阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号

転キリシタン・類族の取り扱い−吹田村・東意を素材として−

地方史班 板東英雄

はじめに
 キリシタン禁制は、鎖国制の一大要素であり、幕藩制国家を支える重要な政策として位置づけられ(1)、人民支配の有効な道具として発展させられたとされている。しかし転キリシタ・類族については、研究の主眼が、キリシタン禁制と幕藩制国家確立との関係に注がれているためか、あまり注目されず成果も十分にまとまっていないといえる。
 公儀の類族取扱いは、寛文13年(2)(1673)4月「ちかき親類縁者可被書付事」と類族の調査が、命ぜられたのに続き、貞亨4年(3)(1687)7月には「本人」「本人同前」「類族之者」を区別し、「忌懸候親類并智舅」に至るまで吟味のうえ報告せよとするなど、より詳細な規定が定められている。また貞亨4年の規定では類族の死亡に際しては、「毎年7月12月両度に切支丹奉行江指出帳面除かせ可被申事」と7月と12月の2度、公儀の切支丹奉行に報告せよと定められている。そして、その後、元禄8年(1695)6月13日の「覚」(4)をもって類族の取扱いは一応整理されたとされている。
 この類族の取扱いについて今村義考は「類族改めは基本的には、寛永鎖国後、幕府により取られた切支丹根絶政策」(5)と位置づけ、類族をキリシタン影響をもつものと同一視し、そこからの反幕藩制思想を排除する目的をもち実施されたと、類族問題を鎖国政策との関連のなか、キリシタン禁制の延長線上に位置づけている。また山口啓二も「キリスト教禁制(宗門改の毎年実施と転びキリシタンとその類族の登録制)は、たんなる名目にすぎず、宗門改を通じて確立してきた寺請制度の効果を強める以外のものではなくなった。」(6)とやはり類族問題をキリシタン禁制の中に位置づけている。
 これに対し豊田寛三は、豊後における類族の取扱いを克明に分折するなかで、幕藩制国家の全過程で独自の機能を有していたとし「類族問題は幕藩制下における農村支配、農民支配の問題と深くかかわっている。」(7)と指摘している。
 以上、現時点での類族問題は、幕藩制国家成立の中で、キリシタン禁制と同一線上に位置づけ、キリシタンの影響を根絶するために取られたとする説と、類族取扱いの独自性に注目し、村落支配・農民支配と大きくかかわっているとする説に大別される。
 本稿は、2説に導かれながら、類族取扱いが開始される以前から実施されている転キリシタンの取扱いも合せて考察し、藩の転キリシタン・類族取扱いが、民衆支配の上から、いかに有効に機能させられたか、板野町吹田の転キリシタン東意およびその類族を通じて考察し、その意義を解明したい。


1.転キリシタン・類族の取扱い
 徳島藩における転キリシタン・類族の取扱いは、藩内にキリシタン禁制政策が展開されるなか、公儀の類族取扱いの方針に添い実施されている。徳島における類族取扱いの最も早い記録は、明暦2年8月23日家老から城下島々に出された「覚」(8)および同年8月28日家老から町奉行に申し渡された「覚」(9)により、その取扱いの一端を窺うことができる。市中に出された「覚」によると、「先年市中立退候吉利支丹宗門之内御公儀并御自分共度々御穿鑿被仰付候もの共儀ニ付慶安弐年丑極月十六日ニ何連茂方寺沢式部方江壱冊遣置候事」と今まで穿鑿を受けたキリシタンについて、慶安2年12月16日までに、町奉行に報告せよと命じている。さらに「右帳面ニ書載せ候者共之儀ハ不及沙汰以後度々相改者共之一類吟味可被申付次第」と帳面記載者以外の者で度々、取調べにあっている者は、一族の者も吟味せよと命ぜられており、この時期から類族調査が開始されだしたと考えられる。事実、慶安2年の方針を受けて調査が実施されたと思われる帳が同年8月9日付の「板野郡吹田村切支丹宗門縺東意一件諸書附壱抱」(10)として残っている。また明暦2年(1656)8月の藩内の調査をまとめたものが、明暦4年(1658)6月16日に作成された「吉利支丹出申国所之覚」(11)の中にみられる徳島の転切支丹と想像される。(表(一)参照)

この「吉利支丹出申国所之覚」には、全国諸藩の転切支丹の実状が把握されているが、人名・身分・職業・などくわしい内容は全くふれられておらず、人数も不正確である。さて明暦2年8月に市中と城下島々に出された「覚」(内容は全く同一)によると「右何右衛門ニ親より甥逅切支丹宗門ニ而無之へ共此者共も何右衛門同前其所へ預置相果ハバ死骸おさへ置注進可申上旨堅可被申付置但加様成類之者御扶持人亦は不被雇置御両国之内何方ニ奉公仕共其段は不苦之事」と記されている。すなわち、本人のみがキリシタンで、両親から甥に至までの間にキリシタンがいなくても彼らは類族として把握され、死亡時には報告すること。類族の者を扶持人として召抱えてはいけないこと、などが決められている。その後、公儀の取扱いと同じ内容をもつ貞亨4年の「覚」(12)により取扱いはより詳細に定められ、さらに元禄2年12月29日には類族と記載された諸士・無格・市郷之者に対し「病死・変死・男女出生之子・自国他国共縁組或ハ離別、養子、義絶、出家望候者」で「件之品有之候節」においては諸士は請持宗門奉行・無格は支配頭・市郷の者は町、郡奉行にそれぞれ提出せよと命ぜられている(13)。また、他国への出入については、明暦2年の「覚」(14)の中で、「右宗門一類本帳ニ載申者共弥他国へ遣間敷」と類族の移動を禁止し、さらに類族帳に外れた者(類族)は「慥成請人」を立て、近国の往来はよいが「他国ニ而越年停止」とされている。
 また類族帳の作成は、明暦2年8月に出された「覚」よりその存在が知られ、事実・東意の類族については、先の慶安2年の類族帳以外に元禄2年(15)(1690)、寛保元年(16)(1741)の類族帳が残っており、また那賀郡平島の祐賀の類族についても、表題が「元禄ニ巳年死亡帳之書抜・公儀江御指上被遊候御帳ニ冊之内」(17)と書かれた類族帳が残存している。したがって類族帳の作成は、明暦段階から実施され、その後公儀の記載様式に添って整理されながら発展していったと考えられる。貞亨〜元禄期頃の町奉行の記録によると、「宗門類族之者毎年宗門改之節書付取置申」と毎年宗門改の「9月下旬10月上旬迄」に調査をすることが命ぜられ、さらに、「出生之倅」「相果者之儀」は其時々の帳に記し、類族御奉行に報告せよとされている(18)なお類族帳の提出は、「前々ハ7月12月両度ニ宗門御奉行両方之御届被成候処、寛政4子年以来ハ両方之不及御届ニ、12月壱度、年番之御奉行之御届被成候」(19)と宗門奉行である大目付・作事奉から江戸留守居に申し渡されている。
 また類族の範囲については、公儀の元禄8年の「覚」に対応するものとして、元禄11年12月25日公儀宗門奉行から藩の江戸留守居の面々に「本人同前男女無差別、本人同前曽孫迄之内ニ女有之候得ハ曽孫からは類族に不出、男子ニ而続候得ハ本人同然玄孫迄、類族ニ而候」(20)と申し渡され詳細な取扱いが命ぜられている。以後、藩の類族の取扱いは、この規定により実施されている。寛政中頃の公儀へ提出された「転切支丹類族御届一巻」は、この類族規定により取扱われ、提出されたものと考えられる。
 また諸々の史料より県内のキリシタンをまとめたものが表(二)であり、分布状況をしめしたものが、図(一)である。

これによると37名(内女性7名)のキリシタンの存在がわかる。このうち、「転切支丹類族御届一巻」によると18の転切支丹・類族の存在が記されている。その内、6類族については、この帳が作成された寛政中頃まで家系が続いていたことがわかる。(尚、大津主膳の子孫は後に公儀の規定により類族から解放されている。)残りの12の類族については、「右之類族、前々ハ数多御座候得共、追々死絶只今無御座候ニ付相記不申候」(21)とされ、家系が絶えてしまっていることが示されている。
 また藩内出生の者で他藩で生計をたてている転キリシタンについては、例えば讃岐で居る道無の場合は、「生国阿波板西郡西分村先年御国住居伜忠左衛門方に同居」(22)と讃岐の方でも正確に把握され、さらに「御奉書口書松平阿波守殿江到来之由正保元年申8月阿波守殿被仰越候ニ付相尋候処先年阿州ニ而転候由申候得共江府江可指越由之仰越候ニ付慶安2年丑4月江府江御指越ニ相成候処籠死之由」(23)とくわしく記されている。これによると彼ら転キリシタンの詮議は生国である徳島藩の方にその旨が伝えられ、それを受けて、徳島藩の方から讃岐の方に伝えられ、そこで詮議を受け、なおかつ公儀の裁断をあおぐため江戸送りとし、そこで裁決を受けている。また同じく讃岐で生計をたてている阿波屋三郎兵衛の場合も、全く同様の手順をふみ、吟味がなされている(24)。
 この転キリシタンに対する詮議が公儀の命令のもと藩域を越えて実施していることは、キリシタン問題が幕藩制国家の中でどのように位置づけられ処理されているかを考える上で注目できる。また転キリシタンの者が正保元年の頃までは、他藩で生計をたてていることからして、以前は移動をはじめ、生活の規制はそれほどきびしいものではなかったと考えられる。特に明暦2年の「覚」(25)では「他国ヘ遣間敷」「他国ニ而越年停止之事」とされている事実と比較すると、その取扱い上の差は明らかといえる。また、それは、転キリシタンの発見が寛永末から正保に集中している事実から(表(二)参照)それ以前と大きく取扱い上の差があったと考えられる。そしてこの弾圧が過ぎ去った後、慶安2年ごろから転キリシタン・類族の正確な把握がはじまり、以後さまざまな機制を受けつつ、類族改を受け、キリシタン禁制政策の中に位置づけられたと考えられる。


2.転キリシタン東意およびその類族
 板野郡吹田村の転キリシタン東意の類族については『阿陽忠功伝』(26)「転切支丹類族御届一巻」(蜂須賀家文書)によりその存在は知られているが詳細な事柄はわからない。しかし吹田村の『吉田家文書』の中に彼らの動向を具体的に示す記録があり、それらにより東意の類族の村落内での状況を推察することができる。
 この板野郡吹田村は、家政入部直後は、大寺村に含まれていたが、その後、新しく開墾がなされ村切により成立した近世村落である。この開発を進めたのが庄屋・吉田家である(27)。

この開発された吹田村は「板西郡之内吹田村かじ屋原村両所の儀自今以後諸役令免許者也、寛永2年、正月22日忠鎮印」(28)と藩主から諸役免許を得た村落であった。吹田村の人口は、貞亨5年(29)(1688)では148人と報告されているが、その後、寛文から明和までの約100年間の人口変動を示したのが表(三)である。

また農民の階層関係を壱家―小家関係を中心にみた場合、寛文7年(1667)「板野郡之内吹田人数家数御改帳」(30)では、壱家39・小家31・軒数70である。当時のこの村落の特色としては下人・名子および家族員を数戸支配し家父長制的経営を営んでいる有力百姓が2、3存在し、村落内で勢力を保っていたと考えられる。また血縁分家の形をとった壱家―小家関係が多くみられる。続く宝暦9年(1759)「板野郡吹田村家人数相改指上帳」(31)によると壱家数40・小家数64・家数合104軒、人数合202人となっており小家の著しい増加がみられる。さらに安永5年(1775)「板野郡吹田村棟付人数御改帳」(32)によると壱家数52・小家数55・家数合107、人数合208人となっており小家の壱家化が進展していることがわかる。(表(四)参照)

これら壱家と小家が吹田村でのような関係になっていたのかそれぞれの時期で分折を進めねばならないが、「安永5年」の段階ではまだ自立しかねている小家が多数いたと推測できる。
 さて吹田村の転キリシタン東意の類族についてであるが、彼らの村落内での様子・取扱いの現状は、「慶安2年8月9日、板野郡吹田村切支丹宗門縫東意1件諸書附壱抱」(33)「元禄弐己年改」(34)「寛保元年5月22日板野郡吹田村宗門縺之者共名書仕上帳」(35)「寛文7年5月板野郡之内吹田村人数家数御改帳」(36)の中に詳細に記されている。この内「元禄二己年改帳」の中で東意の孫(弥兵衛の子)新蔵が「此者板野郡吹田村ニ百姓仕罷在■」と記され、さらに「寛文7年・人数家数御改帳」では、弥兵衛と長兵衛(東意の子)・善兵衛と清太夫(東意の長男の子)が壱家―小家関係として位置づけられている。したがって彼ら類族は形式的には他の百姓たちと何ら変わることなく、村落内で壱家―小家関係として位置づけられ、百姓をしていたことがわかる。またこの壱家―小家関係に加えて血縁的な関係が彼ら類族の取扱いには活用されている。貞亨3年(1686)10月16日弥兵衛が死亡した時、弥兵衛の子である次右衛門と七兵衛、同じく甥にあたる忠兵衛と善兵衛が連帯責任者として庄屋・五人組と共に名をつらねている(37)。彼ら次右衛門と忠兵衛の関係は、壱家―小家の関係であり、次右衛門と善兵衛とは壱家―壱家の関係である。したがって次右衛門と忠兵衛との関係は主従関係を持つが次右衛門と善兵衛との関係は対等といえる。しかし対等の彼らを血縁という形で連帯責任をとらせる一面が類族の取扱いの中には潜むといえる。こうして類族は、他の百姓と同じく壱家―小家関係の中に組み込まれると共に、血縁的連帯責任制である、縁坐制の中にも組み込まれ村落内に位置づけられたといえる。そしてこの類族の生き方を一層強力に機制したのが五人組・庄屋である。
 元禄12年2月10日の「覚」(38)によると「病死・変死・男女出生・寺宗旨□□□・縁組・出家・他国へ引越義」については類族のものから届出することとなっているが、念を入れ取扱えと類族の者6名の名を記し、庄屋・五人組に手渡されている。このことは、先の類族の者の死亡に際し、彼ら庄屋・五人組が連帯責任者として名をつらねていることと合わせて考えた場合、彼らが村落内でいかなる立場にいるかを明確に示すものといえる。
 また宗門改帳の中で彼ら類族はどのように位置づけられているのであろう。徳島藩の宗門改帳は、棟付帳との関係上簡素化されているが、吹田村の場合も例外ではない(くわしくは鳴門史学第一集『徳島藩におけるキリシタン禁制政策の展開』1981年を参照していただきたい。)。吹田村の宗門改帳(39)によると軒数・人数(戸主)は表(五)のようになっておりこの人数・軒数は先にみた表(四)と比較すると時期的な差はあるもののほぼ正確といえる。

この宗門改帳の中で東意の類族をさがすと浄土宗・専光寺の檀家として元禄12年の宗門改帳に、忠兵衛の名が消され、その横に宅右衛門の名がみえる。また次右衛門の名が消され兵左衛門の名が記されている。続く享保10年の宗門改帳では宅右衛門・兵左衛門の名はみえ、さらに元文5年の宗門改帳では、宅右衛門はそのままであるが、兵左衛門の名は治右衛門へと変わっている。東意関係の現在の史料から次右衛門の子孫についてはわからないため、次右衛門―兵左衛門―治右衛門の関係はわからない。しかし忠兵衛―宅右衛門は親子関係であり、類族である。したがって彼ら類族は宗門改帳の中においても、他の百姓と同様に取扱われていたことがわかる。(なお、現在のところ他の類族の者の名は宗門改帳の中で発見できていない。)


 以上のことから類族は基本的には他の百姓と同様に村落内の中に位置づけられているが決して同じではなく「宗門縺之者」として別帳化され、「縁坐制」の中に位置づけられ、さらに「縁組・出生・病死」など何か事あるたびに彼らは特別視され処理されたといえる。
 例えば、東意の類族ではないが、同じ板野郡矢倉野村の類族太郎八と姉つしの1件はそのことをよく示している(40)。享保元年申10月7日の「覚」(41)によると、「太郎八并姉つし義年来市中へ罷出渡世仕罷在」と兄弟が市中で生計をたてていたが、「つし儀者市中新シ町日用人矢右衛門方へ罷越居申当5月24日病死仕」と姉つしは、新シ町の矢右御門方へ来て5月24日死亡している。その時の処理については「右弐人先頃御改之節矢倉野村真楽寺旦那と御帳ニ付上リ有之所助任於万福寺土葬ニ取置仕ニ付御詮義之上つし死骸真楽寺へ改葬被仰付」と記され、つしの死骸はいったん万福寺で土葬されていたが類族であるがゆえ、檀那寺・真楽寺への改葬を命ぜられている。さらに太郎八については「太郎八義右一巻不届ニ付牢舎被仰付」と牢舎へ入れられている。このように類族に対する取扱いは決して他の百姓と同じではないのである。また、彼ら兄弟が市中にでて生計をたてていたとする事実は、村落内から彼ら類族を排除する力が働いていたのではないかと思われる。なお、この類族も「転切支丹類族御届一巻」では絶家とされている。

おわりに
 以上、東意およびその類族の村落内での状況をみてみたが今1度、彼ら類族に対する取扱いについて考察し、まとめとしたい。
 東意は生れは河内で、死亡の年月その他詳細なことは未定であるが、彼の子供たちはくわしく記されている。東意には3人の子供がいるが(弥兵衛・長兵衛・仁右衛門)その内、弥兵衛については次のように記されている。
  右東意本人同分
 1弥兵衛  生国阿波  籠死
  右弥兵衛義親東意以来切支丹宗門之由慶安3年ニ井上筑後守方被申渡ニ付重々遂玲味所前後切支丹宗門ニ不罷成由申右之□筑後守方へ申達籠舎申付置処貞享3年10月14日83年ニ而致籠死ニ付戸田又兵衛林信濃守方へ申達板野郡大寺村一向宗於専光寺取置申舅姑相知不申(42)
 これによると、慶安3年(1650)公儀の宗門奉行・井上筑後(大目付)守から吟味が命ぜられそのおり、切支丹でないことを申し開くが、「召籠」を命ぜられ、貞享3年10月14日83歳で籠死している。また長兵衛の場合も、弥兵衛同様、キリシタンの嫌疑がかけられ、「召籠」を命ぜられ、延宝8年(1680)12月26日71歳で籠死している(43)。(なお、長男である仁右衛門は弟2人が吟味を受ける以前、正保3年5月1日(1646)、61歳で病死している。)また弥兵衛の死亡については、貞享3年(1686)10月14日(44)に、先にみたごとく連帯責任者として名をつらねた弥兵衛の子・おい・庄屋・五人組から、郡奉行手代に、「吹田村弥兵衛義宗門もつれにて永々籠御長屋に被置籠候所午10月14申の下刻病死仕候」と死亡の状況が時刻まで記され報告されている。さらにその処理状況について「死骸かめに入塩詰被成」と死体を塩漬けにし(45)、さらに「江戸より御成下御座候迄晝夜共無油断番仕可申候」と江戸から死体の検死役人が来るまで、(あるいは処理命令がくるまで)昼夜をとわず番をすることとされている。この死者を「塩詰」にし、江戸から命令が来るまで昼夜をとわず番をする行為が村落内の者にどのような意識を植えつけたか。またその結果、類族に対しどのような取扱いが展開されるか容易に想像できよう(46)。東意の類族は、「寛保元年5月22日板野郡吹田村宗門縺之者共名書仕上帳」(47)「元禄弐巳年改帳」(48)によると、死亡に際しては、元文5年(1740)申8月晦日亥刻に病死の「七蔵」72才から、明和5年(1768)午2月21日死亡の「助」64才に至まで正確に時刻まで記載され、藩の方に報告されている(史料(1)参照)。

そして死亡年令は58才〜74才までと高齢を示している。したがって彼らは当然、結婚し、子供がいるべきである。ところが寛政中頃、公儀に提出された「転切支丹類族御届一巻」には、東意の類族は「右之類族前々ハ数多御座候得共追々死絶只今無御座候ニ付相記不申候」とされ家系が絶えてしまったと報告されている。これはいたって人為的であり、不自然といえる。すなわちこれらのことから東意の類族については何らかの機制が加わり、彼ら類族は末消されたと考えられる。「転切支丹類族御届一巻」には18の家系が記載されており、その内12の家系が絶家となっているが、その12家はいずれも百姓身分ないしそれに準する身分の者たちである。それに比べ存続している家系6家の内、大津古主膳、北島安大夫、祐賀の家系は明らかに武士身分であり、残る3家の内、2家は姓をもっており単なる百姓身分ではないといえる。公儀の類族の取扱いでは身分による類族取扱い上の差はなく、藩においても同様である。
 しかるに、絶家した家系のほとんどが百姓身分であり、存続している家系が武士身分に多いという事実は、さらに藩権力の側から強制された結果でないとするなら、明らかに共同体(村落)の力が大きく左右したと考えられる。



(1)朝尾直弘「鎖国制の成立」(『講座日本史』4、東大出版会、1970年)その他、鎖国を幕藩制国家との関連でのべたものに山口啓二「日本の鎖国」(岩波講座『世界歴史』近代4、1970年)、中村均「島原の乱と鎖国」(岩波講座『日本歴史』近世一、1970)、佐々木潤之助「序説幕藩制国家論」(『大系日本国家史』近世、東大出版会、1975年)などがある。
 なお、この中で佐々木は、鎖国制を幕藩制国家の対外政策として明確化し、「民族的枠組み」としてこの問題を位置づけている。
(2)『御触書寛保集成』(高柳真三・石井良助編、岩波書店、1934年)634頁
(3)同前、634〜635頁
(4)清水紘一「キリシタン関係法制史料集」(『キリシタン研究』第17巻、1977年)396〜398頁
(5)今村義考「秋田藩の切支丹類族」(『秋田史学』第5号、1963年)
(6)山口啓二「日本の鎖国」(岩波講座『世界歴史』近代4、岩波書店、1970年)468頁
(7)豊田寛三「豊後国におけるキリシタン類族と村落」(後藤陽一編『瀬戸内海地域の史的展開』福武書店、1978年)
(8)『蜂須賀家文書』27A―234「御法度写―明暦2年8月23日「覚」」(国立史料館)
(9)『蜂須賀家文書』27A―312―1「御家老之面々方■町奉行江被相渡候御書付写」
(国立史料館)
(10)『吉田家文書』(板野郡板野町吹田)
(11)「契利斯督記」(『続々群書類従』第12宗教之部、国書刊行会、1907年)626〜
668頁
(12)『蜂須賀家文書』27A―312―1「貞享四年の覚」
(13)『蜂須賀家文書』27A―352「転切支丹類族御届一巻」(国立史料館)
(14)注(8)に同じ
(15)『吉田家文書』「元禄弐巳年改帳」
(16)『吉田家文書』「寛保6年5月22日板野郡吹田村宗門縺之者共名書仕上ル帳」
(17)『蜂須賀家文書』「元禄二巳年死亡帳之書抜」(国立史料館)
(18)『蜂須賀家文書27A―312』「町方勤成来書」(国立史料館)
(19)注(13)に同じ
(20)注(13)に同じ
(21)注(13)に同じ
(22)「讃岐松平藩切支丹宗徒人名録」(松田毅一『キリシタン研究』第一部、創元社、1953年)所収
(23)注(22)に同じ
(24)「讃岐松平藩切支丹宗徒人名録」によると、次のように示されている。
 阿波屋三郎兵衛 初宗徳
  宗旨禅 東光寺 旦那
 御奉書口書松平阿波守殿江到来之由正保2年酉6月阿波殿■被仰越相尋候処先年阿州ニテ転候由申候得共江府江可指越由被仰越候ニ付同年八月江府江御指越ニ相成候処承応元年辰6月御赦免ニ而帰国ニ付如元ニ而指置候
 元禄2年己閏正月5日病死塩詰御伺済旦那寺ニ土葬
(25)注(8)(9)に同じ
(26)『阿陽忠功傳』「吉利支丹宗御制禁附阿淡両国之転吉利支丹訴人之事」(徳島県立図書館蔵)
(27)『吉田家文書』(『板野郡誌』、1926)所収、120頁
(28)同前
(29)『吉田家文書』「貞享5年辰ノ正月16日板野郡吹田村人数御改指出し帳」
(30)『吉田家文書』「寛文7年板野郡之内吹田村人数家数御改帳」
(31)『吉田家文書』「宝暦九年六月板野郡吹田村家人数相改指上帳」
(32)『吉田家文書』「安永五年十月板野郡吹田村棟付人数御改帳」
(33)注(10)に同じ
(34)注(15)に同じ
(35)注(16)に同じ
(36)注(30)に同じ
(37)『阿波藩民政資料』「宗門紛れ死人塩詰預覚書」―貞享3年10月16日― 279〜280頁
(38)『吉田家文書』元禄12年2月10日「覚」
(39)以下この節の宗門改帳は『吉田家文書』による。
(40)『阿陽忠功伝』「転切支丹類族御届一巻」によると、矢倉野村の転キリシタンとして佐右衛門の名が記されている。したがって彼らは、佐右衛門の類族と考えられる。なお佐右衛門については『阿陽忠功伝』によると、「正保3年」に訴えられ「筑後守聞届ラレ候ヘモ篭舎仰置レ」と記され「寛文8年6月24日籠死」とされている。
(41)『阿淡御条目』(『徳島県史料』第二巻、1964)所収、「宗旨之部」653頁
(42)注(15)に同じ
(43)注(15)に同じ
(44)注(37)に同じ
(45)転切支丹・類族の者の死体を「塩詰」にする処理方法は公儀の取扱いの方針に添っている。四国では讃岐(注(24)参照)と高知の場合に見ることができる。(『キリシタン研究』松田毅一、創元社、1953年)所収、269〜270頁
(46)転キリシタン・類族を差別的に扱った例としては、熊本藩では寛文5年頃、類族の者が牢死した場合は、「穢多」にその処理をさせている。吉村豊雄「近世初期熊本藩におけるキリシタン禁制」(『史学研究』149号、1980年)19頁。また、峯岸賢太郎「幕藩制的賤民身分の成立」(完)によると、「道頓堀非人関係文書」上巻の中で、道頓堀の「乞食」にキリシタンの穿鑿を行わせ、その結果「吉利支丹ころび男女共拾人」が「乞食の長吏」預けとなっていると指摘している。
(47)注(16)に同じ
(48)注(15)に同じ


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