阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第35号
藍・染色・織物に関する調査

染織班 上田利夫・武市幹夫・宮川力夫
      西口幸子

 半年にわたり上那賀町の奥深く点在する民家や那賀川の支流の川や山陰を調査した。昔の資料や古文書も少く辛うじて写真撮映をする事が出来た他、耳の不自由な方々から話を聞くことが出来た。
 地区によって何の手掛りもない所もあった。上那賀町誌にも本調査の内容が殆んど記述されていない事を見ると如何に調査が難しいかが伺い知る事が出来る。充分な調査が出来なかったが、曲りくねった坂道等危険と背中合わせで通った事等調査に対し思いを感じながら報告書を綴る。


 藍は一説によると成務天皇の時代、出雲族の一部が丹生谷の奥地に持って来て植えたとも言われている。上那賀町に自生している藍は椿葉と言って蓼科の藍で中国の浙江大青とも言い大和朝廷の時代、中国から日本に入国した蓼藍最古の藍の品種であると伝えられている。椿葉の葉でも赤茎で葉が丸く花が赤い品種は和歌山県の南紀地方にもあるが、赤茎で葉が丸く白やピンクの花は全国の何れの地にもない。
 この藍は解熱剤や股薬・水虫の薬・冷え症の防止薬として医療機関が設置され医師がこの地に来る様になる昭和40年頃迄使用されていた。これから述べる町内各地に自生の藍を自分の家で作って染め物に使ったのは藩政時代から明治にかけてである。
 各地に自生の藍も次第に消滅して昭和50年頃には拝宮だけとなっていたのを上田利夫が発見した。昭和62年より拝宮の藍を品種保存のため作る様になった。昔は拝宮、桜谷、水崎、菖蒲谷、海川、成瀬(ナルセ)、市宇、古屋にも自生していた。中には丸い葉より少し長い目の楕円型に近い藍もあった様だ。平谷や宮ケ谷、丈ケ谷にも自生しており菖蒲谷では自生の藍をすりつぶして水虫の薬に、拝宮や海川でも水虫の薬に使った。他に染め物に使っていた。深森では昭和20年頃中村実(ミノル)氏が長葉藍を作って染め物をしていた。
 古屋の中野剛豪さん方には自生の藍があり、中野さんは少々藍を作って葉藍のまま売却したとの話もあった。成瀬で自生の藍を中野武氏が水虫の薬に使ったと言う。水崎の高木さんは女ながら丸葉藍と長葉藍を使って昭和16年頃迄木綿や絹を染めて織物にしていた。
不足分の藍は鷲敷から買った。相生町で藍が自生している話も聞いた。徳ケ谷の古田時雄氏宅附近にも藍が自生していて水虫の薬や股薬に使った。藍染した布団は夏は涼しく冬は暖いと言うので小浜の前川紺屋で染めて貰って使用した。長安の平田ヨシノブさんは自生の藍をすりつぶして水虫の葉に、川俣の地域でも藍を水虫や股薬や冷え症を治すに用い、種は解熱剤に利用した。また川をせき止めて水を少くし藍を棒でたたいて流すとゴリギギの小魚が浮いて沢山とれた。尾谷、蟹谷、久保、竹花では自生の藍を乾かして葉藍にして染め物に使っていたが昭和40年頃にやめた。藍も那賀川の支流古屋川沿いの岸辺や湿地にも群生していた。どの地域でも柚を作る様になって雑草を枯らすのに農薬を使用したので雑草と共に藍も枯れてなくなった。下用地でも藍が自生して今も残っている。拝宮でも井本満氏の附近の山に自生している。藍は生魚を食べた後で葉を食べると食中毒をしないと言う話が各地に伝わっている。

 染色(紺屋又は染め物屋)
 拝宮、海川では昭和16年頃迄は野生以外の藍は使用しなかった。桜谷の青山武平(貢)氏は明治8年7月迄、藍がめ6本で糸染や幕を染めていた。小浜の前川甚太郎氏が大正末頃迄、糸染や型染(型紙で捺染して柄染)を、前川丑五郎氏は明治8年頃迄糸染や幕を染めていた。前川紺屋で使用した染色材料として藍のほかイヌタデ、トチの木、キシツツジ、ネコ柳、ススキ、桜、キハダ、カエデ、ケンポナシ、以上材料と消石灰と草木灰を組み合わせて色々な色を染めていた。
 水崎の高木アキノさんは昭和50年頃迄自生の藍に草木灰を入れて糸を染め織物にしていた。平谷では5戸位が木の皮で黄茶色に染めて織物にしていた。海川では自生の藍を使用して糸を染め自家用の布を織っていた。上那賀町で桜谷、小浜以外に紺屋はなく染め物をするには先に述べた紺屋の他に仁宇の天羽紺屋で染めて貰った話も聞いた。
 紺屋では裸麦、くづ、芋、草木灰、消石灰で藍染液を造った。捺染糊には木灰、消石灰、飴とくづ粉を使った。藍染には藍がめを使い1石入りのかめ又は1石3斗入りのかめに藍6貫(22.5kg)裸麦3升芋1貫目草木灰の灰汁2斗で藍染液をつくって染めた話もあった。
型染をする型糊は消石灰とくづ粉を使用した様である。一般農家では自生の藍をすりつぶして水を加え布で濾過して染液をつくり何回も染めて適当な色合いにしたと言う。

 棉作り、楮作りについて
 棉作り、楮作りについて明治時代から昭和40年頃迄上那賀の町内各地で広く行われていた。これらについて聞いた事は次の表の通りである。

 楮、棉を栽培して織物の原料として一部の農家の機織りに供していた。
 養蚕について次表の通りの調査の結果が得られた。売却の外、織物原料として使用された。

 糸繰りしていた家は小浜に1戸あった。桑園反別について知っている人はなかった。
 上那賀町の産物の記録
1農産物(昭和9年迄)上木頭村 楮三椏3160貫 繭176貫。中木頭村楮三椏12228貫 繭243貫。宮浜村楮3200貫 繭506貫、春蚕42戸217貫、夏秋蚕60戸289貫。中木頭村春蚕25戸(217貫)。上木頭村春蚕35戸(160貫)、夏秋蚕3戸(16貫)。昭和31年の養蚕状況は宮浜17戸収量繭4貫反当り1.3貫反別3.1反。上木頭村桑園面積1.5反。宮浜村楮三椏(昭和9年に楮100反収量3200貫(960円)。中木頭村 楮368反収量1228貫(4120円)。上木頭村 楮82反収量246貫(738円) 三椏228反収量700貫(294円)となっている。

 織物
 旧中木頭村では100戸位の家で太布、木綿縞、絹縞を織っていた。太布は藩政時代からあって木綿縞は木頭織として明治時代に徳島へ出荷していた。平谷では絹の紬糸を造り、紬や帯を織っていた。平谷で5戸が機織りをしていた。太布は厚司(アツシ)用に大正の末期迄織ってた。菖蒲谷では樞が自生しているのを利用して厚司を織っていた。10戸位で機織りをしていてその内木綿縞や絹縞や地絹を織った。海川周辺では絹縞、木綿縞、太布を20戸位が昭和10年頃迄、地絹は20戸位が織っていた。楮は150戸が作って太布として衣料に使うほか米袋用に織っていた。絹糸の糸繰りは10戸あった。桜谷、水崎では地絹、絣、白木綿、絹縞帯を30戸が昭和20年頃迄織っていた。
 古屋で3戸が木綿縞を普段着用に、昭和20年頃迄、音谷では昭和28年頃迄、地絹、絹縞、木綿縞、帯を織っていた。成瀬では木綿縞、太布を常着として3戸が昭和20年頃迄織っていた。川俣西顕では常着用として2戸が太布を、深森では綿を購入して6戸が木綿縞を織っていた。小計では7戸が大正の始迄、中には昭和年代迄7戸が木綿縞や絹縞を、水崎では2戸が木綿縞や帯を織っていたが何れも昭和の始めにやめた。市宇では木綿縞や絹縞を織っていた家もあったが何戸であったか分からない。
 拝宮では地絹、木綿縞、絣、ぼろ帯を自分の家で糸を染めて織っていた。多くの家では自家用衣料として布を織って賃織りをしていた家は音谷の一部にあったほかはなかった。
 衣類として一つ身はメリンス、冨士絹の淡色柄物を、常着はネル(綿ネル)を用いた。
巻布団(おくるみ)は赤ちゃんの必需品で木綿の織物や柄物に綿を入れて使用した。ほかに衣類として被布衿やちゃんちゃん、三つ身の着物、四つ身の着物や羽織、男子の祝着があった。筏流しの船頭は厚司を着ていた。衣類の殆んどが自家製であった。以上の調査で感じた事は衣料用として自家生産をしていた昔の太布、藍染のふとん等、絹織物、木綿織物として残っていたので御苦労を知ることができた。

 まとめとして
 紺屋として二軒しかなかったが小浜の前川さん宅に型紙が残っているのを何時迄も保存して欲しい。藍は拝宮にしか残っていないので何時迄も絶やす事がない様にして頂き度い。
全国の各地にもない品種である。教育委員会も保存に努力されていると聞く。轟の中村功氏は拝宮和紙の復興に努力されている事は大変結構である。厚司の原料や紙布の原料として研究を重ねて欲しい。
 この度の調査に際し町内各地の老人の方々、教育委員会の横山尚純氏、水崎の西口幸子さんには63年2月から8月迄の長期にわたり町内の隅々迄御案内を頂き得難い資料を得る事が出来ました。また大変お世話になった。末筆乍ら有難く厚くお礼を申し上げます。


徳島県立図書館