阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号
板野町の伝説

史学班 湯浅安夫

1.振袖地蔵
 犬伏の撫養街道にそって南向きに地蔵堂が建っている。そこに「振袖地蔵」「カヨ地蔵」と呼ばれる美しい丸顔の地蔵がおさめられている。その名のおこりは、天正10年(1583)四国制覇をめざした土佐の長曽我部元親が2万2千の兵を率いて、中富川をはさんで勝瑞城の十川氏と対戦、板西城主の赤沢信濃守も一族、郎党を従えて元親の大軍と戦ったが、戦い利あらず討死、留守を守っていた奥方は逃げることの不能を悟り、姫をにがして自分は「松の木」という所で自害、姫は犬伏の諏訪神社近くで捕えられ殺害された。土地の人は姫をかわいそうに思い、地蔵を建ててその霊を弔った。姫の名を「カヨ」といったので「カヨ地蔵」、その時振袖を着ていたので「振袖地蔵」ともいう。
 地蔵の建立は、享保7年(1723)とあるからずっと後世に建てられたものである。 (近藤滋樹氏)


2.七天神七地蔵の首切れ馬
 雨のしとしと降る深夜、引野村(上板町)の老松の下から現われた1匹の首切れ馬、それにつづく異様な姿をした7人童子が「ジャン」「ジャン」鈴の音を響かせながら、那東の上瀬と下瀬の境を南へ、火打三昧(さんまい)の墓地をぬけて南へ吉野川を渡り、石井町に至り、7つの天神社、7つの地蔵をめぐり、もときた道を引き返して帰ってくる。時には佐藤塚へ上り、下庄と唐園(とうぞの)の弾正寺から桑内を通って老松の下まで帰ることもあるという。
 この首切れ馬を見たものは、災わいがおこると村人たちは恐れおののいた。そこで村人達は、その退散をいろいろ協議して、首切れ馬の供養のため一基の地蔵尊を建立した。その後首切れ馬の妖怪は出なくなったという。
 首切れ馬出現の原因は、ある兄弟が相続争いでけんかをして、土地、家屋敷を2つに分け、最後に残った飼い馬1匹を首と胴に分けた。それから引野の不動さんの横に植えられている老松のもとから首切れ馬が出現するようになった。
 また、一説には、上板町の佐藤塚へ1人の老婆が六部を背負ってやって来た。村人は「来(きた)り人(にん)」が入ってくると村八分にする悪習があって、その老婆は惨々痛めつけられて、とうとう水門の前の川へ入水自殺をした。その翌日の夜から首切れ馬が水門の辺りから出現するようになったともいわれている。
 宮川内川岸に「馬立て」の地名がある。そこは農馬が首切れ馬に出合って驚いて前足を上げて立ちとまった所という。 (近藤滋樹氏)
 この首切れ馬封じの地蔵は、那東の近藤氏宅の南にあったが、最近、無縁墓地の入口に移した。ところが、その地蔵移転にたずさわったものは、次々とわざわいが及んだので、地元の人は、毎年8月に丁寧に供養を続けているとのことである。 (賀川清氏)


3.蓮花庵の十一面観音
 犬伏の北の山地に入った所に不動明王が立っている。そこから4番札所大日寺に通ずる山辺にかつての遍路道がある。その道にかかった所に蓮花庵がある。白鳳時代建立の金龍山蓮花寺で、昔の面影はないが、蓮花池のほとりに堂がある。
 この寺は、天正10年の長曽我部阿波攻略の時の兵火で焼失した。その時、住職が本尊の十一面観音を裏山にかくしたままになっていた。所がこの地の素封家の先祖忠平に夢告があり、ご本尊が発掘されたのを、堂宇を建立しておさめたとのことである。この十一面観音は霊験あらたかで、月の17日には、近在から信者が集まって、病気平癒、交通安全、商売繁昌などいろいろな祈願をするそうである。 (近藤滋樹氏)


4.蓮教寺の大蛇
 旧松坂村、桑内の万徳山桑裏(そうり)院蓮教寺には、昔、非常に大きい桑の木があった。朝日がさすとその影が西分までとどき、夕日がさすと応神の西貞方まで影を映す程の大木であった。
 付近の住民は、農作物の成長に害があると、その伐採を頼み、住職も承知して桑の木を切った。すると、「バサッ」と下へ落ちるものがあった。何かと思ったら一升びん程のまん丸い大蛇であった。しかもその大蛇には爪(つめ)が生えていた。蛇に爪が生えるのは、100年や200年で生えない、何百年もの間生息して大蛇は後足に爪が生えるといわれている。大蛇は村人が大勢で殺したが、その爪は寺に布で幾重にも包んでしまってあるとのことである。 (近藤滋樹氏)


5.工匠実禄
 実禄は諸国を旅する腕のよい大工の棟梁であった。金泉寺の三十三間堂建立のためこの地に来て、他の大工と棟を東西に分けて請けおうことになった。ところが実禄さんの請けおった部分が一足早くできあがった。それを見た遅れた大工が、ねたんでわざと■(ほぞ)を切り落した。これを知った実禄さんは、さすが名工たちまち修繕してしまったという。唐園の小川氏方で病床にあった実禄さんは、弟子に乞われるまま、仕法の秘伝を伝えた。死後も大工の信頼厚く、設計や切組みなど思案に余ると、墓にお参りしてお願いすると、夢枕に立って教えてくれたという。それで遠方からも参詣が多かった。
 唐園の小川氏の家敷内にある数基の墓の中央が実禄さんの墓である。 (三好恒夫氏)


6.清水庵の由来
 清水庵は、大坂峠道にある番所から200米ばかり旧道を上った所にある。もともと上の古道にあったのを、7、8基の石仏と共に下の方へ移してきたといわれている。今はあれるにまかされた無住の庵であるが、その中に大師像がまつられている。
 昔、讃岐の馬宿から峠越えをしてきた1人の行者が、空腹のあまり一歩も歩めず坐り込んでいた。そこへ讃岐のある魚商人が魚荷をのせて通りかかった。その行者は、魚商人に魚をわけてくれるよう頼んだがことわられた。そこで行者は魚商人に向かって一首の歌を詠んだ。
 大坂や八坂坂中鯖一つ大師にくれず馬の腹痛む
 すると、たちまち馬が腹痛をおこして倒れてしまった。魚商人は驚いて魚荷全部をさしあげますと申し出ると、その行者は、
 大坂や八坂坂中鯖一つ大師にくれて馬の腹止む
 と詠むとたちまち馬の腹痛は止んで元気になったという。この魚商人がその行者のために清水庵を創建したといわれている。その庵は最近とりこわされ、石仏は大宮の千楽寺に運ばれている。この話とよく似た話が、海南町の鯖大師の伝説である。 (三好恒夫氏)


7.与仁兵衛と娘オチヨ
 大坂峠道にある清水庵に地蔵尊がおかれていた。そのいわれは次のとおりである。
 肥後国天草郡御領村の村役人与仁兵衛にはオチヨという器量よしの一人娘があった。この娘は生れながらに歩行が不自由であった。与仁兵衛はあわれに思い、どうにかなおらないものかと悩んでいた。その頃、阿波常楽寺の礼所で足が不自由で歩けない巡礼が大師の霊験で立ち上がることができた、という話を耳にした。早速、与仁兵衛はオチヨをつれて四国巡礼に出た。肥後から讃岐まで苦労してやってきて、大坂峠を越えようとやってきたのは、雪どけ後の3月の半ばすぎであった。長旅の疲れをいやそうと、番所脇の中島屋という遍路宿で当分静養することにした。話を聞いた宿の主人は、「地蔵尊を彫み祈願しなはれ、地蔵さまのご慈悲がおありになりましょう。」と言ってくれたので、与仁兵衛は喜んで地蔵尊造立に応ずることにした。こうして与仁兵衛とオチヨが一番霊山寺をめざして下っていったのは、地蔵尊ができあがった半月後であった。 (阿讃峠みち)


8.オキノの嫁入り
 阿波と讃岐は峠1つで昔から人の行き来がさかんであった。特に藍作業には、人手を要したことから、毎年きまって多くの男女が讃岐側からやってきていた。その一人にオキノという娘さんがあった。気だては優しく働き者であったので、見込まれて阿波のある家へ嫁入りすることが決まった。
 その嫁入りの一行が大坂番所へやって来た。当時の番所や関所は、往来手形を見せた上、所持品、荷物を調べるのが普通であった。役人がオキノの嫁入りの長持ちをヨロイ通しで突いたところ、白米が流れでた。当時は他藩への米の持出しは厳しかった。父親の瀬兵衛の嫁入り先への土産にと隠し入れた2斗ばかりの米が見つかった。瀬兵衛は遠島、オキノの縁談は破談となった。かわいそうなオキノは悲しみのあまり池に身を投げたと伝えられる。 (阿讃峠みち)


9.岡の上神所
 犬伏に岡上神社があるが、この社は延喜式の小社で倉(うかの)稲魂(みたま)命をまつってある。寿永の昔、源義経が屋島の平氏を討たんとした道中、当社に武運を祈願したと伝えられている。また、応仁の乱の最中、毎日の様に降り続く雨で稲が腐りかけてきた、困った村人は、五穀の祖神といわれる岡上大明神に祈願した。すると不思議に雨がカラリと晴れて、久し振りの青空に村人は歓声をあげた。その秋は五穀実り恐しい飢餓から免れたという言い伝えもある。
 藩主蜂須賀氏の崇敬も厚く、毎年初穂米5石の奉納があったとの事である。大正3年、参道の石垣を改修しようとした時、曲玉管玉水晶玉、藍色珠数などが出土したそうである。
境内に樟の大樹があり、「御神鏡」といわれ樹令がどの位かわからない程の巨木である。
 また、石段の竹林の中に、のぼり窯の跡があり古代瓦が焼かれた所かも知れないとのことである。 (阿讃峠みち)


10.岡の宮の古椀
 岡上神社から100米ばかり南に、古くから「岡宮の塚穴」として知られていた古墳があった。この古墳は、昔、この地方の人々が婚礼や法事のため沢山の食器を必要とした時、入用の食器の種類と数をお願いすると、約束の時間に全部整えられていた。時には銭まで準備してくれることもあったので土地の人々は大変重宝で感謝していた。ところがある時、村の一人が借りたのを返さなかったので、その後はもう村人の願いをきいてくれないようになったと伝えられている。
 古墳から祭祠用の須恵器類が多量出土したこともあって、こうした伝説が生れたのであろうといわれている。
 今はすっかり塚穴はとり払われて跡をとどめないが、この上に家を建てると凶事があるとかで、この一区画だけ取り残されている。 (阿讃峠みち)


11.義経の伝説
 屋島の平氏追討のため、阿波に上陸した義経を、屋島まで案内したのが板西城主近藤親家であった。この近藤親家は、鹿が谷の平家討伐の陰謀事件で殺された藤原師光の6男で阿波に流されて板西城を築いたと伝えられる。
 義経の軍は途中金泉寺で休息、その時弁慶が座興に力自慢を被露した大石が、今も「弁慶の力石」として残っている。大坂峠にかかる前に、暑いので鎧を脱ぎ傍の崖においたとされる「鎧獄」。武具を脱いで休息した所が、「武具脱原」後に「椋木原」となった。清水を飲んだ所が「お茶園谷」。日の丸の鉄扇を松の木にかけた「日の丸」。鉄甲冑をおいた「鉄伏」といった地名が残っている。
 以上は大坂峠道の伝説であるが、一方、大山寺越えの説もあり多くの伝説もある。大山寺で武運長久を祈願してから寺へ愛馬うすゆきを献納した。この「うすゆきの墓」という五輪の石塔があり、うすゆきの「鞍かけの松」という伝説、「瓶(かめ)わり坂」というのは、義経主従が山越えをする途中で村人から酒瓶を取り上げ、飲み干した瓶を投げ割ったので、その地名がおこったといわれている。何れを義経軍が通ったかはわからない。 (近藤滋樹氏)


12.キビケ谷の池
 那東のお不動さんの裏山に溜池がある。土地の古老はキビケ谷の池、或は古池と呼んでいる。
 江戸時代の始め頃、日照り続きで作物が作れず稲作も水量と水利に恵まれず、村人たちは生活に苦しみ、餓死する人も出てきた。この時、村の庄屋と五人組は救済の方法として、溜池の築堤の儀を藩へ上申し許可を得た。村役人一同率先して早朝から夜遅くまで、鍬をふりもっこをかついで作業に従事した。その熱心さに村人も感銘して、力を合わせてこの難事業は完成した。それ以後、天保の大飢饉後新たに日ケ谷の溜池も完成した。前者を古池、後者を新池と呼ぶ。以来、水に恵まれ毎年豊作が続くようになった。当時の人達の遺業に住民は今も感謝している。 (近藤滋樹氏)


13.くせ地の怪
 松谷の農免道路のカラフト谷川橋西の墓碑にまつわる話である。150年程前、一人の浪人が村にやってきて村人に施しを願った。当時は打ち続く天保年間の不作で、村人は生活が非常に苦しい時であったので施しを断った。その浪人は、「拙者も武士のはしくれ、平身しても貰いがない、生きて甲斐なし」、といって自害をした。後年、村人が協議して供養墓を建立したが、掃除を怠り、不潔に放任しておくとたたりがあるといい伝えられている。このような土地を「くせ地」と呼び、県下の他町村にもあちこちにあった。 (近藤滋樹氏)


14.赤沢信濃守の祠
 那東の愛染院には、赤沢信濃守という小祠があって、大小無数のわらじが奉納されている。信濃守はもと板西城6万石の城主であったが、土佐の長曽我部元親に攻められ、松阪に逃れて遂に戦死したので、里人はその死をいたみ墓標を立て霊を弔ったが、後、祠を建てて祀った。
 男女共腰から下の病気、特に脚気に霊験があると伝えられ参詣者が多く、ぞうりの奉納となったとのことである。 (阿波伝説集)


15.執念の火の玉
 秋の夕暮れ時、矢武で唯一人住むある百姓の家へ、一人の四国遍路が泊めてくれとやってきた。主人の百姓は気のいい男で、親切に泊めてもてなした。所がその遍路は2日過ぎ3日経っても出ていかないばかりか主人を殺して、家の床下に埋め自分がその家の主(あるじ)となった。たずねる人があると、「ここの主人は病気で死んだ、外に身寄りもないので遺言によって自分がこの家を守っている。」といってそ知らない風をよそおっていた。
 殺された元の主の執念は火の玉となって、何時の頃からか栄村の火打三昧に現われる様になった。闇夜の空をふわふわと板西町の楠本の王子の宮の方へ飛んでいく。しとしと雨の降る夜など、火打三昧に忽然と現われた大きい火の玉は、板西町の大楠の上にとまって幾十とも知れない小さい火の玉となって、提灯をともしたように技に鈴なりになり、夜明け方には又一つの火の玉となり王子の宮へとび、更に西へ西へと流れて大山村の滝の宮までとんで消えるのが常であった。 (阿波伝説集)


16.矢武の火の玉
 矢武の須賀と呼ばれている所に大きいネベの木が生えていた。この木に火の玉が出る。最初は小さい火の玉がちょろちょろまい出しそれが次第に大きくなって、最後は、「パーン」と破けて飛び散るのを見た人が多くいる。その火の玉は狸の火であろうとのことである。 (賀川清氏)


17.赤ん坊の死体
 旧板西町の王子の森付近は、昔から狸が出没していろいろな悪戯をして人々をおどかした。それで狸は目の多いものを恐れるというので、そこを行く人は腰に鋸をさして通った。
 同町の大坂から流れている谷川の吐き出口は淵となっていて、そこへ夜網を入れると、必ず赤ん坊の死体が網にかかった。「何をそれ位のことが」と強がりを言って行く者も、この怪異に出合って歯の根も合わず帰ってくるのが例であった。これは狸のしわざだろうといわれている。 (阿波伝説集)


18.トロッコの真似をする狸
 吉野川の改修工事(昭和初年)をしていた頃、早速狸がその真似をする。「ガタゴト」とトロッコの音をさし、「ザーッ」と砂利をおとす音まで上手にまねる狸がいた。 (賀川清氏)


19.宝厳寺の狸
 西中富の宝厳寺の境内には、大木が植えられこんもりした森になっていた。中でも楠の大木があり、この木に狸が住みつき、村人にいろいろなわるさをした。今でこそ家がたち並び車も行き交う宝厳寺周辺も、昔は竹やぶばかりの淋しい所であったので狸も住みやすかったのだろう。 (宮本進氏)


20.むくの豆狸
 昔の西中富は、竹やぶが繁り人家も少なく人通りも少ない淋しい村であった。そこの杉本某家の近くにむくの大木があって、そこに豆狸が住んでいてよく人を化かすというので子供の頃は(大正期)この木の近くを通るのがこわかった。杉本某のおばあさんは、豆狸が出てくると、「また出てきとんで、わるさせんとひっ込んどれよ」と豆狸に注意をしていたという。昭和のはじめ頃の話 (宮本進氏)


21.お不動さんの狸
 那東のお不動さん(愛染院)近辺にも狸がいて人を化かしていた。お不動さんの前に小さい水の流れがある。この流れを着物を頭の上にしばりつけて、必死の形相で渡っている人がある、近所の人が「何をしょんで」と声をかけると、「何をしょるって、大水が出とんでないで、大変な事になるでよ」といって流れを渡ったとのこと。大正時代の狸に化かされた話である。 (賀川清氏)


22.渡し守が化かされた話
 西中富の人々は、旧吉野川を通って東岸にたくさんの畑を作っていた。昭和の初期までは橋もなく渡しがあって、渡し守を1軒いくらと金を出し合って雇っていた。
 その渡し守の水口某という人に狸がのり移って村中大さわぎをした事があった。当人は寝込んでいて、時々おきてあばれだし、「あぶらげをくれ」とせがむ。狸がのりうつると、ぐりぐりみたいのができて、あちこちに移動してつかまえられない。「火をたいてあぶり出せ」という人もいて大さわぎをした。どの様にして追い出したかは知らないが子供の頃(大正末期)の話である。 (宮本進氏)


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