阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号
板野町の民家

建築班

   森兼三郎・四宮照義・林茂樹・

   稲塚充弘・鎌田好康

はじめに
 源 義経が阿波国ハチマ尼子浦(徳島市八万町)に上陸し、八万を山麓(眉山)伝いに一宮に出、鮎喰川を渡り国分黒田を経て、中富川を越え大寺に入った。義経勢は、寺(金泉寺)のもてなしで元気を取戻し、大坂峠から引田、牟礼に押寄せ、屋島の合戦となった。現在の大坂越えの道、讃岐街道である。
 讃岐街道と撫養街道、この主要道が交叉する歴史的町・板野町を私達建築班は、7月29日より8月4日まで、文化財保護委員の四宮をはじめ、他4名がテーマを『板野町の民家』と題して現地調査を行った。


目次
1.大坂番所屋敷
 a  村瀬元一家(大坂字ハリ71番地)
 b  久次米文雄家(大坂字ハリ73番地)
2.興頭庄屋屋敷
 c  圓藤真一家(川端字若王子81番地)
3.庄屋の家
 d  長尾利秋家(大坂字ハリ31−1番地)
4.武家屋敷
 e  河野正義家(矢武字宮前59幡地)
 f  天忠裕家(下庄字栖養67番地)
5.五人衆の家(オカシラ)
 g  市川政雄家(羅漢字山崎32番地)
6.一般農家
 h  岡谷真次家(黒谷字宝田2番地)
 i  武市賀八家(矢武字宮前60−2番地)
 j  三木健治家(大坂字関東20−1番地)
 k  赤沢亀代一家(下庄字栖養177番地)
 l  溝廷豊一家(矢武字神木65−1番地)
7.その他
 m  黒谷の小農家(黒谷)
 n  町家・生田嘉代子家(那東17番地)
 o  豊永家の舟小屋(大寺字高樹166−1番地)
8.社寺仏閣
9.間取りについての考察
10.あとがき

 

1.御番所屋敷
 津田・大神子・籠(以上徳島市)、北泊・堂ノ浦・碁の浦・岡崎(以上鳴門市)、大坂(板野町)、大影(市場町)、江原(脇町)、白地舟渡・佐野(以上池田町)、山城(山城町)、祖谷(東祖谷山村)、四ツ足堂(木頭村)、竹ケ島・阿土・宍喰(以上宍喰町)、鞆・浅川・那佐(以上海部町)、牟岐(牟岐町)、日和佐・恵比須浜(以上日和佐町)、西由岐・伊座利・木岐・志和岐(以上由岐町)、椿泊(阿南市)、元根井(小松島市)


 以上が代表的な、阿波の関所であるが、ここ大坂関所は、北泊番所と共に、取り締りが特に厳しく、主に手形の検閲、密貿易、不正出入国の取り締り、キリシタンの取り締り、等にあたっており、他国との国境、河口、港の要地に設置した武士の詰所で、江戸時代には、県下に74ケ所あったそうである。ここ大坂番所も立礼が残るのみで、面影すら残っていない。(「阿波の関所」山田竹系著より)


・村瀬 家
 村瀬家は改造され、小屋裏に入ることが出来なかった為、残念ながら棟札の確認が出来なかった。推定200年前(寛政〜天明年間)頃の建築と思われる。
 3.5×6間の五間取りの家であり、武家屋敷の構えをなしている。


 当家のゲンカン(呼び名なし)チョーバ・オモテ、へと足を運ぶと当時代に舞戻ったような錯覚さえする。十手・ナギナタ・槍・木刀・より棒が壁に飾られ、オモテでは白無垢姿の侍が、右手に小刀を持ち、今にも自害しそうな……。
 オモテの天井が床差し天井(差し天井)となっており、当時は格式の高い家によく見られたが、現在は殆んど見られなくなった。下屋の屋根瓦には左卍の模様が入っている。


「家暦書」によると、同家は一宮城主につながる家系で、天正8年(1581)長宗我部に討たれ、浪人していたのを、天正13年(1586)蜂須賀入国の時に、認められ徳島城に勤務していた。正保元年(1644)大坂越え関所設置と同時に御番役を仰せつけられ、明治5年7月23日(1873)同関所が廃止になるまで、代々約230年間勤めた。


・久次米家
 久次米家は、村瀬家の西隣にあり、茅葺四方蓋下屋造りの4×7間の、6間取りの家で明治初期頃(1870)の建築と思われる。当家も大坂番所の主任格で久次米さんの話では、いつ頃か定かではないが、旅館をしていたとのことである。


2.興頭庄屋屋敷・圓藤 家
 興頭庄屋(組頭庄屋)の圓藤家は、川端より撫養境までの庄屋頭として栄え、屋敷構えからして当時の繁栄ぶりがうかがえる。主家は、5×10間、北側に隠居部屋、西に客室・茶室を設け、屋敷の廻りを蔵・使用人部屋等で守護している。ゲンカンに入ると、いきなり正面に龍呑水消防ポンプが二基備えられていて、ミセには当時の家具・調度品が置かれ、昔のままの姿を見ることができる。仏間の南側に、内ゲンカンがあり、身分の高い客のみが利用していたようである。


 またダイドコロの天井が高く、外部から見るとひときわ高くそびえ、三層からなる『煙出し』は、県下随一である。ウチニワには、ヒロシキがそのままの状態で保存されている。隠居部屋は一階に6・8畳、二階に6畳の間を持っ享保5年(1720)、268年前の建築である。この隠居部屋は調査の後解体され、多額の費用を費やして当時のままの状態で再現している。主家の屋根裏から四枚の棟札を下ろし、また過去帳等によると、
・隠居部屋 享保5年(1720)…棟札
・  ?  寛保4年(1744)…棟札―判読不明
・裏蔵   寛政10年(1798)…過去帳
・主家   享和3年(1803)…過去帳
・辰巳蔵  安政5年(1858)…過去帳
 以上の五棟の建築年が確認された。
 今回は、ごく簡単な調査にとどまったが、折を見計らい、御主人にお願いし、詳細に調査したいものである。

 

3.庄屋の家・長尾 家
 長尾家は大坂の一番奥にあり、昔庄屋として栄えた。3.5×7間の典型的な四間取りの家である。現在西側に住宅を建築し、納屋として使用している。雨漏りはしていないが、白アリの被害にあい、かなり傷ついているようである。小屋裏から見つかった二枚の棟札は、文化13年(1817)・元文3年(1739)となっており、前者のがこの主家のものであり、後者のは、この家の柱等にホゾ穴が数ケ所あるところから、解体後この地に移築した可能性もあると思われる。またこの家は南・東・北の三方は瓦葺の下屋を葺下しているが、西には瓦屋根がない。御主人の話によると、四方下の瓦葺下屋は、最初に全部設ける場合は良いが、この家のように、南(明治18年)から順に取り付けていく場合、西の下屋は付けずに茅葺のまま残しておく、これを『フックダリ』とよんでいる。この地方独特の風習である。
 またこの家に使用している材料は、裏山に自生する栗・樫等の雑木を使い曲りくねった木も柱として使われている。
 東のミソグラの壁はこの地方(阿讃山系)に多く見られる、ミノカベやワラカベで造られている。


4.武家屋敷
 ・河野 家
 伊予三島に鎮座する古来の名社、三島神社祭神の大山祇神は、越智氏の氏神で同族から、河野・久留島・稲葉・一柳の諸氏を出したが、三島神社を始め、その一党の家紋は皆、折敷に三の文字である。矢武24軒・川端15軒・大寺8軒・那東、羅漢6軒・下庄に1軒と、河野姓がこの板野町に多くみられ、折敷に三の文字の紋瓦が、ここ矢武の河野家の瓦にみられ同一族であることを証明している。主家は4.5×7.5間の五間取りで、壁が殆んどなく障子・襖で仕切られており、武家屋敷の構えを成している。またこの工法が、現代のラーメン構造に発展していく事になる。主屋の北にハナレが、南に二棟の寝床がある。蔵・寝床のシックイ壁はトタンで囲いはしているが、当時の姿をとどめている。推定約150年前頃の建築である。


 ・天 家
 栖養の八幡神社の西にあり、4×7.5間の六間取りの家で、地方士族の面影がある。河野家同様、ウチニワにはカラウスが座り、ヒロシキの跡もみられる。またこの地方(旧吉野川に面した)は、街道沿いの民家に比べて、床が高くなっており、西蔵の地盤石を見れば良くわかる。下二段が小さく、上二段が大きな石で築かれている。上二段の石積は、吉野川の氾濫等で増設されたものと思われる。


5.五人衆の家(おかしらの家)市川 家
 当時、羅漢の『オカシラ』と呼ばれ、この地方の五人衆の組頭であったといわれている。3.5×6.5間、四間取りの市川家の主家の棟札の確認は出来なかったが、柱等にチョーナばつりの跡が見られる事から、推定200年以上は経過していると思われる。また家の管理が非常に良く一部増築は見られるが、間取りを変える事なく改造している。入口(ウチニハ)は現代風の応接間に、アガリハナ・オモテは天井を張り壁を塗り替え建具も新しくし住環境を良くしている、模範的な改造の例である。

 

6.一般農家
 昔から風土や人々の生活と深いかかわりをもった多くの民家があって、自然との中に美しいたたずまいを見せている。北に阿讃山脈を、南に旧吉野川を、そのどちらをとっても、住環境には充分といって良い程適している。100年も200年も余力を持つたくましさと美しさは、現代建築にはとうてい表現出来ないものである。この地方の農家は藩政時代から殆んどの農家が藍作に従事していた。明治末期、化学染料の出現で藍は衰退し、養蚕・タバコ・米作(果樹)へと移り変わっていく。ごく平均的な四間取り(田の字)形式の農家住宅が殆んどであり、ごくまれに二〜三間取りの住宅がある他は、これといって独特な工法を取入れた民家は見つからなかった。


 ・岡谷家
 黒谷の瓦窯跡の入口にあり、四間取り形式の茅葺四方蓋下屋造りの、4.5×6.5間の家であるが、一般の農家住宅と比べても立派な間取り、造りとなっている。チョーバ・オモテの建具、欄間も美しい。南のカドには養蚕の跡とみられる建物が、西側には乾燥場が残っている。主家は推定150年前頃の建築と思われる。


 ・武市家
 3×3.5間の二間取りの家である武市家は、明治45年(1912)の建築であり、現在県下では殆んど見られない希少価値の高い民家である。また、ドマ・オモテの天井がヤマト天井でカマヤ・オクは屋根地を見せている。オモテの中敷居も、当時のものとしては、珍しい。


 ・三木家
 三木家は、3.5×5間の典型的な四間取り茅葺四方蓋下屋造りの、大正末期建築の農家住宅であった。すでに解体され新しい家を建築している。ゲンカンにはヒロシキがあり、農家住宅としては標準的な民家であっただけに、惜しい文化財が消滅した。


 ・赤沢家
 大正元年(1912)吉野川の氾濫にあい流失した後、古材を使用し建築した住宅である。3×4間の葺下しの四間取りで、南面のみ瓦葺の下屋を設けている。栖養の八幡神社の近くにあり、現在は倉庫として使用されている。


 ・溝延家
 3.5×4.5間、五間取りの農家住宅で、四間取りの変形である。建築年も昭和25年と茅葺屋根の住宅としては、最も新しい建築である。


 7.その他
 ・黒谷の小農家
 黒谷にある3.5×4.5間のこの住宅は、推定100年前頃の建築と思われ、田の字型の変形間取りとなっている。調査時空家で管理が特に悪く、一部朽ちかけており、このままの状態が続けば、直ちに壊れる事になるだろう。


 ・町家、生田 家
 撫養街道・讃岐街道と主要道が十文字に走り、町家は撫養街道沿いに多くあった。昭和40年後半の建築ラッシュで殆んどの家が近代建築に変わっていった。追討ちをかけるように道路事情も良くなり、道路幅も広くなった。広くなれば接道する家は解体され、町家の減少を食止める事がむつかしかった。昭和50年頃になると、バイパス工事(道路)が多くなり旧道沿いに、古い町家・民家が残るようになった。ここ板野町も那東、大寺の旧道沿いに町家が両サイドに残っている。那東は大正建築の生田診療所、明治建築の生田タバコ店・多田食糧品店が、大寺には大正建築の稲富酒店、他三軒の町家が残っている。


 ・豊永家の舟小屋
 北泊・碁ノ浦・堂の浦・岡崎と、舟番所が鳴門に四ケ所あった。その何処にあったか定かではないが、高樹の豊永家に蜂須賀家の舟小屋がある。明治5年(1873)に廃止された後解体され、旧吉野川を上り大寺のここ高樹に再建されたと考えられる。3.5×6間の当舟小屋の巳瓦が逆卍の模様(蜂須賀家家紋)になっている。当初六間分が三列あり(軒先巳が150枚位あったそうだが、現在は50〜60枚しか残っていない)、これだけのものを見るのは極めてまれな事である。ここも四国縦貫道にかかり、用地交渉も終わっているので、いずれ解体されるだろう。


 8.社寺仏閣


 以上板野町には、多くの神社仏閣がある。寺院では四国八十八ケ所霊場三番札所金泉寺は行基菩薩が、四・五番札所大日寺・地蔵寺は弘法大師がそれぞれ開いた。その他に板西城主・赤沢信濃守を祭る愛染院、藍玉の製造改良家・犬伏久助を祭る藍染庵、地蔵寺の奥の院・五百羅漢、等がある。また神社では、四国最大規模・愛宕山古墳が眠る川端の諏訪神社、源義経が屋島に向かう時に参拝したといわれる岡上神社、平野部では珍しい随身門を持つ栖養と矢武の八幡神社等がある。


 9.間取りについての考察
 典型的な四間取りの農家住宅では、出入口の位置により、二つの形式『右勝手』『左勝手』に分かれる。ここ板野町には、茅葺屋根の住宅が約200軒残っている(昭和62年8月現在)。その茅葺屋根の住宅で二つの形式について調査した。


10.あとがき
 今回板野町も前回同様、町民の温かい心づかいによって十分といって良い位調査が出来た。おかげで私達(学会)にとって貴重な資料ができ、今後の調査に大いに役立つであろう。また調査から報告までの約半年間に、二軒の民家が壊された。貴重な文化財が消滅する姿をみると、たいへん寂しい気持ちになる。最後にこの調査、報告にあたり、町役場、県立図書館、町民の皆様方には色々と御協力を賜り深く感謝致します。ありがとうございました。


徳島県立図書館