を燃料にすることがなかったが、それでも足りないので、1年間の燃料を求めて、仕事の少ない冬に山仕事をした。このため、山の神さんの祠は山の入口、尾根、などに点在していた。山仕事をする人々が、道すがら手を合わせ、−日の仕事の安全を祈る。現在は、山仕事をする人もいなくなったため、山道も木が生い茂り、訪れる人も少なくない。
 宮川内で若い頃炭焼きの親方をしていた坂野明さんのお話によると、宮川内谷川沿い近くだけでも、龍舎(りょうしゃ)1か所、相婦(あいぶ)1か所、刈庭(かにわ)1か所、落久保2か所、相坂2か所、谷氏1か所と合計8か所ある。山持ちの人が個人で祀ることが多いので、もっとたくさんの祠があるとのこと。場所は、山の入口、道沿い、山の頂上などで、祠は石製。年号のあるものは、19世紀のものが多い、なお宮川神社境内の山神宮は寛政9年(写真1 )の年号が入っている。


 行事としては、ヤマアケの日、つまり、山の木を伐採する日に、お洗い米とお神酒を供えて無事を祈り、お神酒は皆でいただいたとのこと。ヤマノクチアケについては、言葉は残っているが、特に正月にお参りすることはないようである(炭焼き仕事が正月であったことと関係がありそうである)。ハテノハツカ(12月20日)は山に入ってはいけない日といわれているが、理由は詳らかではない。
 高尾に住んでおられる稲井敬次郎さんによると、この在所でも2か所の山の神さんがあったとのこと。ここでは正月19日をヤマノクチャケと呼び、この日から山の仕事を始めた。山の神さんの祠近くの木に、イリジャコ(煮干し)、お洗い米を紙に包んだものをしばりつけ、1年間の山仕事の無事を祈る。お参りするのは年に1度、普段は、山仕事をする前に手を合わせる程度であったとのこと。また、ハテノハツカは山に入ったらいけないと言われている。怪我をするなど危険なことが多いとのことで、20日以降は山仕事をしなかった。(以前この日に山に入り、間違えて猟師に撃たれた人がいたとのこと)
 なお、成当、東原では山の神さんはないとのことであった。
 金地の稲井浩さんのお話では、山の神さんの祠は祀りしていないが、チョウナゾメといって、木を切りぞめする際、平たい石などの上に、お酒1升とイリコを供え、仕事の無事を祈っていた。ハテノハツカ(12月20日)は仕事をしない。
 山の神さんについては、一般にアラカミ(荒神)さんといわれており、大切に祀りをしないといけない。現在も、個人で自分の山などで祠を祀りしている家などでは、信仰も厚い。しかし、氏神さんに合祀された場合も数多いので、その場合は行事なども氏神さんの祭りと一緒に行なわれるので、山の神さんとしての特徴は聞かれなくなっている。また、北の山よりでは信仰が厚く、平地になると薄れていくようだ。

※ 山の神講
 昭和10年頃迄は、山沿いの各在所では、山の神講が行なわれていた。
 宮川内では、約10軒ずつが講をつくり、当番はまわりもちで、当日は、かきまぜ、うどんなどを作り、おかけじをかけ、野菜、お神酒、かきまぜなどを供え、礼拝の後、会食をする。
 高尾では、年に1回、正月15日が過ぎた頃に、講の人の都合のよい日を選んで行なう。講の人達は、この日にお金を若干(1〜2銭ほど)もちより、当番はかきまぜ、お神酒などで接待する。当日は当番の家に「日祭神」と白地に黒で書いた幟をたてた(小巾×1丈)。お床にはおかけじをかけ、お洗い米、イリコ、お神酒を供え、皆がパンパンと手をたたき後は雑談をする。その頃は楽しみであった。今でも6軒ほどが続けている。
 金地では現在も続いている。13軒が組になっており、年に1回、正月15日までの都合のよい日に行なう。稲井姓の人ばかりである。当番の家には、おかけじ(写真2 )と、講組の名簿(写真3 )がまわってくる。当日は、床の間におかけじをかけ、お神酒、お洗い米を供え、拝礼の後、夕食をともにする。現在は、親睦会の感がつよいとのことである。

II 野神さん
 平野部で多くみられる。かつては在所ごとにあったとのことだが、現在は、その殆どが、氏神さんに合祀されている。
 宮川内では、ぶどう畑の中に祀られている。石製の祠であるが、直径20〜15cmの楕円形の石が11〜12個置かれていた。もとは、この丸石がご神体であったのではないかと思われる。この畑の持ち主中原元良さんのお話では、土用の入りにオダンゴをつくって持っていったようだが現在はしていない。またはったい粉などを供えていたとのこと。
 また、高尾では1か所、大きなムクの木の下(写真4 )に地神さんと並んで祀られている。在所で祀っており、稲井敬次郎さんのお話では、土地を開拓した人を祀ったのではないかということであった。祭日は年に1回、土用の入り(7月20日)で、この日にダンゴ(うどん粉をこねて、中に小豆あんを入れて丸くし、ふかしたもの。直径約5cm程)を供える。現在は、当番が代表で供え、神職にお祓いをしてもらう。以前は在所の人が各戸で5〜10個ほどダンゴを作って持ちより、皆でいただいた。残ったものは牛に食べさせる。牛が健康になるとのこと。この日は畑仕事を休む。「牛馬は使ったらいかん」と言われている。現在はセメント製の祠であるが、かつては、丸い石2個であったとのことで、今もその石が、祠の脇に残っている。(写真5 )


 東原の大塚正利さんのお話では南(池尻家の屋敷うち)、北(成谷家の東)の2か所にあった。戦後、土居神社にまとめて祀っている。南の方は、大きなムクの木の下にあり、通称オオムクさんと呼んでいた。石製の祠で、中にご神体として丸い石が3個おさめられていた。また北の方は、二抱えもありそうなエノキの木の下にあり、やはり丸石が5つほどおさめられている。祭日は、南が、旧の1月10日、北が11日であった。この日は、ご神体を井戸の水できれいに洗い浄めていた。また、南北とも、子ども相撲を奉納していた。小学6年生ぐらいが頭になり、付近の子どもをつれて近所をまわりお金を集めた。そのお金で、お供えものや景品を買い、相撲に勝った者に渡していた。(子ども相撲は現在も続いており、8月10日頃、土成集会所で行なわれている。)
 成当の斎藤邦夫さんのお話では、南、北の2か所。南は、地主が個人で祀っていた。土用の入りにダンゴを供えていた。子ども達にもわけてくれたので楽しみであったという。農地改革後、お祀りしなくなったが、塚は今も残っており、2坪くらいの土地に盛り土をし、五輪の一部のような丸石をご神体にしている。北は、氏神さんの境内近くにあり、氏神さんの秋祭りなどにお当家がお祀りをしている。祠は石製。

III オフナタサン
 個人で祀ることが多い。一般に子どもの多い女の神様といわれている。年配の人たちの間では「子どもを13人生んだらオフナタサンをハネクリカエス」といわれているが、つまりオフナタサンが驚いておじぎをしてくれるという。宮川内中村のオフナタサンが、おじぎをしてくれたオフナタサンといわれている。中原さんのお話では、五節供にダンゴを作った際お供えをする。その他についてはあまりよくわからない。
 高尾のオフナタサン(稲井茂一氏所有)は敬次郎さんによると、祭日は特になく、正月にお洗い米を供えるぐらいとのこと。子どもが多すぎたりするとこれ以上生まれぬ様、また少ない時は、これをまたぐとよいといわれる。

IV まとめ
 上記の外にも、こづきの神さん、花折りさんなどの信仰があったことを聞いた。
 最後に、宮川内 坂野明様(大正6年生)弥栄様(大正13年生)中原元良様(大正7年生)高尾 稲井敬次郎様(大正7年生)成当 斎藤邦夫様(大正2年生)東原 大塚正利様(大正3年生)金地 稲井浩様、秋月 板東たかみ様(大正9年生)並びにご指導いただいた御所神社稲垣豊久氏に、深く感謝申し上げます。

1)徳島県教育サービスセンター


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