阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号
板野町の織物・紺屋・養蚕・製糸・藍について

染織班

   上田利夫・宮川力夫・武市幹夫・

   河野幸雄

1.織物
 板西地区
 大正10年頃まで、大寺で、しじら織・紬・木綿縞を10〜15戸が織り上げ、うち、5〜6戸が徳島市佐古の加藤商店の依頼による賃織を行っていた。
 岡の宮では木綿絣・地絹を1〜2戸が、吹田で絹縞・地絹・木綿縞を15〜16戸が織布にしていた。
 大坂では30戸が綿の栽培を行い、高木や大寺新田でも綿を栽培して、徳島方面の商人に売却していた。川端では木綿縞・地絹を2〜3戸が織りあげていた。
 松坂地区
 大正末から昭和にかけて、犬伏では木綿縞を100戸、地絹を3〜4戸が、那東で木綿縞を、羅漢では羽二重を2戸が織り、矢武で木綿縞・絣を10〜15戸がそれぞれ織りあげていた。
 当時、しじら1反は50銭で、賃織は10〜12銭であった。


2.紺屋
 藩政末期には、大寺の播磨屋八郎衛門と、ほか1軒があった。明治以降を表にしてみると、次のようになる。


 古くは、川端の足立福一、楠ノ本の寒藤喜四郎等が、1石3斗入り又は1名8斗入りのかめに、■(すくも)15貫・たらし灰1斗・石灰(しじみの灰)5升・芋(さつま芋)1貫目、家によっては麦2升を入れて藍染液をつくっていた。


3.養蚕
 古くから行われていたが、本格的に桑園圃塚が造成されるようになったのは、明治10年頃からである。明治26年には112町歩に増反され、明治39年に蚕業学校(後の板西農蚕学校、現板野高校)が設立され、蚕業指導者を養成することになった。
 明治42年にまた増反、更に、大正3年から大正5年にかけて養蚕の最盛期となったが、昭和12年には26戸となり、現在では衰徴著るしく7戸となった。
 川端の尾上勝三郎の子定雄は、自らも養蚕をしながら、蚕種商尾上自治館を設立し、蚕種の改良や売買を行うに至った。更に大正10年頃には、小口某と共に徳島蚕種会社を設立して蚕種の製造販売に務めたが、昭和16年には業界不況のため解散のやむなきにいたった。
 大正年代には、大寺で100戸、1戸当り4〜5枚、桑園3〜5反。吹田で70戸、1戸当り3枚、春蚕・夏蚕・晩秋蚕でそれぞれ21貫づつ、計約60貫余の繭の収穫があり、全域で桑園30町歩を経営していた。岡の宮では5〜6戸、桑園1戸当り2〜4反。川端で190戸の養蚕農家があった。
 他の地区をみると、大正年代に矢武で50戸、昭和20年に犬伏で40戸と2町歩の桑園があり、那東で130戸、羅漢で30戸あり、1戸当り5〜20枚、1枚で繭4〜5貫の収量、旧栄村で245戸、繭5000貫の収量、桑園は103町歩が作付されていた。
 昭和40年になると急激に衰徴する。板野町全域で41戸、桑園600アールとなり、昭和61年には11戸、更に昭和62年には6戸に落込んでいる。


4.製糸
 農家の1部では、ダルマ式による絹糸の採取が行われていた。以下これについて、極めて簡略にではあるが記しておく。
 大正初期に、大寺の松谷才蔵は絹糸業を営んでいた。ダルマ式の絹糸採取家は、板西で50戸あった。那東では、市川幸兵衛が36釜を据えて行ない、旧栄村では50戸がダルマ式で絹糸を採取し、地絹の原糸にしていた。大正13年の盛期には、松坂製糸工場があり、従業員100名が日役銭60〜70銭で操業していたが、昭和16年になって蚕糸業不況とともに、工場は閉鎖された。


5.藍と藍作
 板野町では、旧栄村・旧松坂村矢武・旧板西町大寺新田及び高木などが、藍作の中心地であった。
 古く、縄文や古墳の時代から、大寺及びその周辺地域で、マメ科の藍が栽培され、利用されていた根拠がある。
 大和朝時代から天智天皇の代になると、詔勅により藍が作られ、村上天皇の代には、全国から献上された藍の中で、阿波の藍が最優秀の折紙がつけられている。その中でも、阿波・板野産のものが優秀であると賞された。鎌倉時代になると、中国から青藍が輸入されて藍作農家は疲弊した。蜂須賀家政の入国で、藍作を興し、モデル地区として中久保で寛文4年に藍畑6町歩を栽培させている。
 寛政12年には、藍方代官より組頭庄屋あてに藍作覚書(おぼえがき)を出して、藍作を奨励し、藍の播種から収穫までを指示し、管理した。
 元文5年の藍の平均収穫量は、左表の通りである。


 天明2年、下ノ庄の犬伏久助は製藍の改良を行い、文政己丑8月8日82才で没した。その子興兵衛、孫虎蔵に娘タケがあって、三平を養子に迎え、後を継がせた。犬伏家は現存している。板野町は、昔、隣接している町は、徳島県藍園・藍畑、香川県引田・相生・小海などとの経済交流があり、隣接町村から収穫された葉藍を買入れて、製造して隣接町村の紺屋へ売却していた。この出荷は、旧吉野川の舟付場、新渡し・高木・大寺の浜や、乙瀬の浜を通じて行われていた。
 天保2年になると、徳島域下から森六商店が出張って、大寺で■の製造工場を設立し、■を製造していたことが判明している。
 明治から大正にかけて沈澱藍を製造していた家は、中久保・下ノ庄・矢武・西中畠で、7戸が上物(最高級品)の藍として精製し、県外へ送り出していた。主な送り先は、■・藍玉・沈澱藍・葉藍・茎玉に仕上げて、播州・丹波・丹後・但馬・讃岐・大阪・東戸(江戸)などであった。
 藍作反別としては、明治から大正初年までの間に、左表のとおりとなる。


 下ノ庄その他を合計して、全部で約70戸が40町歩の藍作を行っていたが、これらは大正初期頃までである。西中富では60戸で約30町歩藍作があったが、これは大正中期迄続いた模様である。
 藍は、明治中期には化学染料(ケミカルインディゴ)に押されて衰徴したが、これらはその圧力に堪えてよく残ったものの一部といえよう。
 藍は、いろいろな形で農家は食用にもしていた。鮎の料理に蓼酢があるが、これには辛味の強いヤナギタデの葉を用いる。ヤナギタデの少い地方では蓼藍を使う。少しピリッとくる辛味が身上。このほか身体によく薬にもなるというので、多様な食べ方があった。藍こなし期には、引田・相生方面からも季節労働者が来ていた。
 藍の値段についてであるが、記録的なものをあげてみると、文久元年に、西中富の犬伏■では、110匁替の記録があり、冬市天上の表彰額が保存されている。また、楠ノ本の佐野■には、明治41年の唯一の金礼が残っている。旧松坂村では、明治30年藍玉11万6千貫、■13万9千貫、金額21万6千円の記録が残っている。
 藍商人として名を残しているのは、藩政時代から明治15年にかけて7名。明治25年から同29年にかけて33名。大正六年では100名の多くになっている。
 以下列記することにする。


 これが、大正6年になると、藍商人は100名を数えることになる。地域と氏名は次表の通りである。


 このレポートを綴るに当たり、調査に格別の御協力をいただいた岡ノ宮の松村源市氏、那東の近藤滋樹氏、下ノ庄の天和衛氏に厚くお礼を申しあげます。

 

 

附録
 沈澱藍の製法について   上田利夫
 沈殿藍は時代によって、青■黒又は藍■、青藍、阿波正藍などと呼ばれた。品種や品質に差異があった訳ではない。しかも、写真や記録には残っていながら、製造方法については明らかではなかった。
 三木文庫を調査し、西野嘉右衛門氏の「阿波沿革史」などをたどって、県下各地の藍行脚を続けるうち、昭和35年頃の夏・市場町香美の以前紺屋をしていた故老から、沈澱藍の製造方法を教示された。更に、川田・学・川島・知恵島の古い藍商の家から聞き取ると共に、私の家に伝わる方法を加味して・国府町の長尾織布工場で、実験的に復元の作業を進めてみた。
 昭和51年になって沈澱藍の復元に成功・昔から藍商各戸によってそれぞれ秘伝とされ、公開されなかった沈澱藍の製法が、一応の復元をみた。以後さらに藍製造家によって多様な方法があったことも分り、最終的に4通りの方法にまとめられることを突止めた。
 4通りの方法というのは、およそ次の如くである。
 1.刈取った藍をよく水で洗い、桶に入れて押し蓋をし、重石をかけて重石が浸るまで水を入れ、2〜3日放置する。のち藍を取出して捨てる。
   桶に残った液を約1ケ月放置すると、底に沈澱藍が泥状に凝固して溜る。これを泥状のまま染料として使用するか、もしくは乾燥して藍玉に作る。この方法を酵素法という。
 2.刈取った藍を唐臼で搗ついてつぶして桶に漬け込み、以後は第1の方法と全く同じくする。酵素法の別法。
 3.刈取った藍を桶に入れて重石をかけ注水する。2〜3日で藍を取り出し、残った液に櫂を入れて、4500〜5000回攪拌する。沈澱藍が凝固して底に溜る。これを取出して泥状のまま染色液として使うが、乾燥して藍玉に仕上げて用いる。酸化法である。
 4.沈澱藍を採るには、赤茎千本か椿葉の藍を必要とするので、早く播種して6月下旬には刈取る。刈取った藍を桶に入れ押蓋重石をし、重石まで水を入れ、2〜3日置いて漬込んだ藍を取出し捨て、残った液の夾雑物を除き、消石灰を水で溶解した上澄液を除々に入れながら櫂で攪拌する。液の表面に泡立ってくると、消石灰を入れるのを止め、1昼夜放置すると沈澱藍が桶の底に溜る。
   泥状のまま、又は乾燥して藍玉に作る。需要家により泥状の沈澱藍の樽詰を送った所もある。消石灰の代りに草木灰を使った家もあったが、収量が少なかったという。これを加灰法という。
   沈澱藍と藍玉として1本10匁10本160匁1斤として京都、江戸、浪速の高級染色をしている紺屋へ高価な値段で送った記録もあり之で儲けた藍商人もある。


徳島県立図書館