阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第35号
上那賀町の民家

建築班 四宮照義・鎌田好康・林茂樹
     森兼三郎・鍬田耕市

 はじめに
 上那賀町は徳島県中央部、那賀川中流域の山間に位置し、良質のとくしま杉を生産する林産地域である。私たち建築班は社寺班と合同で地域建築の特質を見るべく、民家、社寺と調査したが、社寺の報告は社寺班によるものとし、ここでは民家についての調査報告をする。なお、本調査には海部町の調査にも参加されたフランス人のドミニク女史とマルレーヌ女史、京都在住の本県出身建築家木下氏が客員として参加した。本報告書の最後にドミニク女史の感性豊かな観察眼による印象記を掲載した。

目次
1.高木 健男家(入母屋の家) 水崎字兎の藪
2.中村 頼明家(玄関構えの山庄屋の家) 水崎字向中村20
3.谷   澄家(入らずの間のある家) 海川字宮久保10 
4.松野 栄枝家(峠の農家) 海川字岡崎
5.猪子 好嘉家(デンジ梁の家) 古屋字鎌瀬11
6.平川 邦義家(猪囲いのある家) 川俣字谷山16
7.橋本  功家(一般山村農家) 檜曽根字中須13
8.蔭佐 武市家(二間取りの家) 白石字下用知
9.上那賀の印象 ドミニク・ボリット

1.高木健男家(入母屋の家)水崎字兎の藪
 高木家は水崎の那賀川の深い谷沿いに走る道路に面して山側の石垣で積まれた上に屋敷がある。母屋を中心に東が道路で北に納屋、南に離れを配して南の山側少し登った所に墓地がある。母屋は慶応8年に建てられ、大正8年に屋根を茅葺から瓦葺の入母屋造に葺替えられている。平面形式は元は「四間取」であったものを改造、ウチニワ部分に部屋を新設し中央に玄関を設けている。柱は栂で大黒柱270角と夷柱200角は共にケヤキである。また、各室に囲炉裏があり玄関床下に芋壼が掘られていた。縁側は大正8年の改造時に濡れ縁だったものを縁側にしたものである。

2.中村頼明家(玄関構えの山庄屋の家)水崎字向中村20
 高木家から上流へしばらく行くと、石垣が高く美しく積まれた屋敷が見えてくる。これが中村家で、今は住んでいないため留守の管理をしている隣家の人に説明を受けながら見せてもらった。中村家は庄屋をしていたとの事で、屋敷構えからもそのことはうかがえる。
かつての大洪水により屋敷を流された事があり現在地のような高いところに石垣で積み上げた敷地を造った。
 アプローチは中央正面から石段で玄関に至るものと南端から道路より斜めに上がって納屋の下をくぐって母屋に至る2方向がある。正面石段も見事なものであるが、特に納屋下からのアプローチは空間構成が変化に富んでいる。各建物は母屋を中心に、南に納屋、北に倉があり石垣の下石段横に風呂小屋がある。母屋は屋根が茅葺寄棟を波トタンで覆い、前面にオブタ(大蓋)屋根、左右に庇を廻している。この屋根はこの地方特有の急勾配で美しい。間取りは一般的民家とは異なり、玄関が最初から造られていた変形「五間取」で、年寄の間は後にウチニワを改造して設けられたものではないかと推察される。母屋の前面に約2m 張出したオブタには大きなオブタ梁を突き出し、これにオブタ桁を架けている。
屋根裏の小屋組は茅葺屋根に用いる「サス組」構造となっている。玄関欄間には鶴に松の透かし彫りがあり、オモテ柱はケヤキ125角、敷居は桜と立派な普請である。しかし大黒柱も無く、棟札も見当たらず改造部分も多くて建築年代は明白でないが、130年位前に建てられたものと推定される。

3.谷  澄家(入らずの間のある家) 海川字宮久保10
 小さい谷川をはさんで海川の八幡神社のある山を背にした敷地は樹木に覆われている。石囲いのある敷地は周りからの独立性を保ちながら落ち着いた雰囲気を創り出している。アプローチとなる屋敷の東の野良道は北の県道から南下してきており、敷地南を回り込み西裏の谷川を越える小橋へと続いている。東面した母屋を中心に南に納屋・牛屋、北東に風呂・便所を配している。母屋は波トタン葺切妻で周囲に庇を付けているが、文化12年(1815)の棟札が残されており、元は茅葺屋根であったものを昭和6年に改修したものである。平面形式は「四間取」であるが、方位の関係で部屋配列が一般と異なりニワ・カマヤが北に位置している等珍しい。この家は前にも調査されており『阿波の民家』に詳細に報告されているので説明を割愛する。現在住んでいないこともあり建物の傷みの進行が心配される。
 ※イラズノマ:山間の民家の中には屋敷、土居、郷士等の大きな家には「テングノマ」とか「イラズノマ」と呼ばれる部屋が奥の方に設けられているところがある。
この部屋は主人専用の部屋であって、家族はこの部屋に入ってはいけないことになっている。「切腹の間」とも呼ばれる。

4.松野栄枝家(峠の農家)海川字岡崎
 松野家は海川から平谷に越える峠近くの旧街道沿いの日当りの良い斜面の敷地にひっそりと建っている。母屋は切妻波トタン葺で庇を廻しているが、昭和54年までは茅葺寄棟屋根であった。棟札は見当らないが、梁などの小屋組の木割が大きく、梁組の架構方式、鬼天井、材質、間取り等から考えて天保年間(140年位前)の建築と推定される。間取りは西からニワ(土間)、オリマ(8帖)、オモテ(6帖)、奥にはネマ(4帖)、オク(2帖)があり、オリマ、オモテにはユルリ(囲炉裏)が設けられていた。このような平面形式を
「中ネマ三間取」と呼ぶ。松野家住宅は、上那賀町ばかりでなく阿波の山間地方には数多く見かけたいわゆる「山村一般農家」である。

5 猪子好嘉家(デンジ梁の家)古屋字鎌瀬11
 吊橋を渡り右側の山道を登って行くと道の下(谷側)にトタンで覆われた茅葺の寄棟屋根が見える。石段を降りると奥行きの狭い傾斜地の敷地に建つのがこの猪子家で、母屋は海川の松野家が左勝手であったのに対してこの家では右勝手の間取りであるがニワ、カマヤ、ナカノマ、オモテ、オクの部屋を持ち、平面形式は「中ネマ三間取」である。ニワ、ナカノマ、オモテの間仕切上部には鴨居を用いずに4寸×7寸の大きな梁の下端に溝切りをして梁と鴨居を兼用している。これを「デンジ梁」と呼んでいる。デンジ梁は山間地方の古い民家にはよく見られるもので、これがある家は大体150年以前の建築であると推察される。また、ニワとナカノマ(茶の間)と境に6寸×8寸の大きさのケヤキの大黒柱がある。

6.平川邦義家(猪囲いのある家)川俣字谷山16
 那賀川の支流谷山川に沿ってどんどん上り詰めると、峠近くの広く開けた所に一軒だけ平川家がある。家人が山仕事に出て留守のため外側だけ調査した。
 屋敷は西が谷川、北が裏山で樹木で囲われ、北東から東、南に石垣の猪囲い(シシガコイ)を巡らし、鬼門の位置に屋敷神様を祀ってある。アプローチは南の門で、波トタン葺切妻屋根に庇を廻した母屋を中心に西側に波トタン入母屋二階建納屋、南に便所・風呂場を配している。内部を見れなかったため外廻りの柱、窓、壁等により間取りを推測し作図
したが、平面形式は「四間取」の風格ある家と考えられる。また、屋根は軒先の構造から推定して茅葺であったものを改造したものとも考えられる。

7.橋本功家(一般山村農家)檜曽根字中須13
 長安から東尾に向いて川に沿って登ると、川向こうに橋本家の屋根の銀色が太陽に反射してまぶしく輝いている。屋敷は、石垣を積み上げた傾斜地の敷地の例に洩れず奥行きが少なく、横長の敷地で、母屋と納屋が横に並んで建っている。アプローチは谷から登って南東隅から入るのと田畑の間を斜めに降りて北西から入るものがある。敷地西の納屋は波トタン入母屋2階建であるが2階部分が母屋地盤と同じレベルにしてある。母屋は波トタン巻茅葺四方下。平面形式は右勝手四間取りを改造し中央に玄関、ウチニワ部分に3帖間を造り、カマヤを増築してある。

 

8.蔭佐武市家(二間取りの家)白石字下用知
 木頭村境を山沿に道をとるとすぐ下用地の部落が道路下に開ける。段々畑の石段をてすり代わりに下りていくと傾斜地に急勾配のトタン屋根が見える。蔭佐家は上那賀町に限らず山間地方に居住した一般林業農家の典型的なもので、居間としてのオリマと客間としてのオモテをもつ二間取りである。いずれの部屋もユルリを切った拭板張りの床に「畳ムシロ」を敷き、南側に落とし縁がある。後に左側にニワを増築してウチニワとカマドを設け、右側には、物置を付け足した。現在は居住しておらず、棟札は見つからなかったが、軸組・小屋組等から推察して約200年前の建築であるとおもわれる。

9.上那賀の印象 ドミニク・ボリット
 今回、四宮先生を始めとする調査グループの皆様の暖かいご配慮により、上那賀町の民家調査に参加させて頂き、厚くお札申し上げます。お蔭様で、数多くの民家並びに宗教・文化に関わる歴史的建造物をつぶさに観察し、当地の現状はもとより、この地域の古来よりの生活ぶりを知ることができました。
 まず目につくのは、その美しい山並と、強烈な夏の陽光を浴びて色鮮やかに映える豊かな緑です。いたる所に水路が設けられ、冷たく透み切った水が溢れています。山の斜面には幾重にも田畑が耕され、その合間を深々と生い繁る樹木が埋め尽くしています。直線の少ない道がくねくねと続いており、家々が肩を寄せ合うように固まって各集落を形成しています。
 また、近寄ることも容易でないような高い所にも民家がそこここに点在しています。道の片側には土砂崩れを防ぐ防壁が築かれており、道端の数か所に、昔からこの土地を守って来たお地蔵様が祀られています。
 自然と伝統を愛する人々の目にも、豊かで健やなこの地域がその魅力を失わずに産業を発展させて来たことがうかがえます。戦後、ここから送られた大量の木材が、破壊された都市の再建に使われ、この地域は経済的にかなり潤いました。しかしその繁栄から久しく遠ざかった現在では、中央の活動から離れ、激しい経済戦争とは隔絶されてひっそりと暮らしているように思えます。
 お婆さんが腰を折り曲げるようにして険しい山道を登って行きます。山の畑から野菜をもいで来るためです。しかし、こういう風景も過去のものでしかなくなるのでしょう。やがて、誰もがスーパーマーケットで何もかも買うようになるのですから。
 高い所に点々と離散する民家は、全く見捨てられてしまっているか、そうでなくても年にせいぜい一度家族の者が訪れる程度です。神社やこれに付属する舞台やお堂も遠い存在になっています。演劇に使われる舞台はもはや殆どなく、これに隣接する神社にも訪れる人は全くありません。その昔は重要な宗教的・社会的役割を果たしたこれらの建造物も、今では遺跡に過ぎませんが、その美しく精巧な造りは今もなお昔の姿を留めています。時代を生き抜いて現在も使われている建物でさえも、その活動の場は年に一度のお祭りに限られており、人々の活動に密着したものではなく、昔を懐かしむためのものでしかありません。
 最近では、村を出て近郊の町や都会に飛び出して行く若者が増える傾向にあります。残された家では、人々が農業や工芸(木工、和紙作りなど)に従事しています。その中の一軒である高木家は、林業で生計をたてており、自前の製材所を持っています。家は山の斜面にあり、回りはうっそうとした山々に囲まれています。舗装道路が家の前を通っていますが、隣の家は更に先の同じ程の高さに一軒あるだけです。高木家の裏は墓地になっており、先祖代々の墓が並んでいます。
 家はいくつかの建物で構成されています。中心となる建物が母屋で、ここには台所と座敷の他に部屋がいくつかあり、玄関があります。各部屋には和洋折衷の家具が使いやすそうに配置されています。離れには病身のお婆さんが臥せっています。物置と納屋は道具類や貯蔵品の格納場所です。この家は150年も前に建てられたものですが、大正時代に手直しをしたため始めの形とは随分違ってしまったそうです。
 例えば、座敷の畳の下には、「芋穴」と呼ばれる芋の収納場所があったのだそうですが、今ではなくなっています。今も尚変わらないのは、土間と座敷の間にあって母屋を支えている、ケヤキで出来た2本の見事な柱です。太い方を大黒柱、もう一つを恵比寿柱と言います。大黒と恵比寿は親子とも兄弟とも言われている七福神の神様です。大黒柱の上には二柱の祀を祭った額が掛けられています。大黒柱を表す大国主命は、知恵、忍耐力、健康を授け、恵比寿様を表す事代主命は、仕事や健康、繁栄を授けると言われています。
 大黒柱と恵比寿様はこの家に吉兆をもたらす家内安全の守護神です。幸運、富、福、長寿を表す言葉も額内に書かれており、家を支える2本の柱にその願いが込められています。
つまり、ここでは家がその建築様式を通して住人と神との橋渡しになっているわけです。このことは、家が人間にとって何にもまして大切な場所であることを示しています。
 人間生活において、建物、経済、社会、宗教はそれぞれが強いきずなで結ばれているのです。(訳:木下龍一)

10.あとがき
 民家は、人々の生活を写しだす鏡であり、その形態や素材、装置により地域の気候、産物、信仰、風習、生活様式などいろいろな事柄を我々に教えてくれる。上那賀町は四国山地の中央を貫く那賀川の中流域に位置し、平地の少ない山地や谷間の傾斜地に点在する民家は、猪子家、蔭佐家に見られるように、奥行が狭く横に長い敷地が多い。したがって間取りも二間取りとか、三間取り、中ネマ三間取りのような民家が多い。又、雨雪が多いため屋根勾配が平地民家に比べて急である。これらの屋根も多くは小屋組共に改修されて、波型トタン葺になっているものが多い。この報告書に掲載された8軒の中で特に印象に残ったのが、蔭佐家であり山間林業農家の形式をとどめているもので、他に例もなく文化財的価値が極めて高いと思われるので、是非保存が望まれる。最後に、今回の調査に当たりご協力をいただいた町当局並びに住民の方々に感謝致します。(文責:林)


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