阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第35号
上那賀町海川の葬送と旧盆の行事

民俗班 前川富子

1.はじめに
 今回の調査で海川を選んだについては、別に深い意味があったわけではない。数年前に海川出身の若い方と働いた事がある。ここだと地図に示されて、ものすごい山の中だと思ったが、山の幸、とりわけ柚子入りの餅など相伴にあずかっているうちに、海川という地名が桃源境のように心の中に咲いていたのである。
 上那賀町へ足を踏み入れるのは始めてのことで、西も東も考える事なく、とにかく海川へ行くのだと決めていた。町当局の方も、一人はずれて海川へお世話になるについては、随分お手数であったことと思うが、心良くご協力下さって感謝している。特に公民館を開放して自由に使わせていただいたので、精神的、時間的、体力的に大変助かっている。
 調査は海川の老人会である福寿会(会長 山田守氏)に全面的にご協力いただいた。逸る気持ちをよく理解下さり、適切な話者を選び、必要な場所へご案内下さった。寝泊りしている公民館には食料品の差し入れがあったり、風呂をご馳走して下さったり、美しい風景と相俟って思っていたとおりの土地であった。最後の日には送別会まで開いていただき、未熟で大した調査もできないことは別として、人生にとっては成功だったと思っている。
 調査は、葬送関係、年中行事、食制、交通等について聞取りを行なった。報告は紙面の都合で葬送と年中行事の1部とした。大変ご協力ご援助をいただいたのにもかかわらず、時間と私の力の足りなかった事が残念であるが、とりわけヤマザクという焼畑農業について、あの重労働のなかのささやかな楽しみや、誇りまで、じっくりと腰を落着けて聞ければ良かったのにと惜んでいる。今後の課題であると心しているところである。
 本調査にご協力下さったのは下記の方々で心からお礼を申し上げる。
 大谷佳子氏(大正3年)、株田タメノ氏(明治38年)、仁義キミコ氏(大正2年)、杉本英子氏(明治44年)、杉本シマノ氏(大正3年)、走川ユキノ氏(明治34年)、谷カズエ氏(明治42年)、中村サカエ氏(明治44年)、日裏キヨミ氏(明治42年)、府殿定平氏(大正9年)、松本一市氏(明治38年)、山田守氏(大正3年)

2.海川の概要と講組
 海川は戸数113戸。4地区に分かれている。すなわち東(23戸)、西(43戸)、上海川(26戸)、上場(21戸)のホウジである。東にはナカドオリ、オカザキ、ミヤノクボ、ハシヅメ、オウウチ。西にはマツエ、オウウチ、ホシゴエ、ナガセ、カゲイ、フドノヂ、オオクボ。上海川にはヒウラ、カゲ、ナツギリ。上場にはウエノウチの小字がある。
 古くから林業で栄え、今は柚子の生産も目立って豊かにみえる。戦前から木頭往還(木頭村出原へ)、平谷往還(十二弟子峠を越えて平谷へ)、皆ノ瀬往還(霧越を経て海部へ)がひらけ、交通の要所でもあった。
 老人会(福寿会)、婦人会(海川婦人会)がある。八幡神社(海川神社)は旧郷社で、神社総代は各ホウジから1名ずつ出ている。上海川には上海川神社もある。宗旨はほとんど真言宗で、寺は端伝寺(木頭村出原)と妙法寺(上那賀町平谷)である。東のホウジに地蔵庵がある。
 講組は各ホウジに2組ずつあり、戦前から引続いている。講組は普段の付合いを大切にし、祝い事に呼び合い、道普請等を共同で行っており、講組の仕事をデヤク(出役)と言っている。
 出役のなかでも特に重要なものが死亡の前後から葬送、その後の仕事である。病人が死亡するとまずイチノトナリ(講組のなかでも両隣にあたる家)に知らせ、以後講中で役割を分担して助け合う。特に野辺送り当日は各戸より男女1名が出ることになっている。仕事は坊さん迎え(送迎)、死亡の事務処理、飯炊き等賄、買物、用具の製作、準備、穴掘り、竹切り、棺桶の製作、調達、石の用意、膳と箸の製作、霊供等供え物の準備、接待、受付等限りなくある。手作りの頃には豆腐、こんにゃく等もすぐにこしらえ、糯(もち)米も水にかして当日に搗けるようにしておく。

3.葬送
1 死とその前後
 コメヨウジョウ(米養生)
 病人が死にそうな時、病気が重い時に竹筒に米を入れて振って聞かせた。戦前のことである。
 お宮参り お百度参り はだし参り
 病気が重い時に家族がお願をかけて百度石を回っては拝殿で拝む。病人が重くなると自然に参るような気持ちになっていたが、現在では病気でお参りする人は少い。
 オガン(お願)
 戦前には病人が重い時に講中でお願いをかけた。普通はお庵(地蔵庵)か、家族の依頼で神職を雇い八幡神社でお願いをかけた事もあった。戦後しなくなった。
 ゴキトウ(御祈祷)
 重体という時に、お庵で部落や講中が祈祷をした。おひかりをあげ、お供えをして念仏を唱える。これは3回続け、ケツガンの日には病人の家から礼を言い、酒を振舞われる。
病気がなおれば快気祝として配り物をした。戦後しなくなった。
 ケツガン(結願)
 講中が寄り、可能ならば僧を雇い、ケツガンと言って経をあげていた。この時灯明(ローソク)の火が消えると病人の息も切れると言った。戦後しなくなった。
 ヨビモドシ(呼戻し)
 息が切れかけた時に名を呼ぶ。
 ヨビオコシ(呼起し)
 息が切れた直後に血筋の者が名を呼ぶ。
 忌中札
 死亡すると家の神棚に「忌」と書いた紙をはる。
 キタマクラ(北枕)
 死亡するとその場で北向きに寝させる。顔に白布をかけ、帚を側に立てる。マクラノメシを供え、線香をあげる。
 着物を逆にかけ、枕元に刃物を置く。刃物は鎌や剃刀で、猫が死人を起すのを防ぐためと言われている。
 マクラノメシ(枕の飯)
 死亡するとすぐにマクラノメシを炊く。これをギョウギチャワンに盛り、箸を添え、一本線香、水ともに供える。
 オツーヤ、ツヤ(通夜)
 一本線香、水、マクラノメシ、抹香を供える。
 講中が夜7〜8時頃から通夜に寄り合い、念仏を唱和する。講中は各戸より米1升(2升の講組もある)を持参する。講組のなかで葬式の役割をきめて実行する。家人は茶、菓子、酒(主に焼酎)を用意する。
 アルキ ヒキャク
 講中から2名1組になって死亡を親戚に知らせる。弁当持参で出るが、遠方では茶や飯を呼ばれることもある。木頭村、平谷あたりまで知らせに出ていた。昭和46年頃から電話ですませるようになり、親族が電話をかける。
2 野辺送りまで
 穴掘り
 大仕事なので講中の者が早朝から出かけ、墓穴を掘る。家人は六文銭又は硬貨を講中に頼んでおき、穴掘り人は適当な場所を掘る前に、先に埋められてある人から屋敷を買う意味で銭をまつってから掘る。
 朝、穴掘りが出る際にウチマ(家人)が連れ立って行き、空いた場所をきめて5円か10円の硬貨をおいて堀らせてもらうかたちをとる。
 穴掘りの鍬は柄を短かく切ってある。スコ(スコップ)、ケンスコ等を家人が用意して持たせる。掘出した土は棺桶をおいてからモドシツチ(戻土)をするので横に置いておく。
不思議なことに、桶を入れて土を戻すといつも土が足りなかった、と言っている。
 ハナシバ(樒)
 牛の声の聞かれんところのが良いと言われている。ニオヤマのトイの牛の鳴き声のしないところのハナシバが良い。講中が切ってくる。
 アマタレノメシ(雨垂れの飯)、ノベオクリノベントウ(野辺送りの弁当)
 野辺送りの朝、跡取の妻が軒下で茶碗1杯の米を鍋で炊く。飯は大1個、小4個の握飯にし、大きい握飯を中心に小さい握飯を4隅において膳で死者に供え、野辺へ持参する。
 ノベオクリノベントウは雨垂れの下で身近かな人が炊き、大きな握飯4個に握り膳で供える。
 ダンゴ(団子)
 米粉を丸めて茹で、赤、青、白の団子をつくる。膳に立てたくいに突刺し野辺へ持参する一方、会葬者に配って皆で食べる。(死者のために)「食べたげて」と言って特に食べてもらう。これを食べると病気をしないと言われている。
 針と銭
 竹の先を割って開いた上に皿をのせ、皿に水をはって死人が女の場合は糸を通した針、男の場合は銭を水の底に沈めて戸口に立てる。
 ユコワ、ユカワ、ユカイ
 今は蒲団に寝させたままアルコールで清拭するが、ネマで、たらいに湯を入れ、中に坐らせて笹の葉で身体を洗った。湯は木陰など陽のあたらない場所へ捨てた。
 死装束
 身内が晒木綿でふしをせずに着物を縫う。着物、手甲、脚絆、サンカク(三角)、サンヤブクロを縫う。死人には着物を左前に着せる。今は葬儀屋の棺についているので縫わない。
 一番近親の年寄が着物を縫う。縫いとばしにして糸の尻にも頭にもふしをくくらない。
袷、羽織等を着せ、経帷子をつける。三角(頭巾)はつける場合とつけない場合がある。
履物は履かせない。杖は持たせない。
 シニミズ(死水)
 棺の蓋を打つ前に身内の近い人から友達、近所の人がシニミズをあげる。
 別れの時にはハナ(樒の葉)に水をつけて飲ませて、「ええとこ行けよ」と言う。ハナはガン(棺桶)に入れてやる。
 納棺
 納棺する人は帯のかわりにわら縄でしめる。ガンには稲わらをつめる。これは「米を穫った後で腹が減らん」と言ってつめられていた。米少々と、あれば数珠を入れる。蓋は始めに石で叩いておいて金槌で打つ。
 ガンには座禅を組ませたかたちで屈葬する。着物、食物、日用品、サンヤブクロに六文銭等を入れる。蓋をした後カラナワで桶をしばる。
 いずれも土葬の頃の納棺である。
 ガン、オケ、力ン
 土葬の場合は棺桶を使用していた。大きな家では槙で製作するが、主に杉を使用した。
老人がある家では家人が用材を用意していた。丸い桶に作り、尺八のカンオンゾコと言っていた。竹のアイクギで板を止め、竹の輪を入れた。底穴は開けない。蓋は板で作り桟を打つ。講中が製作又は桶屋に頼むこともあったが、葬儀屋を利用するようになってからは製作していない。
 焼香
 オモテの座敷の床に十三仏さんを真中にお大師さん、お不動さんの軸をかけ、床前にむしろを敷いてガンをすえる。供物と膳をその前に供え、読経の間身内のなかで焼香台をまわして焼香する。外にいる人のためには焼香台を置く。
 オリョウグ(霊供)
 弘法大師と死者のための霊供を供える。霊供もふくめて葬式にはネギ、ニンジンは使用しない。僧が蓋をとって、箸を飯に突き立てる。オリョウグはオヒラ(高野豆腐と椎茸等の煮物)、オツボ(ナラエ)、ナカジョク(こんにゃくの白和え)、飯・汁(豆腐か油揚の味噌汁)。
 デダチメシ(出立ち飯)、デダチノゴハン(出立ちのご飯)
 一膳飯と煮〆(大根、子芋、じゃがいも等)を庭にむしろを敷いて用意し、庭を踏んだ人には皆、ここで食べてもらう。この煮炊きはトナリでする。飯は一膳だけしか食べてはいけない。
 1杯だけでもデダチに飯を食べる講中もあるが、戦後だんだんしなくなり、今はまったくしない組もある。
 出棺前にカキマゼの一膳飯を食べていたが最近はしなくなった。
 デダチノサケ(出立ちの酒)
 出立ちには酒は必ず出して皆で飲む。
 ヨビダシ
 雨落ちで名前を呼び出す。「おじいよ。いかんかよ。」というように一声だけ、身近な者が呼ぶ。
3 野辺送り
 野辺送り
 友引の日は避ける。昔は陽が西へ傾いてからでないと穢れると言って出さなかったが、火葬するようになり、富岡の火葬場まで2時間位かかるので10時から11時頃に出棺している。死亡の日に通夜をし、24時間経過してから葬式をする。当日の朝入棺して読経した後出発する。火葬後帰ってからムカワリをしている。
 以下は土葬の頃
 メシモチ(跡取の妻)、イハイモチ(跡取)、先棒、後棒(孫や子が担ぐ)、天蓋(親族のうち深いもの)、ハタ4本、身内、近所の人の順に出る。ホシバ(戸口の前の庭)で左廻りにまわってから山へ行く。
 故人の子息が頭にサンカクをつけ、アシナカを履いて青竹の杖をつき、部屋から直接外へ担ぎ出す。
 ハタ4本、天蓋、先棒、後棒、イハイモチ、メシモチ、親戚、その他の順に並ぶ。
 カンは縁から出、カドの真中へすえて親戚と役の人がそのまわりをまわり、僧が読経して、その間に会葬者が焼香する。
 アシナカ、アシナカゾーリ、ワラジ
 カラワラで編み、鼻緒を男結びにする。アシナカ、ワラジの尻をすぼめない。メシモチと家から担ぎ出す人2人の3足が必要。
 メシモチ、担ぎ手2人、カンの上に2足のせるので5足必要。
 メシモチ、担ぎ手2人、カンの上に2足、天蓋、イハイモチで7足必要。
 野辺送りの膳と竹の箸、天蓋、杖2本、ワラジ、ハタ4本、逆筒(花立)、ハナシバ、竹(天蓋、ハタ、杖用)、ソトバ、イハイ、ボンボリ、花篭、ソーレン等必要に応じて講中で準備した。ソーレンについてはお庵に骨組みがあるので、これに紙をはる。
 ハキバライ(掃払い)
 山へ担いで行ってしまうと「ええとこ行きなよ」と言いながら、通夜から立ててあった帚ではき出す。
 出棺後すぐに講中の人が死人の脇に立ててあった帚で掃き出す。
 チャワン(茶碗)
 棺が出ると戸口で茶碗を割る。
 マイソウヤ(葬儀屋)
 昭和51年頃よりマイソウヤに葬式を依頼するようになり、現在の葬式は祭壇をつくる葬式である。
 喪服
 戦前は一張羅の着物を着て送った。戦後黒い喪服を着るようになり、今は大体黒の着物か洋服である。
 塩払い
 野辺から帰ると箕に塩を入れてあるので、これで塩払いをする。
4 埋葬
 土葬
 現在はほとんど火葬であるが、今も希望により土葬もある。昭和62年に土葬を行なっている。火葬は昭和32年が最初であった。当時は土葬よりも火葬は金がかったので大きな家から始めた。
 埋葬は、死人の顔の向いている方にガンに印をつけてあるので、顔を西へ向けるようにガンを落す。身内の濃い人から土をきせて、後は講中が埋める。野辺送りに使った竹は鉈で何にも使用できないように切って捨て、ハタは紙を破って穴の中へ押込む。土をきせた上に平たい石のカサイシを置き、その上にノイハイと小さいきれいな石を置く。果物・菓子、ハナシバ等を供える。野辺送りの日か、ムイカにお堂又はロッポウを石塔が建つまで置く。
 埋葬が終ると後に残ったメシモチが供えた飯をひっくり返して帰る。
 マクライシ
 カサイシの上に置くきれいな石。河原で拾ってくる。
 ヒトツイシ
 河原で石を拾うと後を見ずに帰る。普段は「ヒトツイシは拾われん」と言われている。
5 精進落しと追善・墓参
 ムイカガユ、ムイカアガリ、ムイカ、ムイカノシアゲ
 トナリ(講中)の人を上座にして客とし、家主や親類が礼を述べて酒食を供する。この時に始めてなまぐさものを食べる。本来は6日目にしていたのだが、戦前から戦後すぐにかけて当日にするようになってしまった。巻きずし、握りずし、酢漬け、果物等が出る。
最近は刺身等をつける。
 ムイカも精進でする組もある。
 供物の菓子、四十九の餅をトナリに分ける。
 シジュウクノモチ、ムイカアガリノモチ
 ムイカアガリに出す餅なので、死亡するとすぐ講中が糯米を水にかしておき、当日の朝に搗く。白い丸餅で、お供えの後で親戚と講中に2個ずつ配る。
 ナヌカノシアゲ
 親戚・友達が主として集まる。墓と寺に参った後で酒食をする。
 追善
 前記のあとは三十五日(身内のみ)、四十九日、百カ日(身内のみ)、ムカワレ(一周忌)、三年、七年、十三年、十七年、二十五年(しない場合もある)、三十三年。これで一応終るが五十年もあり、五十年をされる人は早逝した不幸な人である。
 墓参
 盆16日、春秋彼岸の中日、正月前(注連を配る)、命日
春秋彼岸、盆、正月の16日。

4.旧盆の行事
 タナバタ(7月6日)
 七夕飾りは子供が遊びにする。青竹の竹笹に短冊を吊る。竹笹は7日朝に川へ流す。
 七夕には川で髪を洗うとよくおちると言われている。ムクデ(ムクゲ)、ビランカズラ(ビナンカズラ)の葉をもんだ汁で洗った。
 七タにはきゅうりは食べられん。さわられんと言われた。
 盆の七日(7月7日)
 出役で墓地までの道をととのえる。その後各戸は草刈り、清掃をして墓を清め、竹で花立て(逆筒と言って竹の節を逆に立てる)を新しくする。ハナシバ(樒)、水、米(シラゲ)、線香2本、果物、菓子等を供える。
 トーロー
 新仏のある家は7日から24日までトーローを立てる。
 オタナマツリ(7月13日)
 位牌その他の仏具を全部イカキに入れて出、谷の清水で洗う。洗った位牌はオモテの床前に吊棚をしてまつる。棚は芭蕉の葉を敷き、位牌を並べて飯、シラゲ、団子、そうめん、なす、きゅうり、酒、水もの等を白紙にのせて供える。両側にハナシバを立て、灯明をあげる。線香・抹香も供える。棚には上から両脇に竹笹、葉のついた里芋、前面にハナシバを逆にかける。
 晩に竹の先につけた松明をたき、戸外に高くかかげた。
 盆のヒトボシ(7月14日)
 朝8時頃に海川谷のスナゴウという場所でヒトボシをする。石を積んで台を築き、アキを割って火をつける。これに線香、白米を供え、側に置いてあるハナシバで水をかける。
ヒトボシには水神さん、お大師さん、新仏さんの3つの台をつくる。新仏のある家では酒を河原で振舞う。
 朝7〜8時頃、ホウジが寄って、ミヤノセやササノセのスナゴで迎え火をたく。川を背にして新仏さん、お大師さん、ご先祖さんの3カ所にハナシバを立て、その前にそれぞれ線香をたくさんくすらせる。それぞれに主として菓子を供え、念仏を唱えながらマキをたく。お参りの人は家からマキを5本ずつ干ガヤで束にして持参し、火の中へ放り込んで拝む。新仏には108本のマキを用意している。家族、親戚の全員が参加する。
 東のホウジは庵、上場はタメ(溜池)のほとりと庵の谷でヒトボシをしている。
 盆にはオチャトウをし、1日に21回まつる家もある。
 盆にはムカエダンゴ(青・赤・白の三色の場合と白のみの場合がある)。オハギ、カシワモチ(サルトリイバラの葉につつむ)、カキマゼ、甘酒(昭和50年頃まで)をつける。
 ニンゲンノボン(7月15日)
 7月15日は人間の盆と言い伝えられている。
 七月十六日
 新しいものを炊いてまつり、お棚を下げて位牌を仏壇にもどす。川で供えものを流す。
墓参りに行く(仏を送って行く)。氏神や庵でまわり踊りがあった。
 オトボニ(7月24日)
 盆は14日から24日までぶらぶらして家にいた。この日庵ではまわり踊りがあった。

  


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