阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第35号
上那賀町の伝説

史学班 湯浅安夫

1.海川の開拓
 海川はすり鉢状の盆地で、上海川と下海川に分かれる。上海川に文治元年(1185)平家の落人、株田権之烝、日裏弥十郎、夏伐(ぎり)名手介、大西右近(女性)の4人が讃岐屋島より阿波に入り、木屋平村より岩倉を越え、蝉谷の平家平をこえて移り住んだ。狩猟に従い野生の果実を採って生活し、やがて土地を耕作し、粟、稗を作りこの地を開拓していった。(海部郡誌)
 現在も、株田、日裏、夏伐、大西の4氏は、各々の一族でオンザキ(御先)さんという先祖神を祭り、同族的結合を保ってきた。毎年4月15日には、お餅をついてオンザキさんに供え、1年ごとに交替で宿を決めて集まり、酒もりをして御先祖様をお祭りしている。
 下海川は、この4氏の落人でなく、同じ平家の一族であっても、来住の時代、経路が違っていたらしく、下の白石村より分家したのが移住したともいわれている。(上那賀町誌)
2.にいたの森の淵
 上海川の上流の、にいたの森とよばれる所に大きい淵がある。昔、その淵に生首が流され渦をまいていた。その首は、平家の落人が貴い方の首を敵に奪われまいと持って逃げてきたものの、奥山険(けわ)しく持ちきれなくなって、この淵に投げ込んだものであろうと伝えられている。(杉本英子氏)
3.百合の庄の悲恋
 平氏が壇の浦で滅ぼされた頃、那賀奥津井口の地に、この地の豪族秋月三太夫を頼って平基秀の一族、女・子供あわせて23名が逃げてきた。しかし三太夫は数年前になくなり丹生谷地方の勢力が分裂した後であった。やむなく身分を隠してこの地に住みつくことになった。村人の協力で山地を開墾し、田畑を耕し、どうにか日々の生活にこと欠かないようになった。しかし一族にとって、いつ平家の落人であることを見破られるかという不安がつきまとう毎日であった。
 基秀の長子に秀次という17歳のりりしい若者がいた。この秀次に恋をしたのが地元の百姓の娘ゆりであったが、身分のちがいを悟(さと)され、あきらめざるを得ない状態であった。そんな時、この庄のことが知れ、源氏の襲撃をうけ、一夜のうちに焼野原となった。
 ゆりは狂ったように秀次の遺体を深したが見つからなかった。それからこの地に咲く白百合は、赤い筋の模様が入り赤味がかったものになった。筋はゆりの紅涙の流れ、赤味は一族の血のためといわれている。(上那賀のむかし話)
4.おぎゃあ泣きの森
 昔、宮ケ谷の奥に平家の落人の武士が妻と共に住んでいた。夫婦は畑を耕して生活をし、やがて子供が生まれたが、産後の肥立ちわるく妻はなくなった。残された武士は途方にくれていたところ、折わるく戦いに行くことになった。思い悩んだ武士はわが子を裏の森の大木のふもとに埋めて村を去った。
 その後、その大木のある森の付近で、夜になると、「オギアー」「オギアー」と子供の泣き声が聞えるようになり、村人達が供養の祠を建てたところ、泣き声はおさまったということである。(上那賀のむかし話)
5.胴切山
 古屋川上流に谷山という部落がある。昔から牟岐に通ずる道があり、峠は約 800m の高さ、この峠のある山を胴切山という。
 このあたりに平家の落武者らしい人が家来と共に住みつき、何時か世に出て活躍したいと剣術と農作業に励んでいた。この土地を治める古屋の政所(まんどころ)を勤める豪族猪子五郎左衛門、もと相模の浪人で、出原にきて木頭山分を支配し、後に古屋に移り木頭下分を支配していた。川に流れてきた青菜を見て上流に人が住んでいることを知り、家臣に命じて探索させたところ、谷山の奥に武士が住んでいることがわかった。猪子氏は、身分不明のものは住まわすなと、家臣を連れて討伐にいった。武士は子に武芸を教えている。萱(かや)の穂を投げ上げて落ちる間に七つに切り放った。これを見た猪子氏は、まともにいっては負ける、だまし討ちにしてやろうと木陰に隠れて機会を待った。武士の子が休みたいといい、それではと小屋に入ろうとした一瞬を利用して鉄砲で撃ち殺した。子は近くの山に逃れたが、後から追い胴に切りつけて討った。その後、この山を「胴切山」と呼ぶようになった。
 谷山部落に討たれた武士を祀る大木屋神社、その家来を祀る祠(ほこら)もある。妻女お鶴が乳のみ児を抱き逃がれた相生町の蔭谷にお鶴大明神、子は稚児の宮に祀られている。このように討たれた武士一族及び家来まで神とし祀られているのは名ある武士だと伝えられ、鉄砲を使用していることから、平家の武士でなく、土佐安芸国虎、または大内家の家臣渡辺小三郎正平であろうという説もある。(阿波の語りべ)
6.一本返しの瀬
 水崎廻りを流れる川に流れの急なところが3か所あり、その1つに「一本返しの瀬」と呼ばれる所がある。ここの波間に時々、血のしたたる人間の生首が現われるということで村人に恐れられている。この瀬の所に「久我の返し道」と呼ばれる坂道がある。
 昔、屋島で敗れた7人の平家の落武者が、ここまで落ちのびてきたが、ここで源氏の追手においつかれ、首をはねられて下の川へ投げこまれた。無念が残ったのか後々まで成仏できず迷って出てくるのだといわれ、ここを通る筏師や舟のりが、ひょっこり現れる生首に驚いて、舟を川の岩にぶっつけてこわすことが度々あったといわれる。(上那賀のむかし話)
7.入江家の先祖
 音谷の入江家の先祖は、藤原朝臣入江伊賀守といい、元徳元年(1329)9月に平家の落人となり京都よりこの地にきた。2代入江伊賀之助が当音谷村を開基し、山畠にソバ、粟、稗などをつくる。4代伊賀之烝の時代に米・麦をつくり始め、古屋村の猪子氏に殺される。
5代伊賀之佐、海部郡荒谷峯山にて、猪子氏が平谷よりもどるのをまち討ち殺す。
 藩政時代は、代々庄屋をつとめた。その歴史を示す板碑が2基、系図等が保存されている。なお水崎地方の開拓は、入江氏の一族入江隼知助によってなされた。(藤倉公氏)
8.入江家の宝物
 入江家には代々、宝物を地中に埋蔵してあるといういい伝えがあり、明治期に屋敷の樫の木の根元を掘ると、大きい瓶(かめ)が出てきた。その中に宝物がぎっしりつまっていて、それを展示すると8畳の間にいっぱいになった。
 主なものをあげると、刀剣村正1腰、黄金の灯竜1基、鏡1面、黄金の玉1個、肖像掛軸1本、錦の2反引(藤に一文字の定紋入)等々であった。現在住んでいる藤倉ミヨ子氏の祖父にあたる梅太郎氏が蕩尽して殆んどなく、刀2本、槍1本、鏡1面が残されている。(藤倉公氏)
9.鎌倉神社
 保元・平治の戦いによって平家の全盛期をむかえた時代の話。臼ケ谷に源氏の落人が山の尾根伝いに難を逃れてやってきた。一族は尾根の平地になっている水の涌き出る場所を見つけて一休みすることにした。頭は従者に敵の様子を探ってくることを命じた。帰ってきた従者は、周辺の小浜、桜谷、音谷部落のことごとく敵の手がまわっているとの報告であった。頭は、ここまでみんなで生きのびてきたがもうこれ以上は逃れることができないと判断し、全員いさぎよく自刃し果てた。今でもその場所に祠がたてられ、鎌倉神社(鎌倉権現)と呼ばれている。(上那賀のむかし話)
10.オサダ淵
 音谷の神通橋の下にオサダ淵がある。淵のあるあたりは、今は国道が通じているが、昔は崖が川に迫り、道は川端を通っていて、洪水期には通行できない淋しい所であった。
 オサダ淵の由来は、小計(こばかり)に国蔵という船頭がおって、土地の産物を中島、古庄へ、帰りに塩、米、干魚等を仕入れて売る商売をしていた。那賀川下流の舟宿のオサダという女中と深い仲になり、妻子があるのを隠して嫁にしてやるといった。喜んだオサダは、那賀川をのぼってきたが、めざす小計は川向うで橋もなく渡ることができない。宿屋で国蔵にだまされたことを聞き、泣く泣く引き返し、この淵の所までやってきて身を投げたので、その後、その淵をオサダ淵というようになった。(多川三男氏)
11.オカメ淵
 桜谷の学校の下に、女中のオカメが身を投げた「オカメ淵」というのがあったが、今はない。(多川三男氏)
12.オギア泣きの滝
 桜谷小学校の川向うにある滝を「オギア泣きの滝」という。雨の降る夜によく赤ん坊の泣き声がするという。昔は大きい木が茂り淋しい所であった。(多川三男氏)
13.砥石ケ谷
 水崎に大変深く川底の見えない淵がある。この付近一帯は、砥石で磨かれたような表面がなめらかな石を敷きつめたようになっているので、「砥石ケ谷」と呼ばれている。
 今から130年程前、向中村の鶴吉という人がこの淵で舟にのり鮎の友掛けをしていた。その日はどうしたのか1匹も釣れない。日暮れになって、テグスを大きい力で引く、驚いていると、すーっとテグスがゆるんだ。もちあげてみると、何か針にかかっている。よく見ると直径10cm位の丸い大蛇のうろこであった。
 その後、大蛇のたたりか鮎は1匹も釣れなくなり、釣りに行くと何か災難があり誰も近寄らなくなった。また不思議なことに洪水で水が濁っても、ここだけは濃紺の水であったといわれている。(上那賀のむかし話)
14.女郎石と松石
 平谷村におみねという娘がいた。父親はいかだ師で、母は病弱、6人の妹や弟がいた。
おみねは宿屋で働き家計を助けていた。同じ村に松吉という男がいて、おみねと知り合い夫婦約束をする仲となった。
 ところが父親が大怪我をして働けなくなり、借金がふえ、とうとうおみねは土佐からきた人買いに売られ、女郎屋で働くことになった。その後、松吉は気がふれてしまい仕事もせず、あけてもくれても船着場の大きい岩の上にのぼり、おみねの帰りを待つようになった。この岩を「松石」と呼んでいる。
 一方おみねは5年の年季をつとめあげ、村へ帰ることになったが、変り果てた自分の姿を思うと松吉に会うことはできないと川へ身を投げてしまった。おみねの身を投げた石を「女郎石」といい、松石の対岸にあった。いま2つの石は長安口ダムの湖底に眠っている。(上那賀のむかし話)
15.姉谷と妹谷
 西の内を流れる川は姉谷と妹谷の合流してできたものである。この2つの谷川には次のような伝説がある。(海川にも同じような伝説がある。)
 西の内に浜次とお由という若いきこりの夫婦があった。お民という女の子が生まれたが、産後の肥立ちがわるくお由はなくなった。浜次は親類の人にすすめられてお文と再婚し、やがて女の子が生まれた。
 2人の姉妹は仲良く幸福に暮していた。ある日、お文は2人の娘に椎の実を拾ってくるよう命じ2つの籠をわたした。2人は仲良く椎の実を拾ったが、姉の方の籠に穴があいていて拾ってもなかなか一杯にならない。姉思いの妹は姉の分まで拾おうと夢中になって拾ううちに2人は離ればなれになってしまった。日が暮れたのに帰ってこないので心配した両親は探しに行ったが、一方の谷で姉の、一方の谷で妹の籠をみつけたのみであった。この事件以後、誰いうとなく姉谷、妹谷と呼ばれるようになった。(上那賀のむかし話)
16.山伏淵
 木沢村木頭の宇奈為神社は、熊野十二社権現の分身と伝えられる。ここに分身を祭れば本社がはやらなくなる恐れから、神霊を背おいここに奉祀した道心という山伏を本社の山伏だちが殺害した。神霊をとりもどして帰る途中、山伏たちの1人が中川原の谷間で追手と切りあい殺されたので、この谷間の淵を「山伏淵」と呼ぶようになった。(上那賀町誌)
17.寺屋敷
 田の久保のお寺に、むかし7人の僧が住み、鉄鉢という器をもって丹生谷一帯を回り、喜捨を求めて生活していた。
 ある日、相生町の鉢という在所に行ったところ、牛の堆肥(たいひ)を出していた人が、「お前は度々物もらいにやってくる」と怒って、持っていた熊手で鉢を打ち落した。するとその鉢は高く舞い上り、下の那賀川に落ちた。そこは「鉢の瀬」と名づけられた。その後、帰らない僧を案じた他の僧たちは、牛にのって那賀川を渡っていたが、水に流され牛もろとも水死した。音谷と花瀬間にある「牛の瀬」は、その時の牛の死場所で、日浦下にある「僧返しの瀬」は、僧たちの死体があった所といわれている。(上那賀町誌)
18.葛ケ谷の山父
 水崎に「コズガダニ」と呼ばれる延長5kmに及ぶうっそうとした谷があった。昔、この谷に入った人は、そこに住む山父に食われて帰ってこれないので「コズガダニ」と呼ばれるようになった。
 この谷に住んだという山父は、身の丈3m、口を開けば箕(み)ほどあったという。今から350年程前、相生町の露口さんの先祖が火縄銃で撃ち殺したので、その後は出てこなくなったといわれている。露口さんの家には「いらずの間」というのがあって、山父を退治した火縄銃を安置しているという。
 この谷に聖(ひじり)神社という間口1.5間、奥ゆき2間の社(やしろ)がある。髪神子、山の神、聖神の3神を祀ってあるが、山父の家来を祀ってあるともいわれ、水崎の氏神の奥の院となっている。この神社を少しのぼると、山父が人間の骨をくだいたといわれる真中のひっこんだ大石がある。山父の正体は不明であるが、平家の落人がこの谷に隠れ住み、世人から身を守るため変装したのではという説もある。また、明治・大正頃まで、この谷に山犬か山猫が住んでいて、その声を聞いたという古老の話もある。この谷に入ると猫ということばを口に出していけないといい伝えられている。(高木英男氏)
19.のえり谷
 海川谷の西俣に「のえり谷」という谷がある。むかし海川に山仕事をして生計をたてている人があって、西俣へ仕事に出かけた。一仕事すんで一服していて、何気なく近くの大木の根っこを見ると、根っこに大きなすき間があり、そこから何か赤く光るものが2つ見える。何だろうと近づいてよく見ると、驚いたことに大蛇の眼であった。これは大変と棒で大蛇をたたき殺した。翌日、同じ場所へ行くと、死んだ大蛇の横にもう1匹の大蛇がいて、つれあいの敵とばかり襲ってきたので、棒で胴や頭をたたいて半殺しにした。大蛇は山や谷を越え「のえり」「のえり」と逃げていったので、その後、この谷を「のえり谷」というようになった。(上那賀のむかし話)
20.蓮華院と大蛇
 700年もの昔、下御所谷の対岸の花丸という所に蓮華院という庵があり、修験者が住んでいた。ある夜、この蓮華院を7巻半もまくほどの大蛇が襲い、修験者は今にもひと呑みにせられようとした。日頃信仰している仏像の加護により、宝剣をぬいて退治することができた。残骸は出合橋近くの淵へすてたが、7荷半もあったそうである。今ではその場所は、長安口ダムの湖底となっている。(上那賀のむかし話)
21.やぎょうの晩
 旧暦で大の月の晦(みそか)、小の朔(きく)には、夜、川へ魚をとりに行くと、川を魔が通ると恐れられていて、いかに釣り好きでも川へ釣りに行ったり、網をうつことはしなかった。
 もし行くと、1匹も釣れなかったり、釣れたと思ったら木の葉であったり、浅瀬と思ったら深みになったり、ろくなことがおこらないと信じられていた。(上那賀町誌)
22.げんぞう谷
 むかし、源蔵という木こりがいた。毎日山へ行って大きな斧で木を伐り倒していた。ある日の夕暮れ、仕事から帰って風呂をわかして入り、気分よくうとうとと眠っていた。風呂桶がぐらぐら動くので、驚いてみると、大きな毛むくじゃらの怪物が風呂桶をかついで山中に向って歩いていく。「これは大変、食べられてしまう」と思って、風呂桶の横においてあった大斧を手にとり、木の枝に飛び移り、その化物の首を切り落した。その怪物は、このあたりに住んでいた山んばであったそうで、後にこの山の谷を「げんぞう谷」と呼ぶようになった。(上那賀のむかし話)
23.臼はケヤキ杵はツバキ
 奥桜谷の応神祭には、秋の新米で餅をつきお供えする。しかも毎年新しい臼と杵を作るならわしであった。
 今から300年位前、応神祭の当屋に当っていた人は、臼にするのに最適のケヤキの木、杵にするツバキの木が見当らず頭を悩ましていた。ところがある夜、1匹の狸が夢枕に現れ、「その木は、近くの谷をのぼっていくと長谷川という家の山にある」という。早速、長谷川家をたずねてその山へ行くと、告げられた通りのケヤキとツバキの木があったので喜んでその木をゆずってもらい、臼と杵を作り、秋祭を無事すまうことができた。
 これは、15年前、論田へ法事に行っての帰りに、みかえり坂でいたずら小僧に痛めつけられていたのを助けてやった狸が、恩返しにしたものといわれている。このケヤキの木の見つかった谷を「臼ケ谷」と呼ぶようになった。(上那賀町誌)
24.追立谷の狸
 音谷の下に追立谷がある。ここに狸が住んでいて度々人を化かす。
 昭和の初め頃の話、相生町日浦の人がこの谷へ用水の修理にいき、2〜3日かけて用事をすませて帰りかけたが鎌を忘れたのに気がつき、引きかえしていた途中、頬(ほお)かぶりをした女の人が立っていた。こんな夕方、女の人が1人……狸が化けているのにちがいないと思ったが、そこは見すごして、鎌をとって帰ってくるとまだ立っていたので、狸にちがいないと鎌でなぐると、うまく急所にあたり動かなくなった。
 その狸を籠に入れていたのを、子供の頃実際に見た。狸の胃は胃病によく利くというので誰かにひきとられていった。(入江勉氏)
25.不思義なタマ
 昔、早瀬谷に朔蔵(さくぞう)という猟師が住んでいた。若い時から鉄砲を使い、20歳になると近在では右にでる者がないほどの名人となった。
 ある年の大雪の降った日、四つ足峠を越え土佐に向うという一人の修行僧を泊めてやった。その僧は、「猟師はくらしのためとはいえ、このまま殺生を続けていたら何時か恐ろしいめに会うだろう。その時のために祈祷をしておいてやろう。」といって、鉄砲のタマにむかい長い間読経し、終わると、「このタマは、お前が魑魅魍魎(ちみもうりよう)(いろいろなお化け)に襲われた時に撃つことにせい、どこへ撃っても命中しお前は助かる。このタマを1度使ったら以後猟師をやめるのじゃぞ。」といい残して土佐へ旅立っていった。
 それから3年の歳月が流れ、木枯しの吹く寒い日のこと、獲物を求めて山を歩いているうちに深い谷に迷いこんでしまった。その時、あたりが急に薄暗くなって、「サクゾウ」
と地鳴りがする程の大声で呼ぶ。声のする方を見ると、身の丈(たけ)が1丈(じよう)あまりの真白の大熊が襲いかかろうと牙をむいている。「わしはお前に命をとられた獣物の精じゃ、よくもわしらの仲間をたくさん殺してくれた。今度はお前の命をとってやる。」と人間の言葉で叫ぶ。一目散に逃げたが、ある崖まで追いつめられた。その時、僧にいわれたタマを思い出し、お守袋のタマをとり出し、空に向って撃つと、大熊はどこかへ消えてしまった。
 朔蔵はそこに供養塔を立て、2度と鉄砲をもつまいとその下に埋めてしまった。
(上那賀のむかし話)


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