阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第36号
阿波における土御門院

史学班  田中省造1)

 はじめに
 阿波における土御門院の事績についてはこれまでさまざまな視点から多くの論考がなされてきた。紙幅の関係もあり、ここでは従来看過されてきた問題、あるいは未だ結着しない論点のみをとりあげ考察を加えることにする。1

1)土御門院の土佐・阿波遷幸は流罪か否か。
 土御門院の土佐・阿波遷幸については、「御心もて」つまり自由意志であったとする『増鏡』などの説と、「被=流刑−給」つまり結局は流罪であったとする『愚管抄』などの説がある。従来前者が定説化しているようだが、ことはそれ程単純ではない。それぞれの時点で、この問題の関係者の立場を再検討しよう。
 a)土御門院は父後鳥羽院同様流罪を望んだこと。
 b)鎌倉幕府および朝廷はやむをえず土御門院の希望に従い、流罪の体裁をとったこと。
 以上二点はおそらく的を射ていると思う。なぜなら『延喜式』に遠流の国として、佐渡隠岐・土佐などの国があげられ、また『拾芥抄』に「式外近代遣国々」として阿波などの国名が見えるからである。『延喜式』等は勿論天皇の犯罪を予定しているわけでなく、それ故天皇への刑罰を規定しているわけでもない。しかし、順徳院が佐渡へ、後鳥羽院が隠岐へ流された事実は、この問題の処理に『延喜式』が援用されたことを物語っている。土御門院にもこの規定が適用されたことは、土御門院の土佐、阿波遷幸が流刑に準じる措置であったことを示すものである。
 c)土御門院自身、自らを流人と考えていたこと。
 土御門院が自らを流人と考えていたことは『土御門院御集』に、
 (320)此比はあるじもしらぬ梅のはな春はみやこのこずゑのみかは(番号は国歌大観)
 (412)うつの山過ぎにし夢のおもかげにみはてぬ夢はうつつなりけり
とある。おそらく、前者は菅原道真の「こち吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」(『拾遺和歌集』1006)の本歌取り、後者は在原業平の「駿河なるうつの山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」(『伊勢物語』第九段)の本歌取りであろう。菅原道真が大宰府に流されたことは有名であるが、在原業平の東国流罪については議論があるようだ。しかしここでは業平が流人だったか否かが問題なのではなく、土御門院をふくむ当時の人々が業平を流人と考えていたことの方が重要である。業平の歌は東下りの段にあり、流刑地に向かう業平が自己の心情を詠んだ歌と土御門院が考えていたらしいことが大事なのである。以上の歌から知られるように、土御門院は自らを著名な流人になぞらえていたのである。
 d)しかし、鎌倉幕府や朝廷は決して土御門院を流人と考えていなかったこと。
 如上は、諡号より論証されるようだ。後鳥羽院には当初顕徳院の諡号が、また佐渡院には順徳院の諡号がおくられた。ともに崇徳院・安徳院の故事にならい、怨霊をなぐさめるための「徳」の字を含んだ諡号である。土御門院の諡号は京都の里内裏の名にちなむもので、朝廷側が土御門院を流人と考えていなかったなによりの証拠であろう。

2)土御門院の阿波遷幸の年月日
 土御門院の阿波遷幸の日時については、『百錬抄』の承久3年(1221)閠10月24日説、『愚管抄』の貞応元年(1222)5月説、『吾妻鏡』の貞応2年(1223)5月ごろ説の三つの説がある。従来貞応2年説が有力であるが、『新訂承久記』(現代思潮社)のいうごとく「いずれか確定しがたい」ように思われる。

3)土御門院の御製について
 土御門院御製の重要性はいまさら論じるまでもない。土御門院御製は現在、建保4年(1216)3月に詠まれた『土御門院御百首』、その後に詠まれた『土御門院御集』449首、および両者にもれた5首(『皇室文学大系・御製集第二巻』)の554首が知られている。これらの御製は土御門院の肉声を聴く唯一の機会といえよう。以下に気付いたことを記す。
 e)現在土御門院の御製とされているものには他人の歌がふくまれていること。
 例えば『続古今和歌集』には
   題しらず   土御門院御歌
 (590)いづれぞとくさのゆかりもとひわびぬしもがれはつるむさしののはら
とある2 が、一方『宝治百首』にも
    小宰相
 (2114)いづれぞと草のゆかりもとひわかぬしもがれはつるむさしののはら
とある。両首は本歌取りなどではなく、同一の歌とみなすほかないが、いずれの作者を誤りとすべきであろうか。『続古今和歌集』のような勅撰和歌集が誤ることはなさそうに思えるが、この場合に限り決してそうではない。小宰相は承明門院(土御門院母)に仕えた女房で、承明門院小宰相といい、土御門院の歌の師藤原家隆の女である。土御門院にも女房として仕えたことがあり、土御門院小宰相ともいった。(異説もある。3 )『宝治百首』は後嵯峨院(土御門御子)のもとめに応えて編まれたもの。両者の関係からいって土御門院の御製を小宰相が盗作するなどありえようはずもない。やはりこの歌は小宰相のものと考えるべきで、『続古今和歌集』が誤ったのは、書写の段階で「土御門院小宰相」とあったものを「土御門院御歌」と書き誤ったか、土御門院の御製中に小宰相の歌がまぎれこんでいるのに気付かず、『続古今和歌集』の撰者によって採られたものかのいずれかであろう。かりに後者とすれば土御門院と小宰相の両者は恋愛関係にあったともみられる。
 f)『土御門院御集』は主として特別の日に詠まれていること。
 土御門院御製の中、『土御門院御集』はすべて土佐遷幸以後に詠まれている。詠まれた月日が記されているものもあり、御集の順番にしたがって以下に記す。
 ア 詠述懐十首和歌
 イ 詠百首和歌  承久3年
 ウ 詠二十首和歌  承久4年正月25日
 エ 詠五十首和歌
 オ 詠三首和歌  貞応元年8月15夜
 カ 詠二十首和歌  貞応元年12月3日
 キ 詠五十首和歌  貞応2年2月10日
 ク 詠三首和歌  貞応2年9月13夜
 ケ 詠古寺九月尽  貞応2年
 コ 詠寄竹祝  貞応3年正月5日
 サ 詠五首和歌  貞応3年正月23日
 シ 詠五首和歌 折句  貞応3年7月25日
 ス 詠五首和歌 隠題  貞応3年7月25日
 セ 詠月前思故郷  貞応3年8月15夜
 ソ 詠冬景属閑居  貞応2年10月27日
 タ 詠歳暮多風雪  元仁元年12月28日
 チ 春五首此以下以他本書加之
 以上の中、スに庚申について詠んだもの(273番)がある。これから気付いて庚申の日にあたるものを調べることにした。該当するのは、サ・シ・ス・タであるが、ソもまた貞応2年10月27日ではなく、翌年の貞応3年10月27日と考えれば庚申の日となる。ソはこの御集中、唯一年代順にならばない歌なのであるが、このことから貞応2年ではなく貞応3年が正しいことが知られる。(『史料綜覧』が「土御門上皇、御和歌ヲ詠ジ給フ」として貞応2年10月27日条にかけているのは誤りとすべきである。)結局、サ・シ・ス・ソ・タは庚申待ちで人々が徹夜をした席で土御門院が詠んだ歌と考えられよう。
 次に特別な日(ハレの日)に詠んだ歌がある。オ(名月)・カ(天智天皇国忌)・ク(後の名月)・ケ(九月尽)・コ(正月)・セ(名月)がそれである。このうちケの九月尽(ながつきじん)は9月の晦日に行なうもの。この年の9月は大の月であるから貞応2年9月30日に詠まれたものである。キはおそらく釈奠と関係があるとみられる。釈奠の歌はシの267番にもあるが、キは漢詩風の題詠になっている。この時の釈奠は2月4日であるが、五十首と歌数が多いため、詠み終えたのが2月10日になったものであろう。そうだとすればキと作風の一致するエも釈奠に詠まれたものとみてよい。エは承久4年(この年の4月に貞応と改元)の釈奠に際しての歌とみられ、承久4年2月8日か貞応元年8月2日に詠まれたものと思われる。結局、エ・オ・カ・キ・ク・ケ・コ・セはすべてハレの日の宴席での歌ということになる。
 このことから、土御門院が阿波遷幸後も正月・釈奠・観月宴・九月尽などの行事を楽しんだことが知られるし、庚申待ちの行事を営なんだことも理解されるのである。

4)土御門院に御供した人々
 土御門院に御供した人々の構成は史料によって異なる。いずれが正しいか判断に迷うが『新訂承久記』(前述)の頭注は『吾妻鏡』にしたがっている。おそらく頭注が正しいとしてよいのではなかろうか。なぜなら『吾妻鏡』のみが御供として実在の人物「少将雅具、侍従貞元」の名を挙げるからである。この中源雅具は土御門院より10歳年長で、のち後嵯峨天皇が即位すると、寛元3年(1245)10月29日61歳の高齢にもかかわらず従三位に叙せられ、その後正二位権中納言まで昇進した。他の人々が引退する歳になって当時の廟堂で最高齢の廷臣でありつづけたのは全く土御門院供奉の功績にほかならないであろう。こう考えると御供のメンバーは『吾妻鏡』が史実を伝えているといえそうである。
 御供のうち全く分からないのは女性であるが、幸い、土御門院皇女の仙華門院が貞応2年(1224)に生まれており、同皇子の最仁法親王が嘉禄元年(1227)に生まれている。ともに土佐・阿波遷幸後の懐妊・出産であることは間違いないから、仙華門院母の権中納言源有雅女および最仁法親王母の藤原円誉女が土御門院に御供したことも疑いなかろう。

5)土御門院の阿波御所について
 土御門院の阿波御所は嘉禄3年(1229)頃に造建に着手されたものである。この御所は「寝殿」については阿波守護小笠原弥太郎長経が造進したもの、「薬屋」や「外廓」については諸御家人に宛てられたものであった。つまり平安時代以来の伝統に基づき、寝殿造りで里内裏風なものであったとみられるが、「薬屋」が何を意味するかよく分からない。一般に貴族の邸内にこのような建物はなかったようなの4 で、あるいは「楽屋」の誤記かとも考える。楽屋であれば寝殿の南庭にひろがる池の中央に設けられた島に建てられ雅楽などに利用される建物だからである。あるいは土御門院の御所ではしばしば雅楽が奏でられたのではなかろうか。

6)土御門院の崩御の日時
 土御門院は寛喜3年(1231)10月に崩御された。崩御の日時については、11日説(『本朝皇胤紹運録』など)と12日説(『吾妻鏡』など)がある。おそらく11日説が正しいのであろう。なぜなら武田勝蔵氏も指摘されるように、土御門院の御陵金原御陵において、仁治3年(1242)10月11日あるいは寛元元年(1243)10月11日に御八講が、承明門院の参詣のもとに行なわれているからである。5 これらの法要が祥月命日に営なまれたのは間違いなかろう。
 注
 1  土御門院の研究については、武田勝蔵氏『土御門天皇と御遺蹟』(御所神社奉讃会発行、昭和6年)及び、藤井喬氏『土御門上皇と阿波』(土成町観光協会、昭和50年)等参照。なお真貝宣光氏から蓮生寺に伝わる土御門院の事績に関する文書を提供され、種々ご示教をえたが、紙幅の都合で本稿でふれることが出来なかった。真貝氏のご高配に深謝する。なお同文書については「ふるさと阿波第140号」の当該項参照。
 2  この歌は『後撰和歌集』のよみ人しらず1177武蔵野は袖ひつばかりわけしかどわか紫はたづねわびにき、の本歌取りかと思われる。
 3  安井久善氏『宝治二年院百首とその研究』(笠間書院、昭和46年)477ぺージ。
 4  後宮には「薬司」なる役所があり、また大内裏内にも「薬殿」なる殿舎があり、「侍医、薬生等」が伺候したという。(『拾芥抄』)土御門院の土佐・阿波遷幸には「医師一人」が同行御供しているので、この阿波御所の「薬屋」がこれらに類した建物である可能性もあるようである。しかし一般に「薬屋」なる建物が里内裏などに付属することはなかったようである。
 5  武田勝蔵氏注1 書、120ページ〜121ぺージ参照。

1)徳島市史編さん室


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