阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第36号
土成町の文化財(古蹟・古文書)と地名

郷土史班

   河野幸夫1)・真貝宣光2)
   岡泰2)・植村芳雄3)

1.遺跡・十三塚
 まえがき
 十三塚が学界で話題となったのは、柳田国男が『考古学雑誌』第1巻第4号と、『考古界』第8編第11号に、論文「十三塚」を発表した明治43年(1910)のことであった。
 それから40年後の昭和23年、堀一郎が柳田国男の資料を整理し、さらに自らの研究成果を加えて、共著の形で『十三塚考』を刊行した。
 近年にいたって日本全土に開発ブームがわきおこり、山林原野はつぎつぎに姿をかえ、それに伴って十三塚などの貴重な遺跡消滅の度が加速されつつある現状である。
 この現状をみて、神奈川大学日本常民文化研究所は、東京都や川崎市の教育委員会の協力を得て、十三塚の実態調査とその保存に立ちあがった。その方法として十三塚に関する調査票をつくり、これを前掲『十三塚考』および『全国遺跡地図』に十三塚所在の市町村教育委員会に配布して報告を求めた。その報告をまとめて『神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 第9集 十三塚―現況調査編』(1984年)『第10集 十三塚―実測調査・考察編』(1985年)を刊行した。
 ちなみに、本県で調査対象となったのは、板野郡土成町だけであった。
1)土成町の調査報告
 1 所在地  徳島県板野郡土成町大字土成字寒方(さぶかた)
 2 名称  十三塚(じゅうさんづか)
 3 保在状況  消滅 昭和30年代に畑が整理され水田となった
 4 伝承  (なし)
 5 形態構造  約1平方キロメートルの畑地内に、土まんじゅうのような小さな塚が点在した。十三塚という田んぼの名称が残っている
 6 調査担当者  土成町教育委員会 三木邦正
 7 関連資料  『十三塚考』『阿波志』     ( )は筆者注

2)現状調査
 調査はまず報告者三木邦正氏(現土成町役場建設課長)を町役場にたずねて、報告書作成のことについて教示を受けた。その結果、資料はすべて元助役であった大塚明氏から提供されたとわかった。
・大塚明氏聞書 字寒方(さぶかた、同じ土成町でもかんかたという人もあった)には、今も十三塚さんといって祀っている所がある。そのほかは報告書にかいてあるとおり、畑地を水田化したとき、取り除かれたようである。
 なお、かつての状況を知っている人として、同じ姓の大塚氏を紹介してくれたので、たずねたが、今までに聞いたものと同様で、新しい情報は得られなかった。
3)現地調査
 2度目にたずねた大塚氏より、おおよその位置を聞いて、現地へ走った。ところがなかなか「十三塚さん」といわれるものの所在地がわからない。つい立寄ってたずねた家も大塚という姓であった。幸いその大塚家の婦人から位置が教えられたうえ、その十三塚さんを現在の所へ移したという人を教えられた。その家の本家でもちろん姓は大塚。偶然の事ながら、たずねた家が何れも「大塚」という姓。十三塚の中央にひときわ大きく築かれた塚を、大墓とか大塚とか呼ぶ事から、この字寒方に大塚姓の多い事と何か関係があるのではなかろうか。後日の研究をまちたい。
・大塚清見氏聞書 現在、十三塚と称して、信仰されているものは、地図−1の○印のところ、国道318号線と県道鳴門−池田線の交差点より北へおよそ130mはいった五叉路の西沿いの狭い畑の中にある(地図−1参照)1個の小さい自然石(見方によると仏像にも見える)である。


 もともとこの石は、ここにあったものでなく、現在地より西へ50mほどいった所にあった。正確にいえば地図−2で、現在地はC地点(地籍番号147−3)、もとあった所はA地点(147−6)で、昭和36年(1962)頃、C地点へ移した。その時C地点には小さな土盛りがあり、さらに東へ5mほどのD地点に小さい塚があった。そこから五叉路をすぎて、さらに東へ40mほどのE地点(地籍番号65)にも、同じような小さい塚(土盛り)があった。
 C地点の小さい石を祀った所を土地の人たちは「十三塚」といって拝んでいる。


・中川家老婦人の聞書
 わたし家の向かい(B地点)にも小さい塚があったことを記憶している。
4)考察
 以上の調査結果を総合して、昭和37年頃までは、寒方地区に土まんじゅうの形をした小さい塚が5つ(ABCDE)、ほぼ東西の方向に一直線に並んであったことがわかった。その規模や構造については、「土まんじゅうのような小さい土盛り」という程度で、正確な実測値は不明である。しかも十三塚つまり13個の列塚(地図−3香川県に現存する十三塚見取図参照)のうち、第何号塚であるかも推定しがたい。


 ただ、形態、構造、並び方、十三塚の呼称の現存などから考えて、十三塚であったと断定することができるであろう。
5)あとがき
 十三塚とは何か、その築造の意図については、その名称が地方によって、十三墓・十三仏・十三騎塚・十三壇などと呼ばれているところから、1 戦死者の墓説。2 非業の死者(遍路を含む)の墓説などが最も多く伝承されている。3 境界指標説つまり村と村との境のしるしとして築いたという説もある。1 〜3 のいずれの説によるとしても、十三という数とどのような関連があるか。その説明がない。そこで十三という数字は仏教の十三仏の十三で十三仏信仰の普及が十三塚築造につながるという4 十三仏信仰説もある。新潟県では十三塚といわず十三仏塚と呼ぶ例がいくつかあるという。筆者は、この4 説に興味を感じる。ただ、全国共通していえることは、ほとんどの十三塚に遺物が伴わない事で、これが十三塚研究の大きいさまたげとなっていると聞く。本県内にこの土成町だけでなく、他町村とも十三塚が発見される事を祈ってやまない。       (河野幸夫)

2.古文書
 1)古川家文書
 古川家は、天正(1585)以後、代々阿波郡土成村の庄屋をつとめた家柄で、又十郎−伊兵衛−徳兵衛−与一兵衛−弥六郎−弥六郎−弥六郎−又十郎−道太−次三郎−誠一郎−甚四郎と続いている。
 今回の調査では、同家のご厚意によって、所蔵文書を3日間に限って借り出し供覧することができた。10個に余るダンボール箱一ぱいに詰った、ぼう大な数量であったので、郷土史班2名と地方史班2名、文書館藤丸氏も加わって、やっと3日間に一枚一枚を広げて、目録作りすることが精一ぱいの作業であった。
 この中から郷土の歴史に深いかかわりのあるもの、既刊文献の記述と異なる内容をもつものなど、二三の史料を挙げて解説を加えておく。
○阿波公方の旧家臣に関するもの
 史料1  那賀郡平島で居住して、ひたすら再挙の日を待った平嶋又太郎(第9代阿波公方足利義根)は徳島藩の冷遇にあって、文化2年(1805)一族郎党と共に阿波を去って京都に引き揚げた。


 その後、主家を離れて四散した家臣たちの消息は、史料が乏しくほとんど不明であったが、今回の古川家所蔵文書の中に、阿波へ残留した旧家臣の一人、伊藤庄助が土成村へ移り住んでいたことがわかった。
 史料1 によると、伊藤庄助の姉は阿波公方の家臣である那賀郡立江村住の伊藤惣右(史料2 は左)衛門に嫁いでいたが、後家となったのち、家を継ぐ男子がなかったので、弟の庄助を内分養子としていた。
 阿波公方が阿波から退去したとき、姉はお供して阿波を離れたが、庄助は病身であったので、阿波に残った。その後、土成村で借宅して居住していた。たまたま棟付改め(むねつけあらため)があったので、これを機会にどのような身居(みずわり―身分)が与えられてもよいから、阿波国(土成村)内で居住する事を許してくれるよう、藩の役人へ申し入れてほしいと、時の土成村庄屋古川又十郎宛に願い出た。
 これに対して、藩ではいろいろと取り調べた結果、「見懸人」(みかけにん)という身分(身居)で土成村での居住を許したことが、古川家所蔵の「棟付改帳」(むねつけあらためちょう)に次のような記載があるので判明した。
 史料2  文化三年阿波郡土成村棟付改御帳
     見懸人
  一 壱家     庄 助     歳五拾五
   此者市中免許町之人宝屋喜助倅之由ニ而平嶋又太郎様家来那賀郡立江村住居伊藤惣左衛門後家男子無之内分養子ニ相成妻帯仕居申所文化二丑年互得心之上離縁…惣左衛門後家義ハ同年又太郎様御退去ニ付御供仕御国立退候趣其後庄助義当村へ罷越借宅仕相稼居申候此度棟付御取調ニ付身居無御座行当免許町相行着候へども宝屋喜助子孫無之出処相分不申右之運有姿申上居懸当村ニ而身居奉願候処御詮議之上見懸人ニ仰付候段被仰渡候尤無家督困窮ニ付成立候迄見懸■御免被仰付候
 この史料2 によって、見懸人(他村より移住してきた者、4代目からやっと百姓の身分になるという低い身分の者)という身分で土成村への定住が許され資産もなく生活困窮しているので、生活が安定するまで、見懸■(税金)は免ぜられた。それまで一応武士として伊藤庄助と名乗っておったが、見懸人となっては苗字(みょうじ)を使うことは許されず単に庄助となっている。厳しい当時の身分制度をかいまみることができる。
 いずれにしても、阿波公方退去後の資料が乏しく旧家臣の動向がよくわからなかったので、この史料の発見の意義は大きい。また、伊藤庄助が阿波での定住地として、何故に土成村を選んだのか、これも研究課題の一つであるが、今のところ明確な結論は出しにくい。ただ、それと考え合せて検討するうえで、参考となる別の文書がある。
 史料3
         覚
   一 男壱人  珎蔵
右之者当村御蔵百姓重左衛門小家ニ而御座候所其御村へ当時罷越稼仕度旨申出候御厄介ニハ罷成申候へども何卒当時其御村ニ御指置可被下候―略―
     名西郡第拾村肝煎
 天保十二丑年閏正月    瀬部■兵衛
   阿波郡土成村 御役人衆中
 名西郡第拾村の珎蔵という者が、土成村へ行って稼(かせぎ)したいので、何卒よろしく住まわせてほしいという、肝煎(きもいり―庄屋)からの願い出た文書。たとえ小家の者とはいえ第拾村といえば、藍作の中心地で裕福な村と思われるのに、わざわざ土成村へ稼ぎにくる事には、何かの理由があるはず。何かもうけのよい仕事(例えば製糖)が当時の土成村にあったのか、それともそれとはまったく反対に、未開の原野が多く、開拓可能の余地があったのかなどが考えられる。庄助来住の理由とかかわりがありそうに思われる。
 ○藍作に関するもの
    史料4
  其村 ○○儀難指延御用有之候条此状参着次第役人共之内召連可罷出候万一病気候共駕篭ニ而召連可罷出候也
     藍方御代官
  土成村庄屋五人組共へ
 これは藍方代官から土成村百姓○○への呼出状で、さし延べできない御用とはあるいは税金の滞納かも知れないが、いずれにしても庄屋か五人組の誰かが召し連れて出頭せよ、万一病気であっても駕篭(かご)に乗せて連れてこいと厳しい。土成村でも藍作が行なわれていた事を知ると共に、藩の藍作に対する、ただならぬ姿をうかがうことができる。
 ○水利・雨乞いに関するもの
 本利普請(ふしん)の疾(いたみ)のできた個所へ、西民政掛(明治初年の藩の役所)の水利方役人が見分に行くから、その場所への案内を土成村庄屋へ命じたものなど、水利に関する文書が多くある。
 史料5  順雨無之候ニ付、昨廿五日より二夜三日間四郡別触頭尊敬之神社ニおゐて請雨祈願仕候条被得其意郡中庶民共へ無遣漏可申達也
      西民政掛
  森大里長殿
 順調な降雨がないので、村々の神社で2夜3日間の雨乞い祈願をするので、阿波郡中の庶民はこれに参加するよう、大里長(郡長)に達した文書で、大里長はこれを郡内の水田・成当・土成・浦池の与頭(くみがしら)へ廻状で通知している。思うに扇状地の多い阿波郡では、農業用水の確保に苦心していたようすが、これらの史料で知られる。(河野幸夫)

2)日根家
 安政6年、徳島藩は膨張した財政を補填する為、現在の国債に該当する調達金を出す。そのとりまとめは組頭庄屋が担当したが藩は調達の円滑をはかる為、十郡にて身代柄の者から24名の勧諭役を任命した。現土成町からは宮川内村郡付浪人・日根管之亟、土成村郡付浪人・日根三左衛門、水田村御銀主・矢部久太郎の3名がこの役を勤めている。次いで慶応4年にも同様な調達が行なわれ、日根管之亟、日根三左衛門、矢部惣右衛門が勧諭役に任命される。両度の調達員数を表1 にまとめる。また藩士においても借財をなしたのは同様であった。
 土成村という藍業後進地帯に位置する日根家が藩内の大藍師に互して、第2位、第3位という巨額の調達をなし得た背景はいかなるものであったのか? 土成村に転住して代数を経ない寛政6年6月に熊谷寺に大手水鉢を寄進し得た経済的背景は? 文化文政期に当地において一大発展をみた阿波糖業との関わりは? 等々、徳島における近世経済史を解明する上で日根家の資本畜積過程は興味をそそられるところであるが、残念な事に大正4年の酒蔵からの出火により古文書・古記録等が灰燼に帰し、同家の経営内容を知り得る史料は全く残されていない。しかしながら、加登屋記録(石井町)、円藤家文書(板野町)、古川家文書(土成町)等によりその一端を知る事が出来る。文政年間には酒造業を営んでいた事、安政年間には徳島藩第一位の金融業者として存在していた事がそれらにより確認出来るのである。また慶応4年の調達金帳によると新シ町1丁目、西大工町、西新町1丁目に松屋かねの借屋がみられ借屋業も併せて営んでいた事が知れる。かねは三左衛門利安の妹の名であり、松屋かねは代々町人名として継承されたものと推測される。また同家の土地所有については五島新田があげられる。同新田は日根三左衛門が別宮川(現吉野川)南岸の原野27町歩を開墾し五島新田と名付けたが洪水の為3町歩を残し河中に没した為、安政2年松浦氏(池谷村)の手により再開発がなされ紙屋新田と名付けられ、後金沢新田と称される事になった。終戦後の農地解放により日根家は脇町曽江の日根田台、鳴門粟津の新田、土成町所在の田畑等約50町歩の田畑を手放したが、それらの土地の藩制期からのつながりを確認する事が出来なかった。藩制期においてもその経営展開の一環として相当の土地は有していたと考えられる。
 日根家は宮川内村の吉兼家から出ている。吉兼家は日根家過去帳によると元姓は日根であり日根彌左衛門尉吉包を名乗り吉包をとり吉兼と改めた事がわかる。しかし宝暦年中までは吉包を称していた徴証が認められるので吉兼と改字した時期は定かではない。
 吉兼家7世喜左衛門(伊兵衛)の子に3男4女があり、惣領・金左衛門(長吉のち喜左衛門)は親跡を襲し、二男・半次郎(松之進)別家、三男・彌市郎(七)別家、女(浦野左吉右衛門嫁)、女(篠原丹兵衛嫁)、女(関村山口又之亟嫁)、女(神宅村三木為右衛門嫁)、とそれぞれ縁づける。この二男・半次郎が元姓に返り日根半次郎と称す。本稿で主として取り上げた松屋日根家である。半次郎の孫にあたる三左衛門利安が弟悦次郎に親跡を譲り土成村に転住した。その時期は日根家に残されている最古の棟札の年号天明7年によりそれ以前であることが確認できる。松屋日根家略譜を表2 として掲げておく。
 吉兼本家、松屋日根家、谷口日根家、中屋日根家は重縁を重ね一族の結束を保ち吉兼本家は組頭庄屋として行政面で、他の三家は商人として活躍する。組頭庄屋吉兼安平の小家(分家)は文政4年の矢武村組頭庄屋・田村貞兵衛、唐園村組頭庄屋・寒川道之亟からの板野勝浦郡代宛の報告書により24家とあり一大勢力となっていた事がわかる。また繁栄見立鏡(明治15年版)によると日根三郎は行事に、日根亀三郎、日根管太郎はそれぞれ前頭に序されている様に経済的にも発展をなしていた事が知れる。


史料1  諸郡組頭庄屋江申渡演説書
    「近年御物入御指湊に付御勝手方御不旋に相成候御趣意を以、市郷相応相暮候者より調達金被仰付、尤月三朱五毛の御利息被下五ケ年之間元居り六ケ年目より元利指入都合拾五ケ年目にて皆済可被仰付旨、本〆之面々より内達有之候…」(安政六年「南北十郡御用金調達之義に付一巻」円藤家文書)
史料2  日根三左衛門高英棟付
    「此者養父三左衛門義は板野郡宮川内村組頭庄屋吉兼弥左衛門小家にて先年当村へ罷越田宅相求相稼罷在。安永五申年御為替方御趣法に付御用之金子指上長谷川近江様御譜代御家来に被仰付御座候處云々」(文化四年土成村棟付帳)
史料3  
    「態与申達候然者其村々左書造酒株主并造酒屋共御用有之候条夫々印形持参来ル九日各之内同道私方へ可被罷出候、此状早々順達可有之候
     七月五日  阿部亀三郎  八幡、水田、成当、土成  右四村役人中
    八幡町 内田勇助、水田村 銀次郎、同村 多け、同村 寿満、同村 きく、成当村 飛さ、土成村 日根三左衛門 以上」(古川家文書)

3.古道・鵜峠考
 1)名称の由来
 土御門上皇がご生害のとき、供御の宮人鵜野右近明道と■野別当良雄は、追腹せんとしたが、武人でないかなしさ、腹を切ることができぬまま、敵に追われて山中深く逃げ、ついに阿波と讃岐の国境に出た。しかし、讃岐側にも敵が待ちかまえているという。さりとて阿波へ引きかえすこともかなわず、ついに自害した。そんなことでこの峠を「鵜野■野峠」と呼んだが、いつしか「鵜峠」と呼ぶようになった。もっとも上皇弑逆の伝説は、保元の乱で讃岐に流され崩御された崇徳上皇や淡路に流された淳仁天皇にもいわれており、また、藤原師光の広永ら二子が、平清盛の命により、名西郡石井の桜間城主田口成良に攻められ、宮川内に走り自刃したことと、取りちがえられたという説が有力である。
 2)宮川内越に関する資料
 吉田村岡の段に、サヌカイトの工房跡が発見されたことから、弥生時代に阿讃の国境を越えて、古代人の往来があったことが考えられる。この古代のみちがどこであったは未詳である。また、寿永のむかし「はちまあまこ浦」(小松島付近)に上陸した源義経が、宮川内越したという伝説のあるみちといわれる。(『源平盛衰記』)
 僧道範(1184〜1250)の『南海流浪記』には、
  「宮川内越 阿州国郡(板野郡)本道(大西本道)より、宮川内越国境まで二里十二町それより讃州大内郡引田御鷹村へ出づ」
とある。これによると鎌倉時代には、宮川内を通って国境を越すみちが通じていたことがわかる。(御鷹村は後の雁居村か)
 『阿波国海陸道度之帖』(正保4年6月之御帖)には、
  「板野郡宮川内越 同本道(川北本道)ヨリ国境迄弐里拾弐町 讃州狩居村へ出ル牛馬道」
とあり、
 『南海治乱訳』(寛文3年癸卯春3月上弦)にも、
  「宮川内越 阿州国郡本道(川北本道)より宮川内越国境まで二里十二町、それより讃州大内郡引田郷雁居村へ出づ」
とある。
 『阿波国海陸道度之帖』の狩居川の「狩居」も、『南海治乱訳』の雁居村の「雁居」も、共に東山村の禅宗宝光寺の前を流れる「猟川」の当て字に用いられたものである。
 相婦から鵜野田尾峠に立つ道標(文政4年 右引田宝光寺 左うのたを)から、文政の頃(1820頃)、すでに御所から西山に出る旧道が通じていたものと考えられる。もっとも西山へのルートは、今日、渓谷に砂防ダムができて一部変更されている。
 『国部全図並大名武鑑』には、
  ムヤ―七条―富田
とあり、くわしくは御所―西山―藤井―三殿―富田へ出て、長尾街道に入ったと考えられる。このみちは西国の行商人や阿波からの金比羅参詣のみちであった。『南海流浪記』『阿波国街道度之帳』『南海治乱記』といい、みな今は廃道になっている相婦から峠越えをして引田郷の東山村へ下りたっており、文政時には西山村へ出るみちが通じていたことがわかる。

 3)鵜田尾峠の変遷
 御所から鵜峠を越える急峻な旧道は、県道鴨島白鳥線の出現で廃道となり、県道の部分的改修によって、国道318号線に昇格された。さらに曲折が多く、冬季に凍結の危険があり、且つ交通量の増加した大型トラックの通行に支障のあった所に、1,800mに及ぶ長大な鵜ノ田尾トンネルが掘削され、昭和61年度に新国道318号線が見事に開通した。両県の産業幹線道路として、また県立宮川内自然公園の観光道路として、にわかに脚光を浴びるにいたった。
 ここで、新国道開通までの足どりをたどってみよう。
○大正9年(1920) 御所村宮川内字楠木87番地―同村宮川内字次郎助4番地間に、5kmの村道鵜田尾線の開通
○昭和6年(1931) 鵜田尾道路改修事業により、御所村宮川内字広坪郡道より県境に接する県道鴨島白鳥線となり、同44年同道路の局部改良により、国道318号線に昇格
 4)結語
 かつて峠は自然の障壁となり、人の交通や物資の交易はさまたげられた。生活・風習・言語まで異なった時代もあった。しかし今日ではみちの改修、新道の出現、新しい交通手段の出現で、時間的にも距離的にも短縮され、旅も快楽になるなかで、古道・旧道と呼ばれるみちの歴史が消えていくことはさびしいことである。 (岡  泰)

4.土成町の地名
1)地名はどのようにして名づけられているか
 記録によると和銅6年(713)元明天皇の詔によって正式に第1回目が名づけられ、次いで延喜式(917)にも政令が出ているから大体この頃までに凡そ地名が揃ったのであろう。そしてこの地名は主として地勢、地形、地質などによって当時の古語や方言で名づけられ、それに対して意味に関係有る無しに関わらず発音の良く似た漢字を適当に当て字(仮借字)をし、また同じような意味の地名は混同しないよう類似音の漢字を適当に当て字しているのが大部分である。
2)土成町の地名の特徴
 本町はフィリピンプレートによって北に衝き上げられて隆起して出来た和泉砂岩層の讃岐山脈を、宮川内谷川、九頭宇谷川、指谷川、熊谷川、高尾谷川などによって浸食されたり自然風化による崩壊などによって出来た山間部と、その浸食などによって流された砂礫などによって出来た複合扇状地によって構成されている。
 砂岩は浸食や自然風化に弱いので表土が崩壊し易く山間部は崩壊に関する地名が多い。また平地部の扇状地は近年の農地改良工事により、また用水の通水によって良田化しているが昔は水不足や不良土のため「月夜の晩でも焼ける」といわれた土地が多かったので、それらに関係する地名が多い。
3)土成町の個々の地名考
 紙数の関係で小字地名の全部については解説出来ないので珍らしい地名のみを解説してみた。
 イ.水田(大字地名)……旧名日吉村といい、その由来は日吉山王権現社が祀られていたからだといわれているが、日照りの時に水の乏しい事があったので慶長3年(1598)より水田村と嘉名に変更したそうである。現在は用水が通じて水不足を来たすことは無い。
  A.指谷(さしだに)(小字地名。以下同)……1 サシは日指しで南向きの日当たりの良い所のこと。2 サスは燒畑のこと。これは草木を焼いて、その跡へ種子を土地にサシ込むこと。3 城を方言でサシというから、ここは秋月城の有った所である。ここは以上3つのどれにでもあてはまる地名である。
  B.月成……ツキは築の当て字であろう。ナリはナルイ(方言で緩傾斜地)とか、ナラス(土地を平均化すること)ことの当て字であろう。ここも段々に美しく水田を築いた所である。
 ロ.秋月(大字地名)……秋月城の在った所。アは接頭語、キヅキは築きで城を築くとか段々に水田を築くとかのことである。ここも段々に水田を築いた所である。どちらにでもとれる地名。
  A.明月(めいげつ)、伊月(いつき)、月成(つきなり)(小字地名、以下同)……明月(めいげつ)はアキヅキの読み替え語。ここは秋月城の在った所。アは接頭語、キヅキは城を築くことが由来であろうか。伊月のイは接頭語。各地名の月は築で築くであり月成は大字水田地区の月成と同義であろう。
  B.乾(いぬい)……どこかを基点とした乾の方向を指すのでなくカンと読み乾燥地のことであろう。ここは良田が少ない畑地の多い所である。
 ハ.成当(なりとう)(大字地名)……ナリはナルイ(緩傾斜地)のあて字、トウは処(と)のあて字であろう。ここは、ゆるやかな傾斜地の田畑地帯である。
  A.尾類(びるい)(小字地名、以下同)……ビルイは類似語ヒライ(平井)のあて字であろう。井は井戸のことでなく地名用語では水路のこと。ここもそんな所である。
  B.京明(きょうみょう)……類似語キヨミ(清水)のあて字であろう。指谷川にそった清水の流れる所である。
  C.寄留(よりどめ)……留は止のあて字として止(し)と読めば、寄止は音読みキシで岸のことであろう。ここは九頭宇谷川と指谷川に挾まれた岸の位置に当たる所である。
 ニ.郡(大字地名)……ここは地名から阿波郡司の居た所であろうといわれている所である。吉田東伍の地名辞書にも「大字郡の名残れるを見れば古の阿波郡家の邑とす」とある。またここは戦国時代に原田甲斐の支城が有って郡城と呼ばれていたが、これは以前から有った地名を名乗ったのであろう。ただ地質的に見れば吉野川の河岸であるので類似音ゴーラ地(礫石地)のあて字かとも思われるがどうであろうか。
 ホ.浦ノ池(大字地名)……この地名は同地にある池の名から出たといわれている。この池の名は大場山の北側すなわち裏側に有るから名づけられ、裏の字よりも浦の字が好字だから字が変えられたとの口伝が有るから、そうとも思われる。しかし浦のつく地名は海岸以外は南斜面の日の良く当たるウララカな土地ということで名付けられるのが多いから、ここも南斜面であるのでそうではないであろうか。
  A.金蔵(こんぞう)、金地(こんじ)(小字地名、以下同)……金は墾で開墾地のこと。蔵はクラで股倉や鞍のようにV字やU字になった所、すなわち山間部の崖地に名付けられる地名であり、それから片側の崖の所にも派生されて使われている地名である。金蔵は片側の崖地である。
  B.白木谷(しらきたに)……ハッキダニと読みハケ谷のこと。山間部でハケ、ホケ、ボケ、バキなどの地名は崖地に名付けられる地名。大歩危、小歩危の例のように崖地のことである。
  C.九頭宇……クズは崩れるの類似音の当て字。崩壊した山ということ。
  D.九王谷……クオウのクはク(曲)、オウ(凹)で曲った山合いの所ということ。
  E.半太夫……ハンダは類似音ハタ(畑)のあて字であろうか。端(他町村とのそば)の意であろうか。岩肌の出た所のことであろうか。ここは市場町との境の岩肌の見える所である。
 ヘ.土成(大字地名)……ここは九頭宇谷川の土砂によって出来た扇状地である。川の流土によって出来たということであろうか。また緩傾斜地であるので成はナルイ(方言でゆるやかなということ)の当て字であろうか。
  A.遊(あそび)ケ原(小字地名、以下同)……ここは扇状地の末端であるので水位が高い所から遊びは浅水のあて字であり、また遊は湧で湧水の所ということか。
  B.寒方(さむかた)……鳴池線と国道が交叉する所であるが、昔は雑木、雑草の生えた不毛地でサブ土堤といわれた所。寒は類似音淋しいのあて字であろう。
 ト.吉田(大字地名)……元は原田村といわれたが豊穣を願って吉田村と改名した所。
  A.遊び塚(小字地名、以下同)……ここは土御門上皇の行在所であったと伝えられる所の北側のガラクタ地の所。上皇の女官などが遊んだと伝えられている。恐らく石の塊などを積み上げて塚の様にして開墾した所のことであろう。
  B.姫塚……開墾の時、石の塊を積み上げて塚のようにした所のことであろう。姫地名は小さいということに使われている。恐らく小さい塚が在った所という意で名付けられたのであろう。
  C.牛屋(うしや)谷……ここは崩壊した所であるので牛屋はギューヤと読み、類似音クエ谷(方言で崩れた谷のこと)のことであろう。
 チ.宮川内(大字地名)……この地区の最高峰(754.8m)の日僧山に飛蔵權現が鎮座していたので名付けられ、また川名の由来もこれに基づくといわれている。
  A.落倉(おとしくら)(小字地名、以下同)……倉は蔵、黒などの地名と同じ崖の意の地名。(金蔵のところ参照)落倉とは崩れ落ちた崖地という意である。
  B.御所……土御門上皇の火葬場跡といわれる御所神社のある所と、その奥の水源付近の盆地の所の地名である。御所とは御諸と同音、または類似音(諸(むろ)→室(むろ))で、また御(み)は水(み)のあて字で水辺の室(むろ)状の盆地のことで山間部に多い地名。
 リ.高尾(大字地名)……ここは丘陵の尾根が続いているので、その地形に対して名付けられた地名であろう。
  A.休場(やすみば)(小字地名)……方言ヤスは痩(や)せ地のこと。ここも小石のゴロゴロした痩せ地で最近に開墾された所である。

あとがき
 地図を添付しようと思ったが余白が無いので割愛させていただいた。  (植村芳雄)

1)阿波郷土会副会長  2)阿波郷土会理事  3)阿波郷土会員


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