阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第35号
上那賀町の産業と社会の課題

地域問題班 三井篤・榎本悟・小田利勝
        中嶋信・中谷武雄

 はじめに
 上那賀町は1957年に上那賀村(旧・宮浜村および旧・平谷村)が上木頭村海川地区を編入合併して発足した。那賀川上流の豊富な山林資源が地域産業の基盤となっているが、1960年代以降の外国材大量輸入のもとで地域の産業は激しく動揺し続け、過疎問題と総称される多くの社会問題を抱え込んできた。この稿は、その変動の過程を確認し、現時点で地域が抱える問題の一端を整理することを課題とする。上那賀町住民が過疎脱却の努力を継続していることはいうまでもないが、それに対して些かなりとも協力できることを願ってのことである。
1.地域産業・社会の動態
1)人口の動向
 上那賀町の人口は、1965年の5,100人から1985年の3,017人へと、過去20年間に2,083人、41%減少した(表1)。

ちなみに20年間の年平均減少率(r)を算出すると、算術平均:r=−0.024479、間欠的増加率:r=−0.02566、連続的増加率:r=−0.02478であり、毎年約2.5%ずつという激しい人口減少を示してきた。
 過去20年間の人口減少を5年間隔で見ていくと、1965年から1970年までの5年間の人口減少が著しく、この期間に1,116人(22%)も減少している。1970年から75年の5年間の減少率は大幅に縮小したものの、なお14%と2桁台を示し、1975年から80年の5年間にも8%減少している。人口減少が鎮静化するのは1980年以降になってからであるが、1980年から85年の5年間でも、なお4%減少している。
 以上のように、最近20年間に関して言うならば、1965年から1975年までの前半10年間に、地滑り的とも言えるほどに急激な人口減少を経験し、75年から85年の後半10年では、前半10年間に比べれば減少速度が大きく緩和したが、依然として小さくない率で人口が減少してきたのである。
 人口に比べて世帯数の減少率は小さく、過去20年間に1,198から1,023へと175世帯、15%の減少にとどまる。その結果、一世帯当りの世帯人員は、1965年の4.26から1985年の2.90へと短期間のうちに大幅に減少することになったのである。

 次にこの間の人口減少の内容を検討しよう。周知のように地域人口は自然増減と社会増減とによって変動する。表2は上那賀町のそれぞれの人口変動数を推計人口で除した値が年次毎に示されている。この間の人口減少が転入と転出の差である社会減に強く規定されていたことがまず確認できる。若年層を中心に大量の人口が流出した背景には、地域の基盤産業の分解があることはいうまでもない。一方、自然増減は停滞的に推移しており、この結果、総体としての人口動態は減少基調を貫いている。ただし転出率は低下傾向を示しており、近年は減少傾向の緩和を認めることができる。
 とはいえ、地域の人口減少に歯止めがかかったとみることは決してできない。まず出生率の低下が顕著であり、地域人口の再生産が失調しつつあることが伺われる。また死亡率はほぼ停滞的であるが、高齢者比率の高さから、今後増加は必至とみることができる。また転出率の低下傾向は主に外部経済のプル要因に規定されてはいるが、移動性の高い若年層の構成比の低下も働いているとみることができる。従って、減少率の近年の低下という事実は、地域の人口動態に関する楽観材料とはなり得ないのである。
 急激かつ長期的な人口減少は、上那賀町の年齢別人口構造を著しく変化させることになった。年齢階層別の増減率を見ると(表1)、若年人口(0-14歳人口)の減少率が一貫して大きく、1965年から85年までの20年間に1,037人、66%も減少した。15-64歳の生産年齢人口も同期間に1,132人の減少があったが、減少率は36%であり、5年間隔でみても、どの期間でも、若年人口の減少率は生産年齢人口の2倍である。これに対して、65歳以上の老年人口は、過去20年間一貫して増加を続けている。その結果、過去20年間に年齢別人口構造は大きく変化した。そして、地域社会は特有の問題を抱えることとなった。
 1965年においては、若年人口が30.5%、生産年齢人口が60.6%、老年人口が8.8%であったものが、1985年では、それぞれ17.2%、65%、17.8%になっている。大雑把にいって、上那賀町の人口の5人に1人は65歳以上の高齢者ということになる。年齢構造係数の上からは、生産年齢人口は1965年以降微増を続け、85年になって若干低下したが、若年人口係数および老年人口係数に比べると変動幅がごく小さいものでしかない。若年人口の急激な減少と老年人口の増加によって人口の高齢化が急速に進行した。図1は上那賀町の人口ピラミッドであるが、この20年の間に若年層が著しく減少しているのに対して、50歳以上層はむしろ増加を見せ、人口構成の高齢化が顕著であることが確認される。

 老年化指数(老年人口/若年人口)を見ると、1965年には29すなわち若年人口100人に対して老年人口が29人であったのが、1985年には103.5と老年人口が若年人口を上回るまでになったのである。これに対して、老年人口指数(老年人口/生産年齢人口)は、1965年の14.6から1985年には27.4と大きくなったが、老年化指数ほど急激に増大したわけではない。ちなみに、日本全国の高齢化の推移と比較してみると、老年人口割合が18%に達するのは2005年、老年化指数が100を越えるのは2010年と見られているから、上那賀町の人口高齢化は、日本全国の20年から30年先をいっていることになる。高齢化問題が、将来の課題ではなくて、まさに現在の課題であることが理解されよう。

2)産業の動向
 これまで確認した地域人口の年齢構成上の「ゆがみ」は、いうまでもなく地域経済の動揺の結果もたらされている。表3は上那賀町の産業別就業者数の推移を示す。

「高度経済成長」の開始以降、就業人口は一貫して減り続けてきた。まず、主要な生活手段であった半農・半林の家族経営が激しく分解する。たとえば60〜65年の間には第1次産業は580人の減少を見る。その一部の約230人は地場の土建業等に吸収されるが、地域労働力市場の形成は一貫して微弱であり、多くは雇用の場を求めて町外流出に向かう。もとより若年層の新規参入と高齢などによる引退が加わるため、産業部門間の就業者移動はやや複雑ではあるが、若年層は学卒を契機に流出するパターンが主流をなし、域内での移動は概して高齢者の比重が高いものとなる。かくして山村特有の第1次産業の分解による過疎化の図式が描かれる。
 上那賀町の就業構造は80年代になっても第1次産業の比重が高い山村型の特徴を保持しているが、農業就業人口の増加が注目される。ただしこれは農業そのものの安定の結果ではなく、林業部門の後退や他の兼業機会の縮小の結果もたらされているとみるべきであろう。製造業は75年以降後退基調にあり、過疎化に歯止めをかけるには程遠い。また70年以降、第3次産業も実数で後退していることが確認される。第1次産業の後退に続き、それらと密接な関係にある第2次産業が分解し、これらの物的生産部門の縮小の結果、第3次産業が後退を余儀なくされているのである。
 その点で地域産業振興が緊急に求められていることは言うまでもない。なお地域の産業連関上の特徴の一つは林業の比重の高さにある。それは出荷高や就業人口の高さだけでなく、原料提供・サービス需要などで他産業部門の動向を大きく左右する存在である。上那賀町産業にとって、林業はいわば基盤産業とも言うべきものに当たる。そのため町の産業振興上の基本目標には林業振興が中心的に位置づけられているが、この点は別に検討しよう。

3)高齢化問題
 地域の産業が激しく動揺する中で、若年層の流出が継続したことを先にみた。その結果、地域社会は高齢化問題を抱え込むこととなったのだが、次にその現局面を確認しよう。65歳以上の親族のいる一般世帯数は、1980年には390世帯(全世帯の38.9%)であったが、85年には413世帯(全世帯の40.4%)と、5年の間に6%ほど増加している。いわゆる世帯の高齢化がかなりの勢いで進んでいることがわかる(表4)。

いずれの年次でも非親族世帯はなく、80年では90%が、85年では88%が親族世帯であり、しかも、大半は親夫婦の世帯と子夫婦の世帯とが同居している三世代世帯(表中の「その他」世帯)を形成している。しかし、この5年間に、核家族世帯および単独世帯がともに増加しており、三世代世帯が実数においても割合においても減少している。とはいうものの、全国平均と比べれば、三世代世帯で生活している高齢者の割合はなお大きい。全国的には、65歳以上の者のいる世帯で三世代世帯を形成している割合は、1980年で50.1%、85年では45.9%と既に半数に満たない。
 単独世帯の割合および核家族世帯の割合はほぼ全国平均と同じであるが、後者のうち、夫婦のみの世帯の割合は、1980年の13.3%から85年の22.3%へと急増し、全国平均を若干上回るようになった。この点に関しては、65歳以上人口の離・死別率の低下=有配偶率の上昇も一因となっている(表5)。

 60歳以上の単独世帯についてみると(表6)、1980年の58から85年の62へと若干増えている。そして、80年では70歳以上の高齢者(いわゆるold-old)は24人(41%)であったのが、1985年には28人(45%)と実数でも割合でも増えている。そうした単身高齢者の高齢化は今後の高齢者問題の重要課題となろう。
 ところで、高齢者世帯を職業別にみると、この5年間では、農林漁業世帯および農林漁業・非農林漁業混合世帯が実数および割合ともに減少し、非就業世帯が実数および割合ともに大きく増加している(表7)。世帯の高齢化が、非就業高齢者世帯の増大と結びついて進行していることがわかる。

 この地域の高齢者の就業先については表8に示す。65歳以上の就業者数は、1980年で121人(65歳以上人口の24.5%)、85年では120人(65歳以上人口の22.3%)と5年間で変化がなく、男女別でも就業者数に変化がない。いずれの年次でも農・林業従事者が63%を占めているが、80年に比べて85年では、男子の林業従事者がほぼ半減し、逆に農業従事者が10人増えている。その他の産業ではとりたてて顕著な変化は見られないが、高齢就業者が増えた産業は、建設、電気、運輸、サービスであり、逆に、製造、卸売では高齢就業者が減っている。

 高齢者が地域人口全体に占める割合が大きく、しかもさらに高齢化が進んでいる現在、高齢者対策は、地域福祉の向上にとって重要な意味を持つ。次にその基本的な事項を確認しよう。一般に、高齢化は財政規模の小さい農山村において進んでおり、財政規模の大きな都市地域では高齢化の程度は低い。その結果、緊急かつ長期の高齢者対策が必要とされる農山村地域で財政上の制約から十分な施策ができず、高齢化の程度が低い都市地域で高齢者対策が先行・充実しているという矛盾した現象が見られる。都市に生活していれば享受できるであろう各種の社会的な老人福祉サービスが、農山村に住んでいるために無縁のものになっていることが多い。それを補っているのが家族を中心とする私的扶養である。
 上那賀町では、社会福祉協議会が正規に法人化され、地域福祉の推進主体としてあらためて重要な役割を担うことになったが、高齢化の進展に伴う高齢者夫婦のみの世帯および単独高齢者世帯の増加が引き起こす多種多様な老人福祉ニーズにどう対応していくか大きな課題を背負うことにもなったといえよう。現在、寝たきり老人への1か月1回の巡回入浴サービス、車椅子・日常生活用具貸出などが実施されているが、ホームヘルパーが2人しかいないなど、マンパワー不足からサービス供給範囲や密度に限界があり、今後さらに増大することが予想されるニーズに効果的に対処していくことを困難にしている。
 一人暮し老人に対しては、老人クラブの毎日訪問員活動が行われているなど、いわば民間ボランティア活動が一定程度の成果をあげているが、健常な高齢者への福祉サービスや生きがい対策の問題も含めて、上那賀町独自の高齢者対策を早急に検討し、立案・実施する時期にきている。そのためには、青・壮・老の世代間交流を積極的に進めることができる機会を作ることが必要であろう。


2.林業・林産業の動向
1)林業・林産業の現状
 上那賀町は総土地面積の95.8%に当たる 16,774ha が森林で、そのうち97.99%が民有林である(表9)。

森林資源は上那賀町の恵まれた自然条件を生かして早くから人工林化が進められ、人工林率は徳島県下第1位で89%と極めて高く、その98%までが杉で占められている。林分構成は7齢級以下の幼齢林分が64%を占めており、民有林の総蓄積は約3,678,000立方メートルで年平均44,000立方メートルを生産している。従って、林業は上那賀町産業の発展の基盤であり経済振興を図る上でも重要な役割を果たしてきた。
 上那賀町における私有林は町外所有が総面積の57.73%を占めており、残り42.27%の森事が町内林家によって経営されている。町内林家の所有構造は5ha 未満の零細な林家が77%を占め、その森林面積は 19.78%に過ぎない。5〜50ha の中小規模林家および 50ha 以上の大規模林家の所有者比と所有面積比は、それぞれ 21.7%、56.4%、1.13%、23.82%である(表10)。

これに対して、町外所有の構造についてみてみると、5ha 未満の零細な林家、5〜50ha の中小規模林家、50ha 以上の大規模林家の所有者比と面積比はそれぞれ、72.25%、12.92%、24.26%、36.81%、3.48%、50.27%である(表11)。

このことは、町外所有の割合が高いということだけでなく、町外所有者には大規模林家が多いということも示している。一方、最近の林業をめぐる情勢は非常に厳しく経営意欲が阻害されがちとなり、林業生産活動は停滞の傾向にある。さらに過疎化の進行にともなって林業就業者の減少と高齢化で林業労働力の不足、林業後継者の育成など多くの問題を抱えるに至っている。
 林産業については、製材工場5、チップ工場1、そのほか木工関係1と極めて少なく、製材品生産量は年8,600立方メートル程度で、地域内の素材生産量のわずか約20%に過ぎない小規模である。
 戦後推進された人工林が主伐期を迎えつつあることから、今後の木材需要の動向とも対応しながら、上那賀町においては地域産業の活性化を素材生産整備一本に絞り、林道開設・整備を重点課題としている。そして、木材需要開発のための施設を丹生谷地域全体の協力体制の基に鷲敷町に大規模製材工場を建設中(丹生谷地域国産材供給体制整備事業)である。
 上那賀森林組合や阿南農林事務所では、林業の後継者養成が思うように進まないということに、頭を痛めている。具体的には、林業の担い手としてUターン組や土木関係の人材を森林作業者として雇用したいという希望はあるが、人材を確保する上で、一つは経済的な理由(後述)と、もう一つは機械化の遅れという二つの大きなネックが存在していると判断している。経済的なネックを除去するためには例えば森林組合等が核となって作業者の通年雇用を確保するということが考えられているが、そのためには材木を供給するということで専門化するよりも、より多くの付加価値をつけるために加工部門の設置といった前方統合も必要となろう。また先述の丹生谷全体の協力体制のような近隣町村との広域的な開発も考慮されるべきであろう。
 次に、上那賀町で林業関連の事業を営むA製材の事例を見てみることにする。A製材は製材工場と焼き板工場を持ち、従業員は以下の通りである(表12参照)。

 この工場の平均年齢は43歳と高く、女性労働力に依存する割合が比較的高い。しかも比較的中高年齢層の人たちで構成されており、若年者を雇用する余地はないように見受けられた。事実、地元の那賀高校平谷分校には求人はしていないとのことである。それは差し迫った必要性がないというのがその理由である。また求人をしたくても、授業内容が実学的でないので、資格がとれるようするとかいった工夫が欲しいという要望も併せてだされた。高卒女子の職場の確保については、公的な職場で女子労働者を雇用してもらいたいという要望もあり、それらの人たちが森林作業に関わる人の伴侶になりうるのではないかという点も指摘された。
2)林業後継者の育成の課題
 表13は、丹生谷地域国産材供給体制整備事業(昭和60〜62年度)の一環として、上那賀町森林組合が昭和61年に調査をしたものである。

これによると、40才未満の若齢者の林業離れが顕著で、高齢化が急速に進行していることが分かる。林業労働力の減少、高齢化の要因の根は極めて深く、林業の地位の相対的低下及び山村・林業における社会資本の不足、社会保障制度の立ち遅れなどの経済構造上の問題が大きい。従って、単なる林業生産力の増大だけでなく、山村地域社会の健全な発展、林業後継者の定着・育成を中心とした定住条件の整備によって活路を見いだすことが肝要である。山村地域における若者の定住条件としては、自然環境の素晴らしさの他に次の3つの項目がプラスされるべきであろう。
 1 所得の確保、2 都市的余暇活動の充実、3 生活環境の改善。いまこの3つの点についてやや詳しく説明しておこう。1 の所得の確保については、次代を担う若者が既存の林業に対して全く魅力を感じていないということである。そのため企業を新たに誘致するか、あるいは道路網の整備によって地元から通勤できる範囲を拡大するといった方向が考えられることになろう。事実、若者はそうしたことを求めている。しかし、上那賀町においては林業が主たる産業であり、それに依存することなしには新しい産業への方向転換も可能とはならない。とすれば若者にとって魅力ある林業への方向転換がまず第一に志向されなければならない。それには付加価値の増大を可能にする前方統合や、既存の林業への新しい技術の導入(それは作業の機械化だけでなく、コンピューターを利用して森林の管理を行うといったこと、あるいは県下の諸都市と木材の市場動向についてオン・ラインで結ぶといったこと等)といったことが、若者への就職の間口を広げることになると同時に、魅力ある林業になって行くことになろう。2 の都市的余暇活動の充実に関しては、小都市でさえ保持している娯楽設備や、都会に行かなくてもだいたい地元で間に合う商店街の整備が必要になる。また、上那賀地域におけるローカル情報の交換ならびに都市との情報交流の促進のためにケーブルテレビを設置することも必要になるのであろう。これらは都会に対する漠然とした若者の憧れを地元において充足させるものである。こうした点も若者の地元離れを引き留める一つの施策である。3 の生活環境の改善については、道路網の整備に基づいて、地元から県内諸都市に通勤することが可能になることである。また新たな企業を誘致したり、地元の林産資源を利用したり、あるいは自然環境を利用して都会からの観光客を引き寄せるということであろう。以上3つの事項について、それぞれの施策を具体化し、バラバラに行うのではなく、総合的、モデル的に整備・建設し若者の定住化を計る必要がある。


3.若者定着の条件
1)若者の意識調査と結果の分析
 調査対象としては中学校に通う生徒についてもなされる予定であったが、地元の中学生はほとんどすべて高校に進学することがはっきりしたため調査の対象に含めないことにした。また、将来の進路についても進学以外に明確化しているとは考えられないために調査対象から外された。
 例えば平谷中学では、昭和62年度卒業生27名中、就職した生徒は1人で、残りはすべて進学をした。昭和61年度31名、60年度22名、59年度27名、58年度24名、57年19名、56年度21名、55年度27名、54年度29名の卒業生を輩出したが、54年度に1名の就職者を出しただけで以後は全員進学をしている。また宮浜中学でも昭和63年度卒業生17名全員が高校に進学しており、62年度についても進学率は100%であった。このように生徒のほとんどが高校へ進学するため、地元に将来残るかどうかを聞くことについては余り意味がないと判断された。
 そこで本節では、那賀高校平谷分校の協力を得て昭和63年10月、全生徒を対象に意識調査を行った結果を報告することにしたい。那賀高校本校には普通科があるが、平谷分校には農林科と家政科しかない。現在の生徒数は全体で65名である。そのうち回答が有効と判断された63名についての結果を報告する。その内訳は表14の通りである。

男子生徒はすべて農林科に所属し、女子生徒はすべて家政科に所属して、それぞれ32名、31名である。
 ところで生徒数の長期的な傾向を見てみると昭和40年代前半が最大で、100名を超えていた。例えば昭和40年102名、41年120名である。
 しかしその後減少に向かい、58年、59年には29名ずつであった。ここ2〜3年はやや増加の傾向がみられる。例えば61年43名、62年55名、63年は現在65名である。この理由のひとつとして、授業料相当分に対する町当局の補助事業が効を奏したことを指摘することができよう。
 表15は生徒の進路について調査した結果を示している。

 これによると、進学ならびに進学希望者は合わせて8人である。それも高学年になるにつれて、できれば進学という項目を選択する人はいなくなり、就職か進学かの意思決定は明確になるという特徴を持っている。低学年ではただ漫然と考えていた将来のことが、高学年になるにつれて態度の明確化を本人ならびに家族との間で迫られるからであると考えられる。また就職するという決定をした生徒の数は専攻する科を反映して多数を占めていることは容易に想像できよう。
 進学ならびに進学希望者についての進学先、学校所在地、ならびに彼らが卒業後、地元に戻る意思があるか否かを調べた結果が表16である。進学学校については8人中5人までが専門学校を志望し、県外志向であることがわかる。重要なことは、彼らが卒業後、地元には戻らないという意思をはっきりとみせていることである。その最大の理由は彼らにとって、就職する場所がないということである(表18)。加えて娯楽の機会が不足していることや交通が不便であること、さらには都会に対する憧れが地元への回帰を閉ざしていると考えられる。

 表17は就職すると回答した生徒48人についての就職先所在地について、そして県内で就職すると回答した生徒37名について、県内のどの地域に就職を希望しているのかということを見たものである。この結果、地元に残ることを希望している生徒は3人で、就職希望者全体の6.3%でしかないということ、そして県外に就職を希望する生徒も7人で、14.6%でしかない。およそ80%近くの生徒は県内の都市に就職を希望し、その大多数が徳島市を希望しているということがわかる。
 それでは、就職希望者がなぜ地元に就職することを嫌うのであろうか。それを見たのが表18である。容易に想像されるように、最大の理由は進学した生徒が地元に戻ることをいやがる理由と同じように、地元には就職先がないということである。加えて、就職希望者にとって格好の業種や職種がないということである。この意味することは第一次産業に主として依存している地元の生活では若者を引き付けることができないために新たな就業の機会が必要であるということと同時に、第一次産業に依存していてもなんらかの形でその産業自体が若者にとって魅力ある職種であるように変貌しなければならないということである。また都会に出てみたいという気持ちや娯楽の機会が不足しているといった不満は仕事以外の面でも若者を魅了する社会生活上の不満があるということを意味するものであろう。そうしたことをうかがわせる資料が図2である。

 これによれば、地元にとって今後必要なものとして企業誘致をあげる生徒よりも、道路の整備、娯楽設備の充実、商店街の整備や観光開発をあげているものの方が断然多いということである。そして農林水産業の基盤整備を望む生徒は一人もいないということは注目に値する。
 これらのことを総合的に考えてみると、就職先がないという不満を持つ生徒にとって、地元経済が大きく依存している第1次産業の現状は魅力に乏しく、若者引き留めの解決策には有効ではないということである。同時に彼らが地元に住むことを可能にする条件は、県内の都市に通勤可能な道路網の整備と、社会生活上の基盤の整備とが不可欠であるということであろう。ということは、若者は地元外に通勤し、しかも第一次産業以外の仕事に従事し、地元にはある程度生活上で満足しうるものがなければならないということになる。
そのとき、地元の農林業はどの様な形で生き残ることになるのか、どの様な形で再建するのかが最も重要な課題となろう。
2)地域振興と住民合意
 過疎化に伴う諸問題を打開する上で、地域の後継者となる若者の定着を図ることが決定的な意味を持つことは言うまでもない。そしてその前提として若者の受け皿である就業先をいかに整備するか、地域振興をいかに実現するかが上那賀町の焦眉の課題となっている。
もとよりこのために「上那賀町振興計画」や「過疎地域振興計画」が立案され、町が中心となって長期的観点で計画的な対処が図られているが、次にこの点に関して若干の課題を確認しよう。
 町の計画では林業が基幹産業との位置づけがなされた上で、森林施業計画の適正実施・良質大径材生産による銘柄確立・林業就労条件の安定等が課題とされている。これらを具体化するために行政投資では林道など交通通信体系の整備に重点がおかれてきた。1987年度の町歳出(総額18億6,465万円)構成では、農林業費:26.9%、土木費:11.7%の高さなどからその事実を確認できる。生活関連施設での簡易水道施設や木造町営住宅、柚生産のためのモノレール敷設等の取り組みはあるが、基本的には長期的な観点にたって基盤整備に徹すると言う姿勢が示されている。
 これに対して、林産物の高付加価値化や観光開発のための大胆な投資を求める声も町内で少なからず確認することができる。若者の流出が近年もとどまらず、高齢化が急進するもとでは、効果的な歯止めを急ぐべきであり、長期展望はその後のこと、との主張である。
現に周辺町村で集成材工場や観光拠点建設が取り組まれていることから、上那賀町の対応はやや消極的との印象は否めないところである。だが町の産業連関を踏まえるならば、林業を軸とする基本戦略は正当であり、長期的観点に立っての基盤整備に重点をおくこともまた妥当といえよう。従って、この基本戦略を維持しつつ、地域づくりに新たな局面をいかに組み込むのかが検討されるべきであろう。
 新たな選択を困難としている要因のひとつは財政上の問題である。表19は周辺町村の財政関連指標を示す。

人口規模と産業構造から分類される地方財政の類似団体型によると、上那賀町は0−1型である。丹生谷地域に同じ型が隣接しているが、木頭・木沢は人口規模が小さいことから単純比較で財政事情を判断することはできない。上那賀町の場合、自主財源が少なく、紐付きの補助事業に多くを頼らざるを得ず、独自計画の実施が先送りされる結果を招いている。地方税収入は87年度決算で8.1%にとどまっており、一人当りの税収額は全国の類似団体平均よりも4.2%(2,432円)低額で、地方税の税源の弱さを確認することができる。
 財政力が弱いために町の財政運営は地方債への依存を高めざるをえない。歳入規模に対する地方債残高は100%を越えており、町財政の困難を示している。ただし、1981年以降は、公債費比率は14%台で安定的に推移しており、償還の山が見えてきたことから財政運営を積極的に展開することの兆しを見ることができよう。
 次に上那賀町の発展方向についての合意形成の場が整備されていないことも、新たな選択を困難にしている要因のひとつと言えよう。先述したように上那賀町の産業と社会は重大な問題を抱えており、早急に打開の計画が策定され、住民の地域づくりの運動が展開されることが求められている。林業育成の方向や若者の定着条件整備などについては住民内部で多くの模索が進められており、そのことは上那賀町の今後の可能性を示すものであるが、地域内のこれらの運動が効果的に結合される場は十分ではない。住民が町の発展計画づくりに本格的に参加し、その推進を担うためには、町行政や議会がオルガナイザーとしての機能を一層発揮することが求められる。この点で町企画課が解体されたことは縦割行政的な執行体制に後退する懸念をはらむものである。町行政は、住民や各種団体の中で現状打開の試みが進んでいることに注目して、町づくり運動が活発に展開される機運を造成するための働きかけを強めるべきであろう。

 むすび
 この調査では上那賀町の産業と社会の変動の過程を明らかにすることを課題として、資料収集や関係者からの聞き取りを進めたが、調査日程と紙幅の制限から、報告書では人口構成・林業の動向・若者の意識などに論点を限定し、それらに係わって若干の課題整理を行うにとどまった。この調査を進めるに当たっては上那賀町の和田町長、宮本教育長、那賀高校平谷分校・里教頭を始め、多くの機関・個人のご協力をいただいた。ご多忙の中、われわれの身勝手な注文に好意的に対処していただけたことに深く感謝したい。これらのご協力の大きさに対して、報告書はあまりに不備が多いとの批判は甘んじて受けざるを得ないが、これを契機に関係者との論議を継続できることをわれわれは望んでおり、またその過程でより実践的な課題に応え得る資料を提供できると考えている。
 なおこの報告書は調査班長・三井はじめ調査参加者5名の素稿と討論をもとに中嶋が編集した。また徳島大学総合科学部に事務局をおく「地域問題研究会」において、課題設定や資料検討の作業を行った。


徳島県立図書館