阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第35号
古屋谷川筋における小祠信仰

民俗班 関眞由子

1.はじめに
 古屋谷川は那賀川の上流にあたり、海部郡境の霧越峠あたりを源とし、蛇行しながら町役場のある小浜に向かっている。この川の周辺に、小浜、谷口、古屋、深森、川俣、谷山、と6つの集落がある。ここでは、山の神さん、オフナタハン、花折りさん、などが、希薄になったとはいえ、今も人々の信仰の対象となっている。
 以下に記すのは、こうした小祠信仰について、聞き取り調査を行ったものである。
2.山の神さん
〔小浜〕 宮ノ久保(写真1 )1か所のみ

 昭和30年頃迄は、土地の名家である元木家が祭祀を司っていた。これまでは祭主がかわると、病気が流行るといわれており、世襲であったとのこと。元木家が徳島市に転居したため、以後は神職さんがとり行うこととなった。
 祭日は、1月7日(以前は9日)で、昭和30年代迄は、盛大に神事が行われていた。当日は当番が山の神祠に出かけ、両脇に、3〜4cm四角に切った大根に実のついた南天の枝をさしたものをサンボウに載せて供える。正面には、弓と矢を供えた。その他、海のもの山のもの7品を供え、祝詞奏上のあと、「的射ち」の神事が行われた。竹で編んだ丸い的に向かって、雉などのヤマドリの羽で矧(は)いだ矢で射る。在所の男性が参加して、賑々しく行われていたという。当番はこの日のために何十本もの矢を作っていたとのことで、ヤマドリの羽を集めるのにひと苦労したものだったという。(味上氏談)
 また、山の神さんは女の神様だといわれている。昭和30年以降は、当番が祀るだけになっている。
〔谷口〕
 現在は谷口の山の中腹の石の下に移転しているが、以前はダムの下手の橋の下にあったとのこと。祭日、伝承などはよく分かっていない。
 くせ地(後述※)がないので、山の神さんは少ないという。
〔古屋〕
 氏神さん(春日神社、吉野神社)の境内右側の境内社と野々尻の道路から約20m入った、清水の湧く雑木林の中の祠(写真2 )と2か所。

 氏神さんの境内にある山の神さんは、正月7日が祭日で、現在も在所の人々が集まって盛大に行われる。ここでも「的射ち」の神事がある。当日は在所の人々が家族総出で、お重箱に御馳走を詰めて集まる。海のもの山のもの7品を祠にお供えしたあと、境内の下の広場にしつらえた直径1m程の的(竹で円形に編んだもの)に向い、弓(タニツゲを削ったものにカシ、あるいはコウゾの皮を細くして撚り合わせて弦に張ったもの)と矢(障子紙を切って羽状にし、竹にはさんだもの)で射る。この的を射る前には、大根を1.5cm程に輪切りにしたものを半分程皮を剥ぎ、剥いだ部分を一口かじる。また大豆の煎ったものを二つ三つ食べる。理由は分からぬが、ずっとそうしてきたとのこと。(写真3 4 )

 また、この神事にまつわる言い伝えも残っている。明治20〜30年の頃に、在所で名うての元気者であった青年が、鉄砲(火縄)で的にあてようとしたがいくらやっても音すら出ない。業を煮やして天に向けて発砲したところ、やっと音がした。以来この行事は、矢でなくてはならぬといわれている。(中野氏談)
 12月20日はハテノハツカとよばれており、山仕事をしてはいけない。
 また、オコゼ(海の魚)を供えると猟の収獲が多いといわれており、魚屋に頼んでとり寄せ、供えることもあったとのこと。
〔深森〕
 長老である古蔭氏によると11か所。多くは谷川のせせらぎ近く、こんもりと茂る樹木の中にひっそりと祀られている。谷には必ずあるといってよいほどである。殆どが個人で祀っている。今も山仕事をする人がお神酒などを供えているとのこと。(写真5 )

 向井氏によると正月2日には「矢開き」の神事がある。ここでは矢を射るのではなく、畑で「鍬初め」を行ったあと、明き方に向かって鉄砲を打つ、といったものである。今も続いている。
 正月4日には「山ほめ」といって、山仕事に出かけ、木の切り初めをする。以前は山をほめていたらしいが、今は、単に仕事はじめという意味のもののようだ。
 正月7日、9月9日は「山の神さんのおまつり」である。山仕事を休んで、お当家がお神酒をもっていって供え、祝詞を奏上する。(かなり谷奥の祠もあるので、近いところで済ませることが多い。)夕方には皆が氏神さんに寄り、簡単な肴で酒宴を開く。
 12月20日は、ハテノハツカで山仕事は休む。数十年前、在所のH氏が、この日に長子ケ谷に炭焼きに出かけて怪我をし、それがもとで亡くなられたとかでその後「ハテノハツカは長子ケ谷に行かれん」と恐れられていたそうである。
 山の神さんは、女の神様といわれている。このため女性を嫌うので、女性が祭りに関わることは少ないようだ。ここでも、オコゼを供えるとよいといわれている。理由は、女の神様で嫉妬深いことから、オコゼの顔を見ると安心されるから、とのこと。ただ、実際にお供えする人は稀なようである。
 また、荒神(あらがみ)さんなので、朝お神酒を供えてはいけないともいわれている。 お神酒をのんで気がガイ(荒く)なられるので、という訳で、夕方仕事を終えてからお供えするとのこと。
 猪がとれた時は、その耳を削いでお供えするのもよいとのことであるが、深森ではこれを鉄砲の神様(後述)にお供えしているようである。但し必ず実行しているという訳ではない。
 ※ くせ地
 何かと問題のおこる土地というような意味で使われる。何故そう呼ばれるようになったかについては、よくわからないが、一般に呪われた土地だといわれている。耕地の少ない土地柄なので、少しの平地があると奪い合いになってしまう。うまく決着がつけばよいがむりやりということになると、片方が恨みを持ったまま諦めることもある。そうした人の中には、大神宮さんのお札を逆様に埋めて、呪いをかけたりする人もあったそうで、ここでは、山仕事をすると、怪我人、病人が続出したという。この為、概して、くせ地はもともと日当たりのいい、良い土地のことが多い。
 また、そういう土地に山の神さんが守護神として祀られることも多い。
例1 蛇淵の山の神さん(深森 古蔭氏談 明治37年生)
 蛇淵にある山の神さんは、以前に大きなムカデを殺して埋めて呪ったとのこと。以前にM氏がこの山の神の祠の木を伐ろうとしたところ、腹痛に悩まされた。古屋から大夫さんに来てもらったところ、山の神の祠の中に太い蛇がいっぱいになってとぐろをまいていた。
 また、くせ地になる理由は他にもある。
例2 おぎゃあ泣き(深森 古蔭氏談)
 かつて、わらびは大切な食料で、この根をすりおろし、かたくりのようなものを作っていた。ある日小さな子供を連れた母親が、わらびの根を採りに出かけた。懸命に採っている最中に、子供がむずがって泣きはじめた。いくらなだめても泣き止まぬ。思い余った母親は子供の首を紐で絞め、殺してしまった。殺した子供はツバノキの木の下に埋めたが、死んだはずなのに泣き声が聞こえる。怖くなった母親は、何度も踏みつけたが、それでも泣き止まなかった。その後も人々はしばしば子供の泣き声を聞いたという。誰がいうともなくおぎゃあ泣きの土地と言われるようになった。この土地の所有者は崇るということでまもなく手放してしまった。
 以上のような悲しい話もあれば、中には、カボチャみたいなサツマ芋が出来たり、山で火を焚いたあと地に、一夜のうちにコンニャクが生えてきた、などというのんびりした話もある。
 こうした言い伝えを破っていこうとしている若い世代も少なくはない。
例3 山の頂上のウナギ(古屋 中野氏談 昭和2年生)
 深森のくせ地とされている某山の山頂で山仕事をしていると、清水がひどく濁っているのに気が付いた。見れば太い蛇が太いウナギの横腹に食いついて格闘している。こんな山の上にウナギがいるのは不思議な話だと思いつつ、棒で蛇をはらいのけ、ウナギを捕まえて焼いて食べてしまった。想像を絶する美味しさだったという。年上の人達に注意されたが、その後何も起らなかったとのこと。
[川俣]
 深森と同じく谷ごとに山の神さんがある。川俣下組と奥地ではそれぞれ在所ごとにお祀りしている。下組にあたる次郎屋敷に住む西氏の話では、春と秋の2回(1月7日、10月7日)山の神さんの祭りが行なわれる。この日は山仕事を休み、当家は直径5cm 程の丸餅(或いはシラモチ―お米の粉で作ったダンゴ)を二つ重ねたものを1個とお神酒をお供えし、夕方には氏神さんに集まって、お神酒で宴を開く。
 なお、西氏のお話では、山の神さんの祠として 20cm×20cm の板2枚を屋根状に三角形に合わせ、後方と下に板を張ったものを作ったことがあるとのことであったが、これは深森のオフナタサンの祠の形状とよく似ている。
 また1月4日に山開きをしていたとのことで、その日に猟をして獲物があると、その1年間は獲物が多いと言われていた。今はもう行なわれていないが藁と竹で角の生えた鹿のかっこうをしたものを作って、そのお腹に御飯を詰めて山の神さんにお供えをしていたようだが、確かでない。猟から帰って来たらその御飯を犬に食べさせていたという。
 やはりここでもハテノハツカに山仕事を休むといわれているが、今実行している人は殆どない。しかしこの日に怪我をしたら治りにくいとも言われている。
[谷山]
 6か所に山の神の祠がある。
 ここでは、毎月7日が山の神さんのお祭りで、この日は山仕事を休む。今でも続けている人は多いとのこと。当家は、氏神さんに海のもの山のもの7品を持って行っておまつりする。夕方には皆でお神酒をいただく。この頃はあまり人が寄らなくなったようである。

3.花折りさん
[古屋]
 氏神さん(春日神社、吉野神社)の川向かいに大きなカシの木があり、その下あたりを花折りさんと呼んでいた。石とかいった目印のようなものはない。今はその木もないとのこと。名称のみ記憶されているようだ。集落の川向かいにあるため、現在は釣橋がかけられているが、以前は丸太を渡してあったので、大水の時に流されることがよくあった。そういう場合は、氏神さんにお参りできないので、丁度真向かいにある花折りさんに、代行として手を合わせていたという。やはり草花を手折って供えることもしていたとのこと。
[深森]
 在所に2か所あるとのこと、1か所は古屋と同じ氏神さんの川向かい(在所側)にある。
現在、セメントの台の上に縦横 28cm×28cm 厚さ 16cm の自然石(但し真四角ではなく左側の角が少し削られた状態になっている)と、10cm 角で高さ 15cm の四角柱状の自然石がのせられている(写真6 )

 道路ぶちにあるので、わざわざ氏神さんにお参りしなくとも(氏神さんの代行の意味がかなり強い)、花折りさんにお参りすれば同じくらいちゃんと護ってくれる。以前はセメントの台などはなく、高く積み上げた石であったとのこと。
 山に登る時は、花を折って手向けていた。今は車で通り抜けてしまうので、お参りする人も減ってしまったとのこと。しかし写真を撮影した時も、少し枯れかかった草花が石の上に置いてあったということは、今も花折りさんに道中の安全を祈る人々がいるということなのだろう。

4.オフナタハン
[小浜]
 味上家で祀る。オフナタサンは足が悪いので、足の病気によい験があると言われている。子供は12人いるが、餅などは13個供える。残りの1個は何処からかやってくる子供が食べるためのものとのこと。
 以前は、四ツ角にまつられていたが、現在は移転して田の道の途中にある。
[谷口]
 谷家で祀る。石垣の中で枠組みを作り、掘り込んだ状態の祠があり、高さ約 20cm、底辺 20cm 四方、円錐状の石が御神体となっている。小豆をお供えするのがよいとのことで、盆、正月などにお赤飯を供える。子供が十数人もいるので、黙って供える。目が不自由、足も悪いとのことで、下半身の病気、特に帰人病の時にお参りするとのこと。
[深森]
 古蔭氏によれば3か所。(写真7 栩谷家)

 女の神様で、盲目で、にじり(足が動けない)だという。だから「オフナタハンは身体が御不自由だから動かされん」といい、移転することをさける。また子供が12人いるとのこと。餅を搗いた時とか、サツマイモを煮た時などは必ずお供えしたとのこと。餅は二つ重ねた餅を1対。但し、オフナタハンにお供えをする時は黙ってしなければいけない。声を出して「○○をお供えします」などと言うと子供達の耳に入ってしまい、子供達が食べてしまうので、お母さんであるオフナタハンの口に入らないのだそうである。
 特に決まった祭日はないが、おつごもり(12月31日)の晩には必ずお供えをする。この際、セチギといって、長さ6cm くらいの木切れ2つを約 20cm の細い木の両端に縛りつけたものを供える。これについては、オフナタハンの子供達がセチギを見て喜んでつっつく。子供達が遊んでいるうちに、お母さんがお供えを食べることが出来るとの言い伝えがある。
 また、「がいな神様」とのことで、おまつりするのをうっかり忘れたりするとその報いがあらわれることもある。ある若い奥さんが急に足が痛くなってどうしても治らない。祈祷をする人にみてもらったら、オフナタサンをおまつりするのを忘れていたとのこと。ちゃんとおまつりすると、1週間で治った、という話もある。
[谷山]
 奥カツエ氏(大正4年生)の話では、屋敷神さんをお祀りしているが、以前は何の祠かよく分からず、オフナタサンとしておまつりをしていた。
 目の神さんでもあるとのことで、目が悪くなると川でジンゾク(小魚)を採って来て、生きたままお供えし、お願をかけたことがあったという。後に屋敷神さんということが判ったとのこと。
[川俣]
 次郎屋敷に祠があったが今は残っていない。西氏によると、子供がたくさんいる神様で30年くらい前までは、女の人が内緒でよくお参りをしていたとのこと。

5.その他
1 庚申さん―小祠信仰のテーマから少し外れるが、庚申さんなどについての伝承を特記しておく
[深森]
 お庵の近くに真言百万遍塔とともに立っている。
 失せ物をした際、お願をかけると必ずみつけ出してくれる。見つかるとお礼に赤い布を縫い合わせて作った、全長6cm 程のサルの人形を1対、お供えする。現在もいくつものサルの人形が吊るされている。
[川俣]
 横幅 55cm、縦 40cm の石組の中に祠がある(写真8 )耳の遠い人が願をかけるとかなえてくれる。この際、穴のあいた(自然に)石をお供えするとよいとのこと。現在も穴のあいた石が、3個程度供えてあった。また同時に、失せ物によいとのことで、深森と同じサルの人形も吊るされていた。

2 鉄砲の神さん
[深森](写真9 )

 ウルシガタニ上流。深森では、鉄砲を持って猟に出かける人が大勢いるにもかかわらず、事故が起こったことがない。これは鉄砲の神さんが守ってくれているからとのこと。地元の人々は、全国でも3社しかないうちの1つだと称している。
 林道を車で約15分程、ウルシガタニ上流へと登る。橋のない谷川を渡り、約 10m 程登った所に祠がある。通称は東照権現さんだが、古蔭氏によると昔は「オジョウダイゴンゲン」と呼んでいたらしい。祠は3つあり、左端の大きい祠は東照権現さん、右端が鉄砲の神さんである。昔は、高さ1m の石が御神体であったとも言われており、その石は現在祠の横にある。
 祭日は、11月3日。深森で鉄砲を持つ人は全員出かけて行く。早朝、日が出るか出ないうちに家を出る。お当家は、餅、お神酒、魚(アジ、サバなど)1対、野菜、椎茸、昆布、果物、塩、水など7品を供える。祠の前で、全員が鉄砲を袋から出し、石にたてかける。
祠前のあき地で焚き火を燃やし、お祓いをしてもらう。その後、お神酒をいただく。

6.おわりに
 今回の調査で、山の神さんの祠の分布をみると、深森、谷山、川俣に集中しており、土地の人々の話ではくせ地との関連もあるのではないかとのことでした。この点については今後さらに検討していきたいと思っております。
 また、上那賀町の方々には、多大なご協力をいただきました。玄関先にすわり込み、言い伝えなどをお伺いしながら昔に思いを馳せて、涙することもたびたびでした。拙文のため、こうした小祠によせる上那賀町の方々の思いを、文中に書き留めることができなかったことをお詫びいたします。
 また、今回調査しきれなかった小祠についても、再度上那賀町の方々のご協力、ご指導をお願いしたいと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。
 最後になりましたが、お話しいただいたのは、次の方々です。
○小浜 味上 嘉公様(大正14年生)
○谷口 谷  澄男様(大正12年生)
○古屋 中野 剛豪様(昭和2年生)
○谷山 奥 カツエ様(大正4年生)
○深森 向井 努様
    古蔭幾太郎様(明治37年生)
○川俣 西   顕様(大正7年生)
    竹花 徳天様(昭和7年生)
 その他にも、お忙しい中、畑仕事、山仕事の手を休め、お話いただいた方々、ありがとうございました。
 また、酷暑の中、山奥の祠まで終日ご案内くださいました深森の、向井努様、教育委員会の横山先生には、重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。


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