阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第36号
土成町の民具

民俗班  青木幾男

 土成町は今、工業団地が開発され、阿北用水も開通して、農業・工業・観光に、立地を生かした経済基盤が確立しつつあり、今から数十年前までの土成の姿とは大きく面目をかえようとしている。そのような中で過去の実態の追求は無縁のもののようであるが人間の社会は常に前進し、向上しようとする努力を繰り返している。その努力のつみかさねが今日の状態をつくったことを思えば、明日を知るために昨日をふりかえることも大切であると考える。そのような意味で民具を通して土成の姿をふりかえってみたい。民具とは民衆の生活に必要な、信仰、儀礼も含めた諸道具・諸用具のことであるが、広い意味で言えば生産や生活上の諸設備もこれに含めてよいのではないかと考える。
 土成町は、阿讃山脈の南面に位置し、すこぶる傾斜地の多い農村地帯であって、総面積55.61平方キロメートルの70%以上は山林で占められていた。阿讃山脈から流れ出る谷川は、延長が短く、急流で樹林も少なく平常は水量が乏しいが、降雨期には大量の水を押し流して扇状地や、土砂で河床を高めて天井川をつくり、したがって地下水位がきわめて低かったので扇状地や畑作地では、いわゆる「ひばりが月夜に足を焼く」日焼け地帯であった。そこでは江戸時代には藍・砂糖キビが、明治、大正期には甘藷と桑が多く栽培されていた。

1.溜池
 土成住民の生活との闘いは水を得る苦労からはじまった。そのために土成町には溜池と井戸が、他町村に比べてきわめて多いのが特徴である。昭和50年に発行された『土成町史』によれば大小300か所の池が存在すると記されている。古代に山田古嗣が築いたと伝えられる「浦之池」もそのひとつであり、古代から近世まで水を得るための血みどろな争いや努力がその陰に秘められている。

2.井戸
 生活用水のための井戸の他に野井戸がきわめて多いのも土成の特徴である。町史によれば昭和49年頃に千数百本の野井戸が存在したことになっているが、井戸の中には土成町には深井戸(ふかいど)というのがある。井戸は普通5〜8m位の深さのものであるが、土成では15mを越えるものがあり、これを深井戸といっている。深井戸は深いばかりでなく、底面を横に掘り拡げて水量を確保するために口を狭く、底面を特別に広くつくっている。金地(こんぢ)の稲井浩家前の深井戸は天保年間に莫大な家産をかたむけて掘られたもので深さ13尋(ひろ)(約20m)もあり、昭和30年近くまで使用したという。

土成開拓地区の小西忠さん(68歳)等は昭和21年に50戸の人達と共に入植したが、水と物資の運搬に最も苦労したという。入植者は、飲料水の出る場所毎に数戸が割当てられた。小西さんは青山錦一さんと2戸で最も下の方に居を構えたが、それでも50mも離れた谷間の泉へ水汲みに行った。それも2戸が同時には汲めなかった。風呂は谷あいにドラム缶を据えて雨が降って湧水が多い時だけたてることができた。道路が舗装されてトラックが開拓村に乗り入れ、町水道が各戸に引かれたのは昭和40年を過ぎてからであったという。昭和59年に町総務課が行なった野井戸調査は図1のようであるが、昭和49年に千数百本あったものが昭和59年に592本になっていることは、約10年の間に町水道と灌漑用水の開発が急速に進んだことを物語っている。

3.荷車
 民具や生活関係の構築物は使われなくなればすぐ廃棄され、こわされる運命にある。たとえば運搬具を例にとると、20〜30年前に活躍していた荷馬車はもうどこにも見当たらない。探していると浦之池の「金地資料館(こんぢしりょうかん)」に荷車があった。荷車は約30年程前までは平地部の重要な運搬具であった。桧材の棚(台)(長さ2m、幅1m)、樫材を組み合わせた輪の外側に鉄輪を入れた直径90cmの車輪、3cm角の鋼鉄製心棒、見るからに重そうな車に200kg〜300kgの荷を乗せて、昭和初頃まで毎日のように徳島へ往復したという。朝早く家を出て帰りも荷を積んで家につくのはいつも夜になっていたと老人は話してくれた。スピード時代になって、荷車はもう通れる道もない。

4.木馬
 木馬(きんま)は急傾斜の道を荷を積んで人がひきずり降す、車輪のない台である。金地資料館では使わなくなって久しいのか藁屋根の軒下に吊り下げてあった。土成では木馬を今も使用している所がある。九頭宇の大藤万一さん方では、大小2台を使用していた。大は長さ2m15cm、幅41cm、桧材で接地面に樫材のスラシがついている。牛にひかせることもあるのだろう。人がかついで坂道を登るにはちょっと骨の折れる程の重量である。
 土成開拓地区の青山錦一さん(86歳)は昭和21年に入植。荒山を切り開いて数年後には馬鈴薯、甘藷を栽培できるようになったが、青山さんは年々約3,000貫(12.5t)の芋類を2俵ずつ木馬に積んで急傾斜の坂道を一人で運んだという。青山さんの木馬は雑木の丸太づくりで、釘止長さ1m74cm、幅70cm、6本子、重量は軽い。青山さんの木馬が他に比べて貧弱に見えるのは製作技術の巧拙よりも軽量に、木馬をかついで道を登る時の負担を少なくするために、早くこわれても軽い方がよいと考えたのであろう。そこには前二者とはまったく異なった構造上の配慮が考えられる。

5.背負い縄・背負い具
 青山さんの隣に住む小西忠さん(前掲)の話によれば開拓地に自動車が乗り入れられるようになったのは昭和47年頃であった。それまでは生産物は木馬で運ぶか、背おうて運ばれ、牛乳缶も背おうて4kmの山道を上下したという。生活物資はすべて「背負い縄」で運ばれた。背負い縄は特別なものではなく、物を背負うための長さ4mばかりの縄、または紐であった。昭和30年頃武布津(たけふつ)の稲井商店では、両肩にあたる所を三つ編みにして広くした特製の「背負縄」を売っていたという。木製の「背負ばしご」は朝鮮からの引揚者であった後藤菊次郎さんが有爪のものを自分で作って使用していたが、一般には普及しなかったという。「背負台」を使用せずもっぱら「負い縄」が使われたのは、道の傾斜が急で器具の重量さえ負担に感じられるためではなかろうか。

6.土負い
 藁屋根でも瓦屋根でも天井や瓦下地に大量の練り土が必要であった。それを全部背負って梯子を上下しながら運んだのがこれ。背負ったまま土をうつす(出す)のがみそ。

7.背負いふご
 山仕事をする人にはなくてはならないもの。「マガヤ」をさらして編んだものでこれに弁当を入れ、小道具も入れて山を上り、夕方帰る姿がよく見かけられた。

8.にない桶
 水汲みにはなくてならない道具。不浄のものを入れると「タゴ」となる。「メカゴ」「フゴ」などとともに農家には必ず、なくてはならないものであった。

9.うどん用たらい
 最後に土成町の民具の中で他の町村では見られない特異なものとして、宮川内渓谷で手打ちうどんを売る、名物「たらいうどん」のうどん容器「タライ」がある。桧の材に銅の輪を入れたもので1人用から5人用と5種類ある。普通不浄のものを入れるのを「タライ」と言うのだが、意表をついた名称がうけたのか、味が良いのか、新観光産業となっている。


徳島県立図書館