阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第34号
板野町矢武 医家井上家について

阿波医史談話会 福島義一

(1)医家井上家の事蹟
 江戸時代から十四代続いた医家・井上家の旧蹟は、四国八十八カ所第五番霊場・羅漢地蔵寺の近郊板野町矢武に在る。この地は、元板野郡松坂村大字矢武十四番屋敷と呼ばれたところで、十八世紀初頭から戦前まで、十三代にわたって井上家が居住し、代々医業をここで行った。井上家の系譜によると、四代玄通(正徳三年没)、五代善竜(元文二年没)、六代順庵(寛廷元年没)、七代周伯(天明五年没)、八代荘伯(寛政元年没)、九代惟敬(天保十三年没)、十代肇堂(明治十四年没)、十一代源貞(明治二十一年没)、十二代春端、十三代東周へと続き、この代に至って徳島市幸町三丁目(当時・塀裏町)へ移転して、眼科を専門として開業した。その長男、悳成(とくせい)氏は阪大医学部を卒業し、徳島市民病院眼科医長となったが惜しくも熟年で病没、以後井上家直系の医業は廃絶した。
 この板野を代表する医家・井上家から二人の歴史上の人物が輩出している。それは第十代井上肇堂とその四男井上達也父子であって、肇堂は明治医制によって廃絶の運命におかれた漢方医の存続運動の四国における主導者として生涯をささげた人物であるし、井上達也は近代日本眼科学の開祖として日本医学史に輝いている。
 井上肇堂(1804−1881)は、文化元年九代井上惟敬(周伯とも称した)の長男としてこの地で生まれた。幼名は虎源太(こげんた)。長じて春瑞と称したが、後年その学術の優秀と徳行の非凡によって郷医から藩医に登用され、以後その称号を藩主から与えられた肇堂と改めた。はじめ医学を勝瑞の医師・橘春庵に就いて学んだが、外科的医学の必要性を痛感して、藩外に遊学。当時最も有名であった紀州の華岡青洲に入門して外科を修め、さらに京都の奥劣斎に入門して産科を修めて帰郷し、生地の松坂村で第十代の医業を継いだ。当時の藩内の大部分の開業医師は漢方医で、外科的医療や産科の取り扱いができなかったので、彼の名声は板野郷内はもちろん遠く藩内に知られ、患者は各地から寄り集まり、入門を求める医師は百人に達したと伝えられる。
 また、その個人生活は謹厳と質素を旨とし、貴賤(せん)貧富の別なく患者を診療し、貧困患者は無料で診療のうえ衣食すら与えたという。
 藩主は彼の名声を知って、文久元年(1861年)士籍を与えて藩医に登用し、十九石を給して徳島城下塀裏町に居宅を賜給した。当時の開業医にとって藩医になることは最高の栄誉であった。
 明治政府は、新しい日本の厚生行政の基本として、従来の漢方医学を排して西洋医学、特にドイツ流医制(明治医制と呼ぶ)を採用した。例えば、開業できる医師は西洋医学による医師開業資格試験の合格者または認定した医学校卒業者に限るとした。ところが、明治前半期ころの全国開業医の大部分は漢方医で占められていた。板野町矢武の医家・井上家のような代々の医家も、右の条件を備えなければ医家廃絶となる。また、政府がこの制度を強行すれば、全国大部分の開業医は失業することになり、民衆も大変こまることが予想される。そこで、政府は開業届書を審査し、その者一代限り開業医師として認める特例をつくったが、それ以後の代は漢方では絶対に開業許可しない方針を固めた。
 そこで、やがて廃絶の運命にある全国漢方医たちは温知社と呼ぶ医師職業集団を結成して、政府に対して漢方を認めるよう明治医制の改正と漢方医の存続運動を展開した。
 この運動は東京、名古屋などを中心として全国に広まったが、四国の中心は阿波の徳島済生社で、その代表者は井上肇堂であった。
 彼は、漢方医存続運動に身を投じ、明治十三年(1880年)県内約二百人の漢方医を集めて徳島済生社を創設。さらに、当時の西横町(現・徳島市元町付近)に漢方専門の済生病院(済生医院とも称した)を開設して、漢方による患者診療と漢方医学研究を行い、漢方医学の成果を民衆に知らす運動を展開し、漢方の優秀性を示した。
 当時、彼は金二百円(当時としては大金である)を漢方研究のため寄付し所蔵の書籍医療機械類を無償で貸与。さらに自身は無給で奉仕した。
 時あたかも本県では西洋医学を修めた開業医師の増加をはかる目的をもって、明治十三年徳島県立医学校(校長・三浦浩一)を現・徳島市幸町三丁目付近に開設した。
 彼は、これに対抗するため、前記西横町の漢方済生病院を付属病院とする漢方専門の私立医学校の創設準備にとりかかった。
 彼は、たびたび老躯(ろうく)をおして矢武から県庁へ出頭して申請を行い、その設立認可を求めた。現在、徳島市井上千歳氏宅には肇堂が漢方医存続のために県庁へ提出した請願書、陳情書などの覚(おぼえ)=原稿の類=古文書が多数保存されているが、その一枚一枚がこの運動達成のため熱血を注いで彼自身が書きあげた漢方医学の讃歌のように読み取れる。
 彼は言う。「新政府が西洋医学の優れた諸点を取り上げて厚生行政の基本としたことは良いことだ。しかし、二千年にわたって日本人に順応して発達してきた漢方を排除することはいけない。医学には西洋も東洋もない、ただ患者を治療するのが医師である。むしろ、漢洋両医学を併存させることによって後日その真価が判明するのではないか。漢方を消滅することは、日本人にとって誠に不幸なことであるから、再考して明治医制に漢方を取り入れてほしい」というのが趣旨であった。
 漢方医集団は、帝国議会へ請願することを決議し、第二回帝国議会へ医師免許規則改正法案を提出し、引き続いて三回にわたって請願したが、ついに不成功に終わった。
 この運動のために、その全精力と全財力とを傾けた肇堂は、彼が希望した漢方専門医学校が設立認可されず不満のうちに没し、以後、四国から漢方医存続の声は聞かれなくなった。
 肇堂は、明治十四年四月二十三日この地(矢武)で病没、享年七十八歳。法名は正徳院壽績道範居士。墓碑は同地の井上家霊域に在ったが、新道路建設によって徳島市吉野本町五丁目の万福寺墓地に移転改葬されている。
 井上達也は、嘉永元年(1848年)井上肇堂の四男として、板野町矢武で生まれた。幼名は徳兵衛と呼び、後に達也と称した。維馨、甘泉などの号もある。幼時から秀才として知られ、十五歳で藩校に入学、十八歳ごろから父肇堂について医学を学びはじめた。
 明治政府は、西洋医学を採用し、医師養成機関を長崎から東京へ移し、はじめ大学東校、後に東校と称し、はるばるドイツ国からドイツ人教師を招いてドイツ流医学を修めた医師を養成した。明治初年、全国各藩から優秀な人材を募集した。達也は本藩から選ばれて、明治三年東校に入ることができた。入学した彼は、わずか二年間で東校医学全科を修得してしまって、その秀才ぶりは学校当局を驚かせた。現在、達也が東校から受領した医学各科の修了証書は、井上家に保存されている。
 さて、卒業した彼は、故郷・矢武の老父や家兄たちの懇請を入れて帰郷しようか、それとも、その秀才を見込んで引き続き医学を研修することを勧めた学校当局に従うか迷った。が、結局、東京でさらに医学の研修することになり、当時、医学の中でも水準の低かった眼科学を専攻することにした。しかし当時、学校には眼科学の専任教師はおらず、外科学の一部として教えられていた。こんな時期に、達也先生がどうして眼科学を独修したか?よく分かっていない。
 明治九年東京医学校眼科掛を命ぜられ、明治十二年医学部別課生教授兼勤、同十四年医学部別課教授嘱託となった。
 このころ、東京医学校(東大医学部の前身)には本課と別課との別があって、その医師になるまでの修学過程が違っていた。本課は主としてドイツ人教師によってドイツ語で医学を教授し、別課は日本人教師によって日本語で医師を速成する制度であった。
 井上達也は、別課教授であったが、日本人として最初に眼科学を教えた人物として知られる。
 明治十五年学校当局の不愉快な措置によって、彼はいさぎよく教授を退官して、東京都駿河台に済明堂眼科病院を創設した。この病院は現存して隆盛中である。明治十八年(1885年)渡欧して眼科諸大家を歴訪し、明治十九年帰国した。
 彼は先進国の眼科を取り入れ、診療のかたわら研修を求める多くの門弟医師たちを集めて眼科研究会をつくって講義を行い、明治二十二年二月井上眼科研究会報告(日本で最初に発刊された眼科学専門誌)を発刊した。彼の手術は神技に近かったと伝えられるが、彼の独創になったものと思う。多数の眼科学書を著述し、明治時代日本眼科学の開拓者として日本医学史上、特記すべき人物である。
 最近になって、創業百年を迎えた東京都駿河台井上眼科病院改築工事中、旧倉庫から多数の古文書が見つかったが、その多くは肇堂・達也父子の間で交わされた書信であった。
 これを判読すると、達也先生は尊父の儒教的教化を受けて成長し、語学と数理に優れた理智的性格であったが、父の教示にしたがって常に論語を座右の書として読み、また、父はその性格をよく知り「毀誉榮辱(きよえいじょく)は同時之人を疑うことなかれ、貧福寿夭(じゅよく)は上天之命と信ずべし」(出典不明)という自省の警句を書き送っている。
 明治二十八年(1895年)七月十五日、落馬事故によって急逝、享年四十八歳。墓所は、東京都田端大龍寺谷中墓地と板野町矢武井上家霊域に在ったが、矢武の墓碑は徳島市万福寺に移されている。


(2)井上家旧宅建造物の現状
 肇堂が活躍した医家・井上家の旧宅は多少の改修が加えられたが板野町矢武に現存し、旧宅の大門や中門は破損がひどいが当時の面影を伝えている。


(3)井上家資料所在目録
1.漢法病院設立趣意書(二)
2.愛知県漢法病院設立問合せに対する返事の礼状
3.私立病院設立願書式(二)
4.私立病院事務章程
5.漢法病院設立願
6.漢法病院創立上願書
7.愛知県漢法医学校設立の次第照合状
8.愛知県に於ける漢法医学校設立の模様
9.漢法医建置陳情書
10.漢法医存続嘆願書 建議案(二)
11.漢法医存置陳情書(二)
12.斉生病院経営上の内規
13.斉生社入社則
14.徳島斉生病院立準備のため名古屋漢法病院設立の模様照合状
15.病院出務の面々勤務方規則
16.衆庶好漢薬論
17.外債につきての陳情書
18.集金控
19.春瑞御召し出し御礼登城の通達書
20.春瑞宗門誓紙提出通達
21.春瑞屋敷地拝領御礼登城通達
22.春瑞御用誓紙 宗旨起證文
23.肇堂医学教授仰付通達
24.長防追討令
25.御用誓提出通達
26.若殿様東下りのお供の件
27.若殿様東下りに肇堂達也召連れ願書(二)
28.高太守様御自筆の書
29.御容態の覚
30.私立病院願書式 浅井篤太郎より
31.斉生病院開院祝詞 浅井篤太郎
32.入門約定書
33.浅田宗伯よりの手紙
34.回状
35.安喜様より謝恩金受領書
36.桑畑開墾願
37.井上連吉受取証
38.塀裏井上諸道具控(三)
39.来吉氏分家別居時引渡品控
40.華岡青洲肖像(軸物)
41.華岡青洲医規(〃)
42.肇堂七絶漢詩(〃)
43.肇堂墓碑銘(〃)
44.肇堂夫人墓碑銘(〃)
45.大谷公御筆柳瓶牡丹図(〃)
46.蜂須賀誠堂公書(〃)
47.春瑞嫡子源貞御目見得御礼登城通達書
48.藩序よりの出頭通達 肇堂源貞(五)
49.源貞長洲征伐出動令書
50.肇堂隠居届(覚)
51.源貞江戸出張に就き一件書類
52.肇堂嫡子源貞東京出立通達書
53.江戸出張発令に就き諸手続 覚(二)
54.先触状
55.医学校二等助教授辞令
56.治療所三等医員辞令
57.名東県種痘係辞令
58.源貞履歴書 内外科医術開業免状交付願
59.板野郡開業医会発足祝辞
60.三浦浩一 義純よりの書翰
61.二代目春瑞改名願
62.井上組合配分約束証
63.堤防地拝借願
64.達也へ畑地(塀裏)譲渡証
65.借定受取状(達也)
66.塀裏屋敷図
67.矢武屋敷図
68.薬種目録
69.蔵書控  以上
 掲載資料は、徳島市幸町3丁目 井上家に保管されている。
 本報告を終わるにあたり、保管史料を提供し、調査に協力していただいた井上千歳氏に感謝の微意を捧げます。(昭和63年3月1日記)


徳島県立図書館