阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第36号
近世徳島藩における四国遍路と他国遍路の取り締まり −土成村における日継書改め−

地方史研究班  名倉佳之

1.近世徳島藩における四国遍路
 大師信仰に基づく四国遍路の制度は、近世に入って整備されていく。その過程を、いくつかの資料をてがかりに考察してみよう。
史料1  定
 一、當寺之儀往還旅人為一宿令建立候之条
   専慈悲可為肝要或辺路之輩或不寄
   出家侍百姓行暮一宿於相望者可有似
   相之馳走事
    右定置処常住被守此旨不可有油断
    之状如件   蜂須賀阿波守
     慶長3戊戌年6月12日  茂盛花押  (第6番安楽寺所蔵)
 これは慶長3(1598)年に出された「駅路寺」に関するものであるが、未だ戦乱の余燼さめやらぬこととて、どの程度の効果をもたらしたのかは定かでないが、遍路の便宜を図る意図を表明した為政者の姿勢が推察されよう。勿論この期は、秀吉の朝鮮征伐のころでもあり、徳島藩政も確定せず、一揆・騒乱の絶えない時期である。この「駅路寺」の制度は、農民の動向を把握するためのものという理解もなりたつであろう。何れにしても遍路を含んだ旅行者の存在を予測することは可能である。しかしながらその実数は不明であるが、おそらくは微々たるものであったのではないだろうか。それは次の史料2 によって明らかとなろう。
史料2  『藩法集』2140  萬治元年(1658) 郡方
 一御國中往還之儀、少々田地へり候共可然可申付事、道相究候上は後々不損様ニ百姓等ニ堅可申付事
 一御國中遍路札所退轉之所御建立可被仰付事
  右弐ケ條之趣稻田四郎左衛門を以戌6月16日ニ被仰出候

 萬治・寛文(1661〜72年)の頃ともなると、城下の町割りも整えられたり、郷町や郷村も確定しはじめ、交通も発達してくるが、遍路については衰微している様子が把握できよう。
 しかしわれわれは、次の史料を注目しておこう。
史料3  住友家記録(山川町役場所蔵)
 寛文7丁未4月 五助五衛 西国巡礼  67歳
 元禄2己巳   六右衛門 四国遍路
      2月 五郎右衛門 四国遍路  帰来74日振
 元禄5壬申8年 五郎右衛門
         庄右衛門 四国遍路  72日振
 元禄7申戌7月 体庵・妙園
         御夫婦 四国遍路  10月17日下向82日振
 史料3 にみるように西川田村の庄屋・住友家では、寛文7(1667)年・元禄2(1689)年・同5年・同7年と西国巡礼や四国遍路に出掛けている。
 前田卓は、貞享・元禄期(1684〜1703年)に農業生産力の増大、交通の発達、貨幣の普及などに支えられ、庶民の四国遍路が増加しはじめ、四国遍礼道指南(真念・貞享2年1685)や四国遍礼霊場記(寂本・元禄2年1689)が出版されたりしていることを指摘している。
 このような状況に対して徳島藩は、どのような対策を講じているのだろうか。「阿淡御条目」に依拠しながら、具体的な様子を探ってみよう。
史料4 −1 覚
 (前略) 寺持之出家外ハ俗人男女又者道心法主或ハ百人之内九拾人も貧賎之町人土民殊更其内奥州九州辺■も罷越候  貞享4年(1687)
史料4 −2
 一今度予州■海部郡奥浦へ罷越暫相煩病死仕辺路浄光与申者之儀悪病故在宅之内へ呼入養生難成少々小屋懸も所之者共仕看病人ニ応シ日数壱人扶持方宛被下置候条被得其意
  元禄3年(1690)午9月18日
史料4 −3
 一四国辺路之儀以前■成来之事故渡海御指留可被成様者無之候雖然第一公儀御法度之宗門次ニ於所ニ不届仕候ものか又ハ本立不慥者共辺路と申なし候輩堅御改被仰付条在此旨能々念入切手指出シ可申事  元禄9年(1696)年
史料4 −4
 (前略)宝永5(1708年)子ノ6月23日山田織部殿へ相伺候所右手形所持之者ニハ宿かし手形無之者ニハ宿かし申間敷旨被仰渡候
 1からは奥州から九州にわたる多くの庶民の四国遍路、2には悪病の遍路の看病とそれにたいする援助、3では四国遍路の身元を確かめる必要性、4からは往来手形所持の者に限り宿泊を許可すること、などが明らかとなる。
 徳島藩においても、貞享・元禄期には四国遍路が増大しており、それに伴って領国支配の貫徹を図るために、他国遍路の取り締まりが徐々に強化されている様子が実証されるのである。

2.近世の土成村における四国遍路と他国者の取り締まり
 はじめに、土成町の江戸時代における四国遍路について概観をしておこう。
史料5 −1 供養塔
 土成 熊谷寺  貞享乙丑2□(1685年)9月朔日
    同所   元禄3庚午歳(1690年)
 水田 称念寺門前正徳5乙未天(1715年)2月15日
史料5 −2 道しるべ
 土成 字矢松 文化6巳(1809年)春立つ  願主 照蓮
 土成 字前田 文化7午(1810年)
これらの史料によって、貞享・元禄期に大師信仰が定着するとともに、文化期(1804〜1817)には道しるべなどが整備され、いちだんと四国遍路が盛況を呈している様子が髣髴としてこよう。それでは次に熊谷寺の過去帳によって、行き倒れになった他国遍路の実態を析出してみよう。
史料6  熊谷寺所蔵の過去帳より
 〈戒名〉   〈没年〉    〈出身〉
 素善     正徳元年卯6月  土州
 浄円     享保15戌6月   淡州
 琅月妙琳   寛保2戌9月   備後
 純念法蓮   明和2己酉2月  周防
 道光信士   明和3戌4月   讃州
 真覚     安永9庚子9月  備後
 了玄信士   天明元丑6月   備中
 浄休信士   天明4辰天4月  丹波国
 一道法師   天明4辰5月   藝州
 貞浄信女   天明4甲辰7月  備後国
 自休個士   寛政元己酉天5月 豊後
 開厳信士   寛政5丑年4月  豫州
 是心法師   寛政7卯5月   但馬国
 幻夢童女   寛政7己卯9月  防州
 練道士    寛政8丙辰年5月 大阪
 心蓮浄休   寛政12甲2月   備中国
 澄心     享和2壬戌11月  大阪
 花月浄映   享和3癸亥2月  大阪
 瑞円信士   享和3癸亥7月  与州
 妙還信士   文化4卯6月   筑前
 道昌信士   文化5辰7月   讃州
 寂道     文化6己7月   肥前
 周山童子   文化6己10月   江州
 諦本     文化14丑5月   藝州
 素雲信士   文化14丁丑9月  筑前
 實然信士   文化14丑10月   讃州
 提順尼    文化14丑10月   能州
 淳岳元康   文政8酉7月   筑前
 圓乗幽玄信士 天保2卯8月   備中
 法道信士   天保3壬辰3月  備中
 探道信士   天保3壬辰4月  讃州
 史料6 は、他国遍路のうち土成村で行き倒れた者のみであり、遍路の実数は予測できないほど多くを数えたものと思われる。かくして他国遍路は正徳期(1711〜1715)から徐々に増加していき、文化期(1804〜1817)には激増している様子が把握できよう。徳島藩ではこの文化期を中心に他国者の取り締まりが強化されていくのである。その実態を土成村与頭庄屋を勤めた古川家文書を使って浮き彫りにしてみよう。
まず、『土成町史』所収の「他国御究物株書」をみると、他国よりの日傭人・魚担之者や年切奉公人に対しては、稼手形の所持を義務づけ、無切手者究方役人の人選を督促しており、無切手者が居たならば村継を以て御境目に送り出し、書き付けの提出を求めているのである。このことは文化7午年8月22日の「無切手者究方役人名面相撰上帳」によって明らかである。そこには、22か村から38人の役人を選出して、他国者の取り締まりに備えさせている。さらに、
史料7
 一四国辺路其外修行人之事
 此儀御番処ニ而往来手形相改可相通モ無切手之者ハ指留候事
 但日継ヲ以罷通候様尤右日継之儀ハ宿致候者ヨリ可指出事、右之趣御番人ヨリ連絡可申付事
とされており、往来手形の所持は勿論のこと、そのうえに日継書の持参を義務づけているのである。ところでこの日継書については、運用上不徹底な面があったとみえて、阿波郡土成村与頭庄屋・古川又十郎と板野郡宮川内村与頭庄屋・吉兼弥左衛門の間で、次のような書簡の遣り取りがなされている。
史料9  御手紙拝見仕候然他国者究り
 之儀ニ付昨日御文通被仰付早速私組村
 相行着申候処今以何村止宿歟相分不申候然処
 男弐人播州房州両国之懸連々辺路
 今朝私方へ罷越其御村熊谷寺ニ夜前一宿
 仕候旨ニ而一昨夜之日継願出候へ共當郡中
 之儀者往来手形并ニ大阪口或者日開谷
 御番処入口之改ヲ元ニ仕次第止宿仕
 候処何者ニ不依宿仕候者之印形日継ニ而
 指支なく相通候様ニ被仰付御座候然処
 右弐人之辺路一昨夜者壱人播州之者は
 四番之札処大日寺堂ニ而一宿仕申ニ付日継
 無之旨房州出生之辺路ハ七番之札処
 十楽寺堂一宿仕両人とも日継持参不仕
 候段野宿同前之儀故何方へ申様無之
 旨ニ而私ニ日継願出申候へ共當組ニ止宿
 トハ乍申何れニ而止宿仕候義哉并ニ被仰出
 一枚ニ而御座候へ共私共存寄ハ根元止宿仕せ
 候節前夜之日継相改候上宿かし可申筈
 相心得右様組村并ニ板野郡中取究り居申候処
 當郡中此度取究り行届不申村御鍛候処
 御尤ニ奉存候へ共當月廿日■之取改ニ候へ者
 誠ニ唯今之事故辺路衆茂御国法存不申
 組役人迚も道縁まてニ而も無之野宿等
 仕候義も夜入候而入込申儀ニ候へ者既ニ昨夜
 此弐人之辺路御村熊谷寺ニ止宿仕候節も
 前夜之日継御改不相成其侭ニ而今日
 右様御文通被仰付候而者私組村々宿
 仕候者格別不念ト申付無御座乍憚
 熊谷寺ニ者如何御心得前夜之日継
 無之辺路御通被成右様□□□□も
 懸御苦労候哉御行着可被下候私
 与村之儀者前夜日継相改候上ニ而日継
 往来手形不正之者ハ一宿相調不申
 旨相約御座候右ニ付其段得御意候
 以来迚も私与■罷越申辺路前夜
 之日継御改之上止宿仕せ候様ニ御支配
 村へ御配被下度候右御報為可得御意
 如此御座候以上
   7月廿3日
 古川又十郎様  吉兼弥左衛門
史料10  御辺書拝見仕候片ハ
 他国御究ニ付四国辺路
 日継書之義ニ付猶又
 御文通ニ相及候処御細答
 之段承知仕候随而夜前
 播州防州弐人之辺路
 當村熊谷寺止宿候処
 一昨夜之日継無之追帰シ
 候処貴躰様へ左日継書
 願出候趣是又御細書之
 趣承知仕候勿論日継書
 見及候上止宿仕せ候義ハ
 勿論之事ニ御座候右辺路
 咋暮方熊谷寺迄罷越
 通夜仕度旨寺へ案内
 ニ付其段差支私方へ止宿
 之義申出候故前夜ハ何方ニ
 止宿仕候歟と相尋候処
 御組高尾村十楽寺前
 大日寺ニ止宿仕候旨申出候
 然共往来舟橋切手
 所持仕居申ニ付止宿之義
 申付夜前日継今朝申出候へ共
 前夜之日継無之ニ付而ハ
 立帰り前夜日継取来り
 候得は次第日継ニ仕出旨之
 申聞候義ニ御座候勿論無切手
 者ニ候得は一宿相調不申
 候得共御大法之往来
 舟橋切手所持之
 者野宿も仕らセがたく
 其上夜中他国者追帰シ
 候而ハ地理等も不相弁
 大ニ迷惑候且ハ他国へ之聞も如何ニ奉存候御郡中ハ
 如何御座候歟當郡之義ハ無切手者ハ一宿相調不申
 候得共切手所持之者ハ迷惑成不申様前段之
 通相計申旨一統申
 談其段申上置
 右両人之辺路御郡中ニ
 一昨夜止宿仕候義相違も
 御座有間敷候往来舟場
 切手所持之者ニ候得ハ迷惑
 成不申様御了簡御仕遣
 可被下候以上
 これらの書簡によって、日継改めが20日から始まったばかりで、村落支配の末端まで周知徹底されていない状況が理解できよう。しかし諸般の事情を斟酌して、往来手形や舟橋切手の所持をもって裁量しているのが判明する。
 さらにこの年、「霜月朔日2日3日御国中在々無切手不正之者改之事」が実施されているが、これに対する報告を提示しておこう。
史料11  申上覚
 此度無切手者御取究ニ付兼而被
 仰付之通當月朔日■3日迄郷組村
 庄屋5人組并右究役之者共相改候処
 別紙書付之通私組村ニ足ヲ届
 仕様申旨申出候随而御国産之
 者ハ其出村へ懸合候様申付御座候者也
 他国出生往来所持之者先ニ罷越
 候様無切手者之者共兼而被仰付候通
 村継ヲ以御境目送而候様ニも
 被推せ候哉依而村へ申出書付相添
 御下知奉窺候右之外組村々ニ
 無切手者居不申旨申出此段之義も
 申上候以上
   土成村与頭庄屋
    古川又十郎
  午11月14日
  三木長左衛門殿
  岩井恒左衛門殿
 以上見てきた如く文化7年には、他国者の取り締まりが厳しく行なわれている事実を確証することができる。しかしこのことは、前掲の史料にも散見できるように、四国遍路を禁止することを意味するものでなく、かえって支障をきたさないような配慮をも示しているのである。
 例えば前出の「他国御究物株書」にも、
  ・但旅人之事故非人共ニ相扱セ候儀ハ不相当事
  ・但相改候役人共役威ニ募法外之仕成無是候様可相心得事
  ・無切手之者トハ乍申格別之病人支離者抔之儀ハ其方村ニ留置労り遣候様可相心得事などと規定されていることから判読されよう。

1.〈参考文献〉
1 前田 卓『巡礼の社会学』(ミネルバ書房、昭和46年)
2 『住友家記録』(山川町役場所蔵、鹿児島進七訳、昭和43年)
3 寂本『四国遍礼霊場記』(元禄2年、村上護訳、教育社新書・原本現代訳、87年)
4 熊谷寺「過去帳」
5 徳島県史料第二巻『阿淡御条目』(昭和42年)
6 藩法研究會『藩法集(三)徳島藩』(創文社 昭和37年)
7 古川家文書
8 『土成町史』上(昭和50年)
9 『土成町の石造物』(昭和57年)


徳島県立図書館