阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第35号
石文にみる上那賀 ―林業と電源の村―

史学班 小原亨

1.上那賀の顔―林業と電源の村―
 那賀川上流は、古くより丹生谷(仁宇谷)と呼ばれ、木頭上・下山村として総括され森林の宝庫として世に知られている所である。「上那賀町」は、木頭村とともに、この林業地帯の中枢を占める村である。
 上那賀町は、昭和31年9月、宮浜村と平谷村が合併して上那賀村となり翌年の32年1月に、上木頭村海川を編入合併して町制を施行、「上那賀町」として誕生した林業と電源の村である。

 合併当初は、多くの政治的課題もあったが、村民の努力により今日に至っている。合併の昭和30年代は、日本経済が大きく飛躍する時代である。上那賀町も、那賀川電源開発工事によって活況を浴びるとともに、昭和30年の神武景気が、村の基幹産業である木材の需要の増大をうながし、村全体が活気に満ち7000人に余る人口を擁した恵まれた村の姿であった。
 こうした町に、今、大きな厳しい課題をかかえている。合併30年後に迎えた村最大の多難な時代と言ってよい。問題は、村の基幹産業である林業の不振である。林業以外に産業を持たない村の宿命と言ってよい。
 人口も合併当時の半数に満たない2984人(昭和63年)という過疎の町を迎えている。
〈資料1〜4参照〉

 和田淳二町長は、この問題の解決を目指し「村の活性化・村おこし」を政治課題として、「過疎対策と若年層の村外流出・その歯止として村の96%を占める林野の有効利用を推進するための諸々の林業振興策をとりあげ、「緑のふるさと・うるおいとやすらぎのある町づくり」を目指して努力されている。
 外材の導入と木材価格の低迷のなかにあって林業に生きる村の前途には厳しいものがあると思うが、上那賀の自然条件から考えて村の活性化を図る産業としては林業を無視した村おこしは考えられないであろう。大正4年に作成された「中木頭村是」をみると、「林業ハ本村ノ生命也・宝庫ナリ。」とある。過去より受け継がれて来た林業は村おこしの宝であり村是でもある。現町長が村おこしの本命を林政において力強く推進を図ろうとする発想とその取組みに改めて敬意を表するとともに、その施策の成功を祈る一人である。
 極端な表現であるかも知れないが、上那賀は林業の村であり電源の村と言ってよい。そしてこの二つが利害共にかかわりあって生きてきた、また生きている村である。今の上那賀のかかえている、いくつかの課題の解決のうえで、この歴史の歩みを振返り検討を加えてみることも大切であろう。現在、上那賀に残された「石文」に往時の林業とともに郷土に生きた先人の歩みの歴史を尋ねてみたい。


2.村の生命(いのち)・林業
(1)木頭林業地帯=山に生きる村人=
1.木頭林業の歴史的意義
 現在、木頭林業と言えば杉・桧の美林地として、奈良の吉野・三重の尾鷲・宮崎の飫肥とともに西日本の代表的な林業地帯であり那賀川林業地帯とも呼ぶ。この林業地帯は、那賀川が貫流する県南部に位置する、阿南市・那賀郡を包含する地域で川の両岸は、杉・桧の美林におおわれすばらしい景観を見せている。この林業地帯を国道195号線が縦走して高知県に通じており、各村々の文化経済の大動脈としての役割を担っている。
 木頭林業地帯は、吉野川流域の林業と違い樹木繁茂し古くより森林資源の豊庫となっていた。即ち、高温多雨な南海型気候と山地が肥沃な中世代の土壌によってなりたち、かつ全面積の9割が林野でしめられているといった樹木育成の為の条件に恵まれていたことにある。

 木頭林業の名は古くより知られ、奈良時代には建築用材として利用されていたことが記録に見えている。
 白鳳年間に阿波仏教草創の伽藍であった阿南市宝田町の隆禅寺の建築用材として、さらに慶長年間の大坂城築城用材として那賀川河口平島港(中島)より積出されている。また他国への移出は、元応2年(1320)の京都下鴨社家文書「那賀庄内大由郷杣文書」・文安2年(1445)の奈良東大寺文書「兵庫北関入船納帖」に記録として残されている。
 資料1.元応二年、那賀庄内大由郷杣文書
   鴨御祖太神宮造替遷宮
    合 七百九五
  正 殿 壱宇分 要木 漆栢玖伍物
  一三所社 壱宇分 要木 二百三十六枚

   都合要木千三拾捌物代銭三百五拾二貫七百文
  右御材木者於阿波国那賀庄大由郷除荒了猿食筏目任文宛之旨被付進河尻之状如件
   元応二年庚甲八月
    為孝判
    為久判
    氏継判
 〈注〉大由郷は、現在の木沢村・木頭村・上那賀町を言う・この頃より、「おゆ(甥)の神社造宮に使用する用材を送った送り状で、当時も那賀山荘と言われていたことが知られる。文書中の「要木漆佰玖伍物は、七百九十五物のこと、要木「千三拾捌物」は、千三十八物のことである。
資料2.文安二年(1445)後花園天皇「兵庫北関入船納帖」
  平島クレ百三十石・メ三百七十文 二月十一日納 五郎次郎太郎
 〈注〉クレとは、山出しの板材のこと。平安時代の規格は、長さ12尺・幅6寸・厚さ4寸のクレ木を言う。平島クレとは、平島産のクレのことで平島港(那賀川町平島)から積出ししたことの名称で、クレ木そのもは木頭林業地帯から伐出されたものである。

 この資料でもわかるように、木頭林業地帯の木材が古くより利用されていたが、阿波林業の宝庫として農業とともに経済的に大きな役割を果たすようになったのは、蜂須賀治政の藩政期に入ってからのことである。
 蜂須賀家政は、天正13年(1585)豊臣秀吉より阿波国を拝領し、他国大名と同様に種々の政策・規範をうち立てて藩体制の確立を図っている。なかでも、藩財政の確保と百姓町人の統制については特に意をそそいでいる。
 藩財政の確保については、米・麦・藍等の農政と並んで、槻・樅・栂・杉・桧を中心とする原生林の保護管理・林政に力を注いでいる。特に、阿波藩最大の木頭林業地帯の広大な原生林の保護管理は厳重をきわめた。
 林政に重きを置いた理由として次のようなことが挙げられる。一つは、木材が藩外に商品として売買されるに伴い、藩財源の重要な収入源となったことと併せて、軍事上、軍艦の造船用材の確保と徳島城下町づくりの建築用材の需要の増大にあった。
 こうしたことより、阿波藩は他藩に比して林野制度は厳しく徹底していた。阿波山林の大半が藩主直轄の藩有林(御林と呼ぶ)によって占められていたことでも明らかである。
 これら山林に従事する農民も、限られた土地と身分(身居)にしばられ、自然の災害と闘いながら厳しい統制と貢租に耐える苦しい生活をしいられていた。木頭林業地帯の農民も例外ではない。とりわけ村内依存・自給自足の生活を強いられた藩政においての生活の基本は食糧を自給することにあった。しかるに山林で大半を占め田畑は限られたごくわずかの面積に過ぎない。そこから収穫される穀物による生活は到底不可能で、それを補いようやく生活を維持していたのが、山作(焼畑)によって収穫される、粟・稗・黍等の雑穀であった。山作(焼畑)をすることは彼等の生活の死活問題であった。然し藩は、農民に山作を自由にさせることは、御林への浸墾につながるとして厳しい規則を加え勝手な山作(焼畑)を許さなかった。木頭農民は、度々焼畑許可の願を申出ている。また、無断浸墾も行なわれた。生きる為の切なる要求と抵抗であり苦しい日々の生活に堪えていたかを知ることができる。(詳細は「阿波の林政」徳島教育誌掲載参照)・当時の木頭農民は、藩財政確保の為の生産の道具として林業に従事していたと言って過言ではない。封建社会の典型的な様相が木頭林業地帯の農民にみられるのである。

(2)近代の林政
 藩祖蜂須賀家政以来260年余り続いた阿波藩政下の林業と林政も明治維新を迎えるとともに、廃藩置県という政治改革にともない、長かった歴史の幕を閉じ近代へと受け継がれて来たのである。
 明治維新は、封建支配体制から新しい資本主義体制への移行であって、政治改革とともに林政にとっても大変革であった。
 明治2年の版籍奉還とともに、全国各藩の藩有林は官林に編入されたのであるが、阿波藩は国への藩有林引渡しに先立って(時の家老井上高格の裁断によったという。)、明治2年〜5年の間に民間払い下げを行い、民有林が誕生することとなる。然し、その民間払下げによる林地の取得は、村の限られた一部(村役人)の者と、売人株を持っている林野地主、下流の挽座株商人の掌中に帰したと言われる。但し、藩政時代より地元農民の裁量による、検地名負山・野山・稼山・伐畑山といった林地は、個人や部落(村)の共有林・入会地として払下げられた。
 阿波山林の大半は、藩主の直轄林(御林)によって占められ、管理に当っては、郡奉行(郡代)とは別に御林奉行を筆頭とする諸々の山役人を設置し(詳細は「阿波の林政」徳島教育誌参照)一般の政務と切り離して独立した林政を行い、4種の林野制度をとっていた。4種の林野制度は、次のとおりである。
1.直轄林(藩有林)…御林のこと。御留山とも呼ぶ。管理権・収益権が直接藩主にある山林。但し、賀島家老等の給人拝領の山林も含んでいる。
2.請(承)林…藩主に所有権があるが、一定の運上金を納入する条件として、使用権・収益金を農民に与える山林。請林には、定請林と取山・伐畑山とがあった。
・定請山…定請名負林とも呼ばれ、御林のうち毎年、運上金(定請銀)を納めることにより、樹木・秣草の採取を許した山林。
・取山…御林のうち材木商人に永代請所として請高を定めて貸し下げた山林・請高は普通、木末代銀1匁を1本として木末代何本と定められていた。
・伐畑山…藩の許可を得て、冥加銀を納め御林内に畑を開き、粟・稗・黍等の雑穀を裁培する山林。
3.入会山…管理権と収益権が村にある山林。藩の政策として山村農民の渡世を保持する為の山林。
・野山…村の農民が秣草や肥草を採取する山林。
・稼山…■山・渡世山とも言う。農民が稼業のため用材・薪炭材を採取する山。
4.検地名負山…個人所有の山林で、管理権・収益権が個人にあり、自由に用材・薪炭材を採取することのできる山林。ごく限られた面積である。
 このように、明治維新の大改革は、木頭林業地帯の住民にとっても、また林業そのものにも、林政の流れを大きく変えたのである。
 阿波藩という領主的規制から解放され、長年望んだ林野を自らの手にして近代の新しい時代のなかでの林業経営が行なわれたわけであるが、明治2年の民間払下げ以降の明治・大正・昭和の100年の林政は決して地元農民にとって平穏な時代ではなかった。特に、木頭林業100年の動きには、めまぐるしいものがある。次にあげる事項を語らずして、近・現代の木頭林業の意義も極めて低いことは、承知しているが紙面の都合上、今面の報告からは除外することとした。(阿波の林政〈徳島教育誌に報告〉)
・林野所有の推移……下流業者の進出と林野所有―村外所有の拡大化―
・自然林(栂・樅・欅など)採取林業から、杉・桧の人工造林への移行
・明治初期の木頭農民の生活と林野経営―焼畑農業―
・林業経営の近代化…育苗、植付・間伐・木材の搬出等
・ダム築造にともなう木材運送の大変革……水運(流筏)より陸運(トラック)への転換
・那賀川運材業組合の成立―労働組合の発祥―
・林道の開発と村おこし
・外材の導入時代の木頭林業の現況と課題等があげられる。今回は、林業振興上、今日的課題とも言える「林道の開発」につき報告しておくこととする。

(3)林道の開発
 林道の開発は、上那賀町にとどまらず、林業地帯における今日的課題である。林道の果す役割は大きい。資源の搬出に、また生活道として避村の文化・産業を支える動脈でもある。林道網の整備と拡充は、これからも林業地帯にとって重要施策のひとつである。
 明治・大正期の林道は、木馬道として敷設された3尺巾の粗末なものであったが、昭和に入り林業構造改善・過疎対策事業といった国や県の施策により、トラック輸送のできる林道が整備され、上那賀を始め木頭林業地帯の村の姿を大きく変えていった。とりわけ戦後の上那賀をめぐる生活環境は、文化・産業とともにめまぐるしく変化している。改めて道路の偉大さを知らされる。今の村の文化・産業や生活の向上は道路整備の賜であるとともに、林道網の整備は、これからも村の姿を大きく変えて行く要素となるであろう。
 上那賀の持つ、すばらしい神秘な自然が待っている。林道に足を踏み入れると、緑の林・動物の鳴き声・川のせせらぎと神秘な空間が広がる。自然の秘境がある。こうしたすばらしい秘境が林道の開発とともに脚光を浴びる日も近いことであろう。
 上那賀を始めとする木頭林業地帯の林道開発が本格的に始まったのは、戦後の昭和25・6年以降である。この頃、国土総合開発事業がとりあげられ、那賀川流域が総合開発特定地域に指定され、昭和26年に林道開発事業が始まっている。総合開発計画は、発電・農業・造林・水利といった広範な面にわたっているが、林道整備もその一環である。
 特に、長安口ダムの着工に伴い村の基幹産業である林業・木材の搬出・運送に当ってきた、流筏・管流(水運による運材)が停止されることとなり、その代替として林道工事が計画された。その最初の林道として昭和27年古屋川林道工事が始められた。10か年の歳月をかけ昭和36年、全線17kmが開通したのである。待望久しく実現をみた事業であるだけに村民にとって、このうえない喜びであり林業のみにとどまらず地域の交通文化の発展に大きな影響をもたらした。なお、この林道の開設により、国道195号線より古屋川林道を経て日和佐に通じ国道55号線と連絡する重要な路線となり、昭和45年12月に県道に昇格編入をみている。この事業とかかわって、古屋川林道大越線期成同盟会が結成され、日和佐町大越線と上那賀古屋川谷山とを結ぶ、峰越林道工事が昭和40年に始められ昭和45年3月早期実現をみている。上那賀と日和佐の町境に完成を祝う開通記念碑が建てられている。
 この古屋川林道・峰越林道は、上那賀にとっても木頭林業地帯にとっても、画期的な事業であり3尺道路の山道が、一躍トラック乗り入れ林道として誕生した最初のものであり林業経営の様相を一変させた林業史上、特筆すべきことである。

 続いて、那賀川電源開発の本格的工事にともない木頭林業地帯の木材の全面的な陸送転換(水運から陸運)という事態に伴ない那賀川及びその支流における、県営の奥地林道事業が計画されるとともに、森林開発公団が設置され第一期事業の指定地域として剣山周辺地区(木頭・上那賀・木沢)がとりあげられ、総事業費8億円・開発延長林道11線82kmに及んでいる。この奥地林道の完成により木材の伐出・搬出の技術にも大きな変化をもたらした。流筏・管流の水運から陸送(トラック)に転換するとともに、木材の集材も木馬・水堰・鉄砲堰から架線集材法に改められ、架線=トラックによる輸送体系に整えられたのである。
 現在も、上那賀町は、中挾線(丈ケ谷)・海川野久保線(海川)・上用知線(白石)・栃ケ谷線(深森)・長安拝宮線(拝宮)・正木谷線(音谷)・笹山線(長安)・姥ケ谷線(柳瀬)など十指に余る林道開発工事が着々と進められており、村の活性化とともに、林道にかける村の強い施策をうかがうことができる。

3.宿命・電源の村
(1) 桜谷発電所と半世紀後の長安口ダムの築造
1 桜谷発電所
 桜谷発電所は、徳島県草創の水力発電所であり、この発電事業が現在の那賀川電源開発事業に大きな影響を与えた歴史的な発電所でもある。
 桜谷発電所は、徳島水力電気株式会社(武智正次郎社長)によって、明治43年10月、宮浜村桜谷(上那賀町桜谷)に那賀川本流から取水し(有効落差20m)同村音谷字滝倉に出力最大700kw(常時380kw)の発電所が建設された。続いて電力需要の増大に応える為、大正11年(1922)9月に出力1200kw の桜谷第二発電所が増設された。
 当時、県下の電力需要量は、500kw しか必要でなかったにかかわらず700kw の発電所を建設するという案に対し株主総会において強く反対をされたと言う逸話も残されている。
当時にとっては、画期的事業であった。
 徳島水力電気株式会社は、明治41年2月、後藤田千一・生田和平等により資本金30万円で創立された徳島初の電力会社であり、桜谷発電所が最初に手がけた事業であった。
 桜谷発電所は、大正12年11月、三重合同電気株式会社、続いて昭和12年4月東邦電力株式会社に、その後、昭和26年5月に四国電力株式会社に引継がれ、四国電力株式会社桜谷発電所として、文化・産業発展の源として重要な役割を担って来たのである。
 こうした桜谷発電所も、昭和25年(1950)に始まる、那賀川電源開発事業が、県政の一大事業としてとりあげられ、追立ダム、続いて、昭和30年(1955)県営長安口ダムが完成するとともに、61000kw の日野谷発電所の送電が開始された結果、桜谷発電所の役割も終り廃止撤去が行われた。廃止当時の状況について「昭和30年10月18日の徳島新聞県内版」に次のように報道されている。「45年間の発電に終止符か」の見出しで、「県営長安口ダムの貯水開始は、いよいよ、きょう18日に開始するが、これによって明治43年以来たえず送電を続け、県民に親しまれてきた桜谷発電所は、45年間にわたる発電に終止符を打つ公算が強い……長安口ダムのトビラを閉め貯水が始まると、その集水面積は現在の606平方キロメートルから約8.5%の52.4平方キロメートルに激減し……せいぜい150〜200kw しか送電できなくなる……」とある。
 明治・大正・昭和の45年間、県の産業経済発展の動力源としての役割を果した桜谷発電所も、今は往時の面影もなく廃虚となって那賀川沿いの音谷の山中に旧跡をとどめている。昭和53年12月に、上那賀町と四国電力株式会社の両者により、桜谷発電所は、四国の水力発電の歴史を知る貴重な文化史蹟であるとして、発電所跡近くの国道桜谷トンネル東口に、次のような碑文を刻む記念碑が建立されている。

  ◆碑文
 桜谷発電所は、明治43年10月県下最初の水力発電所(出力第一700.第二1200キロワット)として、当時の徳島水力電気株式会社によって建設されたものであるが、昭和30年長安ダム築造により約半世紀にわたる発電の歴史を閉じたものであり、その旧蹟は、この国道直下100mの那賀川沿いにある。木頭森林地帯の豊さな水資源と那賀川本流の天与の地形を功みに利用し徳島県の主力発電所として明治大正の文明の夜明を照し県文化産業振興のエネルギー源であったことに重要な意義があり県史に残る数少ない文化史蹟である。
 ここに碑を建立しその業績を永く後世に伝えるものである。
  昭和53月12月
   上那賀町・四国電力株式会社
    〈碑の大きさ、高し1.55m・巾0.73m〉
2 長安口ダム
 長安口ダム建設に至るまでには、種々の経緯を見ているが、最終に於いて「日本発送電の宮浜発電所計画の是非をめぐり」、県として中央官庁との協議打診のうえ県議会総会に於いて、日本発送電力株式会社の宮浜発電所案を否決して徳島県営による那賀川電源開発を推進することで決着し長安口ダム建設が取りあげられたのである。

 第一期の発電事業計画は、「宮浜村大字長安口に高さ 83m の堰堤を築造し最大出力 61.000kw の日野谷発電所を建設する。さらに下流に高さ 25.6m の堰堤を築造して日野谷発電所の逆調整を行なう最大出力 11.300kw の発電を行う川口発電所を建設する。なお、長安口ダム建設に必要とする工事用動力は坂州村追立に砂防堰堤を利用した最大出力 2.400kw の坂州発電所を建設して充当する。」という計画のもとに進められたのである。
 長安口ダムは、昭和26年11月に本工事に着工し、昭和32年2月に長安口ダム・日野谷発電所の全工事が竣工した。長安口ダム並びに日野谷発電所の概況は次のようである。

(2) 電源は、村を変えた
1 ダムは村に何を残した
 筏が流れ、高瀬船が浮かび若鮎がおどっていた那賀川も長安口ダム建設により、川と自然を一変させてしまった。
 徳島新聞(昭和27年)掲載の「川は生きている・那賀川の巻・宮浜村」に、「電源に奪れた風俗、ダム完成のあとに何が残る?」の見出しで「工事が完成して労務者が引揚げてしまった。アユ漁もなくなり筏もなくなった。この地に何が残るのだ。衰微の道をたどるだけではないか。と村人は将来を心配する。徳島県当局は、水没・離職の人々が払う犠性ははかり知れぬものがあろうが、遅れている県を発展さすためには何とか協力してもらうよりほかはない。那賀川総合開発第一期工事完成の暁には合計発電最大74,700kw 、常時出力23.090kw という豊富な電力をもたらすのみか、年々の災害が予防されて農産物が増え工場が建つ。こうして阿波の産業地図は大きく塗りかえられるのだ。」という記事が報告されている。この報告された時から、35年を経過した現在、長安口ダムを初めとする那賀川電源開発の功罪はどうであろうか。80億に余る巨額な金と5か年に余る歳月を要したダムと発電所である。
 鮎がいなくなり流筏が消えただけでない。ダムによる川の汚濁がはげしく昔の那賀川の清流を呼びもどす住民の声も強い。また電源開発に伴い森林の開発とあいまって最も重要視して着工した国道195号線も当初の予定計画通りに進まず未完成の状態にある。なお豊富な電力が果して県南の工業・産業発展に大きく寄与しているであろうか。徳島県民・とりわけ那賀川地元住民が払った多くの犠牲が報いられ発展のきずなとなってかえって来るのは何時の日のことであろうか。那賀川は未来に生きている。清流を賞で、若鮎が躍り那賀川の風物詩であった筏師の川面に流す歌声も消え、様変りした、電源の川・電源の村上那賀である。那賀川は、いつまでも地域住民の母なる川として生き続けて欲しいものである。

2 労働組合の誕生とその石文
 上那賀町の庁舎が置かれている小浜部落に、那賀川林業(木頭林業)の盛衰の歩みを刻む石文が建てられている。

 石文は、那賀川林業労働組合記念碑と、高さ2m巾1mの御影石づくりの功労碑三基がある。碑は、那賀川林業労働運動に大きな貢献と功績を残した、谷利一・河野永太郎・元木頼太郎3氏の功労碑である。この碑は、那賀川林業史上大きな変革をきた昭和26年(那賀川電源開発によるダム築造に伴い木材の流送が停止し陸送に切り変る。)3月に、時の県知事阿部五郎の題字、碑文は郷土史家中西長水の選書による。谷利一の碑文は次のようである。
 谷利一先生ハ明治三年谷口ニ生レ昭和十八年逝ク其ノ一生労働者ノ権益擁護地位ノ向上ヲ謀リ父師ト仰ガル神ノ如クニ敬セラル先生資性謹厳且任侠当時労働者ハ資本主義ニ隷属シ窮状見ルニ忍ヒス之ラ指導シ明治三十七年労働組合ノ創立ヲ企画四十一年徳島水力電気会社ニ与エシ県ノ許可ニ因リ川身ニ築堤横断シ舟筑ノ運行阻害シ労働者ノ生活権ヲ脅カスニ至リ明治四十三年那賀川運材業組合ヲ組織シ更ニ沿岸ノ業者ヲ統合シ那賀川運輸団ヲ結成シテ事業主ニ正当ノ賃金ヲ要求シ又水利権ノ擁護ヲ叫ヒ両目的ヲ達成シタリ先生創立以来三十余年終始一貫労働運動ニ尽瘁シ其功績大ナリ嗚呼先生既ニ逝クモ遺業タル那賀川林
業労働組合発展ヲ逐ケツツアリ今春陛下四国巡幸ノ際作業天覧ノ光栄ニ浴セリ亦先生ノ遺徳ナリトシ後進相謀テ碑ヲ建テ徳ヲ讃へ功績ヲ永遠ニ伝ヘント余ニ文ヲ需ム因テ其ノ梗檄ヲ録ス而己 昭和二十五年庚寅季冬
 中西長水選書
 碑文にみえるように、氏は那賀川林業に従事する杣人の先導者・労働組合生みの親であるとともに、杣人の生活権の擁護の為一生を捧げた人物で、正に那賀川林業史の一頁を飾るにふさわしい人物でもある。
 この谷利一の運動に共鳴しその補佐役・後継者として、ともに林業労働者の擁護と組合運動に尽瘁したのが、河野永太郎と元木頼太郎である。
 河野永太郎碑文には「……谷利一先生ノ労働組合運動ニ共鳴援助シテ労働組合ヲ創立………副団長トシテ団長ヲ補佐シ……昭和十六年六月那賀川労働組合ノ発展的解散ニ至ルマデ三十余年終始一貫谷利一ノ支柱トシテ当時最モ苦難多キ労働組合運動ニ尽瘁シタリ……」とある。また、元木頼太郎の碑文には、「……大正四年副組合長ニ推サレ次テ組合長トナリ更ニ那賀川労働組合連合組合長トナリ那賀川林業労働組合執行委員長トナル等三十七年間終始一日ノ如ク……谷先生ノ志ヲ継ギ各組合ヲ統合シ……各目的ヲ貫徹シタリ……」とあり那賀川林業発展のうえに、3氏の残した功績はすばらしい。なお、この石文は林業功労の証しだけでなく藩政以降の歴史的背景のなかで育くまれて来た杣人と林業のかかわりを知る貴重な石文でもある。
 藩政時代以降は、林業も労務内容によって専門的(専業)に従事する分業労働が確立されて来た。植林育林を専業とする者・伐採搬出を専業とする者・運送(流筏)・木材加工(製材)を専業とする者等の分野別分業労務形態をとることとなった。こうした分野別分業労務形態が、はっきり確立されるにともないこれに従事する労働者の結集が、那賀川林業労働組合の誕生となっている。
 この組合の主流となったのが、運材(流筏)に従事する筏師集団であった。谷・河野・元木の3氏は、ともに筏師集団とかかわって労働者の権益の擁護・経済条件の維持確保に取組み労働組合の結成とその強化に大きく貢献をした。那賀川林業労働組合は、県南に初めて結成された組合であって県労働史を解明するうえからも重要な事象である。とりわけ那賀川流域一帯は、自然的条件に恵まれ経済的基盤も豊かで穏健な思想風土の地域である。こうした地域に、明治43年(1910)10月県下にさきがけて労働組合が結成されたのである。
 それは、桜谷発電所の建設という社会的問題が起因となっている〈注1〉。林業労務以外に生きる道のない杣人の切なる自衛手段であったのである。
 今の上那賀も、林業を離れて住民の生活はあり得ない。林業の好・不況が村の繁栄と住民の生活を左右していることに変りはない。和田町長は、林業の活性化を町政の基本におき、林道の開設とその完備・林業後継者の育成・地元特産品の開発と自然美の保全と活用など林業の基盤づくりに努力が続けられている。基幹産業である林業振興策こそ村の活性化に通ずる。貿易の自由化と外材の導入は林業地帯に生きる者にとって厳しい課題である。大正・昭和の林業に生きぬいた3人の石文に強い想いをはせる時期でもある。
〈注1〉電源をめぐり川の争い……労働組合と発電所
 林業で生きる住民にとって桜谷発電所の建設は死活の問題であった。ダムの築造は木材の運送(流筏)路を絶れることにあた。当時の木材の運送は、那賀川の水流を利用する管流・筏流により中島・古庄へ流送していたわけで、ダムはこれらに従事する林業労務の停止を意味することであり、関係する上流6か村(宮浜・坂州木頭・沢谷・中木頭・上木頭奥木頭)は村民挙げてダム建設反対に立ち上り、工事中止命令を提出したり桜谷発電の堰堤不当処分取消請求の訴訟を行政裁判に提出するなど、村長を先頭に再三交渉に当っている。こうした交渉のなかで県会の調停により会社と村の和解が成り、明治45年桜谷第一発電所の完成をみたが発電量が少なく、これを解消する為、桜谷第二発電所(1200kw)の建設計画が打ち出され再び、ダムをめぐる抗争が再燃し、このダムによって最も被害をうける流筏業に従事する筏師が中核となって労働組合が結成された。組合は、堰堤設計の改善・流送路の確保・流筏の補償・水利権の確保等の交渉を行っている。最終的には、会社と労働組合で桜谷発電所舟筏補償契約書を交わし、会社・組合共に誠意互譲融和の精神を以て相互協力し便宜を図るということで妥結をみている。

3 電燈の灯らぬ発電所
 林業経営のうえで大きな犠牲を払ってまでして、設置されたのが、明治43年の桜谷発電所である。目の前で発電される電力が、村の灯として住民の生活に大きく役立ってこそ始めて村民も納得がゆくと言うものであるが、当時の状勢は決してそうあまくはなかった。
 当時の新聞にも、「桜谷は県下にただ一か所の電気の灯る山の村」として報道され、県南で初めてのこととて他の村々に反響と話題を呼んだことであった。当時の電燈は、カーボン電球でぼんやりと薄淡い光を放ったものである。
 然し、それは徳島水力株式会社の企業戦略に過ぎず、発電所建設の為の代償としか考えられないのである。
 電燈の灯ったのは、わずか郵便局・小学校・巡査駐在所といった公共施設と発電所建設とかかわった35軒だけであった。発電所が設置されても村の大半は、昔かわらぬランプの生活を余儀なくされていたのである。事業のもたらす恩恵が村全体の生活のうえにうるおってこそ事業の意義があるものと言える。
4 流筏の終焉
 筏は、那賀川の風物詩であり徳島の林業にとって重要な林材運送の担い手として役割を果して来た。那賀川林業地帯(木頭林業地帯)にとって流筏の持つ経済的意義は高い。この流筏が、那賀川総合開発の名のもとに昭和27年を境として永久に姿を消すこととなり過去の遺産として語り継がれることとなった。時の流れとは言え流筏を知る者にとって本当に寂しい出来事である。流筏の歴史はよく平安時代に猿食筏として記録に残っているが、本格的な流筏が行われるようになったのは阿波藩の林政に力を注ぐ藩の財源としての木材が重要視された藩政時代以降である。

 筏は、図に示す如く1組(1床.1杯)に組み立てられた。1組とは、2間物の材木を8尺の巾に組み、その組を6組つなぎ1組6連の筏とした。筏1組の長さは、14間、巾8尺、才数4.500才である。これを谷口土場(上那賀町谷口)より、下流の中島(那賀川町)古庄(羽ノ浦町)へ流送したもので、通称、里筏と呼ばれる筏である。
 連の呼称として、前方より、ハナ、ブ、モツコ(三連)トモの順に呼ばれ、筏師2人が、ハナとトモにいて楫、水竿によって流れを利用して乗り下げたわけで高度な技術を必要とした。流筏は筏師の誇りでもあった。谷口土場より中島、古庄までの流下日数は、那賀川の水量により左右された。記録による大体次のような状態であった。
○毎年12・1・2・3月の4カ月の渇水期は約5日間
○毎年4・5・6の3カ月は最上の乗下期.俗に「油水」と言い2日間で中島に下る。
○毎年6月の土用より9月の土用の間は、洪水期で何時出水があるか知れない最も危険な時期であるが、大水を利用する時は1日にて乗下げる。
○毎年9月土用以降10月・11月は、気負水と言われ危険をともなう時期ではあるが、水量が豊富なため、1日ないし3日間で中島に下る。
 このように、流筏は長年にわたって那賀川林業を支えて来た唯一の輸送機関であった。
 昭和24年9月に始まる電源開発により、昭和25年に追立ダム・坂州発電所が完成。続いて昭和26年11月に最大事業である長安口ダム・日野谷発電所の工事に着工(昭和33年全工事完了)にともない時を同じくして流筏が停止なり木材運送はトラックによる陸送に切り替えられた。〈詳細、徳島教育誌掲載の「阿波の林政」参照〉
 電源開発による、流筏の停止は、労働組合の解散とその傘下にあった筏師の失業という林業史上にとってかつてない大きな変革であった。こうした事態に対応して労働組合は県に対し補償を要求、何回もの交渉の結果、昭和28年7月「3年間の就労日数を補償額の基準とする。」と言うことで解決をみている。(補償額は概ね1人平均18万円。組合解散費・諸物件損失補償費280万円をもって終了)。昭和30年12月には、鷲敷町において那賀川林業労働組合の解散式が行われ、全国的にも珍らしい筏師労働組合も那賀川から姿を消し筏師稼業に終止符をうった。

4.高磯山崩壊の遺産
(1)川のない橋
 那賀川災害史のなかに、高磯山の大崩壊がある。災害より100年を経た現在、当時の惨状を知る手がかりは何もない。山肌にもその面影はとどめず、惨事を体験した人もすでにない。ただ現地に残る、「川のない橋」と「高磯山崩壊記念碑」が当時の惨状を想起することのできるあかしとなっている。
 川のない橋は、現在の上那賀町春森の長安ダム湖岸を走る国道195号線にかけられている。これが、川のない橋だと教えられなければ気付かずに通り過ぎてしまう欄干もなければ、なんの変哲もない架橋である。しかしこの橋こそ、明治25年7月25日起きた高磯山崩壊の遺産である。
 高磯山の崩壊は、徳島県全域を襲った台風によって那賀川上流地帯に大豪雨をもたらし下木頭村大戸(上那賀町大戸)の高磯山(661m)を絶頂より亀裂させ山の半分が崩壊した。その崩壊した土砂が山麓を流れる那賀川を堰止めたうえ、対岸の荒谷、春森部落をおおいつぶし人家15戸、65人を埋没したうえ、欠壊した土砂によって天然ダムが生まれた。この為、上流の村々の民家や田畑は水没浮上するとともに、崩壊3日後の27日、堰止めていた土砂が崩れ天然ダムが決壊し一挙に湖水の水が下流の村々に押し寄せ鷲敷を始めとする各村に被害を招くといった大惨事であった。
 こうした高磯山の惨事の遺産が、昭和27年に始まる国道195号線の建設工事に支障を来たすとは誰も予測しなかったことである。
 ところが工事に着工して、国道敷設予定である春森地区が高磯山崩壊の土砂の堆積の結果、軟弱な地盤が形成されておりその箇所の道路敷設が難しく架橋に頼らざるを得なかった。即ち、川のない橋をかけることで道路の完成をみたのである。
 長安ダムの湖面に蔭をおとす高磯山。その周辺の自然景観はすばらしい。那賀川上流の自然を賞で訪れる観光者も多いが、100年前の高磯山の大惨事を知る人はない。しかし、一歩足をとめて国道195号線にかかる「川のない橋」をみるとき、当時の高磯山惨事の傷跡が今も我々の生活と深くかかわっていることに改めて自然厳しさを教えられる。また、この惨事が原因となって林業に生きる杣人の生活にも大きな影響を与えることとなった。
(2)高磯山の崩壊と山筏
 藩政時代より、那賀川流域の木材を搬出する筏には、「山筏」と「里筏」の二種類の筏があった。(里筏は前項を参照)
 山筏は、谷口の土場〈注1〉(上那賀町大字谷口)より上流域の木頭村・木沢村で伐り出された木材を谷口土場まで流送した筏を言い、木頭筏とも呼ばれていた。次の藩政文書「筏乗下付高瀬舟ヨリ故障奉願覚」により当時の山筏の状況が知れる。
「………先年より木頭筋筏材木乗下ケ来居儀奉左ニ申上度……
………木頭筏先年ハ、幅四尺ヨリ四尺二寸迄長サハ間ニ組下申候
………右筏拾か年此オ幅三尺五.六寸ニ長八間ニ組下ケ申候
 右筏先年ヨリ山分川ノ内ハ壱艘宛乗下ゲ小浜村ヨリ里分之川ニ達候者ハ筏弐艘ニ組合乗下申候尤モ井関ノ儀ハ壱艘宛取分ケ乗下ケ申来リ候…」とある。また、「徳島木頭の林業」
に「往時は山筏と称し木頭村より約一千才位を一杯とし那賀郡宮浜村谷口迄流下し来り此れより里筏と称し山筏三杯を組合せ那賀郡古庄又は中島に流下したるものなれども、河川の変動により上流よりの筏流しは之をなす能はず、今は全くその跡を絶ち現今に在りては、那賀郡宮浜村谷口により之を行ふ……」とある。この文中に「河川の変動により上流よりの筏流しは之をなしあたれず」とあるは、明治25年7月の高磯山崩壊によって水路が大きく変り山筏の流送が不可能になったことを意味している。このことについて『那賀川改修史』には、「……筏流しが益々隆盛をきわめて来たが、その変革が洪水によってもたらされた。明治25年7月徳島県一帯を襲った暴風雨は木頭地方に豪雨をもたらし、木頭村の通称高磯山が大崩壊して、その土砂は山麓を流れる那賀川を埋める大災害となった。この高磯山の崩壊によって従来の那賀川の水路は変り、かつての山筏による運行は全く不可能となる。」とある。明治25年の高磯山の崩壊を期として、山筏が姿を消してしまった。
 高磯山崩壊が起るまでは、木頭村出原、平谷、木沢の村々より盛んに筏流しが行われ、谷口の土場に集積されていたのである。
 明治の頃の山筏流送について、当時の筏師であった、中橋楠市(木頭村出原、明治7年生)が、次のように語っている。(木頭村誌収録)
 「筏乗りのなくなったのは、明治25〜26年頃である。筏は出原谷口の「フネツナギ」で主に組まれていた。筏に組む材は、板(主に樅、厚さ8分巾尺1寸一艘120間)・小角(杉の杣角)・丸太(杉)であった。当時高磯山の大崩壊があって筏は、御所谷(上那賀町御所谷)まで乗下げていた。早くつく日は、出原を出て正午には御所谷に着いた。…筏の乗り下げ賃は一艘1円50銭ぐらいであった。……」とあり、高磯山の崩壊により筏は、谷口土場までは流送できず御所谷止りとなり明治26年には、これも中止になってしまった。
以後は管流し(一本流)によって上流地域の木材は谷口土場に集積された。なお、明治16〜17年頃に「バン」〈注2〉の流送が行われ、夏、秋の増水期に放流されている。
〈注1〉「土場」旧宮浜村谷口に設けられた那賀川上流の木材の集積場・網場所(アバシヨ)または、止場(トメバ)と言う。通称は、アバと呼んでいる。
〈注2〉「バン」欅・樅・栂などの角材のこと。原生林を伐採して角材に削り、そのまま夏・秋の出水を利用して流送する。1間物(7尺)・2間物(14尺)があった。
(3).高磯山崩壊記念碑に想う。
 高磯山崩壊の12年後、明治37年に、下内伯三が下木頭村・中木頭村(現上那賀町の旧村)の村界、つづら峠(上那賀町下御所谷)に記念碑を建立している。

 つづら峠は、災害時の崩壊土砂によって作られたダムの水位が、この峠にまで達し被災者の救助の拠点となり救助の舟が行き来した場所である。伯三氏は、当時の惨事を知る証としてこの地を選んで建立したものであろう。後世に残る高磯山崩壊を伝える唯一の石文である。碑の台が、当時の水位の地点と言われている。
 碑文には「明治25年7月25日大戸村高磯山岳崩壊シ土砂那賀川流ヲ堰止メ逆流湛湃二里余ニ至ル。当つづら峠ハ其渦中ニアリテ救助船ヲ通渡スルノ一般惨状ヲ極ム」明治三十七年十二月 下内伯三建之〈石碑高さ0.93m・巾0.6m〉とある。
 碑を前にして、100年前の惨事がこの峠に石文として後世に残した先人伯三に想いをはせるとき改めて高磯山大崩壊のあとを振り返り感無量なものがある。

5.先人に学ぶ
 何かの事業を企画し開発を進めると、その事業のもたらす効果には利害相反する二面性をもっていることは昔も変りない。
 明治以降100年、那賀川と共に生きてきた町や村にもこうした課題をかかえ、かつ対応しながら村の繁栄と住民の幸せを願って来た。次に述べる事業も例外ではない。昭和25年に始められた国土総合開発計画の一環として、那賀川流域総合関発計画が打ちだされ大々的に電源開発が行われ、村業を基幹とする上那賀町の産業経済に大きな変化をみせるとともに、大きな村の課題となった。
 なかでも、長安口ダム築造は上那賀町の生産流通機構を始め、諸々の面に変革を与えた事業であった。(詳細は、3の電源の村に記述)とりわけ林業に生きる村人への影響は大きい。この長安口ダム建設より半世紀前の明治43年桜谷発電所の建設が行われているが、この時、村や村民は同じような苦汁の歴史を残している。発電所やダム建設が、村をどう活性化させたか。村にどんな潤いをもたらしただろうか。問題は多い。村の繁栄は、村政・施策に左右される。
 歴史は繰り返すと言われる。次元の高い歩みの歴史でありたいと願う。村づくり、町づくりは村や町の歴史に尋ね、先人の業績に思いをはせ学びとることに出発がある。
 今回、「石文にみる上那賀」と題して報告させていただいたが、これが、村の活性化を進めるうえに少しでも役立つならば、上那賀町学術総合調査に参加させていただいた者として最大の喜びである。同郷、仁宇谷の地に生をうけた者として、21世紀に飛躍する上那賀町のすばらしい歩みを期待して筆を置く。


徳島県立図書館