阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第35号
上那賀町の方言

方言班 川島信夫

1.はじめに
 方言班は、3名が調査に参加し、森重幸が主として地名を、金沢浩生がアクセントと語法を、川島が語彙の調査に当ったが、ここでは語彙を中心に報告することにした。
 さて、その話彙であるが、言語学者の柴田武先生によると「わたしの経験では、方言は最小集落ごとに違っている。まったく同一の方言をもつ最小集落は二つとはない。それは理論的にも考えつくことである。それを押しつめると、けっきょくは、ある個人の言語しか対象にしえないということになるかもしれない。ことばの個人差は意外に大きいし、方言学はそのことに強い関心を寄せているからである。語彙に体系があるならば、それは小さい地域を単位をするほど、はっきりつかめるはずである。」といわれる。
 山間の谷あい毎に集落をもち、それらが近年まで統合の歴史をくり返してきた上那賀町では、とくに上記の説が当てはまるようである。西の上海川から東の音谷までは、順々に少しずつ違っていて、最後はかなり大きな開きになっているのである。他郷の人間が、1週間かそこらの調査で、その全容がつかめるはずはない。私事にわたって恐縮であるが筆者は隣村木頭の出身である。親近感から生半可知っているつもりでいたために一層わからなくなってしまった。結局のところ、地元の人にお願いするより他にないと言うことになったのである。
 そこで、お願いするというのはどんなことか。それは(1)、方言に関心を持っていただきたいこと。(2)、内省観察(自分が今までに使ったり聞いたりした言葉を正しく思いおこすこと)によって、消えゆく言葉を文字かテープに残してほしいこと。(3)、集落毎の相違を、具体的なことば(例えば、あいさつ、動物の呼び名など)で記録してもらいたいこと、等である。これらのうち(3)は中学生あたりにお願い出来ないかと思うのであるが、いかがなものだろうか。(2)は高年者の方で一人でも賛同下さる方があれば可能である。立派な『町誌』の成果もある。これを活用してやっていただけないものであろうか。
 しかし、お願いだけではいかにも無責任である。以下筆者自身が今回の調査に当って感じたことや、知り得た情報の概要をご報告して責めをふさぐことにいたしたい。

2.町並みと方言
 第二次世界大戦の末期、日本の都市は連合軍の空襲で壊滅的打撃を受けた。戦後の復興は都市の再建と並行して進められた。それは奇跡的とも言われる程のスピードで行われたが、そのかわり、生れた街は味気ないものばかりとなった。合理性と耐火性ばかり重視したコンクリートの全国画一の街並みとなったのである。木造家屋の日本はヨーロッパ諸国とは事情が違うにしても、もう少し何とかならなかったものか。地方色のない没個性の町並みは何としてもわびしい。
 その反省もあって生まれたのが町並み保存運動である。その結果、重要伝統的建造物保存地区(重伝建)の指定なども行われることになった。最近指定された美馬郡脇町の例などである。
 上那賀町の町並み(後述の方言と同じく西部と東部で差異をもつが)の特徴の一つに、杉皮葺きや枌(そぎ)葺きの家屋があった。県内では那賀奥の風景を旅人に印象づけるもので、長野県の木曽に似て、また一味違うものであった。今さらこの屋根の復興をなどと言う積もりはないが、その懐かしい屋根の家が見られたのは嬉しかった。場所は海川で、民家かと思ってたずねたら菱一林業KKの事務所だという。こんな建物で上那賀独自の民俗資料館があったらと思ったことである。

 方言は民俗と共通するところが非常に多い。その一つは滅びつつあることだ。その端的な例は民具と方言の関係である。最近民具保存の運動が各地に起こっているが、民具と方言は深いつながりがある。というよりは一体とも言うべきであろうか。民具がなくなれば、それに伴う方言も消滅する。例えば弁当入れのネッパがある。うすくへいだ桧の板を熱湯に浸して柔かくして曲げ、桜の皮でとじ合わせて作った円筒形の飯入れのことだ。明治以前の古い時代から最近まで使われていたものである。白木のものもあるが多くは漆ふきであった。木造であるため適度の吸湿性、保温性をもっていて食物の味が変りにくい。ふたは熱い湯を入れても手を焼く心配もなく手頃な湯呑みになる。セットになった小形の菜箱と入れ子になるのも便利だ。県下では、メンツ・メンパ・メッパ・モッソなど呼ばれていたが当地方ではネッパという人が多い。県下の各地では実物とともに名前も消えつつあるが、山仕事の多い当地ではまだ使われている。特に拝宮には県下唯一と思われる製作者中村功氏などもいるので、当町に限ってはネッパの実物も里言(方言名)も健在である。
 方言が民俗と共通するのは、共に人間の暮らしの中にあるということである。民俗は庶民の暮らしから生まれたものであり、それを表現するものは言葉(方言)である。暮らしぶりが変ればそれに伴う言葉も当然変わるので方言が生まれる。方言がなくなることは、その土地の独自の生活文化がなくなることを意味することが普通である。
 町並みと方言についても同じことである。枌・杉皮屋根の家について考えてみても思い当たることだ。枌を作るためのソギワリ(特殊なナタで、ナカゴに目針穴が無く、これにボロ布か、カジ皮を巻いて柄にする。ナタの峰をツチノコで叩いて木を割るために頑丈に造った刃物)、ソギツカシ(屋根の軒に枌や杉皮の滑り止めとして張る長い板)、ムナオリ(屋根の棟にふく曲げた長めの杉皮)、オサエ(杉皮を押さえる割り木や竹で、その上にヤネイシをのせるもの)、ウマノリ(台風などに備え馬乗り形に棟から軒に載せた材木)等々と、これに関連する方言は死語となってしまったのである。
 町並みの保存はもう手遅れであっても、それに関連する言葉ならばまだ復元は可能なことである。しかし、それもぐずぐずしては居られない。
 かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな若山牧水
 滅んでしまったのでは遅いのである。方言も民俗も懐かしいものであるが、そればかりではない。その土地土地の先人が、何代もかけて作りあげた貴重な文化遺産なのである。
今のうちに是非とも何らかの形にして残しておきたいものだと思う。

3.髪とヒゲ
 水崎に葛ケ谷と呼ばれるかなり深い谷がある。昔はおそらく秋の七草の一つである葛(くず)が生い茂っていたものであろう。葛と言えば大阪の信太(しのだ)の森の葛の葉孤が思い出される。葛の花はかわいらしいが、一面に生い茂った山間の風景はすさまじいものがあり化け孤の伝説も生まれたものであろう。同じように、この谷には山父という怪物がいたという伝説がある。
 ただし、山父の伝説が出来たのは当地に一つの方言があったからである。葛のことをこちらではコズ(ふつうには、これに蔓をつけてコズカズラという)と言う。そこで葛ヶ谷はコズガタニとなる。コズは「来ず」に通じる。一度この谷に入った者は「再びは帰って来ず」の谷となったのである。そこには箕(み)のような大きな口を持つ山父がいて人を取って食っていたというのだ。葛をコズと言う方言があったからこそ生まれた伝説である。
 この谷には近郷に知られた「髪神子神社」がある。この神社には山父も合わせて祭られているが、眼目は髪神子(ひげみこ)さんである。一般にはこれが訛って、「ヒゲムコハン」と呼ばれている。この発音に引かれてか、神社の横を通る林道の上に立っている石柱には「髪御向神社」という字が彫られている。

 ヒゲムコハンが有名なのは、この神社のご利益(りやく)が頭の髪を生やしてくれるからである。それを証明するかのように社殿の前に立つ神木には人の頭髪そのもののような黒い細い植物が多数たれ下っている。きのこ研究家の大橋孝氏によると、これは「ヤマンバノカミノケ」と呼ばれているきのこの一種だという。このきのこと、神社のご利益とは、いかにも関係ありそうに思われる。だが、今回の調査ではそれを語る伝承はついに聞くことができなかった。髪神子神社は大戸にもあるが、こちらはあまり知られていないようだ。
 方言のうえで興味深いのは、ヒゲムコハンが「髪神子」と表記されていることである。
髪(ハツ)の訓は「かみ」であり、「ひげ」と読むことは出来ないはずだ。それを、しいてヒゲと読ませたのは、この地方の方言のなせるわざである。ただし、大佐古のヒゲムコハンは写真のように「髭」の字を当ててあるが、これはどうであろうか。
 人体に生える毛をすべて「ヒゲ」というのは那賀奥地方の方言である。
 日本語ではふつうこれを、ヒゲ(髭)、カミ(髪)、ケ(毛)と3種の呼び分けをする。県下一般でもこの3種別はあるが、そのうち勢力の強いのはヒゲである。それがさらに進んだのが当地方や祖谷方面で、頭髪は「カミヒゲ」とも呼ぶが、ふつうには頭のヒゲという。毛深い男のことは「ヒゲのコーイ男」という。陰毛までも同様で、海川の大西久氏によると海川の東俣にはヒゲミザカという地名もあるという。峠道の坂があまりにも急なので、前をゆく女の人は恥ずかしい思いをするというのが、地名の起こりらしい。
 ちなみに(ひげ)と読む漢字には、髭(シ・くちひげ)、鬚(シュ・あごひげ)、髯(ゼン・ほおひげ)などの3種がある。英語ではヘア(hair)と言えば頭髪と体毛の二つを指すようで、当地方のヒゲと似た言い方である。
 上那賀町の方言のヒゲで、やや特殊なものは眉毛の呼び方である。

 今回の調査では、結果から言うと、マイノキ(5地点)、マヒゲ(2地点)、それに、マスゲ(平谷2人)であった。
 なお、眉毛と混同しやすいものに睫(まつげ)があるので、同時に調査した。その結果睫の方の呼び方は、マスゲ(3地点)、メヒゲ(2地点)であった。
 これだけの調査で、断定的なことは言えないが、眉毛については、古くは、「マイノキ」であり、睫の方は「メヒゲ」と呼ばれていたのではないかと思われる。
 そのように考えると、眉毛の方だけは昔からヒゲと呼ばずにケと言っていたことになる。
マイノキは、マイケケ(眉の毛)の変化であり、マヒゲは、マイゲ(眉毛)の変ったものか、とも思われるからだ。それともやはりここでもヒゲという言い方が、がんばっている訳であろうか。
 睫の方が、メヒゲであるのは、鼻毛をハナヒゲと呼ぶことからも了解される。マスゲというのは、マツゲという共通語のなまった新しい呼び方だと思われる。
 眉(まよ)のごと雲居に見ゆる阿波の山かけてこぐ舟泊りしらずも(万葉集998番)
阿波の国名が詠み込まれた唯一の歌として県内ではよく知られた歌である。奈良時代には眉をマヨと呼んでいたというが、少し昔にはどんな呼び方をしていただろうか。昭年30年代の老人の言い方を示した言語地図がある。国立国語研究所が作った「日本言語地図」であるが、そのままの記号では分かりにくいので書き直したのが1□図である。
 少し説明を加えると、まず調査地点は県内は32カ所。地図の一番下で、マイゲ・マヒゲの二つ並んでいるのは海南町浅川、その上のマイゲは同町皆ノ瀬、さらに上の白丸(マイゲ)が上那賀町椎野尾、右隣二重丸は相生町朴野、左隣は木頭村北川である。調査対象者は当時その土地の生えぬきの高年男性で、上那賀町は明治22年(1889)年生の家段菊八氏であった。
 この言語地図を見るについては留意していただきたいことがある。
 それは、(1)現在の実情ではないこと。つまりこれは一昔前の方言の実態(それは現在の方言の基盤となるものであるが)を示すものであること。(2)地図の記号は必ずしも、その土地の方言の代表とか標準とかいうものではない(それは、1個人が、たまたま答えたもので、思い違いの誤答もあるかもしれない)ということである。それでも、あえて、こんな地図を掲げたのは、当時県下で、これらの言葉が使われていたことは事実であるし,町内で方言調査をする場合は参考になろうかと思ったからである。

4.アゼとキシ
 今回の調査で結団式のあった日の午後である。役場から紹介された人の家を捜して歩いていたら、地元の人らしい老人に出合った。さっそく尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「その家なら、この道について行っきょったら、アゼテに丸太小屋の変った家がある。それを通りこして、ちょっと行てキシい寄った家じゃ」
 都会から来た人なら分かるまいと思っておかしかったが、同じ那賀奥出身の筆者には、いちばん分かりやすい説明なのである。
 方角を表わす場合、こちらでは東西南北よりも、川や谷の位置と流れの向きによることが多い。右・左を示す場合も同様である。アゼというのは川や谷のある方向で、キシはその反対側で高くなった方を指すのである。
 都会や平坦部から来た人には合点のいかぬ奇妙な言い方と思われるだろうが、山間部の生活ではすこぶる都合のいい表現なのである。
 那賀川上流地方は川沿いに集落が発達している。田畑も同様で、川や谷沿いの斜面に作られているので、水田は棚田となり畑は段々畑である。棚田や段々畑では山手の方はがけになっている。ここをキシと呼ぶのである。キシはたいてい石垣になっているが、キシ(岸)とそれに対するアゼ(畔)があるのが山間の田畑の特徴である。ここに平野部の畔ばかりの田畑を見ている者には分からぬ概念が生まれてくる。アゼとキシの間で働く人々の間で、この言葉は次第に意味が広がり方角、方向を示す言葉にもなったのである。漁師町の人が、舟の呼び方を拡張して前方をへ、後方をトモと言うようなものだ。

 水流を中心にして方角を決めることは、狭い範囲で暮らしていた昔の人々の生活には便利なものであったと思う。川や谷がなくても、それにかわるサコ(山の尾と尾の間の峡部)があるからどこででも使えるのである。アゼの方はまたマエ(前)、キシの方はウシロ(後)と言う場合もある。
 アゼとキシだけでは二方向しか表わさぬ。これに直交する方角は、流れの方向に従ってオク(上流方向)、シモ(下流)で表わす。これで四方が表わせるのである。オヒーサン(太陽)が見えなくても、磁石がなくても、誰にでもすぐ分かり、間違いのない言い方であったのである。それは例えば年齢を干支(えと)で表わすようなものだ。申(さる)と言えばそれだけで分かる。顔が似ているのではない。1歳の申年と13歳の申年を間違える者はないということだ。そして毎年同じ干支でいけるのである。
 アゼとキシは、勝浦川上流でも大体同じようであるが鮎喰川上流では違う。そこでは、キシに相当するのがネキで、アゼはハタだという。やはり同じ暮らしの知恵である。

5.ウグロ(土竜)とガルコ(蝌蚪)
 調査に歩いていて最初に目についたのは畑で回っているプロペラであった。風力計にしては変だと思って尋ねたら土竜撃退器だという。地中に震動を与えてモグラを驚かして退散させるというのだ。効果があるという人と、青竹立てても同じことと怪しむ者とあるようだったが、最近モグラが多いのは確かのようである。

 モグラの呼び名について調べてみた。
 『町誌』にはオグロ・オグロモチの2語が載っている。
 『日本言語地図』にはウグロジが出ている。
 今回の調査で聞かれたのは次のとおりであった。
 オグロジ(海川)
 オグロモチ(大殿、平谷、古屋)
 ウグロ(柳瀬、小浜、水崎)
 ウグロモチ(海川、柳瀬、古屋、小浜、桜谷、水崎)

 なお、この調査は、日本言語地図の調査の方法に準じて、他の多くの語と並行して行ったものである。方法としては面接による聞き書きであり、その際、絵に表わせる事物は、それぞれの絵を見て話していただいた。
 モグラについては、その伝承についても尋ねることにした。モグラには、鼡(ねずみ)の嫁入りと似た民話もあるし、昔の子供の良い遊び相手だったので何かありそうに思えたからである。
 それについては、モグラの手が後向きの理由の伝承ぐらいであった。親に手を振った(なぐった)から罰が当って手が曲がったという県下の各地で聞かれる話である。変った話としては「悪事を重ねているとモグラのように暗い所で一生を送らねばならぬことになるぞ」という教訓を親から度々聞かされたという例があったぐらいである。
 モグラ以外のもので、子供に関心をもたれていて、俚言の多い動物の例として、オタマジャクシを挙げることにする。
 蛙(かえる)の語源の一つに体の形をかえるからカエルになったというのがある。その一生のうちでも、派手に変るのは卵からかえったオタマジャクシである。その変化も面白いが、麦わら細工のガルゴスクイで、簡単に捕まり、小さな子供の手にも入るオタマジャクシは、子供達の人気に比例して呼び名も多かった。
 オタマジャクシの俚言は『日本言語地図』の上那賀の地点(椎野尾)には、オカマゴとガルゴが出ている。ついでに、この地図の近隣を見ると、ギャル(相生朴野)、ビキノコ(木頭北川)、ガエロ(海南皆ノ瀬)が載っている。
 今回の調査では次のようなものが聞かれた。
 ガニゴ(平谷・大殿) 県内の方言事典にも、言語地図にもない珍しい呼び方である。
 ガルゴ(海川・柳瀬・大殿・小浜・小計)
 ギャル(平谷)、新しい外来語のギャルを連想させる言い方でおもしろい。
 ギャルゴ(古屋・水崎)
 以上4語の語源はいずれも「蛙の子」だという〈日本言語地図解説〉。
 カエルノコ→カエルコ→ガエルゴ→ガルゴ→ギャルゴ、のような順に変化したものであろう。ギャルはギャルゴのゴが脱落したものであり、ガニゴはガルゴの変化したものと思われる。
 参考のために『日本言語地図』での県内の呼び名を列挙してみる。( )の中の数字はその語が地図の上に出る回数である。
オカマゴ(1) オタマ(1) オタマゴ(1) オタマジャクシ(21)
オタマンゴ(1) オマンジェロ(1) ガエル(1) ガエルゴ(1)
カエルノコ(1) ガエロ(1) ガルゴ(1) ギャル(2)
ギャルコ(2) ドマンチョー(1) ビキノコ(1)

6.山分から里分へ
 徳島県は広いとは言えないが、地勢・気候の関係から古来いくつかの文化圏があった。
そのうち、大きく分けて、北方・南方がある。また、これに重なって山分・里分という区分も考えられている。
 北方は主として吉野川沿いなので、上那賀町は当然南方であり方言もそれに含まれている。山分・里分の区分は境界線があいまいであるが、その移行地域に当るのが上那賀町である。言語現象(方言)についても同じことが言えるのである。
 山分の言語の特徴は一口で言えば、古い形が残っているということである。
 古い言葉が田舎(いなか)に残っていることは、ずい分昔から知られていた。本居宣長も「ゐなかにいにしへの雅言ののこれる事」という一文を残しているが、これは現在にも当てはまることである。徳島県では、祖谷・木頭が最も奥地であるが、古い言葉が最も多く残っているのは、やはりここらである。そこで古い言葉がどこまで使われているかということを調べて、その境界線を地図にかくとどうなるか。その一例が、地図3である。

 ここで掲載の地図について少し説明させていただく。
 まず地名。○印は町村合併以前(昭和20年代)の町村役場の位置で、その地名は旧町村名であること。上那賀町周辺について見ると、○が5個ほぼ直線に並んでいる。左から木頭・上木頭・平谷・宮浜・日野谷である。
 次に等語線。(1)〜(4)古い言い方で、この線よりも左側、木頭寄りに使われているもの。
1〜4は比較的新しい言い方で右側、木頭より遠い方で使われている言い方である。
 個々の語について。
 (1)行クロー。「あの人も投票に行くだろうと思う」という推量の助動詞「だろう」を「行クロー」のように言うのである。今回の調査では海川でも聞かれなかった。ここでお断りしておきたいのは、この調査は30余年前のことで今とはかなり違うということである。
 (2)行カザッタ。「行かなかった」の言い方は、里分では「行カナンダ」であったが、最近は若者を中心に「行カンカッタ」が多くなった。今回の調査では、この「行カザッタ」という古い日本語は、この線内でまだかなり生きているようであった。
 (3)コソ特殊用法。「色が黒い」というのを強めて言う場合「色コソ黒ケレ」という。現在なら、「色コソ黒いが」となるところである。強めの助詞コソが入ると已然形で結ぶという国語の古い言い方が、まだ残っている。これも今回の調査では聞いたことはあるという人は各地にあった。老人層ではまだ使っている所があるかと思うのだが聞けなかった。
 (4)元気ナカッタ。「元気であった」の意であるが、ちょっと聞くと逆の「元気でなかった」ととられそうな言い方だ。これはまだかなりあるが東部では聞かれなかった。
 4行カンセ。「行け」をていねいに言う言い方。地図では平谷と上木頭の間を等語線が通っているが、海川の方でも言うようで、勢力は広がりつつあるらしい。
 はじめに書いたように、上那賀町は方言の地域差が大きいので、各集落を綿密に調査して、言語地図や図表にまとめたら、おもしろい結果が出ることと思うが果たせなかった。
7.特徴的なことば
 前項と重複する点もあるが、上那賀町で聞かれた特徴的なことばの一部を掲げてみることにする。
 (1)古いことばの残存
ウタテイ。 困る。残念な。語源は「うたた」で、ますます状態がひどく(悪く)なる。
ウレ。 木の梢。漢字を当てたら末で、万葉集以来の古語。
カザ。 におい。臭稲のこともカザリ米という。
ゴ。 着。マツリゴ(祭着)、ボニゴ(盆着)など古い方言の語素。
スイロ。 潜水。スイリとも言う。語源はスイイリ(水入り)。
センチ。 大便所。語源は雪隠。チョーズともいう。語源は手水。
セッショーニン。 狩人。動物(生き者)を殺すという意味の殺生人。
トドシュー。 朝早く。時間が早い疾(と)くが語源か。
トメコ。 鳥篭などのおり。留め篭。コは篭のこと。
ハル。 耕す。漢字を当てると墾る。昔は田畑か道を新しく開く意味の言葉であった。
ヒル。 糞などの排出。昔は鼻水でも、出産でも体内から外に出すもの全てがヒル。
ヘンシモ。 一時も早く。ヘンシは漢字で片時と書く古語。
ホトビル。 水でふやける。大昔からの言葉だが現在も日常語として生きている。
マーマー。 さようならの童の幼児語。イマイマ(今すぐ)の転と思われる。
マツボリ。 へそくり。語源はマツベルで散らばっている小さな物を集めること。
ワゲル。 曲げる。曲げ物のことを昔は綰物(わげもの)と言った。
 (2)地域性のあることば。山分らしいことば。
アサギ。 雑木のこと。これに対するクロキ(もみ・つがのような針葉樹)もある。
イタクラ。 雀。田畑で穀物を喰う雀。スズメは「一筆啓上仕り」と鳴く山の鳥だという。
オンゴク。 山奥。「山のオンゴクで仕事しよる」などという。
カケ。 桟道(さんどう)。山のがけに付けた棚のような道。
ク。 処。あんなク(処)。アブナイク(危い処)など。
コヤシ。 良い畑。畑。畑には山の肥草を入れて肥やすからであろうか。
サオカタギ。 台風の時見られる竿状の雨脚。山間で特に顕著な現象。
サキヤマ。 伐木作業。またその仕事をする人。
サダチ。 夕立。にわか雨。「サダチサンベン、ヨーダチヨヘン」という諺があるという。
サダル。 落ちる。「サデル」は落とす。
ジョーモク。 山仕事の休日。その山の山神社の祭日と毎月の同じ日。
タオ。 峠。普通はトーと言う。タオゴエ→峠ともいわれる。taogoe→toge
ダシ。 木材を山から道路まで出すこと。
タケタケ。 端から端まで。川沿いに細長く集落が続くので生まれたと思われる言葉(副詞)
チエ。 崩壊した処。ツエともいう。語源は潰(つい)える。
ツワル。 芽ぐむ。樹液が動き出す。妊娠のツワリと同源の古語。
テマガエ。 労力交換。手間替え。
ナカモチ。 仲持ち。荷物を肩や背で運搬すること。その業者。
ナルイ。 傾斜がゆるい。流れがゆるやかな。
ハダイタ。 板の間。山分の昔の家屋の構造を特色づける床。
ヒゲムシ。 毛虫。人の毛と同じように虫の毛もヒゲという。
ビラクル。 ぶらさがる。木の枝などにゆらゆら揺れ下っているものなど。
ブエン。 生魚。無塩魚。昔は海魚はほとんど塩魚であったからブエンを珍重した。
リン。 枕木や台にする木。リンキリはリン用などの細手の木を切る小型ののこぎり。

8.おわりに
 挨拶のことを祖谷ではモノイイと言っている。漢語の挨拶以前の古い言葉だという。たまたま柳瀬でこの言葉を聞いたが一般的ではないようであった。もう少し深く調べたら、と思ったが及ばなかった。その他も同じで地元の方にお願いしたいことばかり、心残りの多いことである。終わりに当り、快く取材に応じて下さった方々のご好意と、町当局の行き届いたご配慮に深い謝意を捧げ、いささか場違いな紀要の稿を閉じることにする。


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