阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第35号
上那賀町における集落再編成

地理学班 平井松午・大谷祐司・

       岡本光弘・杉本安代

はじめに
 わが国では、第2次世界大戦後の高度経済成長にともない、農山村人口は急激に流出・減少し、いわゆる「過疎化」現象が各地でみられた。このような過疎(人口激減)地域に対しては、1962年(昭和37)の「辺地法」や64年の「広域市町村圏振興整備措置」、65年の「山村振興法」、70年の「過疎法」の施行によって、行政サイドからも各種の措置がとられてきた。
 過疎地域における行政投資については、これまで指摘されているように、道路網の整備や公共施設の充実などという点では成果をあげてきたものの、過疎山村における非農業部門の兼業機会の増大や都市的発想による諸機能の一点集中化は山村の生産基盤や生活様式に多大な変質をもたらした(1)。
 とくに、後者の代表的事業としては公民館機能や教育施設の集中化といった事業とともに、集落再編成事業があげられる。これは、過疎山村内においてもとくに立地環境が劣悪で交通不便な集落の住民を、他の地区に集団的に移転させるというものである。わが国において、この集落再編成事業は「過疎法」のもとに1971年度(昭和46)以降実施され、1976年度までに全国の移転対象集落は119、移転戸数は922戸に達している(2)。こうした集落再編成事業は、とくに過疎化の激しかった中国地方や紀伊山地、東北地方の山間町村に集中したが、徳島県においても木頭村(1971〜72年度)(3)、神山町(71〜72年度)(4)、上那賀町(71〜73年度)で実施された。
 そこで、本報告では、上那賀町の集落再編成事業を中心に、その事業経緯ならびに現状について報告することにしたい。
1.上那賀町における人口減少
 1956年(昭和31)9月に宮浜村と平谷村との合併によって誕生した上那賀町(5)は、那賀川中上流域に位置し、町域の95.8%が山林という山村である。それゆえ、平地にはほとんど恵まれず、集落の大半は地辷り地か、もしくは崖錐性の傾斜地に分布する。そのため、集落の多くは「急傾斜地指定地」か、あるいは「地辷り指定地」に指定されている(図1)。

また、町域の大半が山林からなるため、従来、上那賀町の基幹産業は林業であったが、外材輸入増にともなう林業の不振は、上那賀町の経済的な基盤を不安定なものにしている。
 このような立地環境の悪さや経済活動の不振は、必然的に生産基盤の弱い山村に過疎を引き起こした。上那賀町の人口は、合併後の1960年(昭和35)には5,672人を数えたが、その後は減少の一途を辿り、1988年には2,931人と3,000人を割り、1960年の半数近くにまで落ち込んでいる(表1)。

とくに人口の減少が著しかったのは、1960年から75年にかけての時期である。この時期はまさに高度経済成長期に当たる。1970年6月に作定された中期的展望に立つ「上那賀町振興計画書」では、1975年の目標人口を4,500人と見積っているが、過疎化は実際にそうした目標を大幅に上回る形で進行したといえる。中心集落である小浜および平谷(6)の両地区も含め、ほとんどの集落(地区)において人口が減少した。
 こうした上那賀町における過疎化の理由には、すでに述べた立地環境や基幹産業の不振が指摘されようが、先の「上那賀町振興計画書」の中では、このほかに、農林業の将来性のなさ、都市的生活への魅力、交通通信の不便、社会環境の不十分さ、就業機会に恵まれない点、新卒者(若年層)の流出、などがあげられている。もちろん、こうした過疎化の要因は構造的に連関しているが、「振興計画書」ではこのような過疎化の進行に対して、「理想的な抜本的対策として本町の如き過疎減少の著しい辺地に対しては所謂集落の再整備が必要である」としている。そして、集落整備の基本的方向としては「……今後本町に於ける集落形成およびその維持は少なくとも20戸以上で而も交通通信の便に恵まれた地域でなければ日常の社会生活を営むことは極めて困難である。……辺地集落は漸次崩れつつあるのが本町の現状である」との認識のもとに、「……恵まれた便利な地域に集団住宅を建設せしめるものとする」としており、こうした展望にたって上那賀町による過疎対策事業の一環として集団移転事業が実施された。


2.上那賀町における集落移転事業
(1)移転対象集落の立地環境
 前述の上那賀町振興計画に基づいて、上那賀町では1970年(昭和45年度)から国庫補助を受けて集落移転事業が開始された。表2にみるように、1970年は集落移転事業のための道路改良事業が行われ、翌71年(昭和46年度)にまず平谷の上ノ内地区に公営住宅(上ノ内団地)の建設が行われた。

 上ノ内地区(7)は、上那賀町の中心集落の一つである平谷地区の南側の緩斜面に位置する。ここに、11戸の公営住宅が建設された。当初、この上ノ内団地に入居を予定していたのは、榑山地区および椎ノ尾地区の合わせて11世帯であり、その内訳は表3の通りである。

榑山・椎ノ尾地区(8)は平谷地区の西およそ5km、上那賀町のほぼ西端に位置する(図1)。両集落の南側の那賀川沿いには国道195号線が通ってはいるが、両集落へは国道から通じる車道がない。両集落は、もともと地辷り地に開かれた集落で、1967年3月31日には地辷り指定地になっている。一般に、わが国の外帯に位置する山間地域では、地辷り地は周辺の地形に比して緩傾斜地を形成するため、集落が立地することが多い。榑山・椎ノ尾両地区の場合もこれに当てはまるが、傾斜角度がきついため、国道から集落に通じる車道はなく、物資の移動はすべて人背に頼らねばならなかった。とくに、椎ノ尾地区の奥の榑山地区は標高 470〜520m に位置し、国道から徒歩で30分以上を要した(図2)。そのため、上那賀町ではまず最初にこの両地区が集落移転事業の対象となったのである。

 ついで、1973年には、小浜地区に集落移転事業による公営住宅10戸が建設された。移転対象となった集落は、日真・古屋久保・徳ケ谷の3集落であった(図1)。この3集落の立地条件も、国道もしくは県道からの車道がなく、物資は人背に依存しなければならない、という点で先の榑山・椎ノ尾両地区と共通している。とくに、日真(9)・古屋久保の両集落は標高 400m 以上の尾根部に位置し(図3・4)、車道まで徒歩で30分以上を要する交通不便な土地で、学校・病院はもとより、飲用水にも事欠く環境にあった。

 なお、上那賀町では1974年以降も、白石地区などを対象に集落移転事業による30戸の公営住宅の建設が計画されていたが、集落移転事業は小浜団地を最後に中止された。これは、後述するように、平谷・小浜団地への集落移転事業が当初の計画のように、必ずしも順調に進まなかったことも影響していると考えられる。
(2)転出者の動向
 もとより、集落移転事業は対象集落の住民全戸の移転を目的としたものであったが、集落移転の計画が持ち上がって以降、住民の中には新たに建設される上ノ内・小浜両団地に入居を希望せず、町内の他集落もしくは町外に転出したものも多い。また、両団地に入居を予定していたものでも、町外などに転出したものも少なくない(表3・4)。

団地に入居せず他地区・他町村に移転した理由としては、1970年頃まではまだ林業関係の景気悪化がさほど進行しておらず、山林などを処分することによって移転資金がある程度賄えたこと、また、移転先の団地の住宅が2軒長屋方式で6畳2間、4畳半1間に台所の3DK(50平方メートル)と狭いうえに菜園地もなかったことが敬遠された点、などが指摘できる(10)。
 また、後述するように実際に団地に入居しながらも、その後、2〜3年でもとの家に戻り、現在も生活を営むものも少なくない(11)。しかしながら、これらの移転対象集落においては、かかる集落移転事業が人口減少の大きな契機となったことには違いはなかった。
 集落移転事業が開始された直前の1970年の地区別人口をみると(表5)、

11戸を数えた榑山・椎ノ尾地区は75年には5戸にまで減少しており、集落移転事業を契機に戸数が激減した。とくに榑山地区では集落移転事業が行われた1972年頃を境に全戸が転出し、廃村となった。なお、椎ノ屋地区には現在、5戸(6世帯)が居住しているが、うち4戸は後述する二重生活世帯である(12)。榑山・椎ノ尾両地区の転出状況をみると(表6)、平谷の上ノ内団地入居者よりも、むしろ県内他市町村に移転した者のほうが多くなっている。榑山・椎ノ尾地区では、集落移転事業計画が持ち上がった頃から町外移転者が相次いだとされる。

 また、第2期集落移転事業の対象となった日真地区(13)では1970年当時10戸を数えたが、75年以降漸減している(表5)。また、古屋久保(14)では1970年当時は5〜6戸を数えたが、1974年の小浜団地への集団移転によって無住地区(廃村)となった。
 上那賀町の基幹産業は元来林業であり、移転対象地区の住民の多くも林業労務を主たる
生業としていた。集団移転予定者についてみると、農地を持っているものも少なくなかったが、水田はわずかであり、立地条件から畑の面積も限られていた(表3・4)。集落移転事業の中で、大きな間題の一つは、移転に伴う就業の問題であった。とくに、榑山・椎ノ尾地区の場合、集落と団地との距離は遠く、新たな移転地に就業先が得られるかどうかが移転事業のポイントの一つであった。しかし、この問題については、1971年11月に町が平谷地区に誘致したメリヤス生地製造工場(従業員30人)に移転住民を優先的に採用することで、解決したかにみえた。しかしながら、こうした職場は、これまで林業労務あるいは農業だけに携わってきた移転住民には必ずしも適した職種とはいえなかった。そのため、団地入居者の中にはもとの集落に帰り、農林業に再び携わるものが多く出てきた。
 これに対して、小浜団地に入居した第2期移転対象者の場合には、もとの集落が団地から比較的近く、林業・農業就業者の場合、通作を前提として移転したようである。


3.団地入居者の現況

 上ノ内団地および小浜団地(図5・6)では、当初移転予定とされていた世帯の中で、実際に団地に入居しなかった世帯があったため、入居当初は団地に「空き」も生じたが、その後の町内他地区からの入居によって、現在(1988年7月)では21戸全てが入居されている。上ノ内団地では7戸、小浜団地では5戸が集落移転事業による入居者であり(表7・8)、他の合わせて10戸は、いずれも集落移転事業とは無関係な入居者である(表7・8の○番号世帯)。後者の多くは町内出身者であり、非農林業部門に就業している。彼らの団地入居理由は団地に空きがあったためであるが、結婚や火事による被災などを契機としていた。当時、上那賀町には1964年建設の町営住宅が小浜・平谷の両地区にそれぞれ10戸あっただけである。それゆえ、核家族化にともなう世帯分離などに対する住宅には絶対的不足を生じていた。そこで、両団地の「空き」は、むしろ結婚などによって生じる核家族を吸収する住宅地としての機能をも果たしたといえる。

 これに対して、集落移転事業によって団地に入居した11戸の就業形態は、現在でも農林業に携わっているものが7戸(表7のB・C・E・I、および表8のL・M・O)を数える(15)。このうち6戸は、現在でももとの集落に農地・山林を有し、農林業を営んでいるのである。そうした関係上、彼らの大半は、現在も団地ともとの集落の自宅を往復する二重生活をおくっている。この二重生活は、日常的にはもとの集落において農林業に従事し、農閑期あるいは通院・買物などの際に団地に戻る、といった形で展開されている。集落移転事業による団地入居者で、もとの集落に農地山林を有していた者は、すべて二重生活を経験している。2〜3戸の入居者はすでに団地入居時から二重生活を行っており、2〜3年後には該当の全ての入居者が二重生活を送っていた。
 このような「二重生活」世帯を生んだのは、生産基盤である農地・山林と生活基盤である居住地との分離のために他ならない。そのため、集落移転事業による団地入居者の多くは、移転当初からもとの集落との間の通作を余儀なくされた。それゆえ、必然的に彼らは生産基盤のあるもとの集落に戻り、結果的に「二重生活」を生じさせたのである。なお、集落移転事業による団地入居者で、今日、無職になっている3戸は、世帯主の高齢化あるいは長期にわたる林業労務従事による振動病(白蝋病)によるものである。
おわりに
 以上のように、この報告では上那賀町における集落移転事業を通じて、過疎山村における集落再編成をみてきた。最初に述べたように、集落移転事業はもともと都市的発想のもとに展開された集落再編成事業であり、過疎対策の一施策として展開されはしたが、それはまた小中学校の統廃合にみられたごとく、縁辺集落の住民を中心集落に移転させることによって、行政サイドからの投資効率を高めることにその目的の一つがあったともいえる。
 反面、本来、生産基盤と居住地の一体化を前提とした「村落(農山村)」において、そうした形での生産・生活基盤の分離・解体は、とくに縁辺集落の過疎化を促進し、また、「二重生活」という不規則な現象を生み出したといえる。かかる点では、集落移転事業は必ずしも所期の目的を達成したとはいえないであろう。それゆえ、こうした反省にたって、「新過疎法」(1980年)施行以降、過疎地域ではむしろ地域産業の育成(「村起こし」など)が改めて見直されることになったのである。
 しかしながら、今回の調査を通じて、以下のいくつかの点が指摘できるのではないであろうか。
 1 過疎対策の一つとしては、やはり生活基盤となる基幹産業(農林業)の育成・発展が不可欠である。とくにこの場合、平地面積の限られた上那賀町においては、転出者の跡地(農地・山林)を再利用するなどの、より高度な土地利用のあり方も考えられよう。
 2 現在、上ノ内・小浜両団地の二重生活者の中には、団地をいわばセカンド・ハウス化しているものもあるが、我々が行ったアンケートによれば団地入居者の大半は今後も団地ヘの居住を希望している。また、1972年に徳島県が上那賀町で行った「集落整備のための意識調査」(16)(39名回答)では、移転を望むものが24名(17)ある反面、資金不足のために移転できないと回答したものが17名を数えた。それゆえ、移転する場合、公営住宅の入居を希望したものが9名あった。
 このように、上那賀町の縁辺集落住民の中には公営住宅への入居を希望している者が潜在的に少なくないが、公営住宅についてはその絶対数が不足しているのが現状である。それゆえ、こうした問題の解決は、ある程度、縁辺集落住民の町外流出を防ぐ方策になり得るのではないであろうか。また、公営住宅の増設および質の向上は、世帯分離にともなう核家族を吸収することもできよう。
 3 なおこの場合、これまでみてきたような、生産基盤と居住地の分離にともなう「二重生活」現象を生むことも考えられる。その対策としては、縁辺集落に通じる道路網の整備が必要になろう。

付記 以上、今回の集落再編成に関する調査を通じて、最後にいくつかの提言らしきものを述べたが、この中には政策的に困難なもの、また、すでに町の振興計画に盛り込まれ、実施されているものもあろうかと思われる。また、短期間の調査のため、不備な点も多々あるかと思われる。ご批判賜れば幸甚である。なお最後に、我々の調査に全面的にご協力いただいた上那賀町役場、上那賀町教育委員会、それに現地の皆様には心より感謝致します。

参考文献
1)藤田佳久(1981):『日本の山村』地人書房、247〜252頁。
2)前掲1)251頁。
3)木頭村での移転対象戸数は16集落で52戸にのぼった。徳島県企画開発部地域振興課『徳島県の過疎地域の現況』(昭和51年3月)、88〜89頁。
4)神山町の移転対象戸数は3集落で20戸であった。(前掲3)。
5)翌1957年1月には上木頭村海川地区を地区編入している。
6)小浜は旧宮浜村・平谷は旧平谷村のそれぞれ役場所在地で、1968年(昭和43)10月までは、上那賀町役場は2年ごとに両地区間を交替した。68年以降、役場所在地は小浜となり、平谷には支所が置かれた。現在、小浜地区は町役場をはじめ町公民館・町立上那賀病院などの公共施設が集中し行政的中心をなす(図6)。これに対して平谷地区は、町森林組合・那賀西部農協・四国電力営業所・銀行支店などがあり、経済的中心をなす(図5)。
7)上ノ内地区は、もともと旧大字平谷の一部である。
8)槫山・椎ノ尾の両地区は、ともに旧大字白石を構成した小集落である。
9)なお、日真地区で現在も山上に残っている1戸へはバイク道が通じている。
10)とくに榑山・椎ノ尾地区では、当初、上ノ内団地への入居を予定していた世帯のうち、家族員数がが4〜6人と多い世帯で入居を取りやめている(表3)。
11)それゆえ、当初、全戸移転の対象集落となった椎ノ尾地区は廃村とはならず、その後も国勢調査などにおいて統計値を数える。
12)残り1戸は、1974年に海川地区から転入した世帯である。
13)日真地区では、すでに長安口ダム(1957年完成)の建設を契機に、水没予定の数戸が転出していた。上那賀町誌編纂委員会編『上那賀町誌』上那賀町、1972、339〜340頁。
14)古屋久保はもともと旧大字古屋の一部である。
15)これら7戸全戸が、現在、ユズ栽培を中心とした農業経営を行っている。上那賀町では1966年(昭和41)頃よりユズ栽培が本格化し、1984年現在、ユズ栽培農家は300戸、作付面積は35haに達し、今日、上那賀町における最重要農産物となっている。椎ノ尾・日真・古屋久保の各地区でも、現在、かつての水田や畑の多くはユズ畑に転用されている。また、現在、ユズ栽培のためのモノレールがこれらの地区では設置されており、このモノレールを利用することによって、かつてのように人背で物資を運ぶということは少なくなった。
16)調査対象集落は、日真・大戸・宮ケ谷・松久保・白石であった。
17)うち12名が「不便で生活しにくい」と回答している。


徳島県立図書館