阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号
板野町の文化財(遺跡・石造物・文書)

郷土史班

  河野幸夫・岡泰・藤丸昭・石川重平・

  森本嘉訓・真貝宣光

はじめに
 阿波郷土会員で構成する郷土史班は、板野町に所在する各種の有形文化財の調査に当たった。
 まず、遺跡調査としては岡泰が古代から阿波と讃岐を結ぶ重要ルートとしての峠道について踏査結果をまとめ、森本嘉訓が生産遺跡としての瓦窯跡の調査報告を担当した。
 板碑・五輪塔・層塔などの石造文化財調査報告は石川重平が執筆し、寒川家など旧家所蔵の古文書の調査は、河野幸夫(旧与頭庄屋寒川家)、藤丸昭(大坂口御番所史料)、真貝宣光(藍に関する史料)が、それぞれ分担執筆した。特に藤丸昭は、板野町役場保管の行政資料としての公文書類の調査も併せ実施して、文書館設立に備えた。


 I 石造文化財の調査報告
A 愛染院の石造物
 板野町那東の愛染院本堂(本尊不動明王)の東側の裏には、五輪塔、一石五輪塔、層塔、五輪塔浮彫石塔など、各種の石塔が集積されている。材質も砂岩のほか、凝灰岩、花崗岩と多種にわたっている。これは、かつてここより東方にあった蓮華寺(天正年間、兵火で焼失、今もこの寺名をとった池がある)境内にあったもので、のち、明治初年に現在の所に移されたものとされている。(『阿州奇事雑話』による)
a 層 塔
 凝灰岩製、南北朝(あるいは鎌倉末期)の造立と推定される。原形をとどめていない。基礎部は他の五輪塔の基礎(地輪)に転用されており、塔身部も他の塔の台石に使用され、且つ下半部は土中に埋まって実測は困難である。
 残欠を集めて復元図を作成してみた。(図1参照)


b 板 碑
 本堂東側に北に向いて立っている。
 実測値 全長94.5cm、幅40.5cm、厚さ6cm
 材 質 緑色片岩
 標 識 線刻五輪塔影(各輪にキャア カ ラ バ ア の梵字)
 記 銘 地輪の右に造立の意趣、左側に造立の記年ただし磨滅して、わずかに右側に為の一字、左側に三年の二字が、読めるだけ
 造立期 碑面の五輪塔の形態から推定して南北朝時代
  裏に太文字で「正治二申年赤沢代々供養為菩提九月十五日」とあるのは、明治ごろの追刻と思われる。(写真参照)


c 一石五輪塔
 基碑群の上段部に6基の一石五輪塔がある。一石五輪塔とは、その名の示すとおり、上の空輪から下の地輪までを、一つの石で作ったもの。一般には比較的小形(15cm〜50cm)のものが多い。台座はほとんどないが、別の石で反花(そりばな)蓮座を造ったものに乗ったものもあり、まれには蓮花座までも一石で造ったものもある。材質は、本県ではほとんどのものが砂岩であるが、たまに花崗岩もある。
 ここにある6基のうち、最も向って左にあるものは、全高39.5cmの中形で、地輪に次の銘文がある。
  永禄四年
 ア(梵字) 為常秀禅門
  八月十日
B 那東の瓶(かめ)形塔
 那東の道路沿いにある。土地の人たちは「お亀さん」と呼び、また、「大亀大明神」を称えて祀っている。
 形は五輪塔の水輪の形そのものであるが、土部に二段の造り出しがあることから、火輪を乗せた五輪塔の一部でないことは明白である。一般にこのような形をしたものを、瓶(かめ)形塔とか、壷(つぼ)形塔とか呼んでいる。(図2参照)


 全高地上部47cm、凝灰岩製、造立期 鎌倉末期と推定
C 羅漢の板碑
  羅漢の旧道筋(郵便局前)北向地蔵の裏側にある。
  実測値 全長167cm、幅36cm、厚さ7cm
  銘 文 右造立意趣者相迎先考幽儀沙弥道阿敬白
  梵字ア バン 観応第三 二月十三日
    第三年追善為頓証仏果故也
  銘文によると、沙弥(しゃみ)道阿なる者が、先考の幽儀の第三回忌にあたる観応3年2月13日に、追善供養を営んだ。その功徳によって速かに仏果がありますようとの願いをこめて、この板碑(石造の卒塔婆―そとば―)を造って立てたことがわかる。
 なお、この板碑は額部(上方の山形の部分と二条の横線のある部分)の下の碑面の部分を、約2cmほど奥の方へほり込んで作ってある。この額部のとび出している形態は、九州型板碑とよばれるもので、本県に多い阿波型板碑とは、区別されてよばれている。特異な形態をもつ板碑として注目しておきたい。(写真参照)


D 矢武金剛院の板碑
  この板碑は、もとは現在ある寺の東側、八幡神社の西側の堂内にあったという。
  実測値 全長175cm、幅48cm、厚さ6cm
  銘 文 右志者為法界衆生平等利益奉造立也
    応安七甲子年八月時正願主藤原成弘敬白
 銘文によると、藤原成弘が法界衆生の功徳のため、応安7年(1374)に造立したものである事がわかる。この藤原成弘なる人物が、南北朝時代に阿波でどのような地位にあったものか、その解明が今後の課題として残されている。
  標識 線刻十一面観音菩薩面像
 阿波板碑のうち、十一面観音と標識としたものは、現在確認されているものとしては、これと徳島市寺町浄智寺にあるものと、ただ二基のみである。
 また、この板碑の画像は、像が静止の姿ではなく、静かにこちらの方へ歩き寄ろうとする気配を示す、美しい姿が、碑面一ぱいにほられている。
 阿波における画像板碑の中でも最も優秀な作品であると共に、屋内に安置されていたので磨滅も少なく、まことに文化財としての価値の高い板碑である。 (この項、石川重平)

 

 II 板野町の産業遺跡(犬伏だるま窯)
 まえがき
 郷土班の一員として、「産業遺跡」のテーマで今回の学術調査に参加した。まず、板野町における産業遺跡の所在を確認する作業から始め、那東の近藤滋樹先生と羅漢の滝よし子さんの御指導を受け、以下のような情報を得た。
 用水路跡・水車跡・古い橋・トンネル(旧国鉄鍛治屋原線のトンネル=現存せず)・旧国鉄鍛治屋原線跡(昭和47年廃止され、現在は道路他)・古い井戸(羅漢・那東・吹田・犬伏等に現存)・紡績工場跡(松坂製糸所)・瓦業・産業記念碑(大坂越貫通道路記念碑)・採石場(大坂採石工場=稼動中)・炭窯(黒谷あたりで昭和40年頃まで使用していた)・古い発動機他。
 これらの産業遺跡のうち、いくつかは現地を訪れたが、その中で犬伏・阿部家のだるま窯が取り壊される予定であることを伺い、写真・計測・聞き取りによる記録化を試みた。
 阿部恵家は、昔酒屋を営んでいたが火災に会いおよそ60年位前(詳細不明)から瓦屋の仕事に変わったという。最初は近所の瓦屋へ見習いに行き、やがて独立した窯を所有するにいたった。一時13軒あった瓦屋も現在は3軒となり、窯もガス窯になったり、瓦仲介業になって昔の面影も夢のようになってしまったという。ただ、阿部家の外庭に残されている、使用されていないだるま窯が、僅かに当時の様子を偲ばせている。
 次に阿部家のだるま窯について詳しく見ていきたい。


a だるま窯(写真1 2 ・模式図)


 阿部恵家の外庭の1角にあり(納屋の前)、全長約7m20cm(長さを四間に作るという)、本体部(窯の部分)、幅約270cm、高さ約190cmである。昭和57、8年頃から使用しなくなったため少し縮少ぎみで、破損箇所も若干見られる。
 窯は、基礎部・本体部(カマ)、ホロ(両方にある)によって構成され、材質は、山土(赤土)(粘土も若干混入)、レンガ、瓦片、砂である。また割れ防止(熱を逃がさない工夫)のため、スサ(藁を切ったもの)を入れる。
 この窯を築くのには3人で1週間から10日、凡そ30人分の労力を要し、基礎からぼつぼつ始めると1ケ月近くかかるという。窯の寿命は1〜3年であった。
 構築方法を順に紹介すると、
1 以前の窯を唐鍬で掘り崩し、レンガ・瓦片・土を分離する。新に2トン車に10パイ程度の山土を搬入し、古い土と混ぜる。古い土は乾燥していて窯の壁に馴染みやすいという。
2  取り払った地山は、丁度舟の底と同じような形となり、ここから再構築が始まる。周囲に砂を巻き、谷状の煙道を作る。
3  次にカマの壁をレンガで築いていき、ドーム状の屋根を作る。
4  カマの左右にホロを築き焚口を設ける。ホロは瓦片を持ち出しながら屋根状にするため、時間を要する仕事であった。
5 窯が出来上がると瓦を入れて焼くが、第一回目は窯を作るのが目的なので、六分(割)も一級品が取れれば良いという。
6 窯に神酒・塩・イリジャコを供えて安全を祈る。仕事師には酒・肴を出す。窯を築く前は、太夫を雇って家の地鎮祭と同じように、注連の内に供物をして拝む。正月3ケ日、7日、15日にも神酒等を供える。窯を築く時期は春か秋で、夏は避けられる。


b 基 礎
 窯は基礎が一番難しいという。地面を舟の底状に三尺位掘って底部を叩きしめ、周囲に30cm程砂を入れ(2トン車1台分)、赤土で叩きしめる。次いでカマの部分(237cm×201cm)に図2 のように赤土を叩きしめながら山を作る。この時の傾斜が一つのコツであるという。次は木枠を入れ、五列の谷(写真3 )をレンガを積んで作る(図1 )。谷の幅は16cm程であるが谷の幅は18cmとやや広い。伺ってみると両端は火力を少し強くする必要があるのだとという。


c 本体部
 瓦を焼くスペースで、この部分の名称は別にないという。強いていえば「カマ」であろうか。
 7尺4方に作るといわれるが、今回の計測では237cm×201cmでやや東西に長い。天井はドーム状(写真4 )で、最初は高さを5尺2・3寸から6尺程度に作る。しかし次第にへたって、現高は162cmであった。


 入口(写真5 )は、あまり広くすると焼成の具合が悪く、二級品が増えるので出来るだけ狭くするが、度がすぎると今度は出入りが困難である。現在の幅は42.5km、高さ155cmで、人が横向きに入れる状態である。


 人口の反対側には窓(写真6 図3 )がある。58cm×48cmである。瓦を焼く段階で入口も窓も一定部分を残して閉められる。30〜40cm上を開き、ここが煙の出口となる以前は「ドロブタ」であったが、終りにはコンクリートのブロックを使うようになった。

 本体部の作り方は、まず側壁をレンガで築く(写真7 )。厚さを計測すると入口側37cm、窓側41.5cmあった。両側壁(南北)が出来上がり、東西の柱(写真3 図1 )の部分が仕上がると、次は天井作りである。両側壁に竹(丸)を3〜4本やり渡して、それに真竹の割ったものを、ビニールハウスの骨のように丸く並べる。それを建築時の壁(コカベ)のように縄でかいていく。


 次に、この上に赤土の礫を抜いたものを少しずつ塗り固めて作っていく。一度火を入れると竹が焼けるので、内側から左官のコテで土を塗りつけて整える。屋根の厚さはおよそ一尺である。


d ホ ロ
 本体部に火力を送るための燃焼空間で、約1間四方に作るという。左右対象で、それぞれ焚口(写真8 図7 )を設ける。ホロは図6 (平面図)のようにラッパ状になっており、長さ203cm、谷の登り口で幅186cmである。壁のカーブは、熱の流れがスムーズにいくように作られているという。底部の傾斜にも経験が生かされ、最も深い部分は一尺ほど水平に作られている。屋根は瓦片を持ち送って(写真9 )作られている。


 焚口はレンガ積み(5枚分)で高さ38.5cm、幅41cmである(図7)。窯を築く時(野外の場合)一番気を使うのは風の具合で、クチマエの風の調整にいろいろ工夫がなされる。焚口を上げたり下げたり、またクチマエに戸板を列べたり、家によっては屋根であるサヤを作ったりしていた。


e 焚き方
 瓦窯の焚き方は、御飯を炊くのに似ていると阿部恵さんは語る。
 夕方4時頃から少しずつ焚き始める。最初は「ヌクメ」と呼び500度位まで上げ、夜12時頃起きて8時間ほど焚く。この時の温度は900度位で、これが1,000度に達すると、瓦がゆがんでしまう。窓から崩れていく状況が見えるという。窯を開けるのは次の日の朝である。
 窯の中にソデ瓦だと1,000枚入り、組み方は家の秘密で、どの瓦屋もあまり教えることはなかったという。組んだ瓦の間が煙道となり、下部と上部の温度が近いほど良い瓦が取れる。
 瓦焼は大変な重労働で、夏等は着物に塩が吹き、長生きをしない職業だともいわれた。


 おわりに
 今回報告した「だるま窯」も、やがて取り壊される運命にある。いかなる調査も、遺跡保存を上回ることは決してあり得ない。この際是非、板野町の代表的産業の足跡であるこの「だるま窯」を、そっくりそのまま保存する処置を、県や町当局に要望したい。
 阿部家の瓦製造用具類も、今購入すれば1,000万円位するそうであるが、廃業後数万円でスクラップとして売ってしまったという。こうした産業遺物の収集・保存のために、県立の産業博物館の設立を強く訴えたい。
 産業遺跡は、私達の生活に直接、深くかかわってきたものであるにもかかわらず、その調査・研究も保護対策も進んでいるとは思われない。私達はもっと生産点にたった地域の歴史・文化研究を、進めていく必要があるのではなかろうか。 (この項、森本嘉訓)

 

 

III 板野町の古道
はじめに
 古来讃岐越のみちとして
  大坂越
  黒谷越
  一本松越
があげられるが、一般に古道は、いや旧道さえすでに消滅しかかっている現状で、その地域の郷土史に関心をもつ人々の間で、ときに話題に取り上げられるにすぎない。
 

A 大坂越 標高278米
 古 道
 吹田―横河原―徳王寺跡―大坂―坂元
このみちは往古律会制による南海道で、大化2年(646)の改新の詔によってはじめて制度化された「駅制」(註1)によると、阿波の郡頭駅から大坂越をして讃岐引田郷の坂元に下る、小構造谷を直登する険阻なみちで、引田郷に入ってはじめての村が坂元で、その坂元に「馬屋(うまや)」という古い地名(註2)が残っているところから、南海道の讃岐へ入った最初の「駅」がこの坂元にあったと云うことになる。
 南海治乱記(寛文3)にも
 阿洲板野郡吹田村ヨリ大坂越國境マデ一里讃洲大内郡引田郷坂元村マデ山坂一里此所ヨリ上代四國順見(註3)ノ勅使道アリ道前道后ヲ分ツ駅所アリ今ニ馬宅ト云フ
とあるところから、このみちが上代四國巡見使のみちであったし、源義経の屋島へ(註3)のみち(元暦元)とも云われ、また、高野の学僧道範阿闍梨の讃岐への往還のみち(註4)(仁治4)でもあったのである。
 旧 道
 吹田―関柱―中村―大宮―大坂東谷―大坂―坂元
 阿波國海陸道度之帖(明暦3)によると、
 一徳島よ里讃洲へ之本道大坂越讃岐國境迄五里
  此間に川四ケ所
   田宮口川
   高崎川
   吉野川枝さがり松舟渡
   吉野川筋高木舟渡
  大坂越よ里讃洲坂本村へ出ル境目よ里坂本村迄拾四丁
とあり、阿波の五街道の一つとして讃岐街道と呼ばれていた。尤も、このみちは鎌倉時代に古道に代って阿波・讃岐間の要路であった。(讃岐通史)正保元年には東谷に大坂口(留番所)(註5)が設けられたし、峠に豆茶屋が立つほど人の往還も多かった。殊に四國巡礼者が多く、ために道傍に道標(註6)が立てられ、西谷や東谷には遍路宿(註7)が出現もした。東谷の清水庵(註8)は格好の湯茶接待所でもあったのである。尤も、巡礼者のなかには素性のようない者もあったとみえ、吹田の与庄屋吉田次郎兵衛がその取締方(註9)を藩に上申している。西谷村に牛馬の供養塔があるところから荷馬の通行も多かったのであらう。このみちは天正13年豊臣秀吉が四國征伐(註10)の軍をすゝめたみちでもあった。(南海通記)明治八年阿波・讃岐の物流の増大が「歩荷」のみちから「駄馬」「車道」のみちに改修(註11)され、徳島―引田線が出現する大正8年まで利用された。今日「四國のみち」となる。
 

B 黒谷越 標高439.7米
 地蔵寺―山神社―大日寺―黒谷ダム―県境―讃岐清水―川俣のコース
 阿波國海陸道度(のり)之帖一明暦31には
  板西郡黒谷越 川北本道より境目まで二拾四町讃岐川俣村へ出る牛馬道
 南海治乱記(寛文3)
  黒谷越 阿洲板野郡大西本道(註12)ヨリ黒谷越國境マデニ十四丁讃洲大内郡引田郷川俣へ出ル
 網通様御代御領國之図(寛文7−延宝3)
  本道より境目迄弐拾四町讃洲川俣村へ出ル牛馬道
とある。しかしこのみちは本道(大坂越)以下の讃岐への山越のみの一つとされていた。これらの記述から明暦年度という相当古い時代にこのみちが通っていたことが分かる。黒谷の西根元海氏は2、30年前まで黒谷ダムから眞直に國境まで登り、清水村へ米粉をひいてもらいに行ったものだと云う。黒谷の人々には生活のみちであったのである。しかし、今は廃道になってしまった。
 

C 一本松越 標高390米
 神宅―大谷薬師堂―県境―讃岐川俣
 前記の阿波國海陸之帖(明暦3)南海治乱記(寛文3)などにもこの峠みちについては見えないが、峠神の地蔵尊に彫られた年度から天保以降人の往還がにわかに繁くなり、豆茶屋が立つほどになったのであろう。後世一本松街道となる。しかし、このみちも人の往還は絶え、みちの荒廃がひどかったが、最近黒谷の山神社から四國のみち「山寺のみちコース」の整備は伴ってよくなった。しかし、今日では山菜とりや杣たちがときたま気まぐれに踏み入れる位である。新道の出現で先人たちが往還した古道が消えてゆくことは淋しい。
 板野の村々では、これらの峠みちを介して讃岐との間に古来から人と物質の交流ばかりか、農作物(註13)やその加工技術(註14)の相互交流があったし、殊に東讃地域の引田町とは今日もなお婚姻圏であって、言語にあっても阿波言葉・讃岐言葉が相互に入り混ってをり、1つの文化圏として云えるものが形成されている。おもしろいことに、引田と白鳥は地続きの相互に隣接地域でありながら言語上一線が引かれるのである。

 

  註1
 凡請道須置駅着 毎卅里置一駅 若地勢阻険 坂無水草処 随使安置 不限里数
  註2
 「馬宿」の地名起源が往古の四國勅使がこの地で郡吏を集め会合したところから地名となったという。(二川正徳氏による)
  註3
 吾妻鏡 第四元暦二年乙巳
 源平盛衰記 巻42
 平家物語 巻11
  註4
 「大寺を立て大坂越し讃岐阿波の中山なるさぬき大津賀にいたる路間九里余と見ゆ」
  註5
 正保元年東谷に開設される。碁浦番所(慶長18年)の裏番所に対して表番所と云われ、阿波國第一級の番所であったが、何故か開設がおそい。碁浦番所は高松藩との國境紛争のこともあってか
   板野郡相坂口番所仕様之事(阿波御条目)
 一、御家中待分ヨリ讃洲へ参家来之男女長坂四郡太夫手形に而通し可申事但御直衆ハ大身小身ニ不寄無手形可相通
 一、御國在々ヨリ讃洲へ参男女ハ其手先之郡奉行手形に而通可申事
 一、御國市中ヨリ讃洲参男女ハ町奉行手形に而通可申事
 一、自他國御國へ参使者飛脚之儀落着之先方御番人相改様子見屈通し可申何方ヨリ何所へ参候ト子細書留置可申事
 一、他國酒之儀如先法弥堅相改但音信酒持参者通可申事
 一、讃洲表ヨリ参人之儀慥成手形無之者一切通申間敷事
 一、淡洲士中ヨリ讃洲へ参家来之者男女ハ福家甚兵衛萩野四郎左ヱ門手形に而通可申事
 一、淡洲在々ヨリ讃洲へ参人男女津田新五兵衛佐渡甚左ヱ門手形に而通可申事
  右者賀島主水殿蜂須賀式部殿山田豊前殿長谷川万太郎殿以御相談被仰付候条堅可相守者也
   寛文九年酉五月三日
     大坂口へ相遣置候
   嶋八左ヱ門 前田伊兵衛 内海弥五太夫 長坂四郎太夫
   萩野四郎左ヱ門 佐渡甚左ヱ門 印判遣置候
  註6
 左 おおさか 右 へんろみち 関柱村中
 釈迦如来像 右 三番 坂元から大坂への旧道登り口
  註7
 中島屋(東谷) 菊屋(大宮)
  註8
 もと旧々道の引き上ったところにあったものを旧道へ下したもので、そこに五輪供養塔、丸彫の地蔵菩薩、南無阿弥陀仏六字名号、といった数基の石仏が立っていて、遍路みちにふさわしい景観を添えていたが、今は庵も朽ち果て、仏たちも西谷の十楽寺へ運ばれてしまった。
  註9
 四國辺路体之者取締申上覚
   申上書
 一、御境目往来筋住居仕居申百姓共へ逸々被仰渡乞食遍路体之者見及候節直に追返候様兼而被仰付置度御事
 一、山手村々五人組共へ被仰付日々相廻り制道仕候様被仰付度御事
 一、村々番乞食共往来筋並抜道相考乞食体之者又は胡乱成体之者行逢■節御境目迄追戻し候様被付度御事
 一、大坂口御番所讃洲ヨリ四國辺路通り筋に而御座候へは四國辺路に相紛し乞食体之者入込申様に相聞へ申候右御番所において念を入相改候様被仰付度御事
 右之通御究り方山々村へ被仰付候はゞ自然と薄き可申と奉存候に付右之段奉申上候 以上
   末二月  吹田村与庄屋
     吉田次郎兵ヱ
  伏屋岡三郎様御手代
   高田悦左ヱ門 殿
  註10
 土佐方の讃岐の域々を落し大坂越して阿波に入った蜂須賀・黒田・浮田の軍勢は、主力軍羽柴秀長の軍と合して、木津城の東条関兵ヱを攻めてこれを降し、次いで一宮域を攻略した。
  註11
 大坂山道路改進ノ件
 明治八年五月阿波讃岐両國ノ境界大坂山道路改造ノ竣工ヲ告ク、路程長延五千八百拾五間弐分トス人夫拾万弐千四百四拾四人ヲ投ス、山ヲケズリ、谷ニ架シ、明治七年十二月十日始テ土功ヲ興シ、本年五月廿十五日ニ至テ竣ル、官民費金壹万六千百九拾円三拾三銭七厘トス
  註12
 川北本道
  註13
 甘蔗栽培など
  註14
 製塩技術、製糖技術など  (この項、岡 泰)

 

 

IV 古文書類の調査
A 旧唐園村与頭庄屋寒川家所蔵文書
 今般の総合調査に当たって、偶然の機会に寒川家旧所蔵の文書類の一部を入手することができた。総点数は55点、その中ただ一点の『御蔵御給知御年貢扣帳 文政元年寅十二月吉日 持主寒川繁三郎』という綴帳を除けば、他はすべて、いわゆる一枚物であった。且つその一枚物も、大半は土地の売買(質入)に関するものであった。
 a.綴 帳
 御蔵御給知御年貢扣帳 文政元年寅十二月吉日 持主寒川繁三郎
   加藤少助様御分
 与兵衛屋敷北東籔共
 上々畠 壱反六畝弐拾壱歩 弐石八斗三升九合 庄右衛門
  麦 九斗五升三合弐夕四才
  米 壱石四升四合九夕八才
   御蔵御分
 柳ノ北
 上下畠 六畝拾八歩 九斗弐升四合 同 人
  麦 四斗壱升五合八夕
  米 弐斗六升五夕七才
 同所
 上下畠 九畝 壱石弐斗六升 同 人
  麦 三斗八升五合五夕六才(付紙 四斗壱升五合八夕)
  米 三斗六升五合三夕弐才(〃  三斗壱升五合)
   稲田恵三太様御分
 西
 下畠 三畝弐拾七歩 壱斗九升五合 同 人
  麦 六升五合四夕八才
  米 七升壱合七夕八才
   酒 部
 中川
 中上畠 壱反三畝弐拾四歩 壱石六斗五升六合 同 人
  麦 五斗五升六合三才
  米 六斗五合五夕四才
 柳北
 中上畠 壱反壱畝拾八歩 壱石六斗弐升四合 九左衛門
  麦 三斗四升壱合四才(付紙)
  米 三斗三升四合五夕五才(〃)
b.一紙類
(ア) 年切(一年又は五年切)土地売買(質入)証文類
   標題の表記は、通例の阿波国内どこにでもあるものと同じで、「五年切(壱年切)元米返シ売渡シ申ス畠地(田地)書物之事」というのが、ほとんどである。中には、
「御年貢不罷成候ニ付、五年切本銀返シ売渡申ス田地書物之事」というように、その理由まで書いた、極めてていねいな表記もある。
 五年を五歳とかき、書物を添書としたものもり、「○年切田地指入証文之事」とか、単に「○年切証文之事」と簡略な表記のものもあるが、内容はいずれもほとんど同じである。
 これを、畠地と田地に分け、更に期限別に分類すると、次表のとおりである。(表1)


(イ) 土地売買に関する証文類
   土地売買に関する証文の中から、五年切あるいは壱年切というように、年限と定めたものについては、前記したとおりであるが、年限の定めてないのも、ほぼ同数あった。
   その標題の表記は
 「譲渡申、田地(畠地)書物(又は証文)之事」というのが多く、「譲渡」の代わりに「仕渡」という表記もある。単に「約束書物之事」というのがあったが、内容からみてこの分類に入れてもよいと思われたのでこれに入れた。これを畠地、田地の別に年代別に分類したのが表2である。


(ウ) 寒川家扣田畠一覧表
   年代は不詳であるが、寒川家の先祖からの名負地として、次の記録がある。
                    覚
 西久保 上 畑 弐反壱畝拾弐歩 三石四斗弐升四合 太郎兵衛
 同 処 上上田 壱反弐畝拾弐歩 弐石壱斗八合   同人
 出 口 上 畑 八畝拾八歩   壱石三斗七升六合 同人
 同 処 上上畑 弐反五畝拾八歩 四石三斗五升弐合 同人
 野屋敷 上上畑 四畝      六斗八升     同人
 居屋敷南竹木共
     上上畑 壱反六畝六歩  弐石七斗五升四合 同人
 居屋敷藪開北東分
     上 畠 三畝三歩    四斗六升五合   八郎右衛門
 せんだんの木
     上上畠 壱反四畝拾弐歩 弐斗四升八合   太郎兵衛
 居屋敷西浦藪開
     上上畑 三畝弐拾四歩  五斗七升     道之丈
 居内藪開
     上上畑 六歩      三斗       同人
 西久保 中 畑 九畝六歩    九斗弐升     太郎兵衛
 同 処 下上田 六畝弐拾七歩  五斗五升弐合   同人
 橋ノ本 上 田 壱反五畝六歩  弐石五斗八升四合 同人
 同 所 上 田 壱反壱畝拾弐歩 壱石九斗三升八合 同人
  右之田畑地先祖名負地ニ而相扣申候
                 寒川郁平
(エ)唐園村庄屋庄右衛門扣田畠一覧表
   宝永五戊子年二月日付で唐園村庄屋庄右衛門が提出した土地に関する書物が三通ある。その内容を一覧表にまとめたのが、表3である。


(オ) その他
    (その1)  覚(人形芝居の興行願)
   当村人形芝居興行仕度奉存候ニ付其趣奉願上候処御聞届被仰付難有仕合ニ奉存候 此度芝居座本吉川安五郎儀約束仕罷在候 初日当月五日、■相初メ興行仕度奉存候ニ付右之段御聞届被仰付被下候得バ難有仕合ニ奉存候ニ付御案内書附ヲ以奉願上候 以上
   板野郡唐園村庄屋
     赤沢増蔵 印
   同村五人組
     喜代次 印
 申九月 平五郎 印
     浩三郎 印
     為 次 印
板野
 御郡代様御手代
勝浦
  笹倉全次兵衛殿
  黒田寛平殿
  村田芳郎殿
  野口宗之進
     (その2)達書(氏神守札の配布)
   過日相達候其村総人員不残氏神守礼之義明後十四日早朝当区祠掌稲葉三春氏吾勝神社神前へ出張夫々相渡申義ニ候間兼而御設置人別生年月日等帳面用意被致度伍長之面々相揃守札申受候様御了簡有之度尤農繁之節ニ候エドモ難指延趣ニ付諸事無指支御手配可有之候也
     松家武五郎
   酉六月十二日
    唐園村
     伍長中
  外数点(略)  (この項、河野幸夫)


徳島県立図書館