阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号
阿波越瓜考証−徳島県農業史の一考察−

徳島史学会 小原亨

1.研究の趣旨
 阿波学会による、板野町の総合学術調査団が、昭和62年7月29日板野町町民センターに於いて結団され、県下の各学会が一斉に調査を開始した。筆者も、徳島史学会の調査団員の一人として参加、「板野町の越瓜考」について調査を行い不十分であるが小論文として報告する。
 板野町の越瓜の考証を研究の主題にとりあげた理由は、全国的に現在の食生活の中で、重宝がられ賞味されているものに奈良漬がある。奈良漬の持つ素朴な味と大衆化され食通になじまれる奈良漬ではあるが、その奈良漬の原料である、越瓜(白瓜)。その越瓜の大産地が、阿波であり、その主産地のひとつが板野町であると言うことは案外と知られていない。
 奈良漬は、阿波農民の作り出した、「阿波の越瓜」の風味の良さにある。阿波の越瓜は、板野が県下最大の生産額を誇るだけでなく板野の特産物として、神戸の灘、東京方面に出荷されるとともに、板野の農業経済を大きく支えている産物でもある。
 この越瓜が、板野町に、どのような経緯のなかで導入され栽培されて来たかの歴史的考察を試みることは、変動の多い厳しい畑作農業経営の推移を知るうえからも意義あるものと考え調査研究の主題として、とりあげたしだいである。
 筆者は、総合学術調査に参加する当初に於いては、調査研究の主題として、阿波藍とりわけ藍玉製造にかかわる製造改良の功労者ともいうべき、「犬伏久助」(板野町栄字下庄出身、1742年(寛保2)〜1829年(文政12)、通称藍久と呼ぶ)の業績、とりわけ彼の著にかかる「阿波藍考証」に取組んでみたかった。犬伏久助の業績は、藍玉製造の過程において一番大切な「寝せ込み」の時の注水と蒸熱の調整、調節であるが、当時の製造においては、これが未熟であったため、生産の減量と品質の低下がみられ、この改良は藍作農民の悲願であった。この寝せ込み法の改良、即ち施水、醗酵の妙技を発見し、それを書き残したものが、阿波藍考証だと言われている。この新しい技法により藍玉の生産量の増加と品質の向上が図られたのである。
 彼の発見した技法を書き残した、阿波藍考証を手にするため、板野町、藍住町の現地は勿論、県市関係の図書館に足を入れたが、彼の本を目にすることが出来ず当初の研究の意図を変更せざるを得なくなった。この機会に諸賢より「阿波藍考証」の在所を、お教え願えればこのうえない幸せである。
 本論外のことで、スペースをさいてしまった点、許していただきたい。


2.板野農業の現況
 板野町は、阿讃山脈の扇状地帯と旧吉野川によって形成されたデルタ地帯からなる。古来より、阿波北方の農業の中心地であり、水利の関係上、畑作中心の農業経営がとられてきた。
 畑作地帯を抱える農業経営の厳しさは、近代以降の板野町に於いても残る資料から明瞭である。如何に、畑作農業が、その時の経済や政治の動向によって、生産の母体が大きく左右されていると言うことである。板野町の明治以降の生産様式、生産体系そのものが、日本農業の動向の縮図でもある。正に、日本や世界の産業経済の動向と密接にかかわりあいながら、板野町の農業構造の動きを見せている。
 板野町は、水田耕作とあわせて、明治後半(大正初期を含む)までの、藍作農業、藍作衰退のあと、明治後半より昭和20年代までの桑園栽培による養蚕業の全盛時代、養蚕業の衰退後は、かわって、大正末期より栽培され始めた蔬菜(キュウリ、ナスビ、大根)栽培が急増、とりわけ、昭和30年以降急激に栽培面積を広げ、阿波澤庵の原料である大根、奈良漬原料の越瓜栽培が、町の二大産物として県下有数の生産を誇っている。現在も、第一表の板野町の農業人口及び生産状況表、第二表昭和期20年間の板野町の農業状況によってもわかるとおり、米作とともに蔬菜栽培が板野町農業の主流となって農家経済を大きく支えていることがわかる。


3.板野農業の歴史的変遷
(1) 越瓜導入以前の板野農業の状況
  越瓜が板野地方で栽培が始められたのは、正確な資料でみる限り、大正10年前後からである。現在の越瓜栽培の主産地は、板野郡(藍住、板野、上板)次いで名西郡(石井)阿波郡の順となり、板野郡が、県下総生産量の6割を占めている。このように現在こそ、「2.板野農業の現況」でみて来たごとく、大根、越瓜、人参を中心とした、蔬菜栽培が大きな分野を占めているが、大正期越瓜導入までの、板野地方の代表農作物は、米麦と並んで、藍葉、菜種、大豆、甘庶、甘藷の五大産物が、生産されていたことは、第3表の「徳島県郡別主要農産物状況」によって知ることができる。第3表統計表は、越瓜が導入されるまでの、明治・大正期の年次別作付状況である。
  第3表に示す如く、越瓜導入前の明治・大正期にかけての板野町農民の経済を支えたのは米・麦とともに、藍葉・大豆・菜種・甘庶・甘藷の畑作農産物であった。


  なお、県統計書年報によると、板野郡の明治時代の藍葉・甘庶・菜種の生産状況が次のように出ている。この統計に示した生産量は大きな変動もなく、明治40年まで続いている。


(2) 藍栽培期
  藍作については、第3表の統計に示すように、明治20年には、3682町・明治25年には3505町、同36年には3246町と、明治30年代が、阿波藍生産の全盛時代であった。

  明治40年代に入り、統計で示すように、明治40年の栽培面積は、いっきょに半減7000町歩にとどまっている。そして、この減少傾向は、第4表で示すように、昭和30年代には、わずか、22町歩の栽培になり、板野町においても大正10年に2町歩、昭和6年には板野町から藍栽培は姿を消している。全盛時代の明治30年の記録によると、板野町での藍生産状況は、藍玉11600貫・染13900貫・金額216,000円、藍商人14人、藍玉として、大阪・播磨・肥前・讃岐・関東(東京)へ送出すとある。当時の板野地方の藍作農民の生活状況を知ることができる。


  こうした藍作全盛時代も、明治25〜26年より、インド藍(インヂゴウ)の移入が始まるとともに、ドイツからの人造(化学)染料の移入とあいまって、阿波藍生産に大打撃を与えることとなった。藍葉の生産量と藍玉で全国に販路を持ち強大な経済力を誇っていた藍作農民、藍商人も、明治以降は藍生産から他の作物へ転換せざるを得なかった。
(3) 畑の水田化と養蚕業の台頭期
  藍栽培の衰退は、板野町農民にも大きな打撃を与えたが、それに代って、明治末期以降稲作の奨励(畑の水田化)と養蚕業を中心とする農業形態が生まれることとなる。
  板野町は、もともと水利に不便で水田耕作に大きな障害となっていたが、水利組合を作り用水路の施設の拡張を図り、第5表の如く明治30年以降昭和21年に至る間に約300町歩の水田化が進められている。


  板野町は、第5表の如く畑の水田化を進め、米麦二毛作田の定着を図ったが、板野町南部地区(大寺新田、川端、西中富、下庄)は、水利の関係上、水田化は不可能の為、藍作にかわって、養蚕業へと転換、桑園化が進められ、農家経済を支え大正、昭和初期の全盛時代がみられたことは第6表、第7表によって理解できる。


  第6、第7表で、わかるとおり明治23年に養蚕業が板野地方に導入され、明治30年以降、藍にかわって桑園地が漸増、養蚕経営中心の農家が増加、大正、昭和10年頃までの全盛期を迎えることとなる。板野の養蚕業発達の原因は、藍作不振による代替作物としての導入は当然のこと、加えて、明治39年に板西に板野郡立蚕業学校(現在の板野高校の前身)が設立されたことと、昭和6年に蚕糸業組合法が制定され、蚕糸組合が設立されたことが、蚕糸業飛躍に大きな影響をもたらしたと考えられる。昭和初期の全盛期には、板野町だけで238万貫の繭の生産があった。
  このような養蚕業も、取引相手国であったアメリカの経済不況と化学繊維の出現により、生糸の価格の低迷。続いて太平洋戦争による海外輸出の不振と食料確保の為の食糧の増産との影響から、昭和10年以降漸減の傾向をたどり、昭和20年には全盛期の3分の1の生産量に激減を見せ、戦後は哀微の一途をたどり、昭和50年には、板野町でも全盛期の昭和5年の372町に比し、わずか18町の桑園栽培という状態になってしまった。
  明治大正昭和にわたり、日本の重要輸出商品としての使命も終ることとなる。このことは日本農政史上特筆すべき、一時期と言える。板野町も同様、藍作時代から養蚕時代、この養蚕業の哀微は、再び板野町の農業構造の一大変革を迎えることとなる。
  このような状況下に於ける板野町農民は、藍作に続き再び養蚕にも見切りをつけて、大正末期頃より始められていた野菜栽培に方途を求め、年を経過するにともない、板野町農業の主要農作物としての地歩を固め、現在徳島県の主要生産地として全国的にも名を知られるまでになっている。
(4) 野菜栽培(大根、越瓜)期
  明治末期以降の藍作不振により、畑の水田化が進められ、米麦二毛作田へ様変りを見せたことは、前述の通りである。然し水田化のむつかしかった、町の南部地区即ち大寺新田、川端、西中富、下庄部落の畑作地帯は、養蚕に変わって野菜栽培を中心とする農業経営に活路を求めた。その野菜栽培の主作物として、阿波沢庵の原料としての大根・奈良漬の原料である越瓜の2作物が主要作物として栽培され県下有数の生産地となっている。
  生産された大根は、阿波沢庵として加工され阪神方面に出荷され大阪市場を独占する程の地歩を固めている。また、越瓜も奈良漬の原料として荒漬加工のうえ四斗樽詰で兵庫県灘地方に送り出されている。現在は、洋人参とともに板野町の三大特産物である。
  ここでは、越瓜が、どのようにして導入され経過をたどって来たか、推移について考察を加えて見たい。
(5) 越瓜栽培の推移
  板野町の越瓜栽培の始期は、明治後半と考えられる。正確に越瓜栽培が行われたということを立証する資料とは言えないが、明治40年の県統計書年報に始めて瓜類として、その作付面積と生産額がのせられている。但し、瓜類としての出書である限り、キュウリや他の瓜もあわせ包括されていると考えねばならない。
  正確に越瓜が栽培されたのは、徳島県統計書年報によると大正6年である。その年の越瓜栽培面積が、徳島県全体で18.6町、板野郡3.8町、生産量徳島県59840貫、板野郡7500貫とある。但し大正6年の出書はあるが、大正7〜9年の3年間は出ておらず、大正10年以降は毎年の県統計書年報に栽培面積、生産額が載せられている。こうした関係上、大正10年以降の越瓜動向について県統計書年報をもとにとらえて見たい。
  第8表越瓜栽培の年次別状況、第9表越瓜栽培年次別グラフ表で示す通り、大正10年以降、昭和60年の約75年間の栽培状況は、水稲栽培と異なり、時代の政治経済状勢と大きくかかわり栽培面積に大きな変動が見られる。


  まず、大正10年から昭和18年の第二次世界大戦終了頃までは、藍・養蚕にかわる主要産物のひとつとして、漸増の傾向にあった。県では、60ha〜100ha、板野郡では20ha〜40haの栽培状況で推移している。戦後の昭和20年〜30年にかけては、敗戦による国家体制の根本的な改革を進めるなかにあって、経済不況、食糧・衣料を始めとする物資の不足が国民生活に大きな影響を与えた。板野町の越瓜栽培も、激減しかわって麦、さつまいも、大豆等の雑穀類の急増現象が資料のうえからも見られる。こうした戦後の10年間は、農業にとっても多難な時代であった。
  昭和30年に入り、日本の政治経済面での復興安定とともに食糧事情も好転し、驚異的な経済国家として歩み始め、豊かな生活の現象が阿波の越瓜栽培にも大きな影響を与えた。
  昭和32年以降昭和50年にかけての越瓜栽培は、県全体で400ha〜450ha、板野郡では、220ha〜250haという驚異的な生産の伸びを見せている。とりわけ板野郡の栽培面積は、戦前の10倍に達する状況で、県下最大の越瓜生産地帯の形成を見たのである。1例として第10表、昭和30年度郡市別越瓜作付面積、生産額状況をみても、板野の越瓜栽培が如何に盛んであるかがわかる。


  以上のような生産状況も、昭和50年をさかいとして、人参の需要とあいまち洋人参の栽培が導入され、越瓜栽培は、漸減の傾向を見せている。
  第11表の板野郡の三大産地の全盛期以降の年次別作付面積状況をみてもわかるとおり、昭和50年以降漸減傾向を見せ、板野町・藍住町・上板町の3町に於いて、100ha余の栽培状況になっているが、依然県下最大の生産地として、阪神灘地方へ奈良漬原料として強い取引を見せている。今後も、このような状況で生産が続けられて行くものと考えられる。


4.板野町の越瓜の今後の動向と課題
(1) 越瓜の今後の問題等について、板野町栄農業協同組合長犬伏謙一氏・同参事稲富知秋氏両名より、次のような事項を聞きとることができた。
 1  現在、漸減の状況にあるが、越瓜栽培農家戸数は、60軒を数えている。
 2  最盛期の昭和40〜46年にかけての頃は、1町歩以上の栽培農家は50軒を越えていた。
 3  食生活の変化、とりわけ、嗜好の変化が、奈良漬の需要減となり、昭和50年前後より、栽培面積も漸次減反、かわってキュウリ、人参栽培に転作が行われている状況である。但し現在の栽培面積は維持されるのではないか。
 4  越瓜が、板野町農民を支えたのは、昭和25〜26年頃より昭和50年代までの間で、家計収入を大きくうるほした。特に越瓜は換金作物の最たる作物として重視された。
 5  農業センサスに出ない全国的産物ではないが、板野の特産品として今後も大切にして行く必要がある。
 6  越瓜は、板野の地になじむ作物である。越瓜が生き残るのは板野町でないかと信じている。
 7  現在板野町の越瓜は、二つ割にして中心部の種子と内果皮を取り除いて舟形にして、1次加工(塩づけ12時間の荒漬)終ると2次加工(本漬としてつけ直し)のうえ、仲買人を通じて阪神特に神戸や東京に売り出す。
 8  反当収量も、大正10年頃の4斗樽(中味瓜14貫500塩5貫500)40本程度の生産量であったが、(直播より移植法に、南瓜の苗木に越瓜を接芽することにより◎地病対策)栽培技術の進歩により反当収量も4斗ダル150本を生産するまでになっている。そして現在、4斗ダル詰より、タンク詰(1タンク6尺立方4800kg詰)で販売を行っている。
(2) 越瓜栽培の創始者の一人である、犬伏絞蔵氏(板野町西中富字東中須3−13住、明治37年6月15日生、83才)の越瓜栽培についての談
 1  犬伏絞蔵氏は、西中富の旧家に育ち青年団長、実行組合長、町会議員等、村の指導者として活躍もされ、越瓜栽培の試作を試み現在の隆盛のもとをひらいた一人である。
 2  大正期の後半、佐野正一、岡田順七、山本範太郎氏等同志とともに、大体3反平均の越瓜試作地をつくり導入の基礎をつくる。当時はまだ藍作、養蚕中心の農業であった。
 3  越瓜の最盛期には、犬伏絞蔵家だけで、1町5反ほど栽培をしたと言う。昭和6〜7年頃には西中富地区の農家の8割までが、越瓜栽培に従事し板野町の拠点となった。収穫すると各自、家で荒づけを行い4斗樽詰にて出荷を行った。
 4  越瓜は、かたまって金になる作物として重宝がられ換金作物として盛んに栽培された。西中富の全盛時代は、昭和30年後半より40年代にかけての間であった。耕作者も100名、作付面積も70町歩、5万樽の生産があった。
 5  現在の越瓜栽培の衰退を見る時、残念でならない。西中富は、土質気候ともに越瓜によく、秀れた伝統と技術を伝えて来ているので、この機に、越瓜栽培組合を組織して大いに力を入れる必要がある。今の若者は、農業後継者としての根性がない。昔、我々のやって来た農業にかける情熱と苦労を知らないことは寂しい限りである。情熱に燃える農業後継者づくりが、今の板野町の急務である。


5.結び
 この調査研究は、藩政時代より畑作中心の農業形態をとってきた、板野町の明治大正昭和の100年の農業の歩みと言うか、推移を越瓜という1作物を窓口としてとらえてみた。
 特に畑作農業が時代の流れとともにどのように変容し農民の生活に、どのような影響を与えて来たかをとらえてみたかった。
 資料の不足と言うか、調査の不徹底により当初考えていたような研究のまとめにはならず稿を終えることとなった。
 ともあれ、藩政・明治の藍作期、大正・昭和初期にかけての桑園期・第二次世界大戦の戦中戦後の食糧確保期、昭和30年以降の野菜期と世相の動きと倶に大きく様変りを見せて来たのが板野町の畑作農業である。畑作を中心とした板野農民の農業にかけた道程は、生産への情熱と変動に耐え抜いた苦難の明治大正昭和の100年であったといえる。畑作農業地帯の宿命でもあろう。時代の推移と倶に生産機構を変えて行かざるを得なかったのである。
 板野農民の100年の歴史が、それを如実に物語っており、このような現象は、板野町のみにとどまらず、畑作農業地帯に共通した課題である。
 昭和60年代に入り、今や、畑作農民のみでなく水稲農民も共に巻込んだ、いわば日本農業全体にわたる、諸々の課題が(米の減反政策、外国農産物の輸入問題、農産物の自由化等)前面に立ちはだかり日本農業の前途には厳しいものがある。
 明治以降、何回もの農作物転換を余儀なくされて来た、板野町農業の今後の健全な歩みと施策を祈念して筆を置く。


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